愛新覚羅浩 ( ひろ ) 氏著『流転の王妃』( 昭和59年刊 主婦と生活社 ) を読了。
著者は、満州国皇帝溥儀の弟溥傑氏と、関東軍によって政略結婚させられた人である。嵯峨公爵家の嵯峨実藤氏の長女として生まれ、数奇な運命を辿った日本人と私が知っているのはそれくらいだった。読み進むうちに、彼女はまさに歴史の生き証人であり、軽い気持ちで手にしてはならない本だと理解した。
執筆当時70才だったので、既に故人となられているに違いないが、氏にとっては、日本と夫君の中国はいずれも大切な祖国であった。誠実な氏が日本と中国のあいだで、心を引き裂かれるようにして生きた事実が伝わって来た。そして私の前に、日本が又別の顔をして現れてくる。
「満州国の建国そのものが、関東軍の策謀の下に行われたことは、いうまでもありません。清朝最後の皇帝宣統帝 ( 溥儀 ) を、満州国皇帝にかつぎあげたのも、この関東軍でした。」
「溥儀皇帝は、三歳で清朝の帝位に就かれました。不幸なことに在位4年にして清朝は倒れますが、廃帝としてそのまま紫禁城で成長されます。」「後に城を追われて北府に逃れ、その後北京の日本公使館に避難されました。」
「満州国建国の翌々年、宣統廃帝は二十八歳で満州国皇帝となります。しかし、当初の話とちがって、皇帝とは名ばかりで、関東軍によって行動の自由も無く、意思表示もできない、傀儡の生活に甘んじなければなりませんでした。」
「関東軍のなかで宮廷に権勢をふるったのは、宮内府宮廷掛の吉岡安直大佐でした。大佐は、私たちが新京で生活するようになると、事ある毎に干渉するようになりました。」
吉岡大佐は彼女たちの見合い時からの付き添いで、当時は中佐だったが、やがて大佐となり中将になった人物だ。他人を悪し様に言わない著者が、本の中で何度か彼の名前を出し、溥傑氏に無礼を働く様子を書いているところからすると、余程腹に据えかねていたのだと推測できる。
「吉岡大佐に限らず、〈五族協和〉のスローガンを掲げながらも、満州では全て日本人優先でした。」
「日本人の中でも関東軍は絶対の勢力を占め、関東軍でなければ人にあらず、という勢いでした。満州国皇弟と結婚した私など、そうした人たちの目から見れば虫けら同然の存在に映ったのかもしれません。」
「日本の警察や兵隊が店で食事をしてもお金を払わず、威張って出て行くということ。そんな話に私は愕然としました。いずれも、それまでの私には想像もつかなかった話ばかりでしたが、そうした事実を知るにつれ、日・満・蒙・漢・朝の〈五族協和〉というスローガンが、このままではどうなることかと暗澹たる思いにかられるのでした。」
「日本に対する不満は、一般民衆から満州国の要人にまで共通していました。私は恥ずかしさのあまり、ただ黙り込むしかありませんでした。」
本を読んでいるとていると、私の心も沈んでくる。氏の自伝であり、主として書かれているのは夫溥傑氏や、二人の娘のこと、家族のこと、生活習慣の違いのことなどで、軍や政治向きのことはそれほど述べられていない。私が、こうした箇所を書き抜いているのには訳がある。
あの執拗な中国の反日と憎悪は、どこから生まれているのか。
やはり私はそれが知りたい。満州の建国も、朝鮮の統合も、日本にはメリットが無く、相手にとって大きな益になっていたと、保守の人々が言うが合点が行かない。軍の横暴を反日の人間が話すのなら、またかと言って無視できるが、氏の言葉で語られると、やはり日本は酷いことをしていたと考え直さずにおれなくなる。
満州族と漢族は違う民族なので、中国が日本を非難するのは的外れだと保守系の評論家が言うけれど、氏の話ではそうではない。満州族も漢族も同じ国の人間として、気持ちがひとつになるから、満州での日本人の横暴はそのまま中国人の怒りになると、こういう説明だった。
私の皮膚に傷がつき、異物が当たってひりひりとする。そういう痛みが、この本の中にあった。憲法改正だけでなく、中国との感情の対立も、戦後はまだ終わっていないと知らされた。
自分が目を閉じる日が来るまで、私は私なりに「みみずの戯言」と共に、心の整理をしてみよう。いつものことだが、今日も私は惑いつつためらいいつつ、本のページを閉じることとする。