PLANET LULU GALAXY!

ルルの日記

1989年 恋愛論

2017-11-13 12:03:09 | 

回想・・・

初恋の(はじめて付き合った)人は、同じ学校に通ってた茅ヶ崎相模線沿い在住の日米ハーフの(お父さんがアメリカ人)二つ年上の19歳の男の子(当時流行ってた、“黒服”っぽいモード系のカッコ☜肩パット入り  をしてた。出逢う前の写真を見せてもらったら、パンク系だった😳 地方紙のモデルだったとか。少し腋臭っぽかったけど、その匂いも大好きだった。)(告白された後、嬉しくて、母に、はしゃいで、彼のことを話したら、「ハーフなんて許しませんよ!」(うちの家風に合わない、だっけ。。??)などと青天の霹靂的なことを言われ(母、戦争体験者だからかなぁ… 日本は、その時アメリカと戦ったわけだし… でも、その言葉を母に言われた20年後くらいに、母にはアメリカ人の鳥見のお友達ができてましたが… スーザンさんって方。よく彼女の話が話題に出てきました。)、それまでの人生で暗く沈んでた娘が、誰かに“見出された”ことをてっきり喜んでもらえると疑わずに思ってたから、すごくショックを受けた記憶… すごくナーバスになった…  当時は、携帯電話など無いので、電話ボックスで、コレクトコールで(彼がそうしてねって)、彼の家に電話して、1時間とか2時間とか話してた記憶…

1989年7月(私の誕生日の後だったような… ということは、17歳になってたかも…)に、彼に告白されて付き合い始めたのだけど、しばしの幸せな時期🎢(その時期、彼の部屋🚪や学校のスクーリング場所🌿で一緒に夏休みの宿題をやったり、彼の家のピアノ部屋で、一緒にピアノを弾いたり…🎹した想い出💫 あと、その頃ロードショー公開されてた「インディージョーンズ最後の聖戦」も一緒に観に行った🎞  ほとんど毎日会ってた。珍しく会えない日は公衆電話からお話💬💬📞)の後の急降下。一ヶ月間の怒涛のような日々の後、冷却期間を置こう…と相手に提案されたのだけど、彼と離れるのが嫌だった(考えられなかった 一回火が付いたものをどうにかする度量がその頃は無かった  …今も無いかも。。。)私は、より一層ナーバスになり、もがいた末、自爆する形で終わらせてしまった記憶。。。(遠い記憶…  28年前)  師匠KちゃんYさん)は、その一部始終を知っていて、側で支え助けてくれた人👼

 

恋愛論(上) (岩波文庫)
杉本 圭子
岩波書店

 

恋愛論(下) (岩波文庫)
杉本 圭子
岩波書店


☝︎まだ、恋愛初期でハッピーでアッパーな時期に、ウキウキしながら読んでた憶えがある(そして、勿論意味わからず、だった。 結晶作用❄️という言葉と、何となく意味の雰囲気だけ憶えてる…)スタンダールの「恋愛論」。📖  やはり、自分、こじらせ系 & 理詰めで入るタイプ。。。こじらせ系だし、母が何か言わなくても💬、祝福してもらった🎉㊗️としても、勝手に振られるムードぷんぷん。。。 (あと、コレクトコールの件、文字として起こして気付いたけど、絶対相手の負担になってたよね。。。 フェアじゃないしね。。🙅) 「恋愛論」って、スタンダールが失恋して、“賢者モード”になった時分に書き上げた一品だったそうですが。。。(人間は愛で馬鹿になるのだから、仕方ない。。。❓☜今は落語家になった世界のナベアツ🌏のギャグ〈☜リンク先動画有り👀〉 を憶い出したり。。。)

 

後で文中リンク(個人的な経験の…以下略🐙)貼ります。。。

 


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四谷幻想’90のあと・・・・・

2013-06-23 09:13:18 | 心象風景

みっちゃんとSちゃんとは上智大の“四谷幻想’90”(メスカリン・ドライヴ、割礼、さかな、DIP THE FLAG... たしか出演順がこう??)も一緒に観に行った.....

 

その時、たしかメスカリンのライブで話しかけられて友達になってたFちゃん(あだ名=ふうた 長崎出身 元ヤン。。。←本人談 スライダーズ&ストーンズ好き 二人して〈ふーた&私〉メスカリンのヒデコさんに憧れまくってた)たちグループとみっちゃんたちを引き合わせ?て、新宿の居酒屋“ドンチャカ”(ここもみっちゃんが教えてくれた... ニューエストとか、よくここで打ち上げやってるんだよー とか言ってた.....)にみんなで飲みに行った??(別の日だったかも.... その時、みっちゃん、酒あおって具合悪くなっちゃったんだよね.....

 

・・・その件は多分別の日で、四谷幻想’90の後、Sちゃんと一緒に駅まで行って(みっちゃんは他に用事があったのか、駅に一緒に居た憶えが無い.....)、たしか他のところでもライブがあるから(or クラブイベント??)はしごしようぜーってはなしをしてたんだけど、どじっこの私が反対方向の(反対彷徨って変換された。。。)電車に嬉々としながら乗ってしまい、車窓の外のSちゃんがみるみるうちに遠ざかっていって、あぁぁーーーーーー!!!!! (Sちゃぁぁぁーーーーん)って思った憶えがある。。。。(もちろんその後、みっちゃんとSちゃんからドジっ子キャラ評価が定着。。。 爆笑された。。。) 勿論携帯電話など無い時代・・・・・


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「女と男のいる舗道」“VIVRE SA VIE”

2006-05-31 11:21:23 | 映画
昨日物議を巻き起こしてしまった(?)アンナ・カリーナ演じる娼婦・ナナの涙・・・。

私は、この娼婦・ナナの物語「女と男のいる舗道」を22歳の時に渋谷の映画館で観ました。もちろん一人で。

映画が終わったあと、ある人に電話をかける。携帯電話などない時代なので、公衆電話で。
心は通じ合わない・・・。
ちなみに電話をかけた相手は、TONITEのCDを貸して返してくれなかった人と同じ人でした。

「女と男のいる舗道」は原題は“VIVRE SA VIE”。フランス語で〈好きなように生きる〉という意味だそうです。
この作品は1962年にジャン・リュック・ゴダール監督、当時のゴダール夫人アンナ・カリーナ主演によって創られました。ちなみにゴダールはアンナの後、「ワン・プラス・ワン」、「中国女」に出演したアンヌ・ヴィアゼムスキー、その後アンヌ・マリー・ミエヴィルと結婚をしています。アンナ、アンヌという名前の女性と結婚を繰り返すところを見ると、よほど最初の妻、アンナ・カリーナの幻影に悩まされていたのではないか?とよく噂されましたが・・・。それほど、ジャン・リュック・ゴダールと10歳年下の“最初の”妻、アンナ・カリーナは、同志のような付き合いだったのではないか?と想像してしまいます・・・。
「女と男のいる舗道」は主人公・ナナが娼婦へと転落し、そのことを不幸だともさほど思わずに運命に身を委ね、しかしその魅力を存分に表現する姿をドキュメンタリータッチの白黒映像で描いています。この映画は高感度フィルム、順撮り(各シーンを物語の進行する順番通りに撮影すること)、同時録音を用いて撮影されました。街頭ロケで同時録音という手法は、商業映画で初の試みだったそうです。
そういったモノクロの中で際立つ斬新な演出で、ゴダールは街頭に立つナナの物語を綴っていきました・・・。

私が特に印象に残ったシーン、脳裏に焼き付いて忘れられないシーンはアンナ・カリーナ(ナナ)がカフェの中のビリヤード場で、音楽に合わせビリヤード台の周りをあの魅力的な瞳をくるくる動かしながら茶目っ気たっぷりに踊り回る姿。実に萌えます。
その後悲劇が待ってることなんて感じさせないほど明るく、チャーミングで美しく、でもほんとうに刹那的な姿でした。


この/売春に/関する/映画/で/語られるのは/ある/若くて/かわいい/パリの/女店員が/どうやって/自分の/身体を/与え/ながらも/自分の/魂を/守ったのか/という物語/であり/彼女は/見かけ/だけは/それぞれ/恋/のように/見える/出会いを/通じて/考えられる/かぎりの/あらゆる/人間的な/感情/を/知る/ことに/なるのだ/が/この/物語は/ジャン=リュック・/ゴダールに/よって/撮られ/アンナ・/カリーナに/よって/演じられる/好きな/ように/生きる

〔ゴダール自身による初公開当時の宣伝コピー〕


女と男のいる舗道

ハピネット・ピクチャーズ

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コメント (2)
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