クールな生活

日々の雑感と意見

スペイン・ポルトガル旅日記(5)

2020-10-26 13:05:12 | スペイン・ポルトガル旅日記
10月13日(土)
ポルトへ
移動日である。朝飯はホテルでトースト、ゆで卵、ハム、ジュース、コーヒーをとる。お客さんに日本人の一人旅の女性が居た。朝食に食堂に来る顔ぶれは3日間で変わったのもあれば同じ人も居た。
ポルトまでのバスはバス停のオリエンテ駅を11時発の予定だったが、オリエンテ駅で少しのんびりしようと思って、ホテルを9時過ぎに出る。朝早かったので車が少なく、10日に来たときと比べてずっと早くオリエンテ駅に着いた。料金も信号時間待ちの分だろうか、少し安かった。オリエンテ駅で絵葉書を買おうと思っていた。妻がファリヤのCDを買おうと言い出したので、売店を探す。簡単に見つからない。バス・ステーションはバスだけなのだ。待合室があるフロアにはスナックが1軒あるだけ、売店は少し離れたところに、モールとまでは言わないにしても、ショッピングセンターになって大きな専門店がいくつか並んでいた。CDはCD専門店にあった。店員に大急ぎで、ファリヤのポピュラー盤を選んでくれと頼み、2枚購入した。絵葉書はないかと聞いたが無く、外の店にあるようなことを行っていたので、階下に行き外を探したが見つからず、結局リスボンの絵葉書は買わずになった。写真がバスの中からばかりであったので少しまともな写真が欲しかったわけである。

バスの待合室はバス・ステーション・ビルの2階にあり、バスの乗り場までエレベーターで降りる。ポルト行きのバスは定刻に発車した。客は多くなく、20人にみたなかったのではなかったろうか。妻と並んで一番前の席になった。運転手の直ぐ後ろである。眺めが良い。座席が空いていたから、皆ゆったりと座っても良かったのだろうが、アベックが覆いせいか二人掛けにしている。自分の隣の座席は30台の女とおばあちゃんが座っていたが、二人は一人同士で偶々席が隣になっただけのようだった。それでも二人が並んで座っている。一番前なので眺めが良いからそのまま陣取っているのだろう。この女があとで我々をいやな目にあわせてくれた。

ポルトまでは3時間半の旅だが休憩を含んでいるからバスに乗っている実質の時間は3時間弱である。1時間余走った後、一度トイレ休憩15分がある。休憩中、運転手と少し話をする。運転手は若いが人のよさそうな男で、ポルト生まれで、ワイナリーの近くに住んでいるということだった。それから2時間近く走行したろうか、昼食休憩になる。ドライブインの食堂には入らず、いつものように持ち込みのジュースとパンでわが昼食は完了する。
ポルトガルの道路風景はスペインと異なり、緑が多い。アリゾナのような砂漠の光景はない。天候がよくドライブ日和といってよい。運転手は慣れたもので、もうこの道を何十回となく往復したよと言わんばかりの軽々とした運転振りで、しかも結構スピードを出す。昼食が終わった後から、それまで大人しくしていた隣の女が運転手に話しかけ始めた。もう30にはなっているだろう、あんまりきれいだとはいえないが口がよく回る女であった。それまで大人しくしていたと言っても携帯電話が何回かかってきてそれに応答していたので口の回り具合はよく分かった。女の話しかけに対して運転手は適当に返していたのだが、返せば返すほど女はまたその倍くらいの量の話かけを運転手にする。ポルトの話になったのだろう、運転手も単なる受け答えから、センテンスを作るようになってきた。その間スピードは緩めない。運転手が話し始めるときは女の方を少し見るので、右後に顔を向ける。その分ハンドルも片手になる。後で見ていると、まあ、危なっかしくてもう止めろと言いたくなる。下手に言って運転手の気を悪くして運転が雑になっては困るのでよっぽどなにかあったら言おうということに腹をくくった。妻も心配になってきて困ったという言い方をする。女は一向に構わず、ドンドン話しかけを続ける。こんなところで事故を起こされて怪我をしたくない。そればっかり祈っていた。我々の心配を全く関与せず二人はとうとうポルトまで語り合ってしまった。ポルトまで事故がなかったことを神に感謝する、そんな気持ちになった。ポルトで運転手が交代する。女は降りなかった。あの女は次の運転手とも同じように話をするだろうか、妻がそんな心配をする。今度の運転手は少しおじさんで、事務的な感じの男だから相手にしないだろう。でももう我々には関係ない。我々は呆れただけで十分である。

ポルト
ポルトの街に入ってから、バスはバス停まで結構走っていた。かなり街の中に入っている。ホテルまではタクシーにする。運転手にホテルを知っているかと聞いたが、仲間にも聞いてみてちょっと分からなそうであった。タクシーの運転手は女であった。気のよい女で降車時の料金も正規分をとろうとして小銭の有無を聞いてきた。少しチップを入れてやると本当に嬉しそうであった。この程度のことで気持ちがいいと思うのだが、それは大切であると思う。バス停からホテルまでは結構な道のりであった。ホテルはポルトの街外れにあったが、大きな建物で、この旅行ではもっともクラスの高いホテルであった。部屋は7階で見晴らしがよい。ただセキュリティボックスが有料であるとはいささか興ざめしたところである。一服すると時刻は4時を回っている。川岸に行ってポルトワインのワイナリーを見に行こうとするのが今日の予定であったが、ワイナリーは無理でも川岸にあるレストランで夕飯を食べようという気になって出かけた。寒さはない。むしろ暖かい。風邪が治って、元気に歩ける。

ホテルのフロントで道を教えてもらったのであるが、道が真っ直ぐでなかったり、二本にも三本にも分かれていたりして迷いやすい。やはり迷った。かなりの距離を無駄に歩いている。街並みは貧しい感じで、中心街からは外れているとはいえ、かつての首都であるという面影が見られない。元々の姿なのかもしれない。地図を頼りに、時には道行く人に尋ねたりしてなんとか目的地に近いところまで行く。道行く人も定年になっていて教えたがる人がいるが、そのような人は全く当てにならない。尋ねなければよかったことになり、時間の無駄に終わる。そのような人に限って教えてやろうと自ら来るのだから始末に終えない。地図に記載の通りの標識を見つけ、ほっとする。しかし、そこをどこまで行けばよいかまた分からなくなる。この道を行くと川岸に行くというところまで来た。でもまだそこはレストラン地域でない。名所旧跡のような建物が高台に見え、そこに行ってみようと坂道を登る。カテドラルかと思ったが、どうもそうではなかったようだ。その先を少し下ると狭い路地があり、抜けられるかと思って半分くらい進んだ。ちょっとやばい感じがしてきて、先ほどの旧跡らしき建物まで戻る。ちょうどパトカーが居合わせた。お巡りさんに道を尋ねる。英語を話せる人であった。親切に教えてくれる。非常に分かりやすく、ありがたかった。お巡りさんの言うとおり、元来た道から90度折れた広い道路をとり、川から離れる方角にすすみ、坂道を下ると、サン・ペント駅の建物が見える。今度はそこを鋭角に左折する。また川に近づく道になる。その道は下りの坂道であった。道の両側には店が並ぶ。観光バスが通っており、明日はこれを利用しようという気になった。坂道をさらに下ると、ようやく川岸に出る。川に向けてレストランが軒を連ねている。多くの人たちがレストランの外のテーブルについている。勿論中にもいるが、外で川を見ながら、橋を見ながら、対岸のワイナリーを見ながら、語り合い、食事をしている人の方が多い。景観である。どのレストランでも、メニューが外に出ているので、一つ二つ覗いてみる。声をかけてくれたお兄ちゃんがいて、結局そのレストランに席をとった。妻は鱈のソティと米の突合せを、自分は何を頼んだか忘れた。ポルトワインをオーダーした。ポルトワインは甘く旨い。これはいける。夕暮れで6時半くらいだったろうか。7時になるとあたりはもう暗い。今度のホテルも朝食つきだから、スーパーの買物は不要だが、果物をということでオレンジとぶどうを買う。オレンジはうまかった。1.8ユーロだから安くはない。一体、スペインにしろポルトガルにしろ、物価は安くない。ユーロが強いから円換算して余計高いと思う。レストランは川に対して平行に並んでいる、それと直角に道路がある。道路にはタクシーが待っていてくれる。帰りはもう歩けない、また道に迷う、ホテルからは結構な距離だ、ということでタクシーに乗る。タクシーには10分も乗ったろうか、5ユーロ、900円くらいである。距離にしては日本よりは安いかもしれない。広い部屋、広いベッド、広いバスタブと今度のホテルは広さでゆっくりとできる。窓からはポルトの街はずれが見えるが、あまり美しくはない。

10月14日(日)
夜は10時過ぎに寝るが、朝はあまり早く起きない。疲れが残っているせいか、なんだろう。それでも6時には起きられる。朝食は7時からだった。団体客が多いようだったので早目の食堂行きにした。バイキング式でなかなかのものだった。三年前にウィーン、ブタペスト、プラハを回ったときはすべて朝食付であったが、そのときの食事と大体同じくらいの献立である。

ポルト観光
一日ポルト観光の日である。朝9時にホテルを出る。昨夕行った道を辿って、カテドラル付近に行けば観光バスが捕まえられるので、そちらに向かった。ホテルを出てまもなく道の分岐があった。昨日定年のおじさんが延々と教えをくれて全然駄目だった辺りに来て、はてふっと迷ってしまった。こちらでよいだろうと一番左の道をとった。これが完全に裏目であった。行けども行けども昨夕の光景には出っくわさなかった。サン・ペント駅はどちらの方角ですか?道行く人にまた聞き始めた。うまく説明できない人もいるからよほど変てこな方角に向かっていたのだろう。歩いていくの?バスに乗った方がいいわよ。ええっ、そんな遠くに来てしまったのか。放射線状のみちを海の方角を目指したつもりだが海に行く直線距離ではなく、斜線を進んだことになる。ようやく昨夕一度来たような気がする道に来た。はて、次はどの道を選ぶとよいか?やあ、もう参った。タクシーに乗ろう。タクシーが来ない。日曜日の朝で教会帰りの人がちらほらする。教会の前で花屋が店を開いている。再びサン・ペント駅の方角を聞く。こっちの道でなくあっちの道を行くんだよ。てっきり方角から行くと手前の道を選びたくなるのだが、そうではないという。また歩き始める。おお、ここは昨夕来たよ。向こうだな。あっ、観光バスが走っている。もう近いな、でもこっちでは方角がおかしいなと思っていると、観光バスがまた方向を変えてきた。思わず手を上げた。ここは止まるところではないよ、と言わんばかりだったがバスが止まって乗せてくれた。1時間もほっつき回ったので大助かりであった。ホテルからもらった観光バスのパンフレットを見せて、このバスだろう、と言うと、それと同じような観光バスだが、会社が違うという。自分が持っていたパンフレットはポルトの会社のバスで、ここでつかまえたのはカリス社といって、リスボンの観光バスの会社と同じであった。ルートはふたつともあまり変わらないよ、こちらのバスは川沿いを走るコースもあったりするのよ。バスは2階建てで階下には運転手とガイドだけで客が乗っていない。階上にはいたかもしれない。よく分からなかった。ガイドが説明してくれる。まあいいや、これに乗るよ。おお、自分はリスボンでカリス社の観光バスに乗ったよ。まあ、それはありがとう。料金を支払う。10ユーロである。二つの会社とも同じ料金である。今ここは青いラインのナンバー9で、あと少し行くと一回りしてナンバー1に戻るところよ、とガイドが案内図を見せながら説明してくれる。大きな橋を渡る。インファンテ橋で吊り橋である。川はドウロ川という。ポルトはポルトワインの積出港があるのでリスボンと同様大西洋の海が近い。いくつかのバス停に止まると客が少しずつ乗ってくる。案内図を手にして外を見比べながらしていると、もうナンバー1のバス停に来てしまった。そこで一度下車して名所見学をすることにする。

ボルサ宮に行く。見学の受付でガイド付きの見学だと言われ、11時30分から英語のガイドがある、予約しますか?と聞かれ、30分余りも待たなければならないのでしばし考えたが、参加することにした。時間があるので隣のサン・フランシスコ教会に行く。入口のある小道に向かうと、左手に修道院、右手に教会が並んでいる。修道院の方を先に入る。宝物がいくつかと地下のお墓を見せてくれる。男子修道院である。教会は中に入ると豪華絢爛たる装飾である。礼拝堂の椅子にちょっと腰をかけると、丁度11時のミサが始まるところで、これは拙いと思って出ようとしたが、タイミングが合わずそのまま居ると、カトリックの坊さんや神父さんが続々と入場してきた。聖歌隊がどこかに居るのだろう、遠くでよく見えなかったが、讃美歌が流れてくる。ミサの始まりになる。僧正さんが何か言い始めたタイミングで失礼することにして出口に向かった。ボルサ宮の前にはエンリケ航海王子の像が建っている。小さな公園にもなっていて、犬の散歩に来ている人がいた。ボルサ宮見学の時間になった。英語ガイドによる見学者は15人くらいいたろうか。ガイドの英語は流暢であった。ボルサ宮は商業組合の建物で証券取引所でもあったという。立派な会議室があり、歴代の重役の肖像画が掲げられている。家具調度類も立派である。アラベスク模様のタイルが張られている部屋があり美しい。見学者の中にはいろいろと質問する人がいてガイドはそれに丁寧に答えていた。

ボルサ宮の後は再びバスツアーに参加する。ポルトの旧市街を回る。ポルトの道路もリスボンと同様、あまり広くはない。いや、リスボンよりは広い。リスボンは何故あんなに狭い通りが多いのか?坂が多いせいなのだろう。とすれば首都としてはあまりよい立地をしていない。なぜポルトはリスボンに首都を明け渡したのか?理由があるのだろう。
いろいろ回ったけれど多くは名前の記憶がない。旧市街地を少し離れて西に行くときれいな住宅街に出合う。新興というほどではないにしろ富裕層の住宅であることは分かる。バスはさらに西に進み大西洋が見えるところまで出る。そこを大きくUターンして今度は川岸通りを走る。ここにもいくつかの記憶すべき名所があった。ポルトの川はリオ川と呼ぶ。大きな一回りを終えて元のナンバー1のバス停の付近に来る。方角が逆である。そこを通り過ぎて、ドン・ルイス橋を渡る。リオ川の対岸にはワイナリーが並ぶ。川岸で降りて食事にする。昼食と言っても例によっての持参品を川岸のベンチに腰掛けて食べる。ワイナリーのワイン運びの船が川岸につながれている。観光目的の意図がうかがわれる。長閑な眺めであり、長閑な生活である。

カーメンというワイナリーの見学を申し込む。英語の案内の時間が決まっていて少し待つ。我々の他にもう一組のお客さんがいて、二組4人が案内された。ポルトワインの造り方、ワイナリー会社の歴史などを若い女が上手ではないが慣れた英語で説明してくれた。もう一組は男2二人のメンバーだったが、そのうちの一人がよく質問をしていた。一人は地元、もう一人の質問男はその友人でアメリカかどこかから遊びに来た様子であった。ポルトワインはワイン醸造の初期段階でブランデーを加え発酵を早めに終了させるというプロセスが特徴で、ブランデーの甘みを保っているのとアルコール度数が20度と普通のワインよりも高めである。見学の最後には試飲がある。2種類のワインを飲ませてくれて、お味はいかがと言う。十年物と比較的新しいものとである。昨日レストランで少し飲んだが、今日のワイナリーの十年物は味が異なる。試飲で妻の分まで飲んだからほんのりといい気持ちになる。すっかり魅せられて1本買って行く気になる。18ユーロというから、2500円になるのか、それを1本購入する。

ワイナリーの後は、急な細い坂道を登ってドン・ルイス一世橋まで行き、さらに高台に登って、修道院の脇の展望台まで到達する。ノッサ・セニョール・ピラール修道院という名前がある。かなり大きな修道院である。修道院の脇の展望台といっても、見晴らしがよい広場があるだけなのだが、その見晴らしがすごくよい。ポルトの街は一軒一軒が貧しい感じがする。旧い建物で、世界遺産のせいなのか修復をするということがない様子で壊れたまま、壁が落ちたままという有様である。それがこの高台に立って眺めると実に素晴しいヨーロッパを思わせる眺めである。絵にも写真にもなる。土が赤いのだろう、赤い屋根、ベージュっぽい建物、形は中世のままの屋根、所々にある教会のとんがり屋根、中世の世界である。目の前の川も眺めを一層引き立たせてくれる。帆を張った船が岸につながれている。今は観光客向けの鑑賞用飾だけだろう。それが現代でもなんの違和感がない。美しいからである。その高台でしばらくの間眺めに浸っていた。そろそろ降りよう。
ドン・ルイス一世橋を渡る。ドン・ルイス一世橋はつり橋ではなく、アーチ橋である。電車と人が上の階を走り、歩ける。車は下の階を走る。電車はメトロと言われているがこの橋では路面のレールを走る。我々は長い橋をゆっくり辺りの風景を見ながら、また、写真を撮りながら歩く。さっきの修道院を見上げる光景も美しい。

ポルトの街の眺めを終えた後は、カテドラルらしき建物の横の道をとり、サン・ペント駅に行く。駅のホールの壁画を見るためである。ポルトの歴史が描かれている。色彩が美しいまま残っている。リスボンから列車で来るとここに到着するのだろうが、それほどの込み合いはない。もっとも人口自体が多くないせいであろう。駅の物騒さはあって、なんとなく胡散臭そうな男が何もせずに一箇所でじっとしているという様も見られる。
今日も歩きがあって疲れが出てきたから、夕飯を食べてホテルに戻ろうとレストランを探す。昨日と同じところでいいや、としてまた川沿いに行ったのだが、時刻がまだ6時なので食事メニューはなく、喫茶メニューであった。川沿いの通りとそれと直角の道路を少し往ったり来たりしていたが、結局レストランではなく、スナックに入り、ハンバーグとコロッケ、サラダで間に合わせてしまった。そのスナックももう売り切ればかりでメニュー品がなく、ショーケースのものがあるだけだよとお兄ちゃんが微笑みながら言う。コロッケは鱈のコロッケでそれなりにうまかった。

かくてポルトの観光は終了する。タクシーでホテルに戻る。素晴しい景色とポルトワインが収穫であった。もう来ることはないだろうが、時間と金があったらまた来てもよい。時間があってもポルトに2回目まで行く金があるかどうかは疑わしい。金の余裕があれば別の場所を選択するだろう。

10月15日(月)
帰途
スペインとポルトガルの旅行の最終日は、ポルトから飛行機に乗り、フランクフルト経由成田というスケジュールである。
朝早起きして、荷物のパッキングをする。ポルト発11:45なので、9:45までは空港へ行くという計画である。朝飯7時から30分余、あまりゆっくりしてもいられないのだが、この旅行でのいつものペースのゆったり気分が染み付いたか、8時近くに部屋に戻り、最後のパッキングをする。洗濯すべき物と洗濯した物とがごっちゃになってしまったりしていたが、それはよしにする。トイレットペーパーがなくなりフロントに電話をする。そんなかんやで8時半になり、チェックアウトしなければと焦る。ちょうと混雑の時間帯で、エレベーターが来ない、来ても満員通過。やれやれ、読みが悪い。チェックアウトのカウンタも列ができる。それでも問題なく完了する。タクシーを呼んでもらって空港へ向かう。朝の渋滞があったが、バスとタクシーは専用レーンがあるので助かる。それにしても車が多い。電車が少ないのだろう。放射線状の道路というのも災いしている。

ルフトハンザのカウンタでチェックインする。フランクフルトで乗換えがあってもチェックインはここだけで済む。ビジネスクラスのラウンジでしばしくつろぐ。全日空と違って一人はエコノミーだからラウンジは使えませんというようなことは言わない。妻もラウンジでジュースが飲める。ブランデーとリキュールを二種類飲んでほんわりする。妻がお土産を何か買いたいというので土産物屋に行く。土産物屋は一軒しかない。小さな皿を買う。定刻運行になる。飛行機はA320-200だったと思う。大きくない。今回も自分がビジネス、妻がエコノミーにした。全日空では妻にビジネスクラスをサービスすることにしている。飛行機が離陸し水平飛行になると直ぐ昼食になる。ビールとワイン、食事のメニューは忘れた。窓側の席だったので、下を見ると、フランスの平野が見える。ずっと田舎風景でフランクフルトの上空になってやっと都会の雰囲気が見える。ポルトガルとドイツは1時間の時差がある。2時間半のフライトで、フランクフルト着は15:20であった。定刻である。

フランクフルトの空港は往きのときに苦労したから今度は時間がたっぷりあるのでもう少し楽に移動するようにしたいとよく案内標識を見ることにした。案内にしたがって、エレベーターで下り、動く歩道を利用して別棟へ移動し、エレベーターを上り、出国審査と荷物検査を終えて、ゲートに入る形になる。スターアライアンスのビジネスクラスのラウンジで時間を潰すことにする。幸い一枚がエコノミーでも文句を言う人はいなかった。夜8時45分発だから、8時まで4時間を過ごすことになる。ナンプレをする。食べ物、飲み物はそれほどよいものはない。広いラウンジでそれはまあ大勢の人が利用している。妻が口紅を買いたいといってきたので、免税店に行くことにする。あまり時間がなくなってから言うから少し急ぐ破目になる。ユーロの現金が50ユーロ札と17ユーロがあった。エレナルービンシュタインHRのものはもう売っていないということで他のメーカー品を探す。適当なものがあったが19ユーロであった。1ユーロくらいで50ユーロを崩したくなく50ユーロ札を温存させるため、店員にまた別のメーカー品を探してもらった。17ユーロのものがあってそれに決めた。パスポートを見せてくれといわれたのでしようがなく、シャツのボタンを外してシークレット袋を取り出すと、キャッシャは呆れて見ていた。

全日空のゲートに入り、搭乗時間を待つ。ほぼ定刻に搭乗開始する。今度は妻がビジネスに乗る。エコノミーの席は中央のブロックの通路側で希望のところだった。水平飛行になって直ぐに夕食になる。酒を注文したがフルーティな酒を持ってきたので断って、ワインにした。あまり食欲も飲み欲も起こらない。ナンプレで時間を潰す。テレビを見る気にもならず。少し映画を見かけたが面白くなく直ぐにやめたというくらい。

10月16日(火)
飛行機の中で日が変わる。ドイツと日本はまだ夏時間で7時間の時差である。
14:50着は少し早めになった。無事成田着となる。やれやれ3年ぶりの大旅行の終了であった。あんなに脅かされていた、かっぱらいにあわずほっとしている。過剰なまでの心配であった。風邪を引いた。歩きが鈍った。体力が減退したことを痛切に感じる。
急ぐこともなかったので、京成スカイライナーを利用して日暮里まで、山手線で新宿までのコースにする。家に着いたのは、夕方6時近くであった。
                       (スペイン・ポルトガル旅日記 了)

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スペイン・ポルトガル旅日記(4)

2020-10-25 08:28:01 | スペイン・ポルトガル旅日記
10月10日(水)
リスボンへ
移動日である。風邪はまだ治らない。
朝の冷え込みは変わらず。8時にチェックアウトする。タクシーを捕まえようとホテルの前に立ったがなかなか来ないのでフロントに頼んでいると、妻がつかまえてくれた。エスタシオン・スルでなんとか通じた。実直そうな運転手で1ユーロのチップで喜んでくれた。行きに乗ったタクシーのこすっからしい運転手を思い出し、違いを思ったことよ。

マドリッドからリスボンまで長距離バスにする。7時間かかるというが、バスに揺られて眠っていれば直に着いてしまうとたかをくくっている。南ステーションは3回目なので勝手知ってきた。待合室で待つ。向かいの席に日本人親子が座ってきた。夫婦と姉妹の4人だった。旅行ですか?と声を掛けてみた。娘の留学が今年で最後なので見に来たと言う。マドリッドから少し離れたナントカという町に行くらしい。リスボンまで7時間かかると言ったらちょっと驚いていた。列車は夜行しかないので昼間移動したいからバスにしたと言ったら、留学している娘が、自分はリスボンまで行ったことがある、夜行列車で寝台でなく、普通の座席だった、ちょっと怖かったと話してきた。9時30分発で9時には乗り場に来てくれと言われたので、その通り行くとリスボン行きのバスではなかった。慌ててそのバス会社の案内の女に聞いたが、ここでよいという。運転手に聞くとロシアのキエフ行きだという。そんなことかなあと2階の切符売り場まで聞きに行く。その乗り場でよいとさっきの女がそこまで移動してきていて、同じことを言う。乗り場に戻るとリスボン行きがスタンバイとなっていた。時間が早かったことになる。早々と一汗かいてしまった。失敗だった。もう少しおっとりしていても良かったのだが、なにせどのようなことが起こるか予測できないことと言葉のハンディでとっさの行動が出来ないから、慎重にならざるを得ない。それにしても今回はひどく慎重である。その割には忘れ物が多い。予習不足も如実に出る。今度のバスは荷物をすべて預けろと言ってきた。昼飯と水が入っているリュックはよかろうと言い張ったが駄目と言う。確かに安全、テロ対策を考えると反対も出来ないので従うことにする。おとなしそうな運転手であった。バスの座席は立派でゆったり座れる。これほどの座席は初めてである。長距離も気にならなくなる。客は多くなく満席ではなかった。9時30分定刻発である。特に印象に残る景色がないまま只管走る。天候は良好である。11時30分第一回目の休憩を20分間とる。場所がどこか分からない。まだスペインであることは確かである。休息のあとそれまでと変わらずバスは進む。メリダという大きな都市がある。1時頃だったろうか、メリダのバス・ステーションに寄る。ここで運転手の交代があった。他に誰かを乗せるでもなく直ぐ出発した。乗る人がいなかったのかもしれない。14時、二度目の休憩。今度は昼飯休憩である。スペインとポルトガルの国境に近い、ポルトガル領ではなかったかと思っている。ドライブインのトイレを借り、戸外の椅子を借りて、手持ちのパンとジュースで昼食にする。暑く汗ばむくらいの直射日光が照りつける。

昼食の後、ポルトガル領を走る、緑地が出てくる。大きな河が見え、展望が開ける。橋を渡る。長い鉄橋であった。リスボンである。海までは見えないが、河口の大きさが推し量れる。やっとポルトガルに来た。
ポルトガルのバス・ステーションに到着する。橋を渡ってから意外に早く着いた。それもそのはず、そこは東の端のステーションで自分が思っていたのと別のステーションだったのだ。皆降りたようである。荷物をとられる心配があるという案内書の記述が気になって、妻と手分けして荷物を確保する。荷物を降ろしたあとバスは走り去ったようなので、バスは次のステーションに向かったのかもしれない。

リスボン
大きなバス・ステーションである。ポルト行きのバスの切符を買って行こうという気になった。ポルトには当初列車で行くつもりであった。グラナダからマドリッドのバスの旅を味わって、バスが楽な感じを持った。荷物の積み下ろしが列車のように面倒でないことを思ったり、リクライニング・シートでゆったりできたりすると思えば、バスも捨てがたいというよりバスにした方がいいや、という結論にした。バス・ステーションは大きな建物でいくつものターミナルがある。会社も異なるようだ。路上から建物の中にエレベーターを使って入る。妻を待合用の椅子に座らせて、偶々通りかかった警備員にポルト行きにバスの切符をどこで代えるかと聞いた。その警備員は、バスで行くのか、列車ではないのか、と尋ねてきた。バスだ。うん、そうだな、シネックスに行くとよい。リネックス?いや、シネックスだ。RENEXをリネックスと読まない。REの発音が自分には出来ない。ともかく教えてもらって、買うことが出来た。

今度はタクシーである。さっきの警備員がまた居たので、また聞いた。エレベーターで階下に下り、タクシー乗り場に行く。自分が調べたところでは、ホテルはバス・ステーションから地下鉄でも容易にいけるところにあった。しかし荷物があるのと探すのに自信がなかったのでタクシーに頼ることにした。地下鉄を探せば自分がどこに居るのかが分かったのだが、そうしなかったから、あくまでも自分は、セッテ・リオス・バスターミナルに居るものだと思っていた。RE社のバスが発着するリスボン最大のバス・ターミナルと案内書に記載してあったのだから。
タクシーにはホテルの名前の書いた紙切れを見せて、行けるかどうかを聞く。分かるということだった。タクシーから周りの景色を見てどうもおかしい、と思い始めた。そのうち海か川かが見える。積荷を積んだ列車がある。一体ここはどこだろう?運転手に聞いた。自分はどこから乗ったんだ?残念ながら英語がまるで通じない。ここはセッテ・リオス・バスターミナルなのか?と聞いても通じず、セッテ・リオス・バス・ターミナルに行くのか、ホテルではないのか?という質問になってくる。参った。まあいいや、ホテルまで行ってくれ。ホテルに行くまで車内からリスボン観光の一部を楽しめるがごとく、あちこち回ったことになる。タクシーの運転手はよく分かった人でよかった。ホテルに着いたら自分の質問に答えようと、ホテルのフロントまで一緒に来てくれた。フロントでは、いきなり自分がフロントのおじさんにどこでタクシーを拾ったのかタクシーの運転手に聞いてくれといってしまったので、フロントのおじさんはびっくりだった。まあ待って、あなたは予約した人でしょうか、から始まったので、そうだが、精しくはあとでしよう、まずはタクシーの運転手を帰せるようにしたい、通訳をお願いする。結局、自分が乗ったのは、オリエンテ駅であることが分かった。一番東寄りのバス・ターミナルである。どおりで、川が見えたりナントカの像が見えたりしたものだ。やれやれ運転手さんお疲れ様、チップを1ユーロと少し加えて10ユーロあげますよ。サンキュー。この言葉だけは言える。かくて無事チェックインできた。

ホテルの部屋はあまりよくなかった。あまりというよりほとんど良くなかった。がっかりである。安さ、それも朝食付きだからそんなに文句をいえないが、とにかく部屋が狭いのとベッドも小さく、特に女用はその小さい男用よりも一回り小さい、バス、トイレも狭いというのが不満である。こじんまりした経営のようである。それでも広い部屋があったから、特別安いところに当ったのだろう。
フロントに近くにレストランはないかと尋ねる。外に出てスーパーを探した帰り、そのレストランを下見に行って、よさそうなので行ってみることにする。妻を呼びに行く。ビールと鶏肉だったろうか、何を食べたか忘れた。
リスボンはスペインと1時間の時差がある。それでも日が暮れるのが早くなった感がする。食事を終えると9時で、寝る時間である。

10月11日(木)
リスボン市内観光(1)
リスボンは観光バスに乗ることにした。ホテルにあったパンフレットを見て、体調が優れないから自分であちこち探して歩くのに自信がなくなったこともあって、そう決めた。市内だけだから2コースあっても1日半で終わりそうかもしれないが、急がずまわることにして、2日間有効の切符を買う。ホテルで予約券を発行してくれる。現金で支払う。一人30ユーロ。団体ツアーでは、市内観光は半日くらいで、リスボン近郊や大陸最西端のロト岬に行くツアーを催しているとことが多い。リスボンはそれほど広い都市でなく、また名所旧跡の類が多くないようだからその方がバラエティはあるのだろうと頷ける。

ホテルの近くの通りからその観光バスの乗れると聞いて、いそいそと出かけた。ホテルはリスボンの中心をなすリベルダーデ通りに面している。リベルダーデ通りは広く、道路が、自動車道路として中央にある往復2車線ずつの他、分離帯となる歩道がその両側にあり、さらにその外側を片道の1車線があり、それから建物が建っている前の歩道という構成になっている。建物から見ると、自動車道路は2つあることになる。ホテルで教わった道順は、道路を1本渡って次の通りにそってバス乗り場があるということであった。自分は通りを1本渡ることを信号を一つ渡ることと解釈して、リベルダーデ通りを越えたもう1本先の通りと勘違いした。リベルダーデ通りを過ぎた次の通りはもう狭くなってとてもバスが通る通りではなかったので、これは違うと思って逆戻りした。リベルダーデ通りに戻ってよく見ると先に述べたような構成になっているから、ホテルのフロントの男が言うのには間違いないことが分かった。通りの名前で教えてくれれば間違いはないのだが。バスがなかなか来なかった。我々が逆戻りしているときに1台通り過ぎていったからそれだろう、次のバスが来るまでにはあと20分とゆっくり待ってよいとは思ったが、肝心のバス停が分からない。ホテルに近い方にバス停があってそこで待ったのだが、どうも違う。アヴェニーダというバス停だったが、市内循環のバスばかり来る。待っている人に聞いてもよく分からない。そんな観光バスは来ないよと言う。いやそんなことはない、ホテルのフロントがはっきり教えてくれた、と頑張って待つ。少し先にもう一つバス停を見つけた。あれもバス停ですか。そうです。ちょっと見てこよう。よく見ると、観光バスのマークが待合所の壁に貼ってある。アヴェニーダがもう一つあった。ああここだ。という具合でやっとこさでバス停を見つけた次第である。やがてバスが来る。逃さずにすんだ。

リベルダーデ通りを下り、すなわち、中心とは反対方向に進む。街の背面を通って海の方に向かうというコースである。アヴェニーダを越すと、ポンバル侯爵の銅像が見える。17世紀にポルトガルの基礎を築いた政治家であるという。ヨーロッパ人は記念碑や銅像が日本人よりも好きなようだと思う。アメリカ人も南米人もヨーロッパ人の流れが多いからその傾向がある。日本人も嫌いではないから各地で建っているが、街の大通りにあるという銅像はあまり多くないように思える。記念碑でもそういえる。日本では道路建設が記念碑とは別の次元で動いてきているせいに思える。ポンバル侯爵の銅像の後方は大きな公園になっている。
大きなショッピングセンターがあるという通りに止まるとぞろぞろと人が降りる。買物があるのだろう。妻は何かお土産を買わねば、という思いを持っているようだが、観光をしているとお土産までは目も脚も回らない。お土産を気にしていると観光は出来ない。スペイン広場があり、そこから今度は南に下って行く。途中狭い道もあって大きな観光バスが上手に角を曲がっていく。バスの説明は幸いにも日本語があったが、日本語がなければ乗らなかったこともあるが、該当の地点の間近かになってから放送するので、あれは何だろうと思って聴いていて、ああっと、過ぎてしまってから振り返ることが多々あった。やがて河畔に出る。テージョ川で直ぐ先は大西洋である。大きな橋が見える。次いで発見のモニュメントが見える。案内書では比較的大きく取り上げられていたがバスではさほどの説明がない。

ベレンの塔でいったんバスを降りる。川と海のほとんど境の川側にある。かつて船の出入りを監視する要塞であったという。小さな橋を渡って要塞に入り中を見学する。1階は潮の満ち干を利用した水牢になっていた。2階には大きくないが大砲があった。大きくなければ小砲なのだろうがそんな言葉はないようなので大砲になってしまう。ベレンの塔は6階まである。狭い階段で登りの人が来ると下ることが出来ない。上で待っている。後からあとから来るといつまでも待っている。川に突き出た部分は見張り場になっていて見晴らしがよい。大西洋が見える。少し風があったが天気がよく川か海かの風に当って気持ちがよい。と言っていながら風邪を引いているのだからしようがない。ベレンの塔で大分ゆっくりした。広場の木陰で昼飯にする。バナナと水と小さなパンを食べるだけのものだ。
再びバスに乗って次のバスストップで降りる。今度はジェロニモス修道院の見学をする。大航海時代のポルトガルの華やかなりし頃の修道院で石の彫刻が素晴しい。特に回廊の鴨居の部分にあるアーチに施されているきめ細かい彫刻には心をうたれる。スペインの博物館のように大勢の人がいないこともあって、ゆったりとした気分で院内を見て回れる。ポルトガルに来たという感じを味わった。ここは本当にポルトガルという思いであった。

ジェロニモス修道院の次にまた観光バスを待って乗り、国立古美術館に行った。同じバス停で比較的多くの人が降りた。そちらがてっきり美術館の方角かと思って人について行ったらそうではなく皆さんはクルーズに乗るところであった。通りで海の方角に美術館があるのもおかしい。広大な美術館である。ありとあらゆる物を集めた様相である。絵画は勿論、陶器、銀やガラスの食器、アクセサリというのか装飾物など。ポルトガルと交易のあった国々からの美術品・工芸品の展示が一堂に展示されているフロアがあった。日本からのは狩野派の屏風絵が一際目立つ。中国、インドからの物も多い。帆船だったのだろうが、よくまあ持って来たものよ。館内には見張りの館員が多く、その連中が私語をしている姿は醜い。暇なことは分かる。館員が多すぎるのだ。人気のあまり多くない館内で、日本人の女性の一人旅に出会った。来る人も居るのだ。売店があり、土産用のマグカップと絵画の絵葉書を買い求める。美術館に1時間もいたろうか。

それまで観光バスの階下の席にずっと居たので、今度は階上に上がって一回りしてみようという気になった。一周は一時間くらいだから、日没まで戻れるだろうと計算したわけだ。実際はもう少し時間がかかったようで、日没がもう少しで一回りが終わるという前になってしまった。川岸通りで日太陽が川に沈んでいく様を見ることが出来た。その後は直ぐ暗くなってしまい、終点に着いたのは7時を少し回ったくらいになってしまった。観光バスは夜の9時半頃まであるようで、ホテルへの帰りはその観光バスに乗ったままで、ホテルの近くのアヴェニーダまで行ってそこで下車する。
夕食はホテルの近くのバールで一皿物をとって済ませた。ファリヤを聞きに行く元気がない。

10月12日(金)
リスボン3日目になる。ポルトガルのホテルはスペインと違い、朝食つきである。ジュース、コーヒー、パン、トースト、ゆで卵、ハムと食べ物にそれほど種類があるわけではないが、量は十分であった。
ユーロの手持ちがきびしくなったので、両替をする。近くに銀行のATMがあったので、VISAカードを使ってキャッシングすることになる。そのATMをうまく使えず、次に並んだおばさんに聞いてなんとかできた。馬鹿だなあ。ディスプレイに指示が出ていたのを、画面タッチでやるものと思って画面の文字を押していたのだ。そうではなく、機械側のボタンを押すのであった。やれやれ、頭が働かない。

リスボン市内観光(2)
リスボン観光ツアー2日目である。買い求めた切符はバスの他に市電の限られた区間も乗ることが出来る。朝から市電に乗る。途中下車が出来ず、ずっと市電に乗ったまま観光するコースである。狭い道、急な坂を市電が通る、レトロの感じをたっぷりと味わわせるというリスボンの名物であろうが、道路を占有するので、車の台頭で車族には邪魔にされ始めているそうである。観光市電は、いわゆる、アルファマ地区とバイロ・アルト地区を回ってくれた。なんというか、それほどの感動はない。急な坂道、建物との間がほとんどなく電車が通れば歩行者もよけなければならないところもあるくらいの道幅、高いところから見下ろす位置にある路地裏、そんなのが珍しいだけである。市民はそれが当たり前になっている。洗濯物が外に干してあるというのが特徴になっている街と少しハイカラにしている街と、市電はそんなところも見せてくれた。

昼は市場のレストランで魚を食べようと意気込んで、観光市電の乗降車の場所でもある、コメルシオ広場から、海岸沿いに歩いて、リベイラ市場に行く。午後になってしまったので店仕舞いになった店が多く、魚屋は閉店、八百屋と花屋だけがまだ開店中というところだった。レストランは1軒しかなく、そこのメニューを見ると、妻の好みとなるシーフード・リゾットがあったが、アローシュ・デ・マリシュコがなかったので、元来た道を戻り、途中にあった魚を外で焼いていたレストランに入ることにした。外で焼いていたのは大きないわしのようであった。ここにもアローシュ・デ・マリシュコはなかったが似たようなメニューのものがあり、それをオーダーした。名前は忘れた。

昼食後、妻が買物をしたいと言うので付き合うことにした。陶器の小物だが、陶器で有名な地域があると案内書が言うのでそこへ行ってみた。バイシャーシアドという地域である。コメルシオ広場からえっちらと歩きで30分も歩いたろうか。エルメスがあり、高級店の地域であった。とてもじゃないので、また引き返す。コメルシオ広場に向かうお土産店を何軒か覗く。やっと一軒決めて陶器やら袋やらを買う。お土産品といっても立派なものではない。〆て33ユーロ、それを30ユーロプラスなにがしかに値切る。妻のなかなか決めないのにはいつもの事ながらいらいらする。

トイレのためにコーヒーショップに一度入り、ジュースを飲む。その後、再び、コメルシオ広場から観光バスに乗る。今度は、現代リスボンのコースで旧市街地から外側の地域が主であった。エキスポが開かれたとか飛行場とか、モダンな建物や施設が見られたが、あまり面白いものではなかった。その中でもオリエンテ・ステーションはハイカラな感じで興味がそそる。くたびれていたので、自分の足で動き回るのがいやになっていたが、楽な分を味わった。この日も終わりが夕方7時過ぎになってしまい、暗くなってからの帰途になった。今日も観光バスのコースに乗ってホテルまで送ってもらう手を利用した。同様のことを若いドイツ人の6、7人のグループがとっていて、こちらは運転手に頼んで乗せてもらったようだった。

8時過ぎホテルに着く。夕食はスーパーで買ったパンとヨーグルト、それにホテルのフロントで買ったビールで済ます。
リスボン終了だが、歩かなかったせいだろう、街並みをよく見たのはホテルの界隈とコメルシオ広場の周辺と魚の昼食をとった市場の辺りくらいだった。あとは観光バスからの眺めだけでやはり物足りなさが残る。名所では、ベレンの塔、ジェロニモ修道院、国立古美術博物館を入念に見たが、あとは観光バスの素通りであった。観光バスにすっかり頼ってしまったので、当初案内書で見て計画したプランからずれて行けなかった所が多々残っている。心残りというほどではないにしろ、効率の悪い動きをしたなあと思う。車から降りて自分の足で動くことが旅行の面白さであると思う。食事もまあ期待したほどではない。もっとも立派なレストランで相応のメニューのものをオーダーしたわけではなかったせいもあろうが、案内書に載っているものも現実でみればああそんなものかという感が強い。ワインも通ではないのであまり言えたものではないが、また、白と赤のポピュラーなものしか飲んでいないが、さっぱりした感じがした。
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スペイン・ポルトガル旅日記(3)

2020-10-24 09:12:50 | スペイン・ポルトガル旅日記
10月7日(日)
マドリッド市内観光(1)
マドリッドには4泊する。始めの計画では、マドリッドーリスボン間を寝台列車で移動することにしていた。いざ値段を調べると二人で個室寝台にすると5万円くらいになり、無理することもなかろうという気が強くなって、結局マドリッドーリスボン間の移動をバスにした。バスは二人で80ユーロ、13000円だからホテル代20000円を払っても寝台の半分と安い。その分マドリッドに1泊多くなった次第である。
マドリッドの予定は、1日目がホテル近辺の散策、2日目は観光メインコース、3日目はトレド、4日目は1日目で行けなかったところ、これで4泊が終わりで、5日目は朝から移動ということにしていた。

1日目は昨日の通りで、目ぼしい所には行けなかった。
2日目は予定通り、観光メインコースとする。スペイン観光局からもらったパンフレットにしたがったコースにする。地下鉄5号線でエル・カーメンから直ぐベンタスで乗換え、2号線に乗りかえてプエル・デル・ソルまで行く。プエルタソル駅の地下鉄から降りたところはさほど広くない広場だった。多分にぎやかなところの反対側に出たのだろう。マヨール広場に向けて足を運ぶ。標識があったのだが途中から見つけられなくなってまたあちこちと少し迷い始めた。それでもちょっとおかしいと気づき早目に軌道修正をかけることができた。サンミゲル市場は工事で閉鎖中。旧いたたずまいの建物を横にして道を下る。マヨール広場の出口に門があり、クチイェロス門という。この門から見える風景が18-19世紀の王族が行き来したロマン派のマドリッドを思い起こすという。写真を撮る。セラーダ広場というがあまり広くない。セコビア通りはどこかとまた行ったり来たりをした後、サンミゲル教会に出る。教会を経て細い道に入ってしまう。やばいかなと思ったが、なんとかビーヤ広場に出る。広場というほどでもない。シネロス邸とビーヤ邸が2階でつながっているのを見る。教会の前に戦士の像があるのはサンティシモ・サクラメント修道院で、1906年の国王襲撃事件の犠牲者の慰霊碑であるという。かつてのイタリア大使館を向かいの通りに見て、カテドラルに出る。アルムデナ大聖堂という名である。カテドラルの中を見学する。カテドラルの前の広場から王宮を眺める。中国人の女の子が写真を撮ってくれと妻に言って来る。一人旅のようだから危険はなかろうと思い応じる。いい加減くたびれたが、まだ頑張れる。

その後、王宮に入る。王宮の中をゆっくりと見物する。流石に立派と言うしかない。絵画もなかなかである。王室のパンフレットを買って後でまた勉強しようという気になる。昼時が過ぎたが、食事が出来そうなところが直ぐ見当たらず、王宮の横のオリエンテ広場で、持参のわびしい昼食をとる。胃に入れれば十分であるという気なればそれでいける。楽隊が広場でドンドン演奏をしていて、皆それに集まっている。オリエンテ広場の王宮と反対側に王立劇場が見える。昼食のパンの後、王宮の前庭を道路から見下ろしながら、歩き始める。王立エンカルナシオン修道院が目標であったが、また迷う。地図の通り行っているつもりが、地図で読む距離よりもはるかに近いというのが間違いの元である。この手の間違いを何度かやっている。やっと探し当てると、本日はもう終了であった。日曜日は午前中で終わり、というのが案内所にも書いてある。予習不足である。くたびれてベンチで休息する。これからどうしようか。歩き疲れたから、少しゆっくりしたい。美術館に行こう。

地下鉄オペラ駅が直ぐであったので、そこから2号線に乗り、バンコ・デ・エスパニーニャ駅まで行く。スペイン銀行のある駅である。スペイン銀行の重厚な建物を眺め、向かいの郵便局、通信局の立派な建物に感嘆しながら、公園になっている道を進む。今度は間違わない。大勢の人がプラド美術館を目指して歩いている。
プラド美術館は大勢の人々が入館していた。日曜日で無料というのには、へえっーという思いである。広く展示物が多いというのは覚悟していて、休み休み見ようとしていたが、やはり展示の多さには驚いた。展示物の密度が高いのである。絵の間隔が狭い。それと人が多かった。それでも広いので、日本の美術館でのような押せ押せというようなことはない。スペインの美術館のエル・グレコとゴヤの世界である。ベラスケス、ラファエロもいる。大きな絵ばかりで圧倒される感じである。くすんでいない。派手さはそのままである。丹念に見たら3日いても見きれないだろう。絵の前にあまり立ち止まることがなくなった。3時間余もいたろうか。ベンチに座る回数も増え、体力の限界が見えた。少し風邪気味だったせいもあり、元気がなくなった。

夕食は、プエルタ・デル・ソルまで戻って、生ハムのムセオ・デル・ハモンで、自分は生ハムを、妻はえびを食べた。妻はパエリヤを注文したかったが35分待ちというから、7時を過ぎていたので帰るのが遅くなり一層くたびれることになると心配し、やめにした。ここの生ハムは威張るだけあってうまい。ただ、イベリア豚は値段は高級だったがそれ程のものとは思わなかった。

10月8日(月)
トレド
トレドに行く。予定通りである。朝寒しで、14℃であった。風邪気味が残っている。なぜか、風邪気味が治らない、一生懸命汗をかいている、でも完全回復ならず、風邪気味を続けている、いやだ、折角旅行に来ているのに、である。疲れのためか、体力がなくなってきたせいか、老人になった。力強さがない、自分でのそう思う。朝の散歩に出ようとする気がないのはなぜか?
朝の気温は14℃で、寒い。風邪の兆候がありズボン下と長袖シャツをしっかり身につける。グラナダに比べると緯度が高く大分温度が違う。折角スペインまで来て風邪を引くとは情けない。1週間休みなく動き回ったせいであろうか、いかんせんくたびれる日ばかりでそれを完全に回復させないうちに次の移動に入っているという悪循環である。夜更かしをしないだけもっているのである。もっとも夜更かしは出来ない。

8時45分ホテルを出る。ホテルから中央に出るにはいつものパターンである。今日は、地下鉄5号線でベンタスへ、ベンタスからマニュエル・ベセッラで6号線に乗換え、そこから南ステーションまで行く。6号線はなにか日比谷線に乗った感じの線であった。南ステーションは2日前に来たところだったので、ステーションの中の様子は知っていたが、地下鉄の出口から待合室までの道がよく分からずキョロキョロした。トレドまで往復の切符を買う。バス会社は、コンチネンタル・アウトである。9時30分発のバスに間に合う。バスの客には日本人の母娘もいた。小さな団体もいたようであった。マドリッドからトレドはきっかりと1時間であった。トレドのバスの駅で、昼飯用の水とパンを買う。どちらの方角なのか、香港から来たという若者といっしょに看板を見たが分からず、大型バスの駐車場のいたバスの運転手に道を尋ねる。早速登り坂道になっていて、そこを歩き始めると先ほどの香港の若者が先を歩いていた。

観光ルートはスペイン観光局の案内書のルートに従った。登り坂の右手に大きな石の門が見える。ビサグラ門という。門に入る前に左手にタベラ病院というのがある。そこを訪れる。病院とはいえ、今や美術館である。何人かまとまるとガイドがつく、そのようなシステムになっていて、今ガイドツアーが行ったばかりだから急いで後を追えという。スペイン語のガイドだが我々のために英語を付け足しだったが一応スペイン語の後に説明を入れてくれた。なかなか圧巻の展示物で、プラド美術館よりも良いものをもっているね、とガイドのお姉さんにお世辞を言ってやったら喜んでいた。絵画の収集はイタリアから来た病院長の趣味であったようだ。薬の調合室とその薬も展示されていた。特に病院関係の書籍などは手に触れるといたむくらいの年代のものをそのまま保管しているのには敬服する。ここで1時間近くを費やしたろうか、昼になる。病院の前にある公園のベンチでパンをかじる。

ビサグラ門からいよいよトレドの城内に入る。サンディアゴ・デル・アルバル教会がある。大きな教会ではない。美しいと言われると美しい。登り坂が続く。太陽の門をくぐる。程なく見晴らしの良い丘に出る。トレドの丘の上から広々とした平野が見える。さっき行ったタベラ病院は一際目立つ立派な建物である。登りがさらに続く。ソコドベル広場に出る。どこかのスターの撮影をやっていて、大勢の人が集まっていた。広場で一休み。そこからもう少し進むと、アルカーサルに着く。エレベーターで上に行こうとすると、守衛が来て今日は休みだと言う。軍事博物館と図書館があるということだったが、そこにはいけず、5階か7階か忘れたがコーヒーショップまでエレベーターで昇りジュースを飲む。そこからの眺めも一段と良かった。

案内書に従ってアルカーサルの建物沿いに歩き少し下ったところに、サンタ・クルス病院に行く。病院といっても美術館で、エル・グレコの世界がある。これで案内書に従った第一部が終わる。ソコドベル広場に戻る。いい加減またしても疲れが出てきたが、頑張ることにする。
両側にいろいろな種類のお土産屋がある細い路地を歩く。石畳の道は歩きにくくくたびれる。カテドラルを目指す。真っ直ぐな道ではなく途中で分かれ道になっていたりするので迷うこと甚だしい。何度か同じことをその都度行き会った人に聞いたことよ。バスの駅のところでインフォメーションを探して地図をもらうのを忘れていた。そんなつけが、回ってきたのだ。カテドラルの辺りに来てから今度は入り口が分からない。カテドラルを一回りしてしまった。工事中の部分があり、入り口が移動していた。中に入る。豪華絢爛たるものであった。金を集めて、芸術家に作らせたのであろうが、その贅沢さが今は重要美術品となっているわけである。現代でこれほどのことが出来るかと問うてしまうが、それは心配無用、出来る人がいるから出来るのである。けちな料簡をもたなくてよい。中の様子は案内書の通りであった。中のベンチで座って休息していると、朝会った香港の若者の一人がやってきた。その若い男は、皆の興味がこのような教会見学とは異なるようで自分ひとり行動していることを話していた。ベンチでの休息も終えて、再び見学に向かう。見るものが多い。教会であり、美術館であり、博物館であり、ここも一つ一つ見ていたら優に一日はかかるかもしれない類の財産もちである。

カテドラルの次は、さらにトレドの奥に入り、サント・トメ教会、グレコの家、トランシト・ユダヤ教会と行く予定だったが、道に迷い、グレコの家の工事中の姿を見たに終わった。ここも行ったり来たりの道案内をしてしまい、自分でくたびれてしまった。時間がまだ早いからもう少し先に行ってみようという気なって先に進む。川が見える。タホア川である。トレドを守る川でその湾曲が美しい。少し遠くに橋が見える。サン・マルティン橋である。水があると写真になりやすい。すなわち心をうつ光景である。今日はここで終わりにしよう。いかんせん、くたびれた。

帰途に就く。カテドラルを目指せばよい。只管帰途に就く。妻が途中何か買物をしたと言ってきた。カテドアラルまでの道沿いのお土産屋を覗こうとしていたが、とにかく早めに戻ろうと急かせた。お土産を見ていたらあっという間に時間がなくなることは周知である。夕方6時のバスに乗れる。かくてトレドの一日は終わる。感想はとにかくくたびれた。頑張りすぎた。夕食をトレドでしようとしたが、レストランは例によって早いところで7時始まりだからあきらめた。マドリッドで食べようということにした。結局は、マドリッドの、しかもホテルでスーパーの買物食品で済ましてしまった。帰りのバスも順調に運行された。風邪は悪化。飴を妻からもらって喉をごまかす。
南ステーションを行きに来た逆を戻り、ホテルに帰る。スーパーに寄って、夕食と明日の朝食の材料を買う。バナナ、ぶどう、生ハム、ビール、ヨーグルド、パン、ジュースが定番である。二人、2食で17ユーロ、2500円になる。献立の割には高い。ユーロの強みで止むを得ない。

10月9日(火)
マドリッド市内観光(2)
マドリッド市内観光の第2日目である。天候良好。気温は朝は14℃くらいだが、昼には10度くらい上がりそうな様子の日で、大陸性気候である。妻が子供から寒かったり暑かったり忙しいところだというようなことを言われてきたと言うが、まさにその通りである。風邪が悪化の状態だったが、そのまま行動する。ホテルで寝ていたいという気もあったくらいだが、観光バスに乗って楽にしていればよかろうという気になった。ビジコン・バスに乗ることにした。9時半のバスには間に合わないくらい、のんびりした出発である。すっかりスペイン人のような朝寝タイプになってしまった。スペイン人でも早起きの人はいるのだろうが、夜更かしが多いようだからつい遅起きが多いとみてしまう。このビジネスホテルはビジネス客のせいだろう、8時には皆朝食を終えているようだ。フロントでビジコン・バスの乗り方を聞く。ホテルの近くからはうまく捕まえられないようなので、メインストリ-トに出ることにする。

地下鉄でオペラ駅まで行って、そこから乗り始める。オペラ駅の近くの停留所は始発だったはずだが、意外に人が多く、込んでいて、階上の席の座席はもはやなかった。ビジコン・バスの料金は、一人15.36ユーロである。決まった停留所での乗り降りになるが何度でも乗り降りが出来る。一周が2時間くらいかかる模様であった。
妻がピカソのゲルニカを見たいと言うので、まず、国立ソフィア王妃芸術センターに行くことにする。降りる際ちょっと躊躇したのでバスが発車してしまった。次のバスストップまで行ってしまう。次は折り返して植物園の前で止まった。植物園は後回しにして、戻ってピカソの美術館に行った。大きな通りを歩いて渡らなければならなくなる。車が多い。赤信号に切り替わったが車の切れ目があったので、横断歩道を突っ込んでみた。危ない、危ない。直ぐ車が動き出して危うくぶつけられそうであった。そこはここの人たちの運転の上手さと歩行者安全確保が徹底しているので助かった。妻に気をつけろといっていながら自分で危険を冒してしまった。失敗の巻である。

国立ソフィア王妃芸術センターは近くだったせいもあり迷わずに直ぐ分かった。しかし、残念でした。火曜日は休館でした。インフォメーションのお姉さんが気の毒そうに同情してくれたが、休みは休みである。案内書を見るとその旨の記載がある。予習不足であった。自分はゲルニカを昔、日本の美術館で見たことを想い出した。大きな絵だった。戦争のさまざまな姿を一堂に集めた絵で、色彩があまりなく、なにか索漠とした感じを受けた。大学生のときであったかと思う。妻は見ていないと言うからよほど見たかったのだろうが、止むを得ない。やれやれ、どうしよう。同じ道を戻り、植物園に入る。3万種類もの植物を有すると案内書に謳っている。日本でもごくありふれたような草花がある。そのようなものを数えていくと3万にもなろうと頷ける。ゆったりとした時間が流れると言うのにふさわしい空間であるが、美しい植物園とはいえない。なにか索漠とした感じさえする。緑の濃い木々がないのと花の美しいものがないせいだろう。休息する。トイレの建物が工事中であった。温室を見る。あまり感動しない。植物園はちょうどプラド美術館の向かいにある。プラド美術館は今日も多くの人が訪れている。再びバスに乗る。マドリッドの街を巡る。コロン広場にコロンブスの記念塔が見える。バスの中からだからあまり良く見えない。この辺りも回ればいろいろな名跡や美術館があるようだが、もう時間がない。

昼飯を考える時刻で、パエリヤのレストランに向かう。朝ホテルのフロントのお兄ちゃんに教わった辺りでバスを下車する。地図を見てなんとかその通りを探す。ここまで30分近く要したと思う。あきらめようかと思ったくらいだ。やっとそれらしきところを見つける。日本人の女が一人でさっさと我々の前に入っていく。やはりここかと思った。ホテルのお兄ちゃんは予約が要るよということだったが、今さら予約もないから、駄目もとでと思ってその店に入る。少し待って、というから脈があった。店に入るとさっきの女とは別に日本人らしき人がすでに食事中であった。奥まった席に案内され、ようやくテーブルにつけた。妻の念願のパエリヤである。パエリヤは二人以上でなければ注文を受け付けない。ある程度のボリュームがないと作る方もうまくできず、採算も合わないのだろう。値段表には一人分の値段を示しているが、実際には二人分で値段は2倍になる。ご飯の量が二人分にしては多目である。海鮮パエリヤ、サラダとスープ、ビールにミネラルウォーターという取り合わせでオーダーする。結構うまかった。ご飯の量が多く満腹である。妻に言わせれば、俺の皿には後から盛ったのでご飯が妻の1.5倍くらい盛られたそうで、それを頑張ってよく食べたと感嘆していた。海老があり、貝があり、味は塩ベースで比較的淡白である。トマトケチャップがないのが自分には合っている。妻は二度目のパエリヤである。ビールはスペイン製、それ程悪くなかった。ドイツビールに比べるとやはり劣る。味が違うんだなあ。ましてチェコのビールに比べたら格段の差である。チップを入れて〆て70ユーロで、1万2千円也であった。昼の3時半を回ったところで、ほろ酔いで次の観光に向かう。

一昨日、午後から閉館ということで入れなかった、エンカルナシオン修道院に行く。今日は開館であった。入り口で切符売りの女がスペイン語のガイドだけれどよいかと言う。スペイン語は分からないからガイドは不要だと言った。それで話がついたと思ったのだが、そうではなかった。入っていくとすでにガイドつきの一団がいて、一室の案内が終わったところで、守衛が扉を閉めるところであった。自分は今来たんだから閉めるなよと言ったのだがだめだと言う。日本人の女が一人その一団にいて、よくフリーで入れましたね、という。フリーではない、金を払ってきた、というとフリーの意味はそうでなく、ガイド付でなければ駄目だといわれたという。自分はガイドは要らないと言ったが、ガイドがなければ案内しないという意味であったのだ。守衛と押し問答しても埒が明かないので、先ほどの受付の女のところに行って押し問答となった。結局、女の説明を自分が十分理解していなかった、女が十分な説明をしていなかった、ということであった。もういやになり、金を返してくれ、帰る、ということにしてお暇にした。なかなか立派な絵があってもったいなかったが止むを得ない。トレドのタベラ病院のようにきちんと対応してくれれば分かったのだが、すでに出発していた組と一緒になれというところまで言ってくれなかったところが誤解の元である。

しょうがないから次の名所へと移る。オペラ駅の近くまで行きそこから路地を抜けていくという具合に地図を頼りに、聞く人もなく、デスカルサス・レアレス修道院に向かう。あまり迷わずに行ったのだが、もう時刻が夕方になっていた。5時を回っていたかと思う。入り口の前に列を成していた。ここで並ぶんですか?最後列に並んでいたおばちゃんに声をかける。そうよ、でもあと二十人でお仕舞いなのよ、私が二十人目なのよ。ぐあーん。またして残念でした。一気に風邪も悪化してしまう。いつもよりも少し早めであったが、昼食に金をかけたので夜は節約にする。オペラ駅から地下鉄で乗り継いでホテルに帰る。スーパーでの買物で夕食にする。
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スペイン・ポルトガル旅日記(2)

2020-10-23 08:08:53 | スペイン・ポルトガル旅日記
10月4日(木)
グラナダへ
移動日である。バルセロナから飛行機でグラナダまで行く。朝5時起床する。10時10分の飛行機だから8時前にはホテルを出なくてはならない。前日パッキングをある程度終わらせたが、くたびれていたから朝早く起きてやった方が効率が上がるというのが自分ペースであるゆえいつものペースでの早起きである。それでも6時くらいまでかかってしまう。朝食は、バナナ、ぶどう、チーズのパターンである。ホテルの朝飯は7時半からだから、今日はホテルで食べてみようかと思っても時間的に無理である。予定通り、7時50分チェックアウトの後タクシーを呼んでもらって、ホテルを出る。途中交通渋滞に遭い、ちょっと遅れ気味かと心配したが、余裕で空港に到着した。タクシーの運転手が感じの良い男で、そんなことも気分を変えてくれる。スパンエアというスペインの国内航空である。ビジネスクラスのラウンジを使う時間もあって、ゆったりした待合時間を過ごす。ここは全日空のようにビジネスクラスはお一人様だけですからラウンジの使用のお一人様に限りますなどという野暮ったいことは言わない。飛行機はA320-200だったか、忘れた。小さい飛行機でビジネスクラス以外はほとんど満員になる。日本人の観光客も一緒になる。1時間余のフライトでグラナダ空港に着く。晴天である。11時半を過ぎた頃で、太陽が照って暑い。南国の感じである。
ツアーの日本人観光客はバスに乗るがわれわれはバスに乗っても降りるところがよく分からないゆえ、タクシーにする。そのタクシーがあまりない。タクシー乗り場を探して、あああそこだ、なんて言っている間に素早いのがいてさっと乗ってしまう。乗り場の表示がないので、適当に前に乗った人の後の路上で待っているとそれよりも前に立つ人々がいて中国人のマナーになさを思わせる。幸い、1台来てくれた。白タクのような感じで、乗ってからちょっとやばいかなと思って尋ねた。メーターを使わないのか?使わない。ホテルまでいくらだ?22ユーロだ。よいか。OK.商談成立。やれやれ、雲助にかからなくて良かった。

グラナダ
空港からグラナダの街までは30分近くだったろうか、22ユーロ分はあったようだ。ホテルはこじんまりした3階建である。フロントはアルバイトのような女性で、陽気に英語が下手だけどもなんでも教えますと言う。予定したよりも早くチェックインできたので、午後一杯観光が出来ることになった。部屋で一服のあと、街の回り方、レストラン、アランブラへの行き方などをフロントのお姉さんに教わって、ホテルを出発する。あんなに良かった天気が今度は雨になる。傘が要るくらいの雨である。それも時々ひどくなる。まるで砂漠の雨のようだ。雨が降ると少し冷え込む。大陸性を思わせる。ホテルは街中だったので、少し歩くともうグラナダ市内の中心部である。1時半を回っていたので、また朝飯が十分でないがゆえに腹がすいてきたので、まず昼飯にしようとホテルのお姉さんに教わったレストランの方角に向かった。市の中心部で途中カテドラルがあったのでちょっとのぞいてみた。2時から4時までの昼の休み時間に入ってしまって閉鎖していた。そのまま市庁舎の方角に向かう。市庁舎がどこか分からない。デパートの前にいた物売りのお兄ちゃんに聞いても要領を得ない。そのお兄ちゃんには傘を広げたときに雨粒をかけてしまった。雨がひどくなる。バス停で待っているおばちゃんに聞くとあそこだよと指差したのは案内書の写真と異なる。その写真をおばちゃんに見せるとちょっと困ったような不思議そうな顔をされる。時が経って変わったのか?結局分からず仕舞であった。レストランもその辺りなのだが、うまく探せない。トイレにも行きたくなったので、まあこの辺でいいやと行って入ったところは、プレート盛りが主体の店のようだったが、一応真面目なメニューもあるところで、妻は鱈を、自分はメルルサの魚と赤ワインをオーダーした。35ユーロもしたからさぞ立派だろうと思うが、ユーロが強いだけでその半分くらいの味である。

雨が止んだ。見晴らしの良いアルバイシンの丘に登ってみようと歩き始めた。カテドラルの近くの交差点からヌエバ広場に出る。そこから登り坂になる。道は一本だから直ぐ分かるだろうとたかをくくっていたのがまるっきり裏目であった。坂道を歩いてもいつまでも坂道で案内の看板もなければそれらしき人たちもいない。皆バスか車で動いているのだろうか?一度戻ったがやはり今いたほうだともう一度行き直す。犬を連れた若い金持ちそうなご婦人に聞くと、それはその方向と教えてくれた。坂道をその方向に折れて行ったのだが、怪しげなところに入ってしまい、また戻り。広い道に出直して、バスを捕まえる。やっと分かった。距離的にはかなりある。最初からバスにすべきくらいの距離である。サンニコラス展望台に着く。見晴らしが素晴しい。直ぐ向かいにアランブラ宮殿の一部があり、遠くはシエラネバダの山々、そして眼下にはグラナダの街が一望できる。夕暮れだったら、その光景は夢心地にもなるような美しさである。案内書には、あまりにも有名な景観とある。もっと記載があってもよいくらいだ。展望台といっても建物があるのではなく、丘になってそこから眺めるのである。30人くらいの人がいたろうか、皆美しさに驚嘆している様子であった。

帰りもバスで下る。街まで戻り、カテドラルに行き、中に入る。カテドラルにはどこも教会の強さをまざまざと見せ付けられる。カテドラルの隣には王室礼拝堂がある。これは外側からの見物である。ローマ時代の建物であると言われればその趣が十分感ぜられる。一度ホテルに戻る。ひどく疲れた。無理もない。歩き過ぎである。風呂に入って夕食にする。8時を過ぎたのでレストランが開く時刻になっていた。ホテルのフロントのお姉さんは昼間の当番から夜の当番に変わっていた。昼間のお姉さんは6日のマドリッドまでのバスの予約を入れておいてくれた。夕方のお姉さんに近くのレストランかバールを教えてもらう。ホテルの裏の道路で狭い道に車が来る。薄汚い道なのでなんとなく物騒な感じもする。これがまた一度で探せず、同じ道の行きつ戻りつを二度してしまう。お姉さんが教えてくれた店は本日休業であった。店じまいかどうかは知らない。どこにしようかどれでもいいや、になり、バールではなくレストランにした。外のテーブルを案内され、少し寒かったが気分的にそのほうがよい感じだったので、夜空の下での食事となった。妻は牛のテールの煮込み、自分はまた鱈で今度はクリーム揚げにした。これは正解ではなかった。チップを入れて39ユーロ払う。6千円余である。疲れに寒さが加わってきて、ホテルでもう一度風呂に入り、ベッドに転げ込む。

10月5日(金)
アランブラ宮殿
今日は一日アランブラの日である。このホテルには食堂がない。あっても使うつもりがなかったから尋ねもしなかった。朝飯はこの旅行でパターンになってしまった、バナナ、ハム、チーズ、ジュースである。日の出が遅く、7時を過ぎてもまだ暗い。外の様子を見るために階下に降りるとフロントでは夜勤のお兄ちゃんが寝袋から起き出したところであった。
外は寒く、朝昼の温度差が大きいことをうかがわせる。
8時20分ホテルを出る。32番のバスに乗って、アランブラまで行く。狭い坂道を小さくもないバスがスピードを出して進む。坂道で泊まりまた発進する、というせわしい運転だが慣れたものである。9時半到着。切符を購入する人たちが並んでいる。もうすでにインターネット予約をしてカードの金も払っているので、その列には並ばずに、カードでの切符引き換えの列に行く。午前の部、午後の部そして夜間の部まで、3枚も予約していたので係のおばさんもびっくりの様子であった。午後の部は庭園だけの分にしたので、午前中から続けて庭園にいれば必要のない切符であった。一度出されるのかなあと杞憂したのは結局15ユーロ無駄であったことになる。

夢のアランブラに入場である。ばら園を通って、王宮への入場を待つ。王宮への入場は時間帯が決まっていて10時から10時半という切符になっていた。中は装飾物がなく、建物と壁面と天井のタイルを堪能するという観光である。それにしても壁面の素晴しさには驚く。まさに驚異の製作である。いかに王様の命令とはいえ、根気もさることながら、やはり好きでなければやれない仕事であることには今も昔も変わりはないことと思う。アラヤネスの中庭には大きな長方形の池があり、両側に背の低い植え込みが並んでいる。最大に見物と言われるライオンの中庭のライオンは工事中であった。残念でした。王宮を出たところで昼になる。昼は一度外に出て食べようと思っていたのだが、周りにはレストランがなかったのと出たりまた入ったりするのが面倒になり、ポテトチップとホットドッグのようなメキシカンドッグ(元を言えば、スペイン風なのであろう)を買って食べた。丘の上からグラナダの街が見える。また、昨日行ったアルバイシンを今度はアランブラから眺める番である。午後は、ヘネラリーフェ庭園を散策する。庭園といっても広いことと美しいことはどこと比較できようか。ゆったりとした空間と時間を存分に楽しんだ感である。天気も良かった。晴れで暖かで暑いくらいであった。4時近くにアランブラを出る。バスで街まで来る。4時半、早い夕食か、遅い昼食か、ホテルのお姉さんに来たバールを探してそこでビールとタパスを摂る。二人で20ユーロだから今日は安くあがった日である。ホテルに戻り、風呂に入って一眠りして、夜のアランブラに備える。

夜9時過ぎ、アランブラ夜の部に出発する。昼と同じ32番のバスで行く。王宮には10時から入場する。あまり大勢ではない。真っ暗である。道には街灯があるが、一部分だけは十分だが、暗い。ライトアップが美しいと思ったのだが、あにはからんや、期待に大いに反したものであった。ぜひ夜に行くとよいと言う案内書には騙された。昼間みておいてよかった。昼間見ていなかったらアランブラを全然味わえなかったといってよい。帰りは大きなミスをした。帰りのバスの時間を確かめなかったことだ。夜遊びの好きな国民だからてっきりアランブラの終了時刻までバスが運行しているものと一人合点していた。アランブラの門を出たのが11時5分だった。バスの時刻表を見ると最終が11時4分になっている。あわてて警備室に聞きに行った。もう最終が出たよ、あとは歩くしかないよ。ええっ、どうしよう、歩くか。バスが来た。アランブラを越してさらに奥に行くバスである。街で遊んできた人々を送るバスである。仕方がない。歩く。途中の道がよく分からず、街から登ってきた人に聞く。そっちでない、こっちの道を行くと早いよ。でもその道は物騒な感じがするよなあ。でもそうするより他にない。大急ぎで道を下る。5分くらい歩くと、ホテルがあってそこで何か催し物があったらしい。大勢の人々がいて、しかもバスがあった。ホテルのボーイのところまで聞きに行く。タクシーをつかめないか?ない。バスのところに行って運転手に聞く。このバスは街に行かないか?街に行くバスはもうない。乗客が教えてくれる。脚を手で叩き、オン・ピエ、歩けの意味だ。フランス語と同じだ。意味は分かっても問題は残る。歩くしかない。近道という道をひたすら下る。距離はあまりない。暗さも明かりが少しあるので周りが見える。誰かに襲われなければ行ける。不良が来ないことを祈る。ヌエバ広場から登ってくる人がいる。助かった。なんとか危機を脱出できた。危機なんかではなかったのだろうが。汗をかいた。冷や汗もあるし、一生懸命に歩いた汗でもある。パスポートも現金もすべて持ち歩いているときの危険さが感ぜられた。といっても貴重品を置けるセキュリティボックスなどないホテルのときはしようがないのだ。ホテルに着いたのは、零時を回って零時半近くでなかったろうか。明日のことが心配になってきた時刻である。夜勤のお兄ちゃんがそろそろ戸締りと言う頃であった。

10月6日(土)
朝10時発のマドリッド行きのバスに乗るために、早起きする。45分前にはバス・ステーションに来てくれという指示通りにすると、ホテルを8時に出る必要があるだろうと読んで、6時起床、7時50分チェックアウトにした。昨日はフロントの昼のお姉さんがきたのが7時半近くであったが、今日はまだ来ておらず、夜の部のお兄ちゃんがチェックアウトの勘定をしてくれた。

マドリッド行き
朝飯はいつものごとくである。バス・ステーションまでは市バスで行く。33番のバスで二人で2ユーロだから助かる。終点だろうから分かるだろうと思っていたが、いざ終点になったところでアナウンスがよく聞き取れず、隣に座っていたおばちゃんに教えられて降りることが出来た。思っていたよりも早い到着であったことも終点を認識できなかったことに関係ある。8時半前に着いてしまって早過ぎた。9時のバスには乗れないかと切符売り場のお姉さんに聞いたが満席であると言う。満席かどうか、ちょっと怪しいところもある。面倒くさいから満席にしたということもあろう。愛想のない女をつい、そんな目で見てしまう。

グラナダーマドリッド間には列車もあるが、バスの方が人気が高いようである。料金が安い、時間はそれ程変わらない。であれば、必然バスに人気が出る。本数もバスの方が多い。人数が増えれば、増発することもあるようだ。10時発のマドリッド行きは3台になっていた。45分前に来てくれというのもバスの手配との関係でうなずけるところがある。我々が乗車したのは1台目で勿論満席。我々の席は最後部であった。

5時間半のバス旅であるから、どこかでトイレ休憩があるだろうとは思っていたが、それでも水分は極力取らずに我慢することにした。我々の席の隣には、スペイン人の男が座り、その隣には女が来た。その女がまた話好きでうまく男を会話に引き寄せて、荷物を荷棚に上げてもらうのは勿論、座席のリクライニングを手伝わせたりなどして、道中ずっと仲良くしていた。最後には携帯電話の番号を教えっこしていたくらいである。日本で言えば、女は水商売の女であろうと想像する。そんなことはどうでもよいことなのだが、あまりにも身近に起こったことなので記すことになる。そんな光景を隣で盗み見るオヤジもどうかしているかもしれない。

バスは結構な速度を出す。追い越しもどんどんかける。天候は晴れ。12時に休憩が入った。休憩の場所の名前はよく分からない。窓から見える景色はあまり面白くない。平原というより荒れた土地の岩山の感じである。アメリカのアナハイムから南東の方角に砂漠がある。砂の砂漠ではなく、デザート、見捨てられた土地、という砂漠で、無毛地帯である。また、アリゾナのフィリップスに行ったときの砂漠という感じの光景、そんな緑のない景色を思い出させる。地図で見てもスペインは確かに緑でなく茶色の部分が多い。
予定通り3時半にマドリッドの南ステーションに着く。大きなバス・ターミナルである。

マドリッド
南ステーションでリスボン行きの切符を求める。妻を待合室に、といっても広々とした駅構内になるが、待たせて切符売り場を探した。インフォメーションに行ったがあまりはっきりした情報がもらえず、日本でインターネットで調べていて自分のノートに記していたアルサALSAというバス会社を探してそこで聞いてみた。国際線のオフィスは国内線と違うところにあって、国内線のカウンタで教えてもらい少々探したが幸いそのオフィスは直ぐに見つかった。10日の予約であったが、所望の時間帯のバスがあり購入した。クレジットカードが機械の故障で使用できず、80ユーロ近くを現金で支払った。60歳以上のシニア割引があり、1割引いてもらった。

南ステーションからホテルまではタクシーを利用した。タクシー乗り場に行くと、変てこな男がさっとやって来て、乗り場はこちらだといい、タクシーを呼び、チップの請求である。乗ったタクシーの運転手がまたこすっからしい男であった。英語は適当に話すが、メーターの上げ具合が早い。案の定、チップの要求も有り、それでも14ユーロで一応満足していた。降りる際には、降りる前から次の客を捕まえる構えで、乗りそうな客に声をかけ、そこで待っていてくれと言う始末で、感じが悪いことはなはだしい。マドリッドの第一印象は大都会ゆえやばいから注意しようである。10日の朝、ホテルから南ステーションまでタクシーを利用したが、そのときの料金は7ユーロであったから、いかにぼられたかが分かる。ホテルはビジネス街にありビジネスマン用である。土曜日と日曜日の値段が平日の半額であるところが魅力であった。バルセロナ、グラナダのホテルに比べると、やっとホテルという感じのところに来たという印象であった。インターネットの利用はバルセロナのホテルでは外部のサービス店を使うか、専用のなにかを購入してくれと言うことであった。ここはケーブルだけを用意すればよいというので、ケーブルを買いに電気店を教えてもらった。

ホテルの部屋で一服した後、パソコン用の通信ケーブルを買いに出るのと食事をするのを同じ地域にしようと地下鉄を利用した。ホテルの近くの地下鉄の駅は、2号線エル・カーメンである。そこから電気店があると教わったゴヤ駅まで行く。電気店のあと、付近でレストランを探したがあいにく適当なところがなく、バールを見つけそこに入った。8時にならないといろいろなメニューが始まらない。8時までは待てず、ビールとタパスで夕食にする。チップが不要で14.8ユーロと安く上がった。食事の後、同じ地下鉄を戻ったのだが、エル・カーメン駅で出口を間違えた。地上に出てからすっかり迷ってまた元の出口に戻ったが分からず、全く別の方角に行ってしまった。南米らしき街に行ってしまい、仕方なくバールに入って聞く。教えてもらって一応分かった気になったが、また分からなくなり、駅に戻る。駅員に聞いてやっと入ってきた口を見つける。ホテルの近くにはスーパーがあり、疲れたが明日の朝の食事の買物をする。
電気店で電話線をなんとか見つけたわけだが、肝心のパソコンがモデムを有していないので結局使い物にならなかった。馬鹿だった。中国でも同じことがあったのをすっかり忘れていて盗まれてもよいのをもってきたというのが仇であった。パソコンは結局デジカメのSDカードのメモリが一杯になったときにパソコンのハードディスクに移し変えるための機械だけになってしまって、道中重いものを持って歩いた意味がほとんどなくなってしまった。
コメント
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スペイン・ポルトガル旅日記(1)

2020-10-22 10:03:19 | スペイン・ポルトガル旅日記
2007年10月1日(月)
出発
前日におよんでノートパソコンを東芝のかHPのかどちらを持っていくか、リュックが小さいからリュックはやめてボストンバッグにするかを決められないで、しばし時間がとられていた。結局、旧いパソコンとそれが入る大きさのぼろいリュックにした。子供にそんなリュックを持っていくのかという言い方をされてしまったが、実用性を重視した結果である。パソコンは泥棒に盗まれても被害がないと言う観点にした。
準備万端という思いはなく、なぜかくたびれている感じである。浮き浮きしていないのはなぜだろう。あんなに行きたがっていたポルトガルであるのに、である。中国の仕事のやりかけがあったが、どうせかれらも国慶節で一週間休みであるから放っておいてもよかろうという気があった。だから、なにも気にすることなく、笑顔がこぼれてもよさそうなのだが、相変わらず事が始まるにおよんで悲壮感を漂わせるような思いをしていた。

朝、5時起床。髭をそり、髭剃り用具を鞄に詰める、これで出かけの荷物のパッキングが完了といういつもの出張スタンスである。朝飯用のおにぎりを握る。妻がものの見事に忘れている。6時、妻を起こす。自発的に起きたかどうかは忘れた。子供の朝飯の仕度はしない。何か余裕が無い。7時過ぎ、家を出る。8時6分の新宿発の成田エキスプレスに乗る。節約のつもりでいつものように日暮里から京成スカイライナーを予約していたが、月曜日であったので大きな荷物を持って山手線に乗るのは気が引けたのとしんどいという妻の言葉を聞き入れて、キャンセルし、1000円奮発して成田エキスプレスの切符を金曜日に高円寺駅に行って買ってきたわけである。1000円奮発といっても二人分だから2000円になる。以後すべての料金計算は2倍で行なわなければならないのである。

成田エキスプレスに乗っておにぎりを食べ、ナンプレをやっているうち、成田空港に着く。空港駅に着いていつもと勝手が違うという感じがした。そうだ、ここは第一ターミナルでいつも中国へ行くときに利用する第二ターミナルとは違うのだ、と気づく。全日空を利用するのだ。全日空のマイレージ利用の大型旅行なのだ。マイレージのポイントが十分でなく、一人はビジネス、もう一人はエコノミークラス利用という座席のセパレートになってしまった。このスタイルは前回、3年前のウィーン・ブダペスト・プラハ旅行で利用したオーストリア航空でもそうであった。ビジネスクラス2名のマイレージをためるのはなかなか大変である。

空港でスペインの電源用のプラグアダプタを買い求める。Cタイプ2個でよいですか?と店員に駄目押しをされると、ちょっと待てよ、という気になったが、地球の歩き方を信じて他のタイプは不要にした。結局これで十分であった。

チェックインの後、ゲートまで歩くといい加減時間が無くなり、出発まで30分くらいになる。それでもビジネスクラス専用のラウンジを利用して、一服する。コーヒーとジュースくらいにしたろうか、アルコールはやめた、食べ物も搭乗してから十分出ることを予想して自重した。これが、座席がエコノミーであるというなら遠慮はしない。行きは自分がビジネス、帰りは妻がビジネス利用と決めた。全日空ではラウンジ利用はうるさい。妻はビジネスでないためラウンジに入れないため、売店を散策する。

搭乗
出発予定時間ぎりぎりになってから搭乗を開始した。おまけに搭乗時にパスポートチェックをするから余計時間がかかる。それでも全員の搭乗後は意外に早く出発となり、約15分遅れでの離陸となった。成田からフランクフルトまで全日空で、フランクフルトで1時間の乗り継ぎ時間でバルセロナに向かう、というのが我々の計画である。成田の出発時刻が遅れれば、その分フランクフルトでの時間がなくなり、わるければバルセロナ行きのルフトハンザが待っていないという事態も予想される。この乗り継ぎのところは切符の予約の際にずいぶんと全日空担当者と話して、1時間なら射程圏であるという結論に納得したわけであるが、いざ、実際に出発時刻が遅れる事態になると、大分疑問になる。離陸後、遅れ分を取り返そうとしたのかどうかはよく分からないが、風が強いところもあってさらに遅れが出てきた時点もあった。それでも結果的には挽回して、着陸時の遅れは離陸時の遅れをそのまま背負ってきて15分であった。15分であっても厳しく、スチュワーデスに直々に問い合わせて、特にエコノミークラスにいる妻の速やかな乗換えのために席の移動を求めたくらいであった。同類の人が大勢いるから心配ありませんというスチュワーデスの言葉の前半は分かるが、後半部は信用しない。降りる直前になってから、乗り継ぎの方のために機内の通路を開けて欲しいというアナウンスが出てきたから、スチュワーデスの心配ないというのは嘘なのである。

ビジネスクラスの旅は快適であった。食事が良かった。昼食は、ブランデーの水割りに始まり、フィレ肉のビフテキをオーダーし、日本酒を2本、食後はベイリーズとコワントローで仕上げる。夕食はビールと和食弁当である。飲めればいいというわけでもないが、飲めて楽し、である。体調がよかったから良かった。妻のエコノミークラスの食事は全くよくなかったという。おまけに窓側だったためにスチュワーデスが十分対応してくれず、ジュースをもらうのもままにならなかった由。全日空にしてまだこれか、と思わざるを得ない。機外の風景では、多分ロシアの上空であろう、雪に覆われた山々が見えたのが印象的であった。

乗り継ぎ
フランクフルト空港では大変であった。トランジットにはぎりぎりの到着ゆえ、急ぎの移動が必要な上、フランクフルト空港の広さには大なる体力を要した。イミグレーションの後、BウィングからAウィングへの移動が必要で、それも半端でない距離であった。動く歩道がどこか適当ところにあったのだろうが、うまくさがせず、延々と走ったわけである。走っていたのは我々ばかりでなく、太ったドイツ女性もほとんど走れずに急ぎ足で動いていたのを間近に出会った。それでもルフトハンザの出発時刻になんとか間に合ったのはまさにラッキーといってもよい。さらに助かったのは、バルセロナ行きのルフトハンザが10分と少し遅れたのでトイレに行けるくらいの余裕をもてた。フランクフルト空港はルフトハンザの空港と言ってよい。全Aウィングがルフトハンザである。しかもバスがないという特長である。そのせいで中での移動が大変であるということを耳にしていたが案の定、その通りであった。飛行機はヨーロッパの国内線にふさわしくA320-200であまり大きくない旧い機であった。ルフトハンザでの食事は十分なものであった。妻に言わせると、ここでもエコノミーでは全然良いものではなかったという。スチュワーデスはドイツ人のおばさんだったが愛想が良く、新聞から雑誌、飲み物などいろいろ薦める人であった。ドイツビールを久々に飲んだ。フランクフルトからバルセロナの旅程は、フランスの上空を飛ぶのであるが、スイスアルプスらしき山々が目に入った。

バルセロナ
2時間の飛行で、バルセロナには夜の8時近く、予定通り到着した。まだ明るい。日本との時差は8時間だが、夏時間のため7時間になっている。空港は海から着陸に入る形で、最近では山口宇部空港の雰囲気を思い出した。バルセロナは曇り空であった。
バッゲージクレームで無事荷物が得られる。やれやれ初めてのスペインに到着したという感じをあらためてもつ。スペイン語の会話が聞こえる。何を言っているのかは分からない。それでも中国語よりは片言が聞き取れる。

タクシー乗り場でタクシーを待つ。ドイツ人の会社員の集団に列を乱されたが、中国人に比べればまだましと一人合点してみる。会議かなにかなのだろう。ホテル名を記した紙切れをタクシーの運転手に見せてホテルに向かってもらう。ベンツのタクシーなのでドイツ的な感じがした。空港から街まではあまり遠くない。街に入ってから、暗くなる。ホテルは繁華街から外れたところにある。空港からは繁華街を通る。9時頃ホテル着。こじんまりしたホテルで、フロントには男性が二人待っていた。バスタブの有無が心配で早速確かめる。お兄ちゃんが親切でわざわざ客室を見てきて確認してくれた。一服、といっても食べるものがなく、近くのショップを教えてもらい、ビール、チーズ、水、ジュースを買ってきて部屋で夜食をとる。妻は飛行機で余したパンをかじる。
かくて長い10月1日が終わる。夜半、目が覚める。時差ぼけである。しばし時差に訓練をしていなかったためか、この時差ぼけが何日か続いた。ナンプレの続きをやる。

10月2日(火)
これからはヨーロッパ時間である。
朝8時過ぎ起床。流石に疲れたか、早起きが出来ず。早起きしても朝は7時半でもまだ暗いから物騒であるとの評判であるから、散歩にもいけない。だから寝ているということにもなる。5.5ユーロの朝食が7時半から食堂で食べられると教えられたが、朝食は部屋でクラッカーとチーズ、妻は飛行機でのパンの残り。それで十分であった。ゆっくりして、10時過ぎに出かける。外は晴れで暑い。半袖の人もいる。上着はやめて長袖のユニクロシャツにする。観光はスペイン観光局から送ってもらった案内資料のルートに従うことにしていた。今日の予定は、ガウディ作品の建築を見ることである。

バルセロナ市内観光(1)ガウディ
ホテルから歩きでサグラダファミリアまで行く。地下鉄に乗ろうかとホテルのフロントに相談したら歩いて15分足らず、通りを二本越えるとよいと教わりそれに従った。もうすでに大勢の人が門の内外にいて、切符を買うにも列をなしていた。十人近く待ったが、それ程の混雑を感ぜずに中に入れた。中は大勢の人がいた。教会建築である。まだ工事中で工事の中を見物するという奇妙な観光である。工事は建築構造物の工事の他に、中にあるいは外にはめ込む像を石膏から作る作業もあり、その様子もガラス張りで見せてくれていた。若い芸術家が手作りの妙を出している様が見える。何百年をかけて作る、今なお寄付を募っているという具合で、大元の設計図はあるのだろうが考えながら作っているという感じがしている。そのせいか、ずいぶんとのんびりしているようにも見える。中国人の団体観光客が大勢で押し寄せてきて、館内が身動きが取れないくらいになったときもあった。外のバルコニーでも大勢の人がいて観光で大分稼いでいるという様子であった。

サグラダファミリアの次は、カサ・ミラの予定であった。地下鉄でサグラダファミリア駅からディアゴナルまで行く。5号線である。地下鉄の駅から上がってきた所で、通行人に尋ねた。カサ・ミラと聞いたつもりが、その人はどういうわけか、あとになって気づいたことだが、カサ・バトリヨを教えてくれた。途中妻があそこではないかとグラシア大通りを歩いて反対側の建物を指差したが、その通行人の言葉の方角と違うので、ガウディもどきではないかと無視して先に進んだ。後で見るとそれがカサ・ミラであった。予習不足である。この予習不足はその後もいたるところで露呈した。とにかく通行人のおじさんの言うとおりガウシア通りをどんどん歩いた。延々と歩いておかしいなあと思ったがとにかくガウディ建築があった。地下鉄の駅を一区間歩いたことになる。入場料が高く、そこまでして入るところでもなさそうであろうと決めてかかって、結局外側を拝見しただけで、終えた。煙突が特徴的な立派な7階建ての建物で、今は一部が高級マンションとして実際に人が住んでいるということである。見物人が大勢来て住人も迷惑だろうと思うのは下衆の勘繰りであろう。さらに下衆の勘繰りを入れると、見物料が入るから管理費が多く入り、管理が楽であろうと思われた。

カサ・ミラ、実はカサ・バトリヨの次は、カサ・バトリヨのすぐ近くの地下鉄3号線駅バセイジ・デ・グラシアから地下鉄に乗り、北に向かって、フォンタナで下車し、カサ・ビセンスに行った。ここも探すのが大変であった。散々迷った。交差点で信号待ちをしているお姉さんに聞いて方角を間違えたことに気づき、戻る方向で別の道を行き、そこであと少しというところでまた分からなくなり、おせっかいな親父がよく分からないがあっちだろうというのでまた戻り、途中のスナックの南米人らしき若い男に聞くと分からないと言われ、花屋に入って花屋の親父に聞いてやっと探し当てた。親父が幸い英語を解してくれたせいもあるし、地元の人であったところが大きい。おせっかいな親父と話したところからいくらも行かないところで多くの人が知らないところなのであった。ここも今、人が住んでいる様子で外側からの拝観である。観光客らしき人がほんの二、三組いただけであった。きれいな花模様の家で、確かに隣の家とは趣が大いに異なっていた。フォンタナまで戻る途中、昼飯にしようとレストランを探した。なにせ、英語が通じず、スペイン語は理解できずで、困った。メニューもわからず、まあ適当に入って、適当なものをオーダーした。とにかく食にありつけた。二人でそれぞれプレート盛り付けの鶏肉と魚、ワインと水、それでチップを入れて30ユーロは、ユーロが高い分高いと感じる。2500円のつもりが、ユーロの高さで5000円になってしまう。その後もそんな思いをずっとした。

カサ・ビセンスの次はグエル公園に行く。地下鉄3号線をフォンタナ駅からさらに北へバルカルカ駅まで。バルカルカ駅から歩くこと30分近く、途中登りの階段もあり結構な運動量であった。公園は高台にあり高所からのバルセロナの街の眺めが良かった。高いところからの帰り道、元来た道とはずれて、人が多い方角に行ってしまう。あれ、迷ったな、でも人が多いからいいや、と思ったのがかえってよかった。グエル公園のメインエントランスであった。行きに入った入り口は裏口だったことになる。案内書を十分読みこなしていなかったわけである。子供がグエル公園はぜひいくがよいと妻に言ったわけがそこでやっと分かった。トカゲの噴水やファンタスティックな建物があり、楽しませてくれる場である。暑い、水が欲しい。帰り道のスーパーのような店でジュースを買い、すぐ外にあったベンチにすわりで飲み干す。帰りはまた徒歩で地下鉄の駅まで向かう。それが来るときとは別の駅で、3号線の一つ手前の駅だから、地下鉄の駅をまたまた一区間歩くことになった。レセップスが駅の名である。駅までの道では工事中の箇所もあり、都会の大通りの横を歩くという破目になってしまった。バスに乗りたくとも言葉の壁で駄目だろうと思いあきらめ、ひたすらもう少しもう少しと歩け歩けを実行した。背中のリュックのため汗をたくさんかく。

レセップス駅からまた地下鉄3号線に乗り、間違って見忘れたカサ・ミラを見に行く。ディアゴナルで下車。今度は間違わず、もう日暮れがかったが、壮観なマンションを見ることが出来た。ここでは奮発して館内にも入った。屋上には奇妙な形の煙突が出ており、これがガウディの特長であるという。

夕方7時近く、本日の観光を終了にしてホテルへ向かった。地下鉄ディアゴナル駅から3号線に乗り、パセイン・デ・グラシアで乗換え、2号線でモニュメンタル下車する。一日地下鉄を駆使した。くたびれた。妻もくたびれたようで、夕食を食べに行く元気もなく、スーパーで食料を買い部屋で食べる。バナナ、生ハム、ビール、トマト、ぶどう、チーズ、パン、ヨーグルト、〆て約9ユーロ、二人で明日の朝飯も含めて、1500円である。バルセロナ2日目はガウディと歩き回りで暮れた。

10月3日(水)
朝6時起床。一見張り切っている。疲れは完全には回復していないが、観光コースをこなそうという気持ちでいる。朝食に昨夜買ったバナナとぶどうとヨーグルトをとる。天候は少し雨模様で、やや涼しげの日である。妻は栗をむいたまま冷蔵庫においてきていたといって、栗ご飯の炊き方を東京の家の子供宛メールをうつ。

バルセロナ市内観光(2)
朝ののんびりはあまり元気に動けない様相を物語る。9時はホテルを出る。涼しい。上着を着て出なかったのとシャツが薄かったので引き返そうかと思ったが、迷いながらも地下鉄の駅についてしまった。地下鉄の切符を買うとき一枚分は小銭があったが、もう一枚分は20ユーロ札しかなく、これが対応してくれなかった。駅員に聞きに行くとお釣りがないということで、銀行で両替してくれという。ええっ、どこに銀行があるのか。そんなことより、朝枕銭でチップを置いてきたのを取り返せばなんとかなると思い、一緒に温かい格好にしようとホテルに戻る。幸いまだメイドが入っていないでチップにおいた1ユーロを取り返すことが出来た。

今日の観光予定はバルセロナの観光メインストリートを歩くこと、ピカソ美術館を訪れることである。
地下鉄2号線モニュメンタル駅から乗り、パセイン・デ・グラシアで4号線に乗換え、ジャウメプリメール駅下車。カテドラルに向かう。あいにくと工事中であった。それでも中に入る。立派な教会である。教会の周りを巡って、王の広場に行く。広場にしては広くない。しかし、雰囲気が通常とは明らかに異なる。建物の色と歴史の趣なのか、中世の味が出ている、それが周りを中世にしている。そこから少し広い道を通ったり、狭い道に入ったり、方角だけはこちらだから大丈夫だと言い聞かせて、ランブラス通りに出て行った。ここは広い通りで、歩道がまた広い。リシウという駅がある。ランブラス通りを南に下ると海に出る。港まで行かないところにグエル邸というガウディの作品の一つがある。残念ながら工事中で、外側から工事中の養生を眺めただけであった。ランブラス通りは人通りが多く、大道芸人も何人かいた。じっと動かずしてあたかも銅像のようにしているものもいれば、人形よろしくのぎこちない動きをわざとして面白がらせているものもいた。一緒に写真を撮るとチップを要求するというサービスである。ランブラス通りの端はコロンブスの塔であり、そこを過ぎるともう港である。風が少し出て、雨模様で、傘を出しかけたくらいであった。少し寒さも出てきている中で、昼飯場所を探した。ブルーガイドのわがまま歩きの助けを借りて、レストランを探す。幸いランブラス通りの直ぐ近くに市場があり、そこの魚屋がレストランを開いているという情報があった。魚屋と八百屋の大きな市場である。インフォメーションが市場内にあってそこで聞いてやっとこさ見つけた。妻はパエリヤ、自分は鱈のステーキと白ワインを注文した。チップを奮発して〆て60ユーロ、1万円になんなんとする昼食であった。ほろ酔いで、見忘れたといってまたランブラス通りを南に少し下り、レーアール広場の街灯を見物に行く。ガウディの作品で、棕櫚や蘇鉄の木がある広い南国調の中庭に似つかわしいハイカラな街灯が目につく。

そこから今度はピカソ美術館を目指した。朝来た道を引き返す格好で東に向かう。ジャウメプリエール駅を越えてさらに東に少し行く。道に出ていた標識を頼りに、人が戻ってくるのを多分美術館帰りであろうと見て、そこを追いかけて歩いた。狭い通りに入る。いい加減くたびれたのとトイレタイムでちょうどよいというタイミングで美術館に入る。休息所にもなる。それにしてもよく歩いた。よれよれであった。ピカソの絵は面白い。青の時代の絵も展示されていた。具象画の時代の正確なスケッチ、印象派もどきの絵など、途中ベンチがある部屋では必ず座るというだらしなさはあったが、楽しめた。ショップで子供へのお土産のつもりで、マグカップを一つ買う。

帰りはジャウメプリメール駅から地下鉄でモニュメンタルまで行く。夕食はまた部屋で食べることにして、モニュメンタルの駅を降りてからスーパーに寄る。ワインは飲まず、スペインビールを味わう。あまりうまいと言うわけでもないが、日本のビールよりはビールくさい。バルセロナはガウディに暮れた思いである。ホテルの部屋は通りに面していて、朝夜の人の往来と服装を垣間見ることが出来た。人通りは多くない。
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米大統領トランプの常識がアメリカ社会の常識に勝つだろうか

2020-10-10 17:06:03 | 時事問題 政治
米大統領トランプはこの3年余アンチ・エスタブリシュメントとして、これまでのアメリカの多くの人の常識と外れたような言動を行ってきている。アメリカ・ファーストに基づく動きで、その中には既存の規制を破るような考えや実例があったが、アンチ・トランプにも納得のいくものもあったはずである。トランプのやることの先が読めない、という人が多いが、トランプは大統領選挙における公約を着々と実行しているという見方ができる。その公約が、選挙当時ではあまり顧みられなかったとみてもよいだろう。アメリカの常識がトランプの常識を受け入れた場合もあったとみてよい。

今回、トランプがコロナウイルスに罹患し、一度は入院したが、3日で退院し、退院後もコロナウイルス陰性の診断がないまま、ホワイトハウスで執務に入り、次いで選挙集会に出るとまで言い出している姿には、アメリカにおいても常識から外れているのではないかと訝しがられているであろう。トランプ陣営はトランプ信仰者であるから、勇気ある指導者とあがめているのであろうが、世界の見方は、他者に感染を移すリスクを考えれば、普通ではできない所業である。

大統領選挙戦は、トランプ優勢が伝えられていたが、いつのまにかバイデンのパーセントが上がって、トランプ劣勢になってしまっている。しかもトランプのわがままに起因するとみられる第2回の討論会が中止になった。それでもトランプは強気でいるようで、別な見方では、負けても裁判に持ち込むという噂まで流れている。しかし、である。トランプの失点が多いのに、バイデン圧勝と言われていないのは、日本にいる自分だけがよく知らないせいもあるのかもしれないが、バイデンの弱さが見える。

2016年のまさかトランプが、ということが、またあるかもしれない、ということが、アメリカ社会の常識がよく見えないところである。民族が多く、人口も多い。そして多種多様な人々がいるという社会が、日本人には解せないところが出てくる所以であろうか。
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池袋暴走犯人の嘘をどうやって突き破るか

2020-10-09 13:06:10 | 時事問題 社会
犯罪者は嘘をつく。自分を守るためである。誰も自分を守ってくれないことを知っているから、自分を自分が守ろうとするわけである。検察はその嘘をどのように見破るか、知能比べである。警察や検察が嘘をつく場合もある。検察は自分のストリーを作って、それに乗せるために自白させるという手段をとる。冤罪になる。

昨年4月に元工業技術院の院長であった87才が、池袋の通りを暴走して、母子2人を殺し、十数人にけがをさせる事故を起こした。凄惨な事故現場の映像が全国に映し出されて、都会のど真ん中で時速90㎞超の猛スピードで歩行者と自転車をはねたという事故の跡を見た人は皆驚きであった。犯人自身もけがをしたが意識ははっきりしていて、事故後すぐに被害者のところに駆け寄ることをせずに、息子に、やってしまった、と電話していたという。自分勝手さがここにも見える。老人が車の異常だと言い、警察は車の点検を行ったが車は何の異常がなかったという調査結果の発表があった。老人で逃亡の恐れがないということで逮捕されなかった。勲章をもらっていた上級国民ということで、逮捕を免れているという噂まで出た。あれから1年余、犯人は89才になっている。裁判がなぜ遅いのか。

昨日の初公判で、検察は、被告はブレーキを踏まず、アクセルを踏み続けたため、車が加速された、車の異常は見られなかった、と説明したという。被告の89才は、何らかの車の異常があって暴走したとして無罪を主張したという。日本国中また驚きであったろう。被告が嘘をついていると誰しもが思うが、そこを裁判が決めなければならない。被告の嘘を破るのは検察である。技術者のトップだった人の技術の裏付けのない主張にどう対処するかになる。

被告の思い込みによるのかという単純な論議になるとも考えられるが、科学的証明が求められる。ブレーキが働いた形跡はなく、アクセルがかかりっ放しといわれている。靴跡は見られるだろうか。アクセルの靴跡が事故直前まであったというのを証明するのは難しいだろう。逆に被告がアクセルを踏んでいないとしたら足はどこに置いていたか、その靴跡が見られるかという議論もされてもよいだろうが、証拠は難しい。

被告は、暴走を止められなかったことに申し訳ないと言っているが、危険でもハンドブレーキをかける手はあるだろう。それすらないから、被告がその直前の路肩への衝突で動転して記憶が明確でないことを検察は突くことができよう。検察がもっと具体的な証拠を持っていることを期待する。さらに有罪にさせても高齢であるから執行猶予にされることがあるといわれる。それではだめなのである。遺族の願い通り、被告には刑務所に入ってもらいたい。
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