三億円事件犯人に至る道

三億円事件について考察いたします。

三億円事件 盗難車両投棄の関係図(3)

2017-12-08 03:37:09 | 日記
当たり前と言えば当たり前なのだが。だが、実は、そうでもない。たとえば、国分寺街道。平安時代には、主要な道路であり、大國魂神社の参道にも組み込まれていたが、江戸時代、道路は消滅してしまう。また、府中街道も、かつての、鎌倉街道なのだが、平安時代、鎌倉時代までである。江戸時代になると、江戸とを結ぶ、東西に伸びる甲州街道が、第一の主要幹線となっている。今でもそうだろう。そういえば、三億円事件犯人、甲州街道を、旧道、新道と呼んでいたほどに、慣れ親しんでいたようだが。つまり、府中街道(鎌倉街道)、国分寺街道が、平安時代にあったのは、府中が行政の中心だったからだ。行政に中心でなくなれば、道路はその役目を終えてしまう。江戸時代になり、しばらくして、新田開発ということで、南と北を結ぶ、小金井街道が、整備されるが、府中宿とを、結んだのだろう。それなりには、地域の中心であったからかもしれない。そして、江戸時代以降、現在。府中が、南北道の起点である必要性は、もはやないのである。
(2013年11月記)

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