ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

三屋清左衛門残日録

2017-01-31 22:09:45 | 徒然の記

 藤沢周平氏著「三屋清左衛門残日録」(平成27年刊 文芸春秋社)を、読み終えました。退屈な本を沢山手にしていましたから、このような作品に出会うと、気持ちがほっとします。

 氏は昭和2年に山形県に生まれ、平成9年に63才で亡くなっていますが、作品が世に多く出回り、テレビでも放映されていたため、私は氏が存命だとばかり思っていました。味のある小説を書く人なので、どのような経歴の人物なのか知りたくなり、いつものようにネットの情報を探してみました。

 農家に生まれた氏は、農作業を手伝いながら少年時代を過ごし、敗戦の時は18才でした。私より17才の年長です。山形師範学校を卒業した後中学校の教師となりますが、25才の時結核のためやむなく休職します。退院後は一念発起して東京へ出て、業界新聞の記者となり、32才で結婚し、その2年後に急性の癌のため愛する妻を亡くしています。

 直木賞を受賞したのは46才の時ですから、作家としての自立は遅い方だったと言えます。彼がいかに妻を愛していたかというのは、ペンネームが語っています。藤沢とは妻の実家のある地名ですし、周平の周は、妻の親族の名前から持ってきているという話です。少年時代から作家を志していた氏は、仕事の傍らずっと習作に励み、苦労を重ねた経歴を持っていました。

 山本周五郎氏もそうでしたが、「三屋清左衛門残日録」も、市井に生きる人々を見つめる暖かい目があり、人間の情がいつも底に流れていました。NHKの朝ドラのような、わざとらしい会話や筋の展開がなく、江戸時代の武家の話なのに、自分のことが語られているような錯覚と親しみを覚えました。

 家督を惣領の又四郎へ譲り、隠居した清左衛門の立場は、定年退職した私のかっての姿でもありました。会社の仕事を第一とし、時間に縛られ、人間関係に心を砕き、ひたすら頑張った日々が、突然目の前からなくなった時の、あの開放感と嬉しさと、ついで襲ってきた不思議な寂しさなど、そっくり清左衛門の思いと重なるものがありました。

 朝田派と遠藤派の二つの勢力に別れた藩内で、繰り広げられる武家の暗闘が全編のテーマとして流れ、この中で、清左衛門と接する武士たちが人間模様として語られる。簡単に言えばそんな内容ですが、どの人物との関わり合いも、味わいのある一編として書かれております。ハッピーエンドで終わるとか、読者を笑わせるとか、そんな明るさはありませんが、節度のある、渋い叙述が、苦労人としての氏を彷彿とさせました。

 平易な言葉を使いながら、冗長にもならず、退屈もさせず、人物でも自然の描写でも、巧みに読者を引き込むというのは、凡庸の作家の技ではありません。「本当の芸術は、積み重ねられた職人技の上に開花するのです。」大学生の時、親しかったドイツ語の教授がそう言われました。あまり意味を理解せず今日まで来ましたが、氏の作品を読んでおりますと、何となく理解できる気がいたしました。単なる才能だけで世に出た作家が、短命に終わるというのも、職人としての基礎的な積み重ねがないためだと、こういうことだったのでしょう。

 「日差しはまだ十分に暑いのだが、川には裸で水にたわむれる子供の姿は見えなかった。」「真夏に比べて、水はずっと冷たくなっており、水かさもいくらか増えていた。」「その水かさの変化は、数日前から小樽川の上流の山地一帯を襲っている、雷雨のせいだろうと思われたが、同時に季節の変化を現してもいた。」

 清左衛門が釣りから帰る道の描写ですが、使われている言葉の一つひとつはありふれた日常語です。それなのに情景が、鮮明な映像となって読者の前に広がります。たくさんの修飾語や凝った文章を書かなくても、的確な表現ができるというところが、先生の言われた職人技だと思いました。対象を見つめる訓練をした目だけができる描写は、作家の技量と言っても同じなのかもしれません。

 こうした目を持つには才能だけでは叶わず、絶え間ない研鑽がなくてはなりません。小説家だけでなく、画家も彫刻家も、あるいは思想家でも政治家でも、一流と称される人物に共通する目なのだと言って良い気がいたします。一つに秀でた者は、万物に秀でると言われるのはこういう理屈なのでしょう。

 本題と離れてしまいますが、氏の作品を読んでおりますと、そのようなことが思い浮かんで参りました。「大衆小説作家」などと、世間では今もそんな呼び方が生きておりますが、そして自分も、昔はそのような目で直木賞作家を捉えておりましたが、ほんとうに愚かな思考でありました。

 逆境にあっても卑屈にならず、他に責任を転嫁せず、自分をまっすぐに見つめられる作家こそが一流なのだと、私は思っています。最終章である「早春の光」の中で、氏は、清左衛門の若き日の友であった老武士の姿を描きます。

 中風で倒れた大塚平八は、無気力な老人と成り果て、家人の心配を他所に床に伏せたままとなっています。それではなるまいと見舞いに尋ねた清左衛門は、通りの向こうに人影を見つけます。

「こちらに背を向けて、杖をつきながらゆっくりゆっくり動いているのは平八だった。「ひと足ごとに、平八の体はいまにもころびそうに傾く。」「身体が傾くと、平八は全身の力を太い杖に込める。」清左衛門は路地を引き返し、後ろを振り向かずにその場を離れます。

「そうか、平八。

 いよいよ歩く練習を始めたか、と清左衛門は思った。」

「人間はそうあるべきなのだろう。」「衰えて死が訪れるその時は、おのれをそれまで生かしめた、すべてのものに感謝を捧げて生を終われば良い。」「しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間は与えられた命を惜しみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ。」「そのことを平八に教えてもらったと、清左衛門は思っていた。」

 私はこれを、氏から与えられた珠玉の言葉として受け止め、座右の銘のひとつに加え、大切にしていくつもりです。本を送ってくれた友にも、感謝いたします。

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1月30日の参議院予算委員会

2017-01-30 15:54:09 | 徒然の記

 国会中継を久しぶりに見ました。民主党の福山氏と大塚氏の質問でしたが、閣僚の答弁姿勢とその内容に失望いたしました。

 民主党政権時代、官僚のメモなしで答弁できない大臣を沢山目にし、私は遠慮なく、厳しい批判を致しました。民主党の政治スローガンは、官僚の支配を許さず、政治家が主導するという勇ましいものでした。金権腐敗の自民党に怒りを燃やし、私が民主党へ一票を入れたのは、このスローガンに引かされたからでもありました。

 しかし、実際はどうだったか。民主党の大臣は国会において、野党になった自民党議員の質問に追い詰められ、事務方の官僚の助けなしでは何も答えられない大臣ばかりでした。政治主導どころか、官僚の助けなしでは何もできない政治家の無能さを、国民の前に晒してしまいました。

ところが今日の国会中継では、自民党の大臣諸氏が、惨めな姿を見せてくれました。具体的な名前を挙げますと、福山氏の質問に答えられず、何度も官僚に耳打ちされたりメモを渡されたりし、それでもまともな答弁ができなかった金田勝年法務大臣。つぎは、大塚氏の質問に同じ醜態を晒した、防災担当大臣松本純氏。それから稲田朋美防衛大臣でした。

 委員会の質疑ではあらかじめ質問通告がなされ、それに基づいて大臣が答弁するようになっております。大塚氏の質問は事前通告なしにされたものですから、ルール違反ではありましたが、問われている内容は予算案の数字についであり、それが一切答えられないというのでは、大臣の資格があるのかという不安が出てまいります。民主党の大塚氏はそれを狙っていたのでしょうが、質問そのものは、所管大臣が把握しておくべき数字ですから、言い訳にはなりません。

 さすがに総理と麻生財務大臣は難なく答弁し、危なっかしいけれど岸田外務大臣もなんとか誤魔化しておりました。総理の任命責任も問いたくなりますが、順番待ちの大臣指名という政界のルールも、破綻していると見て良いのではないでしょうか。議員たちは、このような醜態を国民に見せても、それでも大臣になりたいのでしょうか。自分は適任でないと、辞退する良識は身につけていないのでしょうか。これはもう、与野党を超え、大臣指名方法の見直しが必要な時期なのかもしれません。

「共謀罪の構成要件の中に、過去に犯罪事実があることも含まれますか。」福山氏の質問に対し、「これから、検討いたします。」の一点張りでした。何度も官僚の説明を受けながら、こんな答弁しかできないのでは、法務大臣の資格があるのでしょうか。こんな質問には、常識で答えれば良いのです。「当然含まれます。」、私なら即答するでしょう。自分の言葉で答え、国民に納得させるのが大臣というものでないかと、見ている方が恥ずかしくなりました。

 稲田氏につきましては、過去に苦情を述べましたので繰り返したくありませんが、相変わらず防衛大臣らしくない、赤い線の入ったスカートを身につけ、束ねた長い髪でした。緊迫した隣国との状況下で、自衛隊が危機意識を高めているおり、防衛のトップに立つ大臣として、それなりの身なりがあるのではないのでしょうか。

 加えて、自衛隊予算が減額修正されているのはなぜかという、大塚氏の質問に窮するお粗末さに、眉をひそめてしまいました。一千万円単位の修正でなく、確か100億単位の減額修正だったと思いますが、なぜ答えられないのでしょう。国の防衛について、本気で取り組んでいるのか、疑わしくなるではありませんか。

 「国会中継を見ていますと、そのレベルの低さは、与党も野党もひどいものです。」「こんなことでは、日本の未来はありません。」

 ブログの知人が私にコメントを入れてくれましたが、実際そのとおりでした。失言狙いと揚げ足取りの応酬では、いくら議場が沸きましても、そのようなものは政治ではありません。こんな議員たちによって陛下の退位問題が討議され、これが国権の最高機関である国会だというのでは、そら恐ろしいものがあります。所管する省庁の数字すらおぼつかない議員たちが、長い日本の歴史や文化を討議し、皇室のあり方を審議するというのですから、冷や汗が流れてまいります。

「でもその責任は、こんな議員を選んだ国民にあるのです。」知人のコメントはそう結んでおりました。まったくその通りなので、私は自らを恥じつつ、本日のブログを閉じます。

 

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NHKテレビ 大船渡の話

2017-01-29 13:06:58 | 徒然の記

 1月29日日曜日、午前11時です。たった今、NHKの番組を見終えました。「明日へ 町よよみがえれ、大船渡&大阪の魂 がれきとの総力戦 !  世界初の挑戦」と、とてつもなく長いタイトルでした。

 東日本大震災の直後から、無残な廃墟となった町を目前にしつつ、多くの関係者の方たちが、こんなにも素早く対応を始めていたのだと、初めて知りました。大船渡市役所の職員、大阪市の廃棄物処理会社、大船渡市の建設業者、セメント会社、電力会社と、地元の住民たちによる、復興に向けた活動の記録でした。

 一面の瓦礫と化した町を眺め、すべての住民が、呆然とし、気力を失っていたとばかり思っていましたのに、実際には一方で、町を復興させるため、行政と企業と住民が一体となり、復興の計画に挑戦していたのです。膨大な瓦礫を第一次選別場に集め、これを第二次選別場で「木材、鉄、石材」へと細分し、セメント工場へ送るというものです。

 木材は細かく砕いてチップにし、セメント工場で燃料として活用します。石材はもちろん、セメントの材料です。設備の七割が、津波で破壊されたセメント会社は、1日も早い工場の再稼動を目指します。工場へ送る専用線の鉄塔を、三本も引き倒された電力会社は、再稼動に不可欠な電力を復旧するため、突貫工事の技術を工夫いたします。市長は、電力会社とセメント工場のトップに対し、「復旧への協力依頼」で奔走します。

 大阪の会社の役割は、阪神淡路大震災での瓦礫処理のノウハウを生かし、町の復興に貢献することでした。廃材に含まれる有害な塩分を、短時間で除去する研究を重ね、工夫を凝らした設備を完成させます。関係した人々の思いが、過去と現在の形で報道され、何気なく見ていたのに、いつしか私は画面に釘付けにされておりました。

「あの時、私たちは瓦礫という言葉を使いませんでした。」「木材、鉄、石材という具合に分別されていますが、津波さえなければ、これらはどなたかの家であり、家具であり、大切な財産だったのです。」「最終工程の分別作業をしましたが、私たちは、瓦礫とは言わないで、セメントを作るための " 製品 " と呼んでいました。」「とくに女の人たちはそうでしたから、心を込めて選別作業をしておられましたね。」

 作業に参加した住民の一人の話を聞きながら、私は知らぬうちに涙を流しておりました。私の中によみがえりましたのは、父や母、あるいはもう亡くなってしまった親類縁者、あるいは隣近所の人々の顔や、姿でした。

「敗戦後の、廃墟となった国を、当時の人たちも、大船渡や大阪の人々と同じように、懸命に復興したのだ。」と、そんな思いに駆られたからです。日本人は昔の心を忘れ、身勝手な人間が多くなったと世間で言われ、私もそんな気でいましたが、大船渡の人々や、協力した大阪の人たちを見、話を聞いておりますと、今も昔も日本人は変わらない心を持ち続けていると分かりました。

 どこかの国の人々なら、「金をもらった分だけ働く」と考え、瓦礫は瓦礫と割り切り、かっての持ち主について思いをいたすことなどないはずです。それはそれで合理的な思考ですから、責めるつもりはありませんが、瓦礫を製品と呼び変える心根の優しさは、日本人ならのものではないでしょうか。

 自分を大切にするだけでなく、自分と同じように他人のことも大切にする。自分の町も、そんな気持ちで大切にする。自分の住む町だけでなく、自分の住む福島という県も、自分の住む国も大切にする。知ってか知らずか、NHKが全国に伝えたのは、そういう人々の姿でなかったのかと考えます。

 そうなりますと、自ずと反省せずにおれなくなります。「反日と売国のNHKは、解体すべし。」という、日頃の自分の性急な主張です。このような番組を作り、全国に報道できるNHKを、どうして解体させることなどできましょう。このような素晴らしい組織は、大切にしなければなりません。ですから天皇様のような、短慮はいけません。短慮は、社会を混乱させ、国内に騒擾をもたらし、大切な国さえ崩壊させてしまいます。

 以前から考えていたことではありますが、「NHKには、二種類の社員が存在している。」ということです。簡単に言いますと、「日本を憎むしかできない、反日の社員」と、「日本を大切にする社員」です。憲法違反と知りながら、陛下のお言葉を報道したのは、「日本を憎むしかできない、反日の社員」であり、今回のドキュメントを作ったのは、「日本を大切にする社員」なのです。社員の比率がどうなっているのか、NHKが公開を拒否しておりますから分かりませんが、少なくとも「在日の社員」「中国・韓国・北朝鮮からの帰化人である社員」は、反日の色彩があります。

 国民から受信料を徴収する強制力を持つNHKなら、出身別の社員数など、やましいことがないのなら、公開すべきではないのでしょうか。ことに敵対心を鮮明にし、我が国を挑発し続ける国の出身者については、公開の責任があるのではないでしょうか。個人名を要求しているのでなく、人数だけなのです。しかしまあ、私の意見は、左傾のお花畑の人間が多いマスコミ社会では無視されるでありましょう。

 無視されましても、日本を大切にする私は、めげずに言いましょう。今朝の報道を見まして、私は意見を変更いたしました。

 「反日と売国のNHKは、解体すべし。」ではなく、「NHKの中に生息する反日と売国の社員は、追放すべし。」です。ついでに言いますと、同じことが自民党についても語れます。「自民党の中に生息する反日と売国の議員は、追放すべし。」です。安倍総理への批判も重要ですが、こっちの方が優先するのではないのでしょうか。

 

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合本 三太郎の日記

2017-01-26 19:47:29 | 徒然の記

  阿部次郎氏著「合本 三太郎の日記」(昭和24年刊 岩波書店)を、再読しました。学生時代に、古本屋で買った本です。老眼鏡無しでは読めない、小さな活字で印刷された、まさに古本です。表紙はもちろん、中のページも黄色く変色しています。642ページあり、読み終えるのに、ほとんど三週間かかりました。

 氏は明治16年山形県に生まれ、東京大学哲学科を卒業し、昭和34年に76才で没しています。氏についてはこの著作以外には何も知りませんでしたが、ネットの情報によると哲学者、美学者、作家ということになっています。この書は、大正から昭和の初期にかけ、青春のバイブルとして有名になり、学生たちの必読書だったと言われています。

 ですから、探究心に燃えた大学一年生だった私は、疑うこともなく購入いたしました。今では忘れられた古典となっていますが、私が学生の頃はまだ権威があり、俺はこんな本を読んでいるぞという、本棚の飾りにもなりました。大正7年に初版が出て以来、昭和18年までに30版が出され、昭和23年24年と改訂版が出版されていますから、確かに多くの青年たちに読まれていたのだと分かります。

 内容そのものは面白くも何ともなく、よくこんな本を読み通したものと、若かった日の自分を懐かしみました。大学生一年生なので、私は18才でした。実生活は貧しくとも、精神の貴族でありたいとか、自主独立の人格を確立したいとか、今にして思えば、私の青春時代を形成した思考は、ほとんどが「三太郎の日記」によってもたらされていたのだと再発見しました。

 氏が30代の時の著作だと聞きますので、18才の私にすれば、人生の大先輩の言葉になりますから、一つ一つの意見を、大事な教えとして受け止めていったのでしょう。自分が73才となり、76才で没した氏に近い年令になってみますと、違う感慨がありました。中身は、氏の思索と精神的苦悩を基調とした自己省察の記録ですから、今の私には別の捉え方がありますし、自我についても国家についても、違った見方をしております。

 現在では世間から忘れられているとしても、氏はひとかどの学者であり、東北大学、慶応大学、日本女子大学の教授でもあったわけですから、対抗心などありませんが、同じ人間として、日本人として、自分が意見を述べても良いのではないかと、そんな気になっているのは事実です。率直な感想を、飾らずに言わせて貰えば、氏もまた、日本の文化や文明を低く見ている西洋崇拝者の一人だったということです。

 学生時代の自分がそうでしたし、昔の日本人は漱石であれ、鴎外であれ、あるいは西周であれ内村鑑三であれ、日本国中、心のどこかで、西洋崇拝者でなかった者はいませんでしたから、これは決して阿部氏を軽蔑する物言いではありません。現在の私がした、再発見の一つとでもいうのでしょうか。

 書き出しの50ページくらいのところで、氏が日本の住宅について不満を述べています。

「驟雨や強雨は障子を開けて眺めている間こそ豪爽であるが、読書思索労作のいずれに対しても、随分落ち着かぬ気分を誘いがちである。」「ことに灰色の雪の押しかぶさる日と、風のざわざわ騒ぐ日はたまらない。」「雨の強い日、風の激しい日は、雨戸を締めなければじっとしておれないのは、吾人の住む明治の住宅である。」

 自分たちはまるで野に佇む乞食のように、自然の支配に身を任せなくてはならないと、氏は日本建築を酷評します。「外界の侵入、特に音響の侵入を防ぐために、理想の家は石造りでなければならぬ。」と断定し、さらに注文が並びます。「日本建築にあっては、外界からの独立が曖昧であったと同時に、各室の独立も甚だ不安であった。」「襖と障子とは、極めて信頼すべからざる障壁である。」

 互いの部屋の音や話し声が遠慮なく行き交い、読書も思索も安眠も恋愛も、専念と集注と沈潜を奪われてしまう。だから思索者としての自分が理想とするのは、部屋には必ず次ぎの間があり、次ぎの間と廊下の間には重い扉があり、鍵がかかるようになっている建築である等々。室内の調度品から壁の色からカーテンの模様まで、うんざりするほどの叙述が続きます。要するに、氏が理想としているのは、西欧諸国の建築であり、室内装飾であるに他なりません。

 こうした環境を得て、初めて魂の孤独と独立が保たれ、真の思索が可能になる。プラトン、ポーロ、オーガスチン、聖フランシス、スピノザ、カント、ゲーテ、ショーペンハワー、ニイチェ、ロダンたちとの真摯な対話も可能になると、氏の話が続きます。

「朝に行く雁の鳴く音は吾がごとく 物思へかも声の悲しき」。同じページで、氏は万葉集の歌を引用し、あっさりと切り捨てます。「この歌の思いは、明治の今日において、さらに歌い返すべき社会的必要のない歌であろう。」「万葉歌人の歌の内容をそのままに歌い返すことは、明治の歌人の恥辱であろう。」とまで言ってのけるのです。

 氏の言に従えば、日本建築のみならず万葉の歌も、取るに足らない時代遅れの産物でしかありません。氏はこんな馬鹿な意見を述べていたのかと、今なら苦笑してしまいますが、当時の私はそのまま意見を受け止めるしかなかったようです。その証拠に、これ以後随分長く、氏に負けない西洋崇拝者の一人となっておりました。

 プラトン、ポーロ、オーガスチン、聖フランシス、スピノザ、カント、ゲーテ、ショーペンハワー、ニイチェ、ロダンたちの著作が本棚に並び、どうしてこんな本を読んだのだろうと、昨年来の「断捨離」作業中に首を傾げましたが、氏に影響された結果だったのかと、これもまた50年ぶりの大発見でした。

 ネットの情報ですが、氏は大正11年に、文部省の在外研究員としてヨーロッパへ留学し、同年に『人格主義』を発表しています。真・善・美を豊かに自由に追究する人、自己の尊厳を自覚する自由の人、そうした人格の結合による社会こそ真の理想的社会であると説く、いわゆる人格主義の主張です。 

 本を再読し、私が得た結論を、息子と孫たちには伝えたいと思います。

「この本は、642ページあるけれど、今日の日本人として読むべき意義のある部分は、480ページから526ページまでの、46ベージしかありません。」「 "思想上の民族主義" と "奉仕と服従" の二章だけです。」「達見としてでなく、こんな意見もあるのかと、その程度の内容です。」

 青年時代の自分に、強い影響を与えてくれた本に、これほど冷厳な評をするにつきましては、心の痛みがあります。若き日の自分を否定することなのですから、平気であるわけではありません。

 国際社会での力の支配、国益を振りかざす大国のエゴイズム等々、歴史のある限り民族のの争いは続きます。それなのに氏の認識は、人格の結合により理想社会が生まれるというものです。いつになれば、世界の民族が、氏の言うような、対等な人格を持つ世界が到来するのでしょうか。日本人が真善美を追求する高潔さを有したからといって、中国の尖閣侵入や南京問題の捏造が改まるのでしょうか。虚偽報道の上に憎悪と敵対心を重ねた、韓国による慰安婦攻撃が鉾を収めるとでも言うのでしょうか。

 熾烈な国際情勢を度外視した「人格主義」について、私は軽蔑すら覚えます。真善美を追求していけば、人は民族や国家には捉われなくなる。自分は「日本人」である以上に「世界人」であると、氏は述べております。真面目な思考が重ねられていますが、「日本人」や「国」についての主張が、このように軽薄なものだったと知った現在、私は阿部氏との決別を決めずにおれなくなりました。当時の学生にどれほど読まれ、人口に膾炙したとしましても、やはりたかだか三十代の青年の主張でしかありませんでした。

 無分別にも、短慮にも、冷淡にも、万葉の歌を氏が切り捨てました。だから私も、同じ気持ちで氏の著作を切り捨てようと思います。

「この作者の思いは、平成の今日において、さらに読み返すべき社会的必要のないものであろう。」「大正時代の著作の内容を、そのままに思い返すことは、平成の若者の恥辱であろう。」

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心機一転

2017-01-23 19:02:44 | 徒然の記

 七十の声を聞いてからというもの、どこといって不調はないのに、老人意識が幅を利かせ始めました。われ知らず「疲れた」とつぶやいたり、倦怠感におそわれると「年だから仕方がないか」などと、自分を慰めたりしていました。

 しかし、一月六日の新聞記事を目にして以来、自分の思い違いを発見いたしました。なんとその記事の見出しは、「高齢者は75才以上」「身体、知的能力若返り」「日本老年学会提言」とありました。現在は65才以上が「高齢者」と定義されていますが、今後は75才以上を「高齢者」としていくという内容です。

 医療の進歩や社会環境の改善により、人々の身体の働きや知的能力が、5から10才以上若返っているというものでした。更に大きな見出しで、「 "生涯現役" の時代」とあり、その文字さえ力強いものでした。今年の元旦で満73才になった私は、まだまだ「高齢者」ではないという楽しい話になります。日本老年学会というのは、聞いたこともない組織ですが、新聞が一面を割いて掲載するのですから、いかがわしい団体ではないのでしょう。

 「それなら老け込むのはまだ早い」と、生まれつき単純な私は、早速その気になりました。「一年の計は元旦にあり」、小学生の時から教わってきましたので、すぐさま一年の計を立てました。

「心機一転し、新しい一歩を今年からはじめる。」これが私の一年の計です。天のどこかにおられる神様の采配なのでしょうか。昨年の暮れ以来、偶然私は「断捨離」にかかっておりました。欲張りなので色々な物が捨てられず、部屋の中はもちろんのこと、押入れにも、庭の物置にも、使いもしないガラクタが押し込まれております。取り出して見ることもない古い日記や、メモや、落書き、あるいは頂いた手紙やはがきや寄せ書きなど、いくつもダンボール詰めにして積んであります。

 ベストセラーだった本や、全集、雑誌、スクラップ帳、旅行先で集めた焼き物や飾り物などが、本棚一杯になっております。子供たちが使い古した机や椅子や、オモチャもあります。もっといいますと、客用の布団や毛布やシーツなど、夫婦二人となった今では、不用品の仲間に入ります。会社勤めをしていた頃の背広やワイシャツ、ネクタイなどは、もちろん不用品の筆頭です。

 「年末の大掃除」というのは、昔から受け継がれている日本の麗しい伝統ですが、今年はさらに「断捨離」という作業が加わりました。例年になく、忙しく、楽しく、切なくもある「年末の大掃除でした。」失恋した男女は、涙にくれながら過去の手紙を破り捨てます。この世に絶望した人間は、自暴自棄となって身の回りの物を壊したり、投げ捨てたりします。これらの人がやっているのは、「つらい過去との決別」です。

  だが、私の「断捨離」は違います。自分には、捨ててしまいたい過去がありません。恨みつらみの過去もありません。悲しいことやつらいこともありましたが、それは楽しかったり嬉しかったりした追憶の間に織り込まれた、大切な模様です。全てが大切な過去ですから、私の「断捨離」は過去との決別でなく、「過去との再会」でありました。

 不用品を処分するといいましても、いい加減なことはできません。市役所の「ゴミ処理手順」を守るのも、市民としての責務です。「燃えるゴミ」「不燃ゴミ」「紙」「プラスチック」「小型電化製品」「大型ゴミ」と分類しなくては、回収作業をする人に迷惑がかかります。毎日のことでしたが、捨てる物を目にすると思い出がよみがえり、切なく胸が痛み、作業の手が何度も止まりました。心の中で感謝したり詫びを言ったりしつつ、ものに刻まれている思い出を、今度は自分の心に刻んでいきました。

 こうして断捨離と心機一転の作業が、昨年末から、つい昨日までかかりました。その間ブログを中断し、長い休みを頂きました。心配してくださる方もあったのですが、私のブログを快く思われていない左翼系の方には、喜びを与えたのかもしれません。「あれこれうるさいことを言っていたが、アイツもついにクタバッタか。」・・・・・。

 25日の水曜日に、椅子2脚を大型ゴミの回収業者が引き取りに来ます。そこでひとまず、「断捨離」作業が一段落いたします。本当に有意義な日々でした。

 

   村の渡しの船頭さんは

   今年六十のお爺さん

   年を取つてもお船を漕ぐときは

   元気いつぱい艪(ろ)がしなる

   それ ぎつちら ぎつちら ぎつちらこ

 

 突然話が飛びますが、これは昭和16年に発表された童謡で、武内俊子氏が作詞し、作曲は河村光陽氏によるものです。占領軍によって戦時歌謡曲に指定され、世間から消えてしまい、今の子供たちは誰も知らないと思います。この曲も、私の「断捨離」の一つに加えるべき、敗戦の歴史を刻む大切な童謡です。移り変わる世相を映す童謡でもあります。つまり昭和16年当時、人は六十才になると老人と言われていたのです。

 会社の定年は長い間、50才でしたが、やがて55才に延ばされ、更に60才へと延長されました。私が入社した昭和24年代は、会社の定年が50才でしたが、二、三年後に55才になったと記憶しています。そして自分が定年になった時は、60才に再延長されていました。本来年金は、無給となる退職後の人間に合わせて支給されるものでしたから、50才とか55才で年金生活者となり、それが普通だった時代があったのです。とても信じられない気がしますが、こうして振り返りますと、面白い発見があるものです。

 厚生省の役人たちは、私が退職する頃から、年金支給開始年令をとんでもなく、延長してしまいました。退職時と合わせていた支給開始年令を、3年も遅らせてしまい、60才で退職しても、年金は63才からしか貰えなくしました。3年間はアルバイトでも何でもして、自分で金を稼げと、ずいぶん冷たいあしらいとなりました。

 私を元気にしてくれた日本老年学会には、感謝しても足りないものがありますが、不満もあるのです。情け容赦なく支給開始年令を改定した厚生省の役人に対し、学会より一言でもいいから、苦言を呈してもらいたかった。ついこの間まで「村の船頭さん」という歌があって、60才は老人と言われていたのですよ、急に邪険にしてはなりませんと、新聞発表をして欲しかったのです。それができないのなら、「老人というのは63才以上です。」と、せめて変更の事実をキチンと周知してもらいたかった。当時、日本老年学会があったのか、無かったのか、知りませんが、私は今でも厚生省の役人に何となくしてやられたという悔しさが消せません。

 支給開始年令を突然延長する二年前だったと思いますが、厚生省は年金保険料の引き上げを行い、国民への説明には、大見得を切っていました。「今回の保険料引き上げで、年金制度は磐石となります。これから100年間は、心配しなくて済みます。」

 よくもまあこんな大ウソを、ぬけぬけと・・と、あれ以来厚生省の役人を信頼しないこととしています。その証拠に評論家の田原総一朗氏が、「年金支給の開始年令がさらに伸びるのではないか。」 と、呟いています。今は厚生労働省となっていますが、どこまでも、油断のならない役人たちです。

  村の船頭さんの歌が、GHQに睨まれるようになった理由は何なのか。今回のブログのおかげで私も偶然知りました。二番の歌詞は、次のようになっています。


  雨の降る日も岸から岸へ

  ぬれて船漕ぐお爺さん

  今日も渡しでお馬が通る

  あれは戰地へ行くお馬

  それ ぎつちら ぎつちら ぎつちらこ

 

 さて私は最後に、もう一つだけ敗戦後の、悲しい思い出を付録として加えたいと思います。「村の船頭さん」だけでなく、戦時歌謡曲として、沢山の童謡が私たちの前から消えてしまいましたが、どうしてGHQはここまで徹底してやれたのか。絵画や書籍や、演歌や流行歌、果ては童謡まで、日本の隅々にまで、どうして検閲の目が届いたのか。

 長い間自分にとっての疑問でしたが、ある資料が目を開かせてくれました。これらはすべて、日本人の手によってなされたものだったのです。GHQは、当時の日本人の知識層の中から 、数百人だったか、数千人だったか忘れましたが、とてつもない高給で彼らを雇い、「秘密厳守」の誓約と脅しの上で、「軍国思想」につながるものを探し出させ、廃棄させたのです。雇われた彼らは、一般国民の手紙類も密かに検閲し、報告させられておりました。

 大学生だった者もいたし、高校や大学の教師もいたと言われていますが、当事者たちは今でも口をつぐんだままです。存命の方たちは、何を考えておられるのでしょう。GHQはとっくの昔に無くなっているのに、協力した当時の日本人たちは、いまも律儀に秘密厳守の協力をしています。というより、やったことの卑劣さを恥じれば、とても言い出せなくなっているのでしょう。有名な政治家になったり、学者になったり、マスコミの経営者になったりした者がいますから、戦後70年たっても「アメリカの管理下」から抜け出せない、現在の日本が作られているのだと、私はそう考えています。

 この強靭な米国従属体制の存在を知っていれば、「安部総理は何もできない、能無し」だと、簡単に言ってのけられない私がいます。もしそれを言うのなら、敗戦後の70年間、いったい保守と呼ばれる政治家や思想家は、国民に何を語ってきたのか。どんな事実を明らかにしてきたのか。私はそれを問うてみたい。

 腹立たしいまでの裏切りをする総理に対し、私は怒りを燃やしますが、それでも、現在の国民的危機意識の欠如や、失われた日本人の誇りや愛国心のすべてに、安部氏の責任を問う理不尽さにも納得がいきません。

 こうして私の新年が始まり、ブログが再開いたしました。昨年まで「みみずの戯言」という表題でしたが、今年から「ねこ庭の独り言」に変えました。土の中で意見を述べるより、地上に出て、自分の庭で主張したくなりました。これこそ「心機一転」ではないのかと、密かに自負しております。 

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