ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

わが闘争

2016-12-29 22:12:34 | 徒然の記

 アドルフ・ヒトラー著/平野一郎・高柳茂訳「わが闘争」(昭和36年刊 黎明書房)を再読した。高校三年生の時、近所の本屋で買った本だ。全部で3巻だが、その時は2巻までしか出版されていなかった。

 社会主義の思想も、資本主義のことも知らない少年の時だから、初めから終わりまでチンプンカンプンだった。そのまま本棚の奥に放置し、現在に至っている。ヒトラーの本をなぜわざわざ買ったかと言えば、「若気のてらい」としか説明できない。

 73才になり再読した今でも、ヒトラーの言葉はサッパリ意が掴めない。高校生だった自分は、こんなヘンテコな日本語にするのは翻訳者が下手なのだと、腹を立てた記憶が残っている。

 一つの名詞に、いくつも修飾語を重ねる煩わしい文章、あるいは一つの文の途中で、別の文章が挿入され、そこにくどい修飾語が追加されるので、素直に読めない文となる。今回読んでも同じ印象なので、少年だった自分も正しい直感を持っていたと理解すべきなのか、それとも幾つになっても私は成長しない人間なのか、今ひとつ分からない。

 最初読んだ時もそうだったが、そもそもヒトラーという人物は、高慢で、独りよがりで、人間としての魅力が少しもない。自信に満ちて語り、異なる意見を激しく攻撃する狭量さに、嫌悪すら覚えた。

 彼が生まれた1889年は、日本で言えば明治22年で、大日本帝国憲法が発布された年だ。当時のオーストリア・ハンガリー帝国に生まれた彼は、国籍はオーストリア人だが、民族としてはドイツ人だった。小学校を卒業後、最初は画家を目指すが受験に失敗し、次には建築家になろうとするがこれも挫折し、貧しさの中で苦闘しつつ読書に励み、政治を学び、歴史を学んだと書いてある。しかし肝心なことが、納得できるように書かれていない。

 どうして、あれほど強烈な反ユダヤ主義者になったのか、なぜアーリア民族選民思想に染まったか、沢山書いてはいるが、ほとんど説明していないに等しい。彼が述べていることは、表面的な、薄っぺらな、自分だけの印象でしかない。

「シオン主義は、あたかも一部のユダヤ人だけが賛成しており、大多数はしかしそういう取り決めに反対し、心から拒否しているように見た。」「しかしこの外見をもっと詳細に眺めると、純粋のご都合主義から発した嘘といわぬまでも、逃げ口上という不快な霧の中に飛び散ってしまった。」「シオン主義ユダヤ人と、自由主義ユダヤ人の間の、この見せかけの闘争は、まもなく我々に吐き気をもよおさせた。」「それは徹頭徹尾真実でなく、もちろん嘘であり、さらにいつも主張されるこの民族の道徳的な高尚さと純粋さに適合しないものであった。」

  この分かりにくい文章は、果たして翻訳者の技量のためか、ヒトラーの思考回路の回りくどさのせいか、今回も迷った。学生だった頃、カントやハイデッガーやヤスパースなど、哲学者の本を読んだことがあるが、彼らの著書には、必ずキラリと光るものがあり、心を奪われた。同じように分からない文章なのに、ヒトラーの著作にはどこにも光るものがなく、読み進むほどに、嫌悪せずにおれない臭気が漂ってくる。

 唐突の感があるが、ここで訳者である平野氏の「序」の言葉を引用してみよう。氏は、ナチのバイブルと言われる「わが闘争」を翻訳することに、大きなためらいがあったが、ヒトラーを礼賛する日本の青少年に、事実を知ってもらい、客観的な目で、批判力をもって読んでもらいたかったから、翻訳を決意したと説明している。

「したがって私は、この翻訳を、なによりもナチズムの客観的な研究の、不可欠の資料として提供し、ふたたびかかるファッシズムの蹂躙を将来せざるためにこそ、提供するのである。」

「この邪悪な天才が、" すべてを単純化する恐ろしい人 " であり、それゆえにこそ、わずか十二年のことであったが、ドイツ人をして、あれほど熱狂せしめた大衆説得力をもっていたのだということを、この第三帝国の青写真となった " わが闘争 " の中で見抜いて欲しいのである。」

  少年だった私は、きっと素直な人間だったに違いない。この冗長な、面白味のない本を、二巻とも最後まで読んでいる。何箇所かに、鉛筆で印がつけてあるのが、その証明だ。でも今の私は、吹き出してしまう。「平野先生。客観的にであれ、批判的にであれ、こんな粗末な文章で、日本の若者が何をすると言うのでしょう。」まずもって、普通の若者なら興味を示さないだろうし、手にしたとしても、二、三ページ目を通せば放り出してしまうはずだ。

「ある場合には、その最も極端なものを拒否するために、この不快な運動の第一線に乗り出すことが、すべての思慮ある人間の義務であった。」「しかし他の場合には、この民族病のもともとの創始者は、真の悪魔であったに違いない、というのは怪物の、 --  人間でなく --  頭の中でなければ、その活動が結果として人類文化を破壊に導き、同時に世界の荒廃に導くに違いない組織のための計画が、意義ある内容をとることができるはずがないからである。」

 これは、「マルキシズムの基礎研究」という一章中の文である。ヒトラーが何を言っているのか、いったいどんな青年が、何を理解すると言うのだろう。こんな意味不明な翻訳書を世に出した平野氏も、ヒトラー負けないおかしな学者だと思えてきた。

 だから今回は二巻ある本の一巻だけ読んだところで、「わが闘争」と決別すると決めた。年末の貴重な時間を、こんなつまらない本と闘争して読むなど、人生の無駄でしかない。

 さてここで、大切な伝言をしておこう。いつかこのブログを読むであろう、息子や孫たちよ、間違っても「わが闘争」など手にしないで欲しい。平野氏は、わが国にファッシズムが再来しないためにも、この本を読んでもらいたいと寝言を言われているが、そもそもドイツと日本は歴史も文化も異なっている。今の時点では、中国や韓国・北朝鮮と対立しているが、ヒトラーみたいな虐殺を考えるような人間は、日本にはいないし、そんな風土もない。

 だらだらと語られる、牛のよだれみたいなヒトラーのお喋りなど、日本には無用なもので、読む必要もない。ネットの情報で調べてみたら、貧困時代の画家志望や建築家志望も、捏造の自慢話であるらしい。彼は貧困でなく、親の遺産をもらい、遊んで暮らせるだけの余裕があったとも書かれている。努力なしで、総統になれなかったのは事実だろうが、胡散臭い、ごまかしの混じる本であることを、言い添えておきたい。

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天皇陛下、83歳の誕生日 事前の会見でのお言葉

2016-12-26 19:00:03 | 徒然の記

 天皇陛下の、お誕生日のお言葉を聴いた。

 記者たちを前にして、メモを見ながら話されるお姿を拝見した。東日本大震災の時、あれほど心に響いた陛下のお言葉だったのに、今回は、悲しみとともに拝聴した。

 「ここ数年自らが考えてきたことを、内閣とも相談の上、表明いたしました。」陛下のお言葉を聞いた時、信じられない思いがした。あの時のNHKでの「お言葉表明」が、内閣と相談の上でなされたのなら、7月14日以来一面トップで飾られるようになった、あの新聞報道は、いったい何だったのだろうか。

 7月14日の千葉日報で、「陛下に生前退位の意向がおありだ」という記事が、大見出しで載り、翌日の報道では、宮内庁の風間長官が「そういう事実はない。」と否定した。同時に安部総理に確認したが、ノーコメントと言われたと書いてある。解説では、総理が知っていたと答えれば、陛下のご意向をキッカケに法改正等が行われることとなった場合、天皇による政治介入という指摘がされるからだと述べてあった。

 このような重大事をリークしたのはいったい誰なのかと、犯人探しまで行われた。マスコミがこぞって記事を報道し、国民へのアンケートを各社が行い、賛否両論が喧しくなった。そして8月8日の、NHKによる「陛下のお言葉」の動画放映だった。国の根幹にかかわる問題が、乱暴な手順で世間に公表され、国民に混乱を生じさせている事実を、私は眺めてきた。

 名もない国民の一人として、私にやれることは、悲しみとともに「眺める」しかなかった。新聞の記事をスクラップし、何度も読み返し、明日の日本はどうなるのだろうと、心を痛めるしかなかった。それなのに、陛下はおっしゃった。

「ここ数年自らが考えてきたことを、内閣とも相談の上、表明いたしました。」

 多くの国民は、私みたいに余計なあれこれを考えず、素直な気持ちで陛下を敬愛している。陛下が偽りを語られるとは、考えてもいないし、お年を召されているのだから、退位され、ごゆっくりされれば良いと、まっすぐに賛成する者が沢山いる。

 それだけに私は、今回の陛下のお言葉の無責任さと、身勝手さに失望した。いかに陛下といえども、見過ごせないものがある。家内に言わせれば、私みたいな人間は日本では少数派でしかないとのこと。多くの人がそれでいいというのなら、反対しても無駄だと忠告する。

 陛下のおかげで、夫婦の間にも隙間風が吹く。

「ここ数年自らが考えてきたことを、内閣とも相談の上、表明いたしました。」

 陛下の語られることに異を唱えるなど、不敬の極みと責める者も入る。しかし私は、彼らに言いたい。今回の陛下のお言葉騒動を受けて、反日左翼の者たちがどう受け止めているのか。過日のブログで引用したが、再度転記したい。
 

 「日本国民も、天皇陛下に続け。」「天皇は、安倍政権を許さない。」「平和憲法が風前の灯火となった現状に、天皇が立ち上がった。」「憲法改悪と戦争阻止のチャンスだ。」「安倍政権を許さない天皇陛下に、日本国民も続け。」

 彼らは天皇制打倒を目指し、天皇制廃止を目論む政党につながっている。陛下のお言葉騒動は、彼らに格好の材料を与え、政争の具として利用されている。私を責める保守の人々は、いったいどこに目を向けているのだろうか。そんな彼らは、本当に日本を思う、保守なのだろうか。それとも単に「天皇陛下万歳」と叫びたいだけの、愚かな右翼なのだろうか。

 悲しみとともに、私は何度でも北畠親房の言葉を噛みしめる。陛下については問答無用と、保守を任ずる頑迷固陋な方々に、忠臣親房の言葉を、思い出していただきたい。

  君は尊くましませど、民を苦しませれば 天これを許さじ


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お嬢さん放浪記

2016-12-23 06:56:06 | 徒然の記

 犬養道子氏著「お嬢さん放浪記」(昭和33年刊 文芸春秋社)を、再読した。

 忘れもしない、高校一年生の頃買った本で、夢中になって読んだ。氏はまだ存命であるらしく、母と同じ大正10年の生まれだと、今回初めて知った。全てネットの情報だが、父君は吉田内閣時代の法務大臣だった犬養健氏だ。健氏は暗殺された犬養元首相の三男で、道子氏は健氏の長女にあたる。

 高校時代の自分は、戦後民主主義教育の申し子だったので、「人間はみな平等」と頭から信じ、彼女の本を読んで、いつか自分も欧米諸国を放浪するんだと、意気軒高だった。だから楽しいばかりで、胸を躍らせ読んだ本だ。計算が間違っていなければ、彼女は昭和23年27歳の時、アメリカのボストンへ留学する。27年にはオランダへ行き、29年から昭和32年に帰国するまで、フランス、スペイン、ドイツ、ベルギー、イギリス、イタリアと、彼女の言う「放浪」を続ける。帰国した翌年の昭和33年に、この本を出版している。

 ネットで色々調べられる今だから分かるのだが、彼女が渡米した昭和23年と言えば、私が4歳の時だ。シベリアで捕虜になっていた父が戻り、母の里の出雲で再開した年だ。こんな時代に米国へ留学できる若い女性が、自分と同じ人間だなどと、どうして思い込んだのか。単純だった若い日が、おかしくも悲しくもなる。特別の家に生を受け、特別の人だったからできた「お嬢さんの放浪」だったということを、73歳の今認識した。

 再読しても、本の面白さは変わらなかったが、発見することも多々あった。まず彼女は、英語もフランス語も、イタリア語も不自由なく話せ、どこの国へ行っても困らない才女だったこと。アメリカやヨーロッパの国々の歴史や文化や哲学について、それなりの造詣を持ち、周りに自分の意見を伝えられた知識人であったこと。なにものにも物怖じせず、こんなに勇気のある女性は、当時の日本人でもまれだったということ。少年だった自分は意識せずに読んだが、実際は私などが近づけもしないほど、賢くて、優秀な人物だった。

 英語すらろくに喋れないため、海外旅行でどぎまぎし、言葉の通じない相手には身を引いてしまう今の私だ。無理を言う警察官に腹を立て、足を蹴飛ばすなんて、そんな大胆な真似はとてもできない。確かに苦労しているが、彼女はどこへ行っても友人ができ、援助してくれる知人ができ、苦境を常に脱出する。彼女の言葉通りの無一文で、一人旅をしているというのなら、どうして10年もやってこれたのか。

 本には書かれていないが、家族や親戚や有力な日本人たちが、常に彼女を見守り、遠くから支えていた、それでなければこんな旅ができるはずがない。人間はみな同じ、彼女にできることなら、自分にでもできる・・・・などと、学生時代は固く信じて生きた。でも、彼女と自分が同じであるはずがないと、今ならすぐ分かる。たとえ間違った思い込みでも、信じる者は強しだった・・・・、若かった日の一途さを、懐かしく思い出す。

 そしてまた、彼女は、少年の私を感動させる沢山の話を、してくれた。日本では評論家として有名だったらしいが、作家としても優れた才能を持っていた彼女だ。本の一節を引用してみたい。

 「食卓の上に山と盛られていたアイスクリームも溶け、マントルピースの上のローソクも燃え尽くした頃、ブルナフさんが言った。」「もうおひらきの時間ですが、どうでしょう、もう一度みんなで感謝をしましょう。」「私たちは、円を作って立った。ドイツ系の若い司祭が、首を垂れて低く呟いた。」「天にまします、我らの父よ。」

「我ら・・、この言葉が、私の胸を強く打った。そうだ、人間性の一番深いところで、われわれはみな同じなのだ。」「アメリカ人もドイツ人も、日本人もフランス人もアイルランド人も、」「みな同じ我ら・・である。」「私は、またたいて消えそうになったローソクの炎を見つめながら、考えた。」「共通な、裸の人間性に触れようとして行く限り、どんな未知な国へ行っても、自分は一人きりでないのだ。」

「ブルナフさんの言った、" 友情のパスポート " は、どこにでもある。探せば必ず見つかるのだと。 」「実際10年の旅をして、私はいつでもこのパスポートを、誰かから与えられた。」「困難なことに出会ったけれど、友情のパスポートは、必ず見つかった。」

 この本は、最後まで " 友情のパスポート " の話で埋め尽くされている。どの話も高校生だった自分が読み、感動したものばかりで、懐かしかった。それはきっと、タイムカプセルを開けた時の感激と懐かしさに似ているのではなかろうか。

 彼女自身が、前向きな善良さに満ち、悪意を知らない楽天的な人間なのだろうと、その気持ちは変わらないが、私なら恐らく、こんな本は書かないだろう。友情のパスポートは必ず見つかると言ったとしても、同時に私は警告する。

 「人間はみな同じなんて、頭から信じてはいけませんよ。」「お人好しの日本人では、外国人に騙されます。」「騙されるだけでなく、軽蔑されるんです。」

「道子さんの意見は、一つのお話です。見守ってくれる、有力な家族のない者は、簡単に真似をしてはいけません。」「悪い人間に騙されないよう、賢くなりましょう。」「自分の身は、自分で守らなくてはいけません。」「自主防衛こそが、生きて行く基本です。」

 ずっと長い間、夢を抱かせてもらった氏なので、あからさまには言いたくないが、もしかすると、このような本が人々に読まれ、日本人の多くの者、とくに若者たちが、危機意識を失って行ったのではなかろうか。もしかすると、氏の本もまた、「お花畑の日本人」を育てた一冊ではなかったのか。自国の防衛を忘れた、能天気な日本人を作った一冊・・・。

 これこそが、私の発見した最大の驚きだったような気がする。 

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息子よ 未来は美しい

2016-12-19 21:51:31 | 徒然の記

 パトリス・ルムンバ著・榊利夫訳「息子よ 未来は美しい」(昭和36年刊 (株)理論社)を読み終えた。大学一年生の時に買った古本だ。

 知識のない学生は、貴重な本を手にしても価値がわからない。簡単に言えば、「猫に小判」ということである。常日頃自戒している言葉だが、その好例となる書物だった。確かに読んだのに、何も記憶しておらず、新鮮な気持ちで接した。

 今はコンゴ民主共和國と呼ばれているが、本が出版された頃はまだ「ベルギー領コンゴ」とも言われていた国だ。大陸中央部のコンゴ川流域に広がるベルギー領コンゴは、アルジェリアに続くアフリカ第二の面積を有する広大な国土を持つ。

  水に恵まれた土地に植物が茂り、なかでも豊富な天然ゴムが有名だ。銅、コバルト、ダイヤモンドなどの鉱物資源でも、世界的な生産国だ。1908年以来ベルギーの植民地であったため、富の全てがベルギー人に奪われ、国民は飢餓状態のまま、悲惨な状況に置かれていた。

 カサイ州北部の村の農家に生まれたルムンバは、学校で学びながら祖国の現実に疑問を抱き、民族主義者として目覚め、独立運動を始めた。苦難の戦いを経て、1960年6月にコンゴ民主共和國が正式に独立して、彼は初代首相に就任し、大統領にはジョセフ・カサブブが就いた。

 ベルギーは彼らに「独立を与えた」と考えるが、ルムンバは、血と涙の戦いで「勝ち取った独立」と考えていた。心には抑圧者への憎しみが燃え、コンゴ人としての誇りと怒りが満ちていた。穏便な政治の移行を描いていたベルギー政府には、妥協しない民族主義者のルムンバが、すぐにも目障りな存在となった。

 コンゴに駐留していたベルギー軍の挑発行為に対して、ルムンバが撤退を要求した事から事態が急変した。7月8日に、ベルギー軍が首相官邸を襲撃、7月9日、キンシャサ国際空港を占領し、さらにベルギー本国から空挺部隊が増援された。

 この本は、独立式典以来ずっと続く、ベルギーの露骨な内政干渉の実態が描かれている。8月には、ベルギーの支援を受けていたモイーズ・チョンべが、カタンガ州をカタンガ國として独立宣言する。世界の銅の70%を生産している豊かな土地だ。このあたりの政治的展開は、とても目まぐるしく、私以上に困惑したのはルムンバ自身かもしれない。

12月には、国軍参謀長だったジョゼフ・モブツ将軍がクーデターを起こし、ルムンバを逮捕してしまう。そして1961年1月17日、ルムンバと2人の同志は、キサンガニ空港で飛行機から引きずり出され、深夜に白人の傭兵とチョンベの兵によって殺害される。

 こうして彼は短い生涯を終えるが、波乱の一生とは言うものの、あまりにも無残で、むごたらしい最期だ。米ソの冷戦の最中だったという事情もあるが、アメリカとソ連が、ルムンバのコンゴで代理戦争をしたのではないかと、私は考えさせられた。

 理論社がどのような会社か知らないが、執筆者の多くがソ連のジャーナリストである事や、フルシチョフによる国連事務総長批判や、植民地主義者への激しい非難が本の最期を飾っているところからして、左翼系の出版社だと察せられる。

だからこの本は、全てルムンバが正しく、高潔で、大統領のカサブブは卑怯な裏切り者として描かれている。ベルギー共産党政治局員ジャン・テルブが書いた、二人のプロフイールの一部を抜粋してみよう。

「ルムンバは、コンゴを資本主義の形態で発展させるのは、植民地主義者の企画に役立つに過ぎず、国の後進性を考えると、社会主義的なやり方が望ましいと考えていた。これのみが、立ち遅れを速やかに埋め、植民地的経済を終わらせられると感じていた。」

「そしてルムンバは、カトリック布教団が植民地主義と一体であり、直接搾取を行い、広大な土地の所有者である事を知っていた。こんにち、熟練幹部がほとんど不在だということが、新国家の悲劇的問題だとすれば、教育を独占し、アフリカ人の高等教育を阻止してきた、布教師たちのせいであると考えていた。」

「他方カサブブは、カトリック教会の方法と信仰が、骨の髄まで染み込んだ人間である。あきらかにカサブブは、その受けた宗教教育のために、社会主義につながる一切のものに対する、嫌悪と恐怖を抱いていた。当初から彼は、社会主義的進歩の方法に敵対し、社会主義諸国からの援助を恐れていた。」

 こうしてみると、二人の対立は、互いの信念に基づくもので、本が語るように、カサブブによる帝国主義者との妥協と、単純に決め付けられない気がした。9月6日にルムンバとカサブブの対立が激化し、ルムンバは臨時閣議で、カサブブ大統領の解任決議を採択した。カサブブは逆にルムンバを更迭し、後任の首相にジョゼフ・イレオを任命する事態となり、国政が混乱したが、これもなるべくしてなったような思いがしてならない。

 本の中では、ベルギー政府が矢面に立たされ、攻撃されているが、かい間見えるアメリカ批判もある。時の大統領アイゼンハワーが、カサブブにも、チョンべにも、モブツにも、反政府活動のための大量の資金を提供しているということが、控えめながら書かれている。

ベルギー軍を撤退させるため、コンゴを訪れたはずの国連事務総長のハマーショルドが、現地で事態を傍観し、ルムンバとも会談をせず、殺害防止にも動かなかったことなど、「東西冷戦」中の話だとなれば、別の見方が出てくる。本には書かれていないが、ハマーショルド自身も、後に悲惨な死を遂げているので、ネットの情報から、引用してみた。

「 1961年9月17日の夜、コンゴ動乱の停戦調停に赴く途上で、搭乗機が墜落し、事故死した。現職の国連事務総長の事故死というニュースに加え、国連のコンゴ動乱への消極的介入をソ連から「反ソビエト的」だと非難され、事務総長辞任を求められていたことなどから、撃墜説や暗殺説が信憑性をもって広まった。」

 だからと言って、私はルムンバの拷問や虐殺を認めているのではない。あたかもそれは、毛沢東が、政敵である劉少奇を、紅衛兵たちになぶり殺しにさせた光景と重なる。書き残したものや演説記録を見ると、ルムンバは、社会主義者というより、愛国者であり、民族主義者だ。地を這うような暮らしをさせられている同胞に涙し、植民地国の白人へ怒り、まっすぐに駆け抜けた、勇気のある国士という気がしてならない。

 本の表題になった、「妻への手紙」を抜粋しててみると、それがよく分かる。

「親愛なる妻よ。私はこの手紙が、お前に届くのかどうか、届いても何時のことなのか分からないまま、ペンを取っている。お前がこれを読む頃、私がなお生きているかどうかも、わからない。」

「われわれの祖国の独立をめざす、私の闘いの全時期を通じて、私は、自分と同士たちが生涯を捧げた、聖なる運動の勝利を疑ったたことは、一度もない。」「ベルギーの植民地主義者と、西方の同盟者たちは、わが同国人を分裂させ、買収し、ありとあらゆる手段で、われわれの独立を汚そうとした。」

「私がもう一度、語ることができるとすれば、それは私、個人のことについてではない。重要なのは、コンゴのことだ。独立を侵された、不幸な国民のことだ。」「しかし私の信念は、不動だ。」「わが国民は、遅かれ早かれ、内外の敵に対し、一人の人間のように、結束して立ち上がるだろう。」

「けがらわしい植民地主義に、「ノー! 」を言い放つために、大地の上に、自分の尊厳を取り戻すために。」

「残酷な仕打ちも、嘲笑も、拷問も、決して私から詫び状を取ることはできない。なぜなら私は、自分の信念を捨て、頭を垂れて生きるよりも、高く顔を上げ、祖国の運命に対する深い信頼と、不屈の心で死ぬことを望むからだ。」「もしかしたら、二度と会えない息子たちに、私は言いたい。コンゴの未来は美しい。」

「妻よ、私のことで泣かないでほしい。私は、苦難大きわれわれの国が、自由と独立を守り抜けることを知っている。コンゴ万才、アフリカ万才 ! 」

 

  そして今、コンゴがどうなっているのか。私は、知らない。

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「笛吹童子」

2016-12-17 21:00:50 | 徒然の記

 北村壽夫氏著「笛吹童子」(昭和29年刊 (株)寳文館) 上・中・下三巻を読了。

 私が小学校三年生の時に出版された本だ。新諸国物語として、NHKの連続放送劇でもあった。夕方になるとこの放送が聞きたくて、従兄弟たちと、ラジオの前で、一心に聞き耳を立てた記憶が今でも残っている。

 どこで手にいれた本なのか、それさえ覚えていない。来年1年かけて、もう一度読み直し、処分しようと決めた本箱の奥にあった。大学生の頃、高田の馬場の古本屋で買った本かも知れない。懐かしくて買ったものの、読むだけの興味をそそられず、そのまま本棚に押し込み、忘れていたのだろう。

 いざ処分するとなると、いかにも時代の匂いがする懐かしさがある。活字は小さくて読みづらく、粗末な紙がすっかり黄色く変色している。内側の背表紙のノリがはがれ、乱暴に扱うとすぐバラバラになってしまいそうだ。それでも定価が160円だ。当時の物価を現在に直すと、千円は越すのではなかろうか。敗戦後の物不足の時代だから、こんな本でも、贅沢品だったに違いない。

 本の最後のページに、寳文館の出版物の宣伝があるが、これがまた、懐かしい本ばかりだ。みんなNHKの連続放送劇だっものだ。ラジオ少年少女名作選と銘打って、

 青木茂原作・筒井敬介脚色「三太物語」  菊田一夫著「鐘の鳴る丘」

 菊田一夫著「さくらんぼ大将」      北村壽夫著「白鳥の騎士」

 という書名が並ぶ。私と同年代の人間なら、少年のあの日と、貧しかった戦後の日本が、思い出の彼方からよみがえるに違いない。映画にもなっていたから、白黒画面の映像を、心に焼き付けている人がいるかもしれない。

 笛吹童子を三巻とも一気に読んだが、妖術があり、剣術があり、悪人と善人との戦いがありという具合で、荒唐無稽な話が多い。それでも、親子の愛情、兄弟愛、主従の契り、正義や悪などについて、子供向けに分かりやすく、丁寧に書かれているから、小学生だった自分が夢中になるはずと、納得もした。

  52年も前の本だから、作者の北村氏も亡くなられているに違いない。上中下三巻の巻末に、それぞれ作者の「あとがき」があるので、記念のために写しておこう。

上 卷 「笛吹童子を、上中下の三巻の小説にして、まず上巻ができました。」

「笛吹童子の放送は、たくさんの人が聴いていてくださいます。映画にしたいと言ってきた会社は、7社もありました。熱心な投書を下さる方々は、少年や少女や大人や老人や、いろいろです。」「僕はこの本を、青少年にも壮年者にも老人にも、読んでもらいたいと思います。」

「そうした広汎な読者層を持つ本が、日本にはあまりに少ないと思います。僕は、そういう狙いで書いています。笛吹童子の放送が成功しているのなら、その一半は、音楽の福田蘭童、演出の山口淳両氏に負うところ。この機会に感謝の意を表します。この本も、この前に出ている「白鳥の騎士」も、どんな山の中にも行きわたり、放送を聴いて下さる「新諸国物語」のファンのみなさんに、放送とおなじく愛されることを願います。」「昭和二十八年十月  世田谷区赤塚」

 

中 卷 「笛吹童子の中三巻を、皆様の机上におくります。」

 「下巻もできるだけ早く出したいと、せっかく準備をしています。よろしくご愛読ください。放送では、明国の物語が入っていますが、上中下三巻にしても、どうしても、この小説に入りません。やむおえず、割愛しました。」
 
「ぼくは、放送にも、小説にも、主力をこの新諸国物語にそそいでいます。が、これは自由な創作ですから、かならずしも史実にはのっとっておりません。その点ご了承ください。」「昭和二十八年十一月」
 

下 卷 「とうとう下巻ができました。ご愛読ください。」

「それから、おことわりしておきたいのは、なにしろ、放送の原作は膨大なもので、とうていこの三巻には書ききれず、放送とはところどころ、筋も違え、省略もしてある点です。あしからず。また、これは自由な創作で、史実を追っていないこともご了承ください。」「昭和二十八年十二月」

 あとがきで分かるとおり、月に一冊のペースで書いている本だ。本格小説であるはずもないが、この本が、というより、この放送が全国津々浦々で聞かれ、子供だけでなく大人や老人にも楽しまれていたのは、間違いのない事実だと思う。それこそ、古き良き時代の昭和の一面を語ってくれる、歴史の匂う本だ。国中がはらぺこで、貧しくて、懸命に頑張っていた敗戦後であった。
 
 このブログを読んでも、子や孫には何のことか分からないだろう。時代の雰囲気や、空気は、どうしたら伝えられるのだろう。たかが「笛吹童子」、されど「笛吹童子」と、そんな奥深いものがあるのだが、それを伝える力量がない。子供達への伝承などと気負いたつのをやめ、懐かしい思い出のブログとして終わるべしか。

 たまには自分一人の楽しみに浸っても、許されるだろう。子供の頃が、なつかしい。

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バードバスをしばらく閉店

2016-12-15 14:37:10 | 徒然の記

 11月30日の新聞記事に、新潟県と青森県で鳥インフルエンザが検出され、食用アヒルと鶏の30万羽殺処分が決まった、と書かれていた。

 毎年この時期になると発生するのは、渡り鳥が原因だと言われている。何年前だったか、千葉県では白鳥の飛来で有名な、本埜村の白鳥が、鳥インフルエンザで殺処分になったことがある。人間には感染しないと言われていたのに、体力のない幼児や老人がかかると、死に至る病気となるらしい。

 老人の仲間に入るかもしれないが、私は、体力のない老人でないから心配ないが、時々遊びに来る孫は、まぎれもない幼児だ。おぼつかない足取りで庭を歩き回り、時として丹精した花や木の実をむしったりする厄介な子供だが、にっこり笑われると、何も叱れなくなる可愛い孫だ。

 この子に感染したら大変と、家内が言い出した。鳥インフルエンザの騒ぎが収まるまで、バードバスを止めようと、防災意識の高い家内は、次々と提案してくる。今の所千葉県では広がっていないが、昨日の新聞では茨城県まで来ていた。わが家の庭に来る鳥が、一羽でも感染したら、あっという間に汚染される。バードバスを置いているのは、わが家だけだから、ご近所にも迷惑がかかる。

 私は自治会の防災委員のボランティアの一員であるが、家内のように、危機感を持って新聞を読んでいない。言われてみれば、なるほどと思わされることばかりだ。うんとは言わないだろうが、家内のような意識の高い人間こそが、自治会の防災委員になれば良い気がする。

 無駄口はさておいて、私は早速家内の意見に賛同し、バードーバスを当分の間 ( と言っても、いつ迄になるのか、見当がつかないが ) 閉鎖することとした。家内は指示をしても、腕力はないので、実作業は私の担当だ。

 土台と置き台と水槽と、バードバスは三つ部分から構成されている。作業そのものは簡単で、一番上の水槽を置き台の上で逆さまにすれば良い。だがこれが、この年になるとちょっと難しい。50代だったら、一気に抱え上げただろうが、気合を入れ呼吸を整え、慎重にやらなくては持ち上げられない。

 抱えたままひっくり返すのは危険なので、いったん地面へ下ろし、ここで返して再び持ち上げる。狙い定めて、ゆっくりと、置き台の正しい位置に乗せる。言葉にすれば簡単だが、バードバスの周辺には花が植えてあるから、踏みつけると、家内が怒ったり悲しんだりするので、注意がいる。

 私は養子ではないが、家内には心遣いをしている 。そんな家内だって、薄情であろうはずがない。「手伝うから、その時は言ってね。」「一人でやると、危ないから。」・・・。何度も念押しをされると、つい逆らいたくなる。

 年寄り扱いなんてするな。力仕事は、男ものと決まってるんだ。女子供に、させられるか。・・・と、家内がいない間にやった。二人でやれば楽だし、危険もないのに・・・、私も、素直でない年寄りになったと思う。考えてみれば、亡くなった父がこんな老人だった。可愛げはなかったが、力仕事を母にさせず、いつも自分がしていた。この親にしてこの子ありだ。

 驚いたのは、その翌朝だった。いつもやってくる鳥たちが、大騒ぎしている。一番うるさいのはヒヨで、近所中に響く大きな鳴き声だ。2羽も3羽もいて、けたたましく鳴いている。「水がない。」「水がない。」「庭に、水がないぞ。」心に咎めるものがあるので、そんな風に聞こえる。

 もっと驚かされたのは、メジロが集団でやってきたことだ。いつもは一組か、二組のつがいが来るだけなのに、なんとその日は15、6羽がやってきた。こんな集団が、入れ替わりに来ていたのかと、初めて知った。

あとは、シジュウカラ、すずめ、アカゲラ、シロハラなど、馴染みの鳥たちが三々五々に訪れ、ひっくり返されたバードバスの周辺を飛び交っていた。

 あれから、今日で2週間が経つ。鳥は、静かにやって来て、バードバスの近くの木の枝にとまり、暫くして飛び去っていく。言葉が通じるのなら、説明し、納得させてやりたいが、何年も習った英語さえうまく喋れないのだから、教わったことがない鳥の言葉を、私は喋れない。

 こうして心の痛む日が、続いている。意地悪でしているのでなく、自衛のための措置だと、どうすれば鳥に伝えられるのか。東條元首相の切ない気持ちがなおさら分かる。

「水がない。」「水がない。」「庭に、水がないぞ。」・・・、相変わらずヒヨだけが飽きずに、毎日騒いでいる。ねこ庭に来る鳥の中で、ヒヨが一番大きくて、乱暴で、イチジクでも、さくらんぼでも食い荒らすから、どちらかといえば邪険にしてきた。しかし、今では、この騒々しいヒヨがなぜか心を慰めてくれる。

「水がない。」「水がない。」「庭に、水がないぞ。」

「分かってる。」「分かってる。」「もうちょっと待て。」・・・と、そんな会話ができるからだ。

 

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東条英機・歴史の証言 - 6

2016-12-14 09:39:32 | 徒然の記

  平成28年12月14日、 渡部昇一氏著「東條英機 歴史の証言」(平成18年刊 祥伝社)を読み終えた。同時に、叔母から譲り受けた、叔父の蔵書もすべて読了した。

 著者である渡部氏にはもちろんだが、この本を読ませてくれた叔父には、感謝しても足りないものがある。神道から仏教、禅宗、そして中国や韓国の政治家たちのことなど、叔父のお陰で、貴重な知識を与えてもらった。何より見習いたいことは、沢山の知識を持っていても、それをひけらかさず、寡黙に生涯を終えた叔父の姿だ。

 常に笑顔で周囲の人々と接し、目立たない一人の百姓として生き、知足安分の人間として生を全うした。だから私も、そのように生きたいと願う。叔父との違いが一つだけあるとすれば、日常の営みでは目立たない一庶民でも、ブログの世界での私は、自己主張する国民であるというところだろうか。

 日々の暮らしでは、「和をもって尊しとなす」聖徳太子の教えを大切にし、隣近所との諍いを避けるが、ブログの世界では、「ご先祖を大切にする日本人の一人」として、遠慮なく意見を述べさせていただく。どうせ残り少ない人生だから、できない我慢を無理にせず、二つの世界で生きることとする。

 そこでもう一つ、遠慮なく言わせていただくと、申し訳ないことながら、渡部昇一氏は、林房雄氏に比べると、今一つ、何か足りないという気がした。日本の過去を肯定する気持ちにおいては、林氏に劣らない熱さを持っているのだが、読者を感銘させるだけの文才がないと言うべきなのか、氏の叙述に心を動かされなかった。

 むしろ、古武士のような、昔言葉で、とつとつと語る、東條元首相の供述書の方が、私の胸に響いた。時として読みにくくなる語り口でも、真摯に迫るものがあった。だからブログでは、渡部氏の解説をほとんど省略し、読みづらい元首相の生の言葉を多く引用した。

 と言って、渡部氏の仕事を軽く評しているのではない。この大作を世に出されたから、東條元首相の生の言葉が知れ渡ったのであり、氏の平易な解説が、頑迷な多くの国民の無知を開いたのかもしれない。言わずとも良いことを言うのが、私という人間の欠点であり、家内や息子たちから疎まれる原因でもある。渡部氏がこのブログを読むはずもないのだから、みっともない言い訳は、自戒しつつ、このくらいにしておこう。

 前回で終わるつもりだったのに、東條元首相の供述書の最後の部分を読み、心変わりがした。東條英機という表題のため、ブログを読んでくれる人が少なくなっているが、それでも私は、元首相の供述書における終わりの言葉を、書き残さずにおれなくなった。

 どうせ戦勝国の裁判官どもは、まともに聞くはずがないと知りつつも、投げやりにならず語り続けた本意を探れば、これは私たち国民へ向けた、正真正銘の遺言であると思い当たった。心静かに読めば、迫ってくる愛国の情があり、反日左翼の人々は、そうならないと思うが、私は涙がひとつ、ふたつこぼれた。

 「終わりに臨み、・・恐らくこれが、当法廷の規則において許さるる、最後の機会でありましょうが、・・私はここに、重ねて申し上げます。」

「日本帝国の国策、ないしは当年にその地位にあった官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもありませんでした。」

「一歩は一歩より進み、また適法に選ばれた各内閣は、それぞれ相受けて、憲法及び法律に定められた手続きに従い、これを処理して行きましたが、ついに我が国は、彼の冷厳なる現実に逢着したのであります。」

「国家の運命を勘案する責任を持つ我々としては、国家自衛のためにたつということが、ただ一つ残された途でありました。我々は、国家の運命を賭しました。しこうして、敗れました。しこうして、眼前に見るがごとき事態を惹起したのであります。」

「戦争が、国際法上より見て、正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題は、明白に分別できる、二つの異なった問題であります。第一の問題は、外国との問題であり、且つ法律的性質の問題であります。」

「私は最後まで、この戦争は自衛戦争であり、現時承認せられたる国際法には、違反せぬ戦争なりと主張します。私は未だかって、我が国が本戦争を為したることをもって、国際犯罪なりとして、勝者より訴追せられ、敗戦国の適法なる官吏たりし者が、国際法上の犯人となり、条約の違反者なりとして、糾弾せられるとは、考えたこととてありませぬ。」

 「第二の問題、すなわち敗戦の責任については、当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味における責任は、私はこれを受諾するのみならず、真心より、進んでこれを負荷せんことを、希望するものであります。

 昭和二十二年十二月十九日 於東京 市ヶ谷 供述者 東條英機」

 

 (叔父にもらったこの書を携え、年内に靖国神社を訪れ、東條元首相だけでなく、すべてのご先祖の御霊に、心からの感謝と哀悼の意を捧げたい。参拝のできない叔父の代理も兼ね、靖国の大鳥居をくぐるとしよう。)

 

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東条英機・歴史の証言 - 5

2016-12-13 18:29:22 | 徒然の記

 「田中隆吉というのは、前にも話が出ましたが、非常にけしからん男で、」「東京裁判では検事側の証人となり、」「かっての上司に対し、不利になる証言を次々にした人物です。」

 著者の渡部氏はこういって、田中少将の捏造証言を二つあげている。

1. 軍国主義者の東條英機を総理にしたのは、佐藤賢了中将(当時は中佐)が重臣たちを脅迫したからだと言った。

2. 軍の「捕虜処理要項」は、捕虜に強制労働を命じる内容になっていると、言った。

 腹をたててその気にならなかったためか、氏が詳しく説明していないので、読者には内容がよく分からない。そこで何時ものように、ネットの情報で自分なりに調べた結果を必要部分だけ、ランダムに引用して見た。真偽のほどは確認できないが、当たらずとも遠からじだと思っている。

「田中隆吉は、明治26年島根県に生まれ、最終階級は陸軍少将だった。」「田中は数々の謀略に関与しており、検事側に協力しなければ起訴されていたことも有り得た。」

 「人間関係の不満により、旧陸軍の内部告発をしたとする批判もある。かつての上司である東條英機、木村平太郎にとって不利となる証言を次々とした。そのため、田中に対して「裏切り者」「日本のユダ」という罵声を浴びせる者もいた。」

「東京裁判の席上、田中隆吉が東條を指差し、東條を激怒させた。」「特に武藤章においては  "軍中枢で権力を握り、対米開戦を強行した"  という田中の証言により、死刑が確定したとも言われている。」「武藤は対米開戦には慎重派であった。」

 「武藤は、捕虜虐待の罪により死刑判決を受けるが、東京裁判で死刑判決を受けた軍人の中で、中将の階級だったのは武藤だけである。」
 
  「特に、7月6日の公判において、橋本欣五郎・板垣征四郎・南次郎・土肥原賢二・梅津美治郎などを名指しで証言した際には、」「鈴木貞一はその日の日誌に " 田中隆吉証言。全ク売国的言動ナリ。精神状態ヲ疑ワザルヲ得ズ " と記し、」
 
「板垣征四郎も日記に二重丸をつけて " ◎人面、獣心ノ田中出テクル。売国的行動憎ミテモ尚余リアリ " と書き、」「重光葵はその時の心境を " 証人が被告の席を指さして 犯人は彼と云ふも浅まし " と歌に詠んだ。」
 
  吉田少将の証言がどこまで採用されたのか、私はもちろん知らない。しかし参考のため、A級戦犯という汚名を着せられ、処刑された7人の「昭和殉難者」の氏名を謹んで書き記したい。
 
   1. 板垣征四郎- 軍人、陸相、満洲国軍政部最高顧問、関東軍参謀長。
 (中国侵略・米国に対する平和の罪)
 
   2. 木村平太郎- 軍人、ビルマ方面軍司令官、陸軍次官、(英国に対する戦争開始の罪)
 
   3. 土肥原賢二 - 軍人、奉天特務機関長、第12方面軍司令官(中国侵略の罪)
 
   4. 東條英機 - 軍人、内閣総理大臣
 (ハワイの軍港・真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)
 
   5. 武藤章 - 軍人、第14方面軍参謀長(フィリピン)(一部捕虜虐待の罪)
 
   6. 松井石根 - 軍人、中支那方面軍司令官(南京攻略時)
 (捕虜及び一般人に対する国際法違反(南京事件))
 
   7. 広田弘毅 - 文民、第32代内閣総理大臣
 (近衛内閣外相として南京事件での残虐行為を止めなかった不作為の責任)

 さてここで、氏の著作を離れ、別の視点から東京裁判を眺めてみたい。この裁判の不公正さを示す好例として、私は二つの事実を考えている。つまり、1. 真珠湾攻撃でのアメリカの被害と、2. 正式名称を「関東軍防疫給水部本部」と言い、秘匿名称「満洲第731部隊」と称した組織の件である。

 真珠湾における日本海軍の奇襲による、米国の被害は、戦艦8隻のうちアリゾナが爆発により撃沈、オクラホマは転覆により撃沈。ほか3隻の戦艦が大破し撃沈。残りの3隻は比較的軽微であったが、3隻の駆逐艦は大損害を被った。

 死者は2,345名、負傷者が1,347名、合計3,692名である。これを理由とし、東京裁判で米国が犯罪者と決めつけたのが、東條元首相ただ一人だ。重大な過失を犯した外務省の米国大使館員(外交官)が、すべて不問となっている。日本の奇襲をあれほど攻撃しているのなら、原因を作った外務官僚の不手際について、全く追求しないというのはどう見ても合点がいかない。

 巷で言われるように、ルーズベルト大統領が事前に奇襲攻撃を察知していたから、大使館にいた外交官たちの失態は、米国にとってどうでも良いという話になったのか。それとも大使以下、大使館勤務の外交官たちに温情をかけ、戦後統治下での情報提供者として活用したのか。彼らは、日本を追い詰める材料としてのみ、真珠湾の奇襲が必要だったという事実だけが残る。

 今一つの731部隊は、満洲に拠点をおいて、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあった。そのために各種の人体実験や、生物兵器の実践的使用を行っていたとされている。最高責任者であった石井四郎中将の名前をとって、秘かに、" 石井部隊 " とも言われていた。

 敗戦後、731部隊の実験データの多くは元隊員たちが密かに持ち帰り、最終的にはアメリカ軍へすべて渡され、米国での生物兵器開発に生かされた。人体実験に手を染めた軍医たちは、連合国から戦犯として裁かれることなく、日本の大学医学部や国立研究所や各地の病院に職を得たと言われている。

 ある資料によれば、石井中将は尋問を受けた際、" 細菌戦エキスパートとしてアメリカに雇っていただきたい。ソ連との戦争準備のために、私の20年にわたる研究と実験の成果をアメリカに提供できるのです。" と、語ったという

 ここで戦犯から逃れようとする石井ら731部隊幹部と、ソ連にいかなる情報も与えまいとするアメリカ側の利害関係が見事に一致し、従前通り、彼らのすべてが不問にされるだけでなく、秘密裏に処理されるようになったと聞く。

 石井部隊が行ったことは、生体実験がメインであり、その凄惨な多くの事実は、それこそ悪魔の仕業といえるものだ。アメリカは、石井部隊の所業を東京裁判で持ち出していれば、南京事件などという捏造の殺戮をこしらえなくとも、良かったはずだ。それなのに米国は、石井部隊の研究成果をすべて没収することにより、米国の「国益」を優先させた。

 素人考えと言われればそれまでだが、素人の調査結果でも、これだけ偏っている東京裁判である。日本人であるのなら、そろそろ目を覚まし、自国の歴史を再検討すべきでないのか。渡部氏は言及していないが、私に言わせれば、田中少将だけでなく、石井中将だって、「恥ずべき軍人」の一人だ。

 石井中将は、特別列車での日本への帰路において、731部隊員と家族に対し、「日本は負けた。お前たちは今から内地へ返す。」「だが731の秘密をどこまでも守り通してもらいたい。」「もし軍事機密をもらした者がいれば、石井はどこまでも、しゃべった人間を追いかけていくぞ、いいな。」と、貨車ごとに大声で演説したという資料もある。

 つまり現在の日本には、戦勝国アメリカと利害の一致した日本人たちが、まだ沢山存命しているということだ。米国に弱みを握られ、協力させられ、情報の提供をさせられている人間が、まだあちこちに生きているということ。これもまた、敗戦の負の遺産として、私たちはキチンと知らなくていけない。

 楽しくも面白くもなく、つらい事実が多いとしても、失望や落胆はしておれない。私たちのために、命を捧げたご先祖がおられる限り、辛抱強く、歴史の見直しをしなくてならない。

 何度でも言うが、だからこそ私は、A級戦犯とか、戦争犯罪人だとか、先人たちを簡単に決めつける、単細胞な日本人たちを嫌悪する。己の無知を棚に上げ、戦禍に散った人々を蔑んではなるまい。

 これもまた、何度も言うが、だからここそ自分は、美智子様も嫌悪し、拒み、皇后陛下であられることを認めない。赤い思想に染まり、米国の一方的裁判を鵜呑みにし、「A級戦犯」と口にされる無慈悲な方を、どうして許せよう。

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東条英機・歴史の証言 - 4

2016-12-12 19:05:52 | 徒然の記

 真珠湾攻撃に関する、東條元首相の供述を、そのまま転記する。

「日本政府は、昭和16年12月8日(日本時間)米国政府に対し、駐米野村大使をして、」「帝国が外交交渉を断絶し、戦争を決意せる旨の通告を、交付せしめました。」

「私の記憶によれば、12月4日の連絡会議において、」「東郷外相より、わが国より発すべき通告文の、提示があったのであります。」「これに対し、全員異議なく承認し、かつその取り扱いについては、おおむね、次のような合意に達したと記憶します。」

「 A. 右外交上の手続きは、外務大臣に一任すること。」

「 B. 右通告は、国際法による戦争の通告として、米国政府に手交後に於いては、日本は行動の自由を取りうること。」

「 C. 米国政府への手交は、必ず攻撃前に為すべきこと。手交は、必ず野村大使より、米国政府責任者へ手交すること。駐日米大使に対しては、攻撃実施後において、これを通知する。」

 「通告の交付を、攻撃の開始前に為すことは、かねて天皇陛下より、私および両総長にしばしばご指示があり、連絡会議出席者は、皆これを了承しておりました。」

その後、12月5日の閣議の席で、対米最終通告文につき、東郷外務大臣が次のように説明し、全員が了承している。

「野村大使に対し、対米覚書を決定したこと、」「この覚書を提示する時期は、追って電報すること、」「覚書接到の上は、いつにても米国に交付しうるよう、文書整備その他、」「あらかじめ万般の手配を完了すること、以上外相より訓電せられております。」「しかるに事実は、その手交が遅延したることを、後日に至り承知し、」「日本政府としては、極めて、これを遺憾に感じました。」

「対米通告の取り扱いについては、外務当局にて、国際法および国際条約に照らし、」「慎重審議を尽くしてとり扱ったもので、」「連絡会議、閣議とも、全くこれに信頼しておりました。」

 軍部はもとより、政府全員、もっと言えば天皇陛下までが、細心の注意を払い、米国への通知に心を砕いたというのに、米国大使館では対応がされていなかった。このため真珠湾攻撃が、卑怯な日本の不意打ちとして全米に報道され、日本への敵愾心を燃やすこととなった。ルーズべルト大統領はこの奇襲を徹底的に利用し、国民の戦意を高揚させ、参戦へと世論を導いた。

 では一体、この時日本大使館では何が起こっていたのか。これについては、著者である渡部氏の文章を引用するのが一番分かりやすい。

「これから重要なメッセージがいくぞという事前通知を無視して、」「その夜、全員が同僚の送別会に出かけていたというのが、真相なのです。」「彼らは、電報を受ける当直を置くことさえしなかった。」「今戦争が、火を吹くかどうかというときに、何という呑気な話か。とんでも無いことです。」

「翌朝、のんびり出勤してきて、至急電報を見て、タイプを打っていたら間に合わなかったと、」「こんな言い訳をしていますが、先方には内容が伝わればいいのであって、タイプなど打たなくていいのです。」「手書きでも何で渡せば良かったのに、それもしていない。」「東郷外相が野村大使に対し、」「ワシントン時間で午後1時に、直接手交するようにと指令していたにもかかわらず、」「野村大使がハル長官に手渡したのは、午後2時20分になってしまったのです。」

「ハル長官とのアポイントメントを、午後一時と取っていたのに、」「タイプに手間取り、1時間延ばしてもらったというのですから、言語同断です。」「当時大使館にいた外交官たちは、申し訳ないと言って、ペンシルバニア通りにずらりと並んで、切腹すべきでした。」「そうでなければ、戦後、お詫びのため、自殺すべきでした。」

「ところが外務省はこの事実を全部隠したばかりか、当時の責任者は、」「その後みな栄達し、勲一等を受賞しています。」「私が、今でも一番許せないのは、この連中です。」「海軍や東條さんの責任でなく、外務省の出先機関の者たちの責任です。」

 私が述べたかったことを、渡部氏が全部言ってくれているので、これ以上言うことは無い。「リメンバー パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」と、米国では、今でも日本を強く憎む国民がいる。卑劣な日本人が騙し打ちをしたと、日本の歴史に拭え無い汚点を残した責任について、未だに外務省は語ろうとしない。

「それゆえ、攻撃成功のために、通知の交付を故意に遅らせたという、」「姑息なる手段に出たものでないことは、前に述べた通りであります。」

 東京裁判で、懸命に説明する東條元首相に、恥ずかしく無いのかと言いたいい。日本の歴史を汚した責任を灌ぐのなら、今からだって遅すぎることは無い。A級戦犯が合祀されているから、首相が靖国に参拝するのは反対だと、そのような戯言を言う中国や韓国・北朝鮮に対し、外務省が、省をあげて、彼らの考え違いを正すべきで無いのか。法治国家の日本では、法的に戦犯など一人も存在せず、存在しているのは国難に殉じた「昭和殉難者」しかいないと、きちんと説明したらどうなのか。

 むしろ私は、外務省がやるべきことは、総理大臣の露払いとして、毎年敗戦の日の前日、外務大臣以下外務省職員が打ち揃い、「靖国参拝」をすべきでないかと思考する。私は渡部氏のように気性が激しくなく、穏やかな人間だから、切腹しろとまでは言わない。死ぬ気で日本の汚名を灌ぎなさいと助言するだけだ。

 それよりも私が怒りを抑えきれないのは、敗戦後の外務省だ。 日本の歴史を知った上で外交を司る省で、国益のため汗をかく官庁だと誰れもが信じているのに、「自虐史観の温床」と成り果ててしまった。敗戦後の何代目の次官なのか知らないが、自分の記憶に残っている人物が、小和田恒(ひさし)氏だ。

 当時の社会党委員長だった土井たか子氏の質問に対し、東京裁判の結果を受諾した日本は、侵略国家であると答えている。日本は、アジア諸国への謝罪を未来永劫続けなくてはならないという考えの持ち主で、かの悪名高い河野洋平氏の「慰安婦問題」に関する官房長官談話の起草者だとも聞いている。

 相手が望んでもいないのに、タイでは天皇陛下に、侵略のお詫びの挨拶文を読ませたり、ろくなことをしていない。小和田氏の国会答弁によって、日本が侵略国家を内外に自認することとなり、東條氏はおろか、靖国問題にまで、中国、韓国、北朝鮮の言いなりとなることになった。外務省は、昭和殉難者への償いも、東京裁判の不合理性も、なにも反省せずに済むこととなった。私に言わせれば、諸悪の根源ともいうべき外務官僚の見本だ。

 しかもこの反日官僚の令嬢が、かの有名な皇太子妃の雅子様だ。これについて言及し始めると、ブログがとんでもない方向へ行くので、元首相の東條さんが、話のまとまりのなさに驚くだろうから、ここで止めるとしょう。

 皇室と外務省が、日本の歴史と伝統を崩壊させつつあることなど知ったら、東條元首相は、いったい何のために、陛下への誠を尽くしたことになるのだろう。平成の時代になり、皇室が無残な姿を国民の前に晒されていることにつき、元首相が知らないことを、不幸中の幸いと考えたくなった。

 だんだんと、この書評のブログをお終いにしたくなったが、明日もう一回だけ、心を奮い立たせ、裏切り者の将軍について書こう。

 

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東条英機・歴史の証言 - 3

2016-12-11 18:08:44 | 徒然の記

 どうやら東條元首相の人気は、現在でも芳しくないと見える。林房雄氏の「大東亜戦争肯定論」のブログには、日々100人を超える読者が訪れていたが、今では半分の人にしか読まれない。

 頑迷な独裁的軍人と、本を手にするまで私自身がそう思っていたのだから、無理もない。しかし、この供述書が、死を覚悟した上で語られたものと知れば、意味合いが自ずと変わってくる。彼は責任を他に転嫁せず、見苦しい言い訳をせず、己の信じるところを述べている。

 だとすれば、その言葉は、日本のために散ったご先祖の一人の話として、静かに耳を傾けるべきでなかろうか。大東亜共栄圏についての供述も、その中の一つだ。天皇陛下のお立場を説明した時と同じくらいの量で、とても長い。全部を引用するとブログに収まらなくなるので、割愛したい。息子や孫たちだって、私がブログで引用しなければ、決して目にすることもない東條氏の「生の言葉」だ。後々彼の供述書が、正しく評価される日が来るであろうから、歴史の証明として残しておきたい。

「大東亜政策は、昭和18年11月5日の大東亜会議の劈頭において、」「私の為した演説中にも、これを述べております。」「その目的としまするのは、」

「大東亜各国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸張し、」「大東亜の文化を高揚することであります。」「昔より大東亜には、優秀なる文化が存しているのであります。」「ことに精神文化には、崇高幽玄なるものがあり、これを広く世界に及ぼすことは、」「物質文明の行き詰まりを打開し、人類全般の福祉に寄与すること少なからずと、考えました。」

「大東亜各国は、互恵の下緊密に連携し、その経済発展を図り、」「大東亜の繁栄を増進することであります。」「各国は、民生の向上、国力の充実を図るため、」「緊密なる連携の下で、共同して発展を増進することであります。」「各国は、人種的差別を撤廃し、あまねく文化を交流し、」「進んで資源を開放して、世界の進運に貢献することであります。」

「建設さるべき大東亜の新秩序は、排他的なものでなく、」「広く世界各国と、政治的にも経済的にも、また文化的にも、積極的に協力の関係に立つものと、信じました。」

「口に自由平等を唱えつつ、他国家他民族に対し、抑圧と差別とをもって臨み、」「自ら膨大なる土地と資源を欲しいままにし、他の生存を顧みざるごとき、」「旧秩序であってはならぬと、信じたのであります。」

「この趣旨は、大東亜会議に参集しました各国代表の賛同を得て、同月6日に、大東亜宣言として、世界に表示したのであります。」「このごとき政策が、世界制覇とか、他国の侵略を意味するものと解釈されることは、夢想だにせざりし所であります。」

 参考までに、大東亜会議の出席国と出席者の名前を書き出しておく。
 ビルマ国家主席 (バー・モー)       満州国国務院総理(張景恵) 
 中華民国南京国民政府行政院長(汪兆銘)  大日本帝國首相(東條英機) 
 タイ国首相代理(ワンワイタヤコーン殿下) フイリピン共和国大統領(ホセ・ラウレル)
 チャンドラ・ボース(自由インド仮政府首班)
 
 ビルマとフイリピンは、日本が独立国として認め会議に加わったが、インドネシアは独立国でなかったため、民族指導者としてスカルノがオブザーバー参加していた。
 
 東京裁判の時は、まだ列強がアジア諸国を植民地支配していた時なのに、東條氏が、臆せずにこうした供述をしていたと知りるのは驚ろきだった。欧米諸国の裁判官たちは、どんな気持ちで聞いたのだろう。これではなおさら、彼を生かしておけないと、死刑宣告の決意を固めたのだろうか。
 
 五族共和の王道楽土をつくるといって、石原莞爾ら少壮軍人たちが「満州国」を設立した当時、東條英機も満州にいた。昭和7年に満州国ができる以前は、広大な国土にわずか 千五百万人あまりの満人が住んでいた荒地だった。満州国が生まれると漢人や朝鮮人が大挙して押し寄せ、十年後の昭和17年には、四千四百万人にまで人口が増加した。保守系学者の解説によると、日本軍の統治による治安の良さと、日本の投資で商工業が発展し、活気のある土地になったからだと自慢話になる。当時の満州は、匪賊と呼ばれる盗賊団が跋扈し、日本軍なしでは、人が安心して暮らせる土地でなかったからだ。
 
 あのまま発展していたら、満州は中国本土より先に一大経済圏をなしていたはずと、日本の統治の素晴らしさが語られる。しかしまた一方では、 愛新覚羅浩(ひろ)氏のような見方もある。彼女は、満州国皇帝溥儀の弟溥傑と、関東軍によって政略結婚させられた人で、嵯峨公爵家の長女として生まれ、数奇な運命を辿った日本人だ。昭和59年に主婦と生活社から刊行した、「流転の王妃」という著書の中で、こう述べている。

 「 "五族協和"のスローガンを掲げながら、満州では全て日本人優先でした。日本人の中でも関東軍は絶対の勢力を占め、関東軍でなければ人にあらず、という勢いでした。満州国皇弟と結婚した私など、そうした人たちの目から見れば虫けら同然の存在に映ったのかもしれません。」

「 日本の警察や兵隊が店で食事をしてもお金を払わず、威張って出て行くということ。そんな話に私は愕然としました。いずれも、それまでの私には想像もつかなかった話ばかりでしたが、そうした事実を知るにつれ、日・満・蒙・漢・朝の "五族協和" というスローガンが、このままではどうなることかと暗澹たる思いにかられるのでした。」
「日本に対する不満は、一般民衆から満州国の要人にまで共通していました。私は恥ずかしさのあまり、ただ黙り込むしかありませんでした。」

保守系学者が語る満州も、愛新覚羅浩(ひろ)氏の語る満州も、いずれも事実だと私は思う。植民地を持つ側と植民地になった側の見方は、常にこのように相反するはずと、今の私は少し賢くなっている。朝鮮併合にしたって同じことだ。日本人は後進国の朝鮮を、資金を投じて発展させたと得意になるが、併合された朝鮮人は喜んでいない。いないどころか、憎しみを燃やし、今なお日本を恨んでいる。

 アジアを長らく植民地にしてきた欧米諸国にだって、本音で言えば、不満や憎悪が積み重なっているのだが、日本に対してほどあからさまに語られないのには、単純明快な答えがある。

 「彼らは戦争に負けなかった。」「負けたのは、日本だった」 

恨みとか憎しみとか、そのようなレベルで述べているのではない。歴史の事実として語っているだけだ。自由、博愛、平等、そして、正義、友情など、そうした崇高な理念と同時に、国際社会では、人種差別が存在し、強いものが弱いものを支配するという事実が厳然としてある。これらをひっくるめて、人間の社会だという認識を持つことが大事だと思う。

 だから私は、日本の敗戦を事実として受け止め、必要以上の卑下をしない。卑屈に謝罪もしない。東條首相についても、必要以上の非難攻撃はしない。東京裁判で日本を断罪した欧米諸国の判決にしても、左翼平和主義者たちのように、必要以上に押し頂いて受け止めない。

 暴虐な日本軍、残酷無比な蛮行だとか、日本人の中に、そんな一方的な話を本気で信じる者がいるが、たかだか35年の朝鮮統治、日中戦争に至っては、せいぜい8年間の戦いでしかない。日本を裁いた列強は、いったいどのような長さでアジア諸国を支配してきたのか。あるいは、南米やアフリカや、もっと言えばアメリカ大陸で、彼らは先住民族を殺しまくったのではないか。そんな国から、なぜ裁かれなくてならないのか。せめて日本人なら、歴史を学んで頭を冷やしてもらいたいものだ。

 韓国人や中国人みたいに、叫んだり嘆いたり、拳を固めたり、狂気のような集団騒ぎをやらず、静かに「事実を直視する勇気をもつこと」を、私は提案する。「戦争はいけない。」「人殺しは悪だ。」「話せば、理解し合える。」・・・・。だから、いつまでも子供時代の夢ばかり語らず、賢い大人にならなくてはいけない。幕末や維新の頃のご先祖さまのように、世界の情勢を正しく知る日本人に、戻らなくてならない。

 もうすぐこの本を読み終えるが、あと二つだけ、書き残したい事実がある。

 真珠湾攻撃のとき、大事な宣戦布告書を、己の不始末で米国に渡し損ねた外務省のことと、敗戦後に米国のスパイに成り下がった日本の将軍のこと。こんな日本人もいるのだから、世界一立派な民族だとか、どこの国より優れた日本だとか、子供たちよ、孫たちよ、どうか必要以上の慢心をしないようにと、私はそれを伝えておきたい。

 
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