ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

『二・二六事件 』 ( 行動派と統制派の軍人 )

2017-08-30 21:44:35 | 徒然の記

 高橋正衛氏著『二・二六事件』( 昭和40年刊 中公新書 )を、読み終えました。

 氏は大正12年に青森県に生まれ、出版当時は、みすず書房の編集部に勤務しています。ネットで探しても、これ以上の詳しい略歴は不明です。

 先日読んだ末松氏の『私の昭和史』も、みすず書房の出版でしたから、二人は親しい間柄なのかと確認しますと、『私の昭和史』の前書きの最後に、末松氏の下記説明がありました。

  ・なお本書の註は、読者の理解の一助として、みすず書房編集部の高橋正衛氏が付したものである。 「 昭和38年1月  末松太平」

 高橋氏が存命なら、現在94才です。明治38年生まれの末松氏より、18才年下ということになります。高橋氏の著作は、「2・26事件」勃発後の陸軍と政府の動き、騒乱の平定から関係者の裁判、判決後の軍と政府による処置が書かれています。

 陸軍内部の派閥の流れが、山県有朋や乃木希典にまで遡って語られており、事件には様々な要因が絡み合っていました。

 高橋氏と末松氏の著作を同時に読めば、事件の全容が掴めるということも分かりました。どちらを先に読むかでなく、両方を読んだ後に見えてくるものがあると、そんな発見でした。205ページの文庫本ですが、沢山の事実を教えてくれました。

 著者は断言していませんが、「2・26事件」の核心部分は、事件直後に出された『陸軍大臣告示』にあると思いました。

 事件発生後の午前9時30分に、川島陸相は天皇に拝謁し、「反乱軍を速やかに鎮圧するように」と言われ、恐懼退出しています。反乱軍が、陸軍省、参謀本部を中心に三宅坂一帯を占拠しているため、陸軍の首脳は宮中で、参事官会議を開きます、出席者名が明確でありませんが、本にもとづいて列挙します。

陸軍大臣 川島義之    陸軍参謀次長 杉山元  東京警備司令官 香椎浩

軍事調査部長 山下奉文   軍事課長   村上浩  

軍事参議官  荒木貞夫、 真崎甚三郎、 林銑十郎、 阿部信行、 西義一、 植田謙吉、 寺内寿一


 会議の結果、とにかく青年将校たちを懐柔するという方針が決まり、『陸軍大臣告示』と呼ばれる文書が配布されます。そのなかに、次のような一節がありました。

 「決起の趣旨については、天聴(てんちょう)に達せられあり、諸子(しょし)の行動は国体顕現(けんげん)の至情(しじょう)に基づくものと認む」

 つまり、青年将校たちの行動は日本の国の体制を、天皇を中心とした、より強固なものにしたい真心にもとづくものであると認める、という内容になります。 

 決起した将校に強い共感を示していたのは、荒木、真崎の両大将と山下少将で、反乱軍として鎮圧すべしというのが、杉山参謀次長と香椎司令官でした。川島陸相は、すでに判断力を失い、他の出席者に責められるままだったと言います。

 当日の午後3時30分に、実際に発せられた『陸軍大臣告知』は、次のようになっていました。分かりやすいように、少し現代風に直しています。

  一、決起の趣旨については、天聴に達せられあり

  二、諸子の行動は、国体顕現の至情にもとづくものと認む

  三、国体の真姿顕現の現状 ( 弊風をも含む ) については、恐懼に堪えず

  四、各軍事参事官も、一致して右の趣旨により、邁進することを申し合わせたり

  五、これ以外は、一つに大御心に俟つ

  ところが当日の夜、川島陸相が持っていた原案には、二項の「行動」が、実際には「真意」という言葉だったことが分かり、刷りなおした上で、これを正式文書としました。混乱した状況の中で、印刷され、憲兵司令部から、決起部隊に配布されたところで手違いが生じたのだと、著者は説明しています。

 このあたりが何度読んでも、ハッキリしませんが、一項の「天聴に達せられあり」という文言も、初めは「天聴に達せられたり」であったといいます。

 氏の解説によりますと、「天聴に達せられたり」は、陛下が完全に聞かれたとの意味になり、「天聴に達せられあり」となりますと、陛下にはとにかく申し上げているが、その後のことは分からないという意味になるそうです。

 二項の「行動」と「真意」は、これもまた大変な違いです。

 「行動」となりますと、反乱の事実を認めることとなりますが、「真意」ならば「ほんとうの気持ち、精神」を認めるという曖昧なものになり、後日に、どのようにも解釈される言葉になるのだそうです。

 私のような凡俗には、微妙な表現の違いなど言葉の遊びに見えますが、法に基づく仕事をする者にとっては大事なことなのでしょう。

 修正される前の『陸軍大臣告知』は、反乱軍将校に好意的な山下少将が、即座に彼らを訪ね、口頭で伝えました。従って、2月27日の午前中までは、将校たちの間に決起成功の気分が漲り、彼らは更に維新の遂行を進めようとしました。

 君側の奸を全て排除し天皇親政のもとで、真崎大将を中心とした内閣を作るという計画です。

  しかし、「朕自ら近衛師団を率い、これが鎮定にあたらん。」という、陛下の強いご意思が伝わると、27日の午後以降、全てが一変します。

 将校鎮圧派だった杉山次長と香椎司令官の意見が陛下のご意思となり、真崎、荒木大将の意見が通らなくなります。決起した将校たちは、「天皇の意を体した官軍」から、「勅意に背く逆賊」へと急変してしまいました。

 陸軍首脳と決起将校との、最後の正式対談が陸軍大臣官邸で行われました。出席者は、真崎、荒木両大将、参謀次長、軍司令官を含む全参議官、そして反乱将校側は、香田大尉、村中、磯部、対馬、栗原各中尉でした。

 しかしこの対談は、荒木大将の不用意な発言によって紛糾しました。将校たちは、荒木大将の説明と、『陸軍大臣告知』の矛盾を糾し、「われわれを義軍と思うのか、賊軍と思うのか。」と詰問しました。

 軍首脳は誰も答えず硬い空気が張り詰めたまま、何ももたらさないウヤムヤな対談となって終わりました。

 著者はここに、磯部中尉の遺した文書 ( 行動記 ) の一部を紹介しています。重要な部分なので、そのまま紹介します。

 「歩哨の停止命令を聞かず、自動車が官邸に入ってきた。」

 「近づいてみると、真崎将軍だ。閣下、統帥権干犯の賊類を討つため、決起いたしました、と言う。」

 「とうとうやったか。お前たちの心は、ヨオックわかっとる。ヨオック分かっとると、答える。」

 「どうか、善処していただきたい、と告げる。大将は、うなづきながら邸内に消える。」

 これが事件発生当日の朝、磯部中尉と真崎大将の交わした会話です。

 死を覚悟で決起したとはいえ、彼らの誰もが、内心に不安を抱いていましたから、真崎大将の言葉は大きな励ましと勇気を与えました。それなのに、何もかも分かっているはずの荒木大将が、「大権を私議」したと対談の冒頭で批判したのです。

 彼らは陸軍上層部の卑怯な裏切りと、恃むべからざるものに恃んだ誤りを察知しました。

 特攻隊を創設した大西中将は若い兵士を死なせた責任を取り、敗戦後自決しましたが、真崎大将も、荒木大将も、反乱軍将校の扇動者でありながら、武人らしい責任を取りませんでした。

 情けない軍人がいたものと、私は二人を軽蔑いたしました。

 最後に述べておきたいことは、これが軍部内の派閥抗争の一つだったという事実です。世にいう「皇道派」と「統制派」の、命がけの闘いだったという側面です。

 皇道派の軍人は、真崎、荒木両大将と山下少将、そして反乱軍将校たち。統制派の軍人は、杉山参謀次長、軍事課長、参謀本部の幕僚たちです。野望を持った二人の将軍に青年将校が利用されたのか、利用して失敗したのか、いずれにしましても悲惨な事件です。

 語り尽くせないことがたくさん残りましたので、続きは明日といたします。これらは現在の日本にとって、無縁な昔の事件でなく、重要な教訓として私たち国民が引き継ぐべき課題です。

 今日は一日、ねこ庭の木の剪定と草取りに汗を流しました。バードバスも、毎日タワシで洗い、水を取り替えています。ヒヨ、シジュウカラ、メジロ、スズメが、水浴びしたり 、水を飲みに来たりしています。

 最近の珍客は親指ほどもある大きな蜂で、バードバスの縁に止まり、静かに水を飲んでいます。

 ヤリきれない事件の本ばかり読んでいるのでなく、ねこ庭の小さな自然で気分転換をしています。年寄り夫婦の暮らしですが、庭の花木の手入れをしていますと、日本に住む有り難さが自然と湧いて参ります。今回も長いブログとなりましたが、これから風呂に入り、ベッドで少しばかり本を読んで眠ります。

 これが私の、毎日です。

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