のしてんてんハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

ナウイズム 二人展 間﨑学&北籔和 (4)

2017-04-10 | 展覧会

のしてんてん 心の風景 2016年 

この絵は東洋的と言えるのだろうか?あるいは西洋的なのだろうか?

 

 

西洋と東洋の絵画の違いは、絵を描く者(主体)の精神的基盤にある。

前者は自我の枠の中で絵を描くのに対して、後者は 自我を越えて宇宙と一体になった無自我が主体となって創作する。

これが前回までの話しでした。

 

今回は、二柄先生を、東洋絵画をして無の絵画論に導いたその動機を考えてみたいと思います。「東西美術史」を越えていく糸口が必要なら、入り口を見なければならない。私の直観がそうささやくのです。

 

 

まず、二柄先生の「東西美術史」からの引用です。

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もともと水墨画は、・・・「画か」れるのではなく、墨をもって「塗ら」れるのでもなく、筆墨の固有の表現力をもって書かれ、詩作されるのである。それは本来、一つの空間的造形であるよりも、むしろ一つの時間的形成である。実に時間と空間との根源的な統一において生きる人間の精神的生命の形成的自覚であり、その明晰な証跡である。

洋の書も水墨画も、その時間的本姓において一回的であるから、その制作過程において、一点一画の反復も添削も許されない。それはあらかじめスケッチされることが出来ないのである。 

したがってまたそれは、一つのタブローの、精密にい云えば、「一連の積み重ねられたたタブロー」の最下位の層としての「平らな表面」へ立ち返ることでもない。さらにキュピズムやアンフォルメルの一部に見られる、いわゆる「四次元」の造形でもなく、アクション・ペインティングとも本質的に区別されねばならない。

 東洋の水墨画は、このように時間と空間との二元論においてではなく、根源的な統一において成立する。

 中村二柄:東西美術史 岩崎美術社 P65~66 13~ ウルフィグラールなもの)

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論文になれていない方には、少々骨の折れる言い回しが続きますが、しかし決して難解ではありません。

 前段の意味を知るためには、東洋の書も水墨画も、その時間的本姓において一回的であるから、その制作過程において、一点一画の反復も添削も許されない。それはあらかじめスケッチされることが出来ないのである。 という記述から遡るのがいいでしょう。

確かに、書や水墨画の特性は、紙の上に墨を使う訳ですから、描線は常に一回きりのもので、書き直しも修正も出来ませんね。つまり一筆一筆が完成であって、あらかじめ下絵(スケッチ)を描いて完成を目指して塗りこんでいく描写方法とは大きく違っているわけです。

したがって、書・水墨画は、画く(素描から完成を目指す)ことがなく、

塗る(あらかじめ描いた形の内外を塗っていく)ということもありませんね。

筆で描くということは絵具を塗り重ねるのとは違って、即時に描線や面が定まるという、まさに固有の表現方法を持っているということです。

江口草玄 「石水投」1987年

この作品を見ても、二柄先生の言わんとするところは即座に分かりますよね。

結局のところ、それは瞬時に完成する芸術なのです。

それはあたかも写真を撮るように、瞬間が定着された一枚のブロマイド(平面的)となる。つまり空間が時間的瞬間によって昇華するのです。

空間の根源たる素描意欲と精神が、この一瞬の筆遣いによって統合されて定着し、現れ出るのですね。

二柄先生の「精神的生命の形成的自覚」という言葉は、分かりにくいですが、瞬間に現れる描線には、それを生み出した精神性が形となって自覚されると私は解します。

 

さらに後段には、この時間と空間の根源的統一が、西洋絵画との相違を明確に表明します。

書・水墨画は、描き重ねて完成する西洋絵画の、その最初の描線(最下位の層としての「平らな表面」)とも違い、

 キュピズムの四次元絵画とも違う。↓画像検索結果

デュシャン「階段を降りる裸体.No2」

 この絵は明らかに制作意図が、設計図となって描かれたもので、典型的な西洋絵画と言えますね。

 

さらにアクションペインティングとも違うと言います。↓

 

ボロック 秋のリズムNO.30

有名なボロックの絵です。当ブログでも昨年末に取り上げました。 ナウイズムを楽しむ でその制作風景も紹介していますのでお時間がございましたら覧ください。

アクション・ペインティングは、もっとも書に近い制作方法なのですが、その創作過程が、絵具を散らしながらも、なお自我の操作が残っている。つまり二柄先生の言葉で言えば、それは本質的に書とは区別されるものなのです。

つまり、このアクション・ペインティングにしても、空間と時間の双方が分離して(二元論的に)かかわっているのであって、書のように、瞬間の中で時空が根源的統一をなしているのではないというのです。

 

かくして、西洋絵画と東洋絵画は、両極相並び、その溝を埋めるべきものはないのでしょうか。

 

だとするなら、最初に戻りますが、私の、のしてんてん絵画はどこに行けばいいのでしょうか。

 

埋まらぬ溝に落ち込んで這い上がれないのか、

両側から引っ張られて裂けてしまうのか、

はたまた、埋まらぬ溝に架ける橋となるのか。

 

いうまでもなく、

私としては、架け橋となる活路を見い出したいのです。

 

 

 

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コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんばんは (だじゃれ伯爵)
2017-04-11 23:39:46
いつもありがとうございます
明日の夕方ころにリンクをさせていただきます
次は、また来月に
だじゃれ伯爵様 (のしてんてん)
2017-04-12 08:40:15
ありがとうございます。こころまちいたします。

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