ノエルのブログ

シネマと海外文学、そしてお庭の話

台湾カステラ

2020-08-28 05:11:59 | ある日の日記

暑い……それに、何だか微妙に忙しい。したいと思っていることがなかなか片付かないなあ。

昨日、ヘアーサロンに行った帰り、買ってきた「台湾カステラ」。

   

三時のお茶の時間に楽しみましたが、とても美味しかった! 日本のものほど、どっしりした甘さではなく、スポンジケーキに近いフワフワの優しい味です。

  実言うと、絵本「ぐりとぐら」で、ぐりたちが大きな大きな卵を見つけて、🍳フライパンで焼くカステラ――何だか、イメージと微妙に違うなあと思っていたのですが、そのカステラに色とかフワフワ感がそっくり!

台湾カステラは、「ぐりとぐらのカステラ」であったのか……値段も安くて、いかにも家庭向きのお菓子。これから、お気に入りのスイーツになりそうでごわす。

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ミクロの決死圏

2020-08-23 19:21:02 | 映画のレビュー

映画「ミクロの決死圏」を観ました。とっても、面白かった

1966年のアメリカ映画ですが、内容は古さを感じさせつつ、21世紀の今でも、十分にSF的です。実は、このSF映画は、巨匠アイザック・アシモフの原作をベースとしているのですね。

    

これが、原作の表紙。実は、昔、この本が兄の部屋の本棚にあって、まだ小学生だった私は「何だろう? これは」と興味深く手に取ってみたものでしたが、何せ子供には少しグレードが高すぎる。そんな訳で、読むこともなしにそのままになっていたのでしたが、大体のあらすじだけは、その頃から知っていました。

つまり、あらゆる物体をミクロ化することのできる技術を発明した東側の科学者が、アメリカに亡命してくるのですが、彼は今、脳内出血を起こし、意識不明。手術は不可能。だが、このままにすれば、彼はいずれ死ぬ。

そこで脳外科医、諜報員などからなる特別チームが編成され、科学者を救出に向かうことになります。ところが、この救出というのが、彼らと潜水艦をミクロ化し、そのまま科学者の体内に注入するという、素晴らしくも、荒唐無稽な方法なのですね。

潜水艦が体内にいられるのは、わずか1時間。そのタイムスリットを過ぎれば、ミクロ化した体はもとにもどってしまう。しかし、チームの中にスパイがいたり、動脈から別の血管に紛れこんでしまったり――とハラハラするピンチを乗り越えた挙句、彼らは無事、手術を終え、科学者の体外へ飛び出すというのが全体のストーリーです。

画面はいかにも1960年代を思わせる、広がりを感じさせるし、諜報員グラントや医師の助手である美女コーラがミクロ化されてゆく過程は、手に汗を握る興奮と面白さに満ちています。床の一部がミクロ化する装置になっているかと思えば、その上に立った人間は、どんどん極小のサイズに縮小されてゆく。そして、どこか、ビートルズの「イエローサブマリン」を連想させる、もっこりした形の潜水艦は、人間の血管に入ってゆく訳ですが、これが素晴らしい!

ここに現れる血管は、毒々しい、赤い河などではなく、うす暗い空間に、透明な青みを帯びた血球があちこちを漂う、まるで深海の底のような世界―ー実際、体内に入ると、人間の肉眼を通じてあらわれる血管は、かくのごとしのものだというのですが、本当だろうか?

肺の中も、まるでイソギンチャクのような襞がカーテンのように垂れ下がっていたりして、どこか珊瑚や海底火山のある海を思わせます。きっと、実際の体内は、こんな風に神秘的に、美しくはなく、生々しくて、ドロドロした空間であるはず。しかし、映画的に表現された60年代の美術に、すっかり魅了されてしまうのです。

    

そして、グラント達が、危機一髪で体外へ飛び出すシーン。潜水艦を失った彼らが、出口として選んだのはどこだと思いますか?

答えは――何と、目の血管から、涙に入って。脳に最も近く、対外へ通じる血管のある場所だから、というのですが、この圧倒的な想像力。さすがはアシモフ!

人間をミクロ化する技術。「小説は真実より奇なり」と言いますが、こんな想像を絶する出来事は、いかに遠い未来にもあり得ないような気がする。でも、涙が出たり、汗が出たりするたび、「ここにミクロ化した人間がいたら……」と空想することは、しばし続きそうであります。

 

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一人称単数

2020-08-15 22:23:58 | 本のレビュー

 

村上春樹の新刊「一人称単数」を読む。面白かった。 上の写真は、本の表紙がパソコンにうまくスキャンできなかったので、部屋の棚に置いてみたところ。

ただ読んでいて思ったのだが、さしものハルキも、老成したなあという感じがする。まあ、実年齢も七十才を越えているのだから、当然だけれど。

相変わらず文章が巧みで、現在の本邦には、これほどの書き手はいないだろう、と思わせられる超一流の筆力。(あのトルーマン・カポーティーの音楽的美しさに満ちた文章に、匹敵すると思う)

個人的に一番面白かったのは、やはり掉尾を飾る短編「一人称単数」。他の短編が、ややもすると冗長なエピソードが紛れ込み、クラシック音楽に対する蘊蓄が、少しくどい印象を与えるのに対して、これは簡潔で、しかもナイフの刃が迫るような、迫真力に満ちている。より短い言葉でいうなら、白眉である。

ここに登場するのは、裕福な(多分、功なり名なりとげた)老作家である。村上春樹自身をも、想起させるのだが……。

彼は普段はラフな服装をする人物なのだが、年に2~3回は、ちゃんとしたネクタイやスーツが着たくなって、そのきちんとした格好で外出する。そんな彼が、ふと立ち寄ったスノッブなバーで、ウォッカ・ギムレットを飲むのだが、そこで奇妙な出来事がおこるのだ。中年のなかなか魅力的な女性が、近くのカウンター席に座っていて、突然、挑発するように、明確な悪意を持って話しかけてくる。

彼女の話によると、作家の親しくしていた女性は、今では彼の事を大嫌いだと言っており、彼は三年前、水のほとりで、彼女におぞましいことをしたはずだというのだ。身に覚えのない糾弾――しかし、そこで感じる居心地の悪さは、彼が家を出る時、鏡に映してみた自分のスーツ姿に対するやましさに通じるものなのだ。何か恥につながる、後ろめたさを感じずにはいられない……思いあまった「私」は、バーの外に出るのだが、そこには異様な夢のような情景が広がっている。

宵の散歩に出る時見た明るい満月はなく、「……空の月も消えていた。そこはもう私の見知っているいつもの通りではなかった。街路樹にも見覚えはなかった。そしてすべての街路樹の幹には、ぬめぬめとした太い蛇たちが、生きた装飾となってしっかり巻きつき、蠢いていた。彼らの鱗が擦れる音がかさかさと聞こえた。歩道には真っ白な灰がくるぶしの高さまで積もっており、そこを歩いてゆく男女は誰一人顔を持たず、喉の奥からそのまま硫黄のような黄色い息を吐いていた。空気は凍りつくように冷え込んでおり、私はスーツの上着の襟を立てた」

のエンディングで終わっている。ここに、村上春樹自身の老境というか、一種の寂寥感を感じ取ったのは、わたしだけなのだろうか?

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ミッドナイト・イン・パリ

2020-08-15 18:34:48 | 映画のレビュー

ずっと観たいと思っていた「ミッドナイト・イン・パリ」を観る。ウディ・アレンの監督作品で、制作されたのは2011年。

一言で言えば、大人のメルヘンとでもいうべき映画だ。

ハリウッドの脚本家であるギルは、婚約者のイネズと、その金持ちの両親と共に、パリを訪れる。本当いうと、ギルの夢は作家になることで、脚本作業とはおさらばしたくて仕方ない。そんな彼の憧れは、ヘミングウェイやスコット・フィッツジェラルド、ピカソやサルバドーリ・ダリといった綺羅星のごとき、芸術家たちが「移動祝祭日」を繰り広げていた、1920年代のパリ。

しかし、婚約者のイネズ(これが、どうしてギルが結婚しようと思ったのか、まるでわからない魅力のかけらもないアメリカ娘なのだ)やその両親は、実利的な俗物で、ギルの作家への夢など理解しようとしない。あくまで、収入を得り、豊かな生活を送ることを至上価値としている。

そこへ、イネズの大学時代の先輩だとかいう、知識人気どりのいやみったらしいポールまで登場し、イネズとはますますかみ合わなくなってくる。面白くないギルは、真夜中のパリをぶらつくのだが、そこへ素敵なクラシックカーが出現。この夢みたいなタイムマシンで、連れて行かれた先は、本物のヘミングウェイたちのいる1920年のパリだった――。

何と言っても、現代のパリと1920年のパリを映し出すカメラが素晴らしいのひとこと! 幻が本当に現実となって立ちのぼるのも、無理はないかのような美しきパリの街を映し出してみせるのだ。ヘミングウェイやフイッツジェラルドは、その伝記的事実や、彼らのポートレートを知っているせいか、演ずる俳優に、「それらしさ」がないように見受けられたのだけれど、ピカソやダリなどは、実物を十分に彷彿させている。

自分が、心に温め、書き続けた小説をヘミングウェイやガートルード・スタインに見せるギル。憧れ続けてきた大作家に、自分の小説を評価され、夢見心地になるギルだが、一方で、この時代の美女アドリアーナにも惹きつけられ、心は二つの時代を揺れ動く。   正直言って、フィッツジェラルドが私のイメージじゃなかったり、彼の妻のゼルダが、安っぽいフラッパー風だったりで、「ちょっと、おかしいです」と突っ込みたくなったり、ふわふわした夢物語のようでリアリティを感じなかったりすることもあったのだけど、物語に隠し味があるのは、さすがアレン流。

アドリアーナの恋する時代は、彼女の生きている1920年のパリではなく、19世紀末のベル・エポックのパリなのだが、ギルと彼女は、ほんとに、その時代に行ってしまう。「この時代に生きたい」というアドリアーナに、「僕は、君のいる時代が理想だった。でも、君はそれよりベル・エポックの頃がいいと言う。だけど、いつの時代に生きていたって、また別の時代に憧れるようになる。今に満足するということはないんだ」と諭すギル。

これは、私にとっても、目からウロコが取れるようなセリフ。本当に、そう。いつの時代に生きたって、不満があるし、「昔はよかった」とか「別の時代に生きていたらよかったのに」と、幻想を抱く人も多いはず。

アレクサンドル三世橋や、石畳の坂、街灯など、パリの魅力にうっとりさせられた作品。私にとっては、この映像の方が、ポイントが高かったかな?

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ノエルの暑中見舞い

2020-08-12 23:15:25 | ノエル

こんばんは、ノエルです。毎日、すご~く暑いですね。

私も、クーラーの部屋で日々過ごしています。年とると、本当、楽で涼しくて、気持ちよく過ごすのが一番だわあ。ウフフ。

このブログを始めた時は、まだ二歳かそこらだった私も、ずいぶん老いました。若い頃なら、すぐ突っ走れたのに、今では、朝の散歩の時は、起き上がる時に「1.2.3」と腕や体をウォーミングアップしてからでないと、何だかおさまりが悪いのです。

皆さん人間の方たちも、中高年以上になると、ヨガだとか健康体操だとかをやりだすのと同じことかもしれませんね。私の主人のMは、自分も結構な年寄りなのに、私に向かって「ノエル。あんたも、年取ったねえ」などと失礼なことを申します。

でも、鼻はまだ真っ黒で濡れ濡れしているし、お客様が来たら、興奮してそこらじゅう駆けまわれるし、まだまだこれからだ、と思っております。

あと、10日足らずで、私の9回目の誕生日。実は、獅子座♌生まれなんですよ。ゴールデンレトリバーって、優しいライオン🦁みたいなものだから、私に似つかわしいこと、このうえない誕生日ですよね?

それでは、皆さん、ごきげんよう。

                🌻ひまわりと名づけたらよかったと言われるほど、陽気で天真爛漫なノエルより。

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ルパン三世 THE FIRST

2020-08-12 22:51:04 | 映画のレビュー

「ルパン三世 THE FIRST 」を観ました。これは、作者モンキー・パンチ自身も熱望していたという、3Dアニメーション作品。

だから、今まで見なれていたルパンとは、全然違います。何だか、日本のアニメじゃないみたい

今回も、冒険あり、アクションありの波乱万丈なストーリーですが、今回はナチの残党と、考古学の謎がからむ、なかなかにひねった趣向ですね。

 

      

考古学というか、今回はブレッソンという有名な考古学者が残した「ブレッソン・ダイアリー」という書物をめぐって、彼の孫娘であるレティシアが、うら若きヒロインとして登場します。しか~し、何だか気になるのですが、このレティシアが、ディズニーアニメの「アナと雪の女王」のアナやエルサと表情がそっくりなのです。

画面からポップアップカードみたいに飛び出る感じや、肌のシリコンを思わせる色つや――コンピューターで作ると、キャラクターも似てしまうのでしょうか?

さて、ストーリーの方ですが、かのブレッソンダイアリーには、エクリプス(日蝕)という兵器を左右する力が含まれています。このエクリプスという未曽有の力を持つ兵器を手に入れるために、ナチの残党が、レティシアを利用し、つけねらうのですが、そこに白馬の貴公子ならぬ、赤ジャケットの泥棒ルパン三世が現れる!

ブレッソンは考古学者なのに、エクリプスが兵器であることや、それが水爆や、宇宙のブラックホールを思わせるすさまじいものである理由が、いまいちよくわからないのですが、物語の後半は、南米にたどり着き、ルパンたちは、不思議な遺跡を発見することになります。

この遺跡が、また南米文化の遺跡らしくないのが、何ともおかしい。ピラミッドも、ケツァルコアトルも、雨ごいの神も出てきません。まるで、近未来の宇宙基地みたいな空間が開け、恐ろしい試練を潜り抜けた先には、不可思議な形をしたエクリプスが……。

ナチの残党と死闘を繰り広げ、エクリプスの恐ろしいパワーをも封印して、大団円が終わり、いつものようにハッピーエンド!

しかし、やっぱり「カリオストロの城」のような傑作は、もう二度とできないだろうな、と思わせられました。でも、同じオリジナルのルパン物から、イメージを借りるのなら、「奇岩城」や「813の謎」のモティーフを使ったら、すごく面白い作品ができるような気がするのですが……🎩

 

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太陽と月に背いて

2020-08-11 10:04:15 | 映画のレビュー

 

映画「太陽と月に背いて」を、本当~に、久しぶりに観ることができました。 もう二十年ぶりくらいになる?

これは、若かりし日のレオナルド・ディカプリーが天才詩人アルチュール・ランボーを演じたと、いうそれだけでも、食指がピクリと動きそうな映画なのです。しかし、鮮烈な印象を残す物語であったにもかかわらず、「タイタニック」などの陰に隠れていて、知らない人も多いのでは?

もったいないことであります。

       

何はともあれ、美と若さが輝くレオ様が、素晴らしい! 19世紀の伝説的な少年詩人を、「タイタニック」で見せた、奔放不羈さや若々しさで、見事に演じきっています。

といっても、「ランボー? 名前は聞いたことあるけど、どんな人?」とその生涯については、知らない人も多いのでは?

ここでかいつまんで説明してみると、アルチュール・ランボーはシャルルヴィルの中流農家に生まれ、15歳の時には、前人未踏の、「新しい詩」を書きはじめます。そして、16歳の時、パリの有名な青年詩人であったヴェルレーヌに、自作の詩を送るのですが、感動したヴェルレーヌは「偉大なる魂よ、来たれ」とランボーをパリに呼び寄せます。

ところが、実際に姿を現したランボーは、青年どころか、年端もゆかぬ少年。おまけに、故意に育ちの悪さをポーズにし、ヴェルレーヌが新婚の妻と身を寄せていた義父の家でもやりたい放題(犬の置物を壊したり、ロザリオを勝手に持っていったりとか)。

さて、このヴェルレーヌというのが、また曲者。若くて綺麗な妻(おまけに、妊娠中)がいながら、少年ランボーの才気や魅力に、ノックアウトされた挙句、妻を捨て、彼とヨーロッパを放浪などするのです。

そのくせ、奥さんのことも忘れられず、ロンドンから女々しい手紙を、彼女に寄こしたりとかーーこの人も、ランボーに劣らず、相当変な人なのでは?

     

そして、お互いの詩作にインスピレーションを与えるための結びつきだったはずの、二人の友情。これは、同性愛といさかいと、愛と憎しみがぶつかりあう「地獄の季節」そのものの様相を呈することになってしまったのでした。上の写真は、ヴェルレーヌに残酷な悪口を並べ立てた挙句、怒ったヴェルレーヌから置き去りにされてしまったランボーの姿。(泣いています)

結局、二人の愛憎は、二年のち、ランボーの手をヴェルレーヌが銃撃するという、衝撃的な事件と共に、幕を落とすのですね。

しかし、それからのランボーは、さらに「地獄の季節」を突き進むことに――白人などいない、アフリカの地で貿易商人として生き、膝に腫瘍ができたため、フランスへ帰国します。そして、片足切断の末、マルセイユの病院で亡くなるのですが、最後のエピソードが効いている。

高名な詩人ヴェルレーヌのもとに、ランボーの妹イザベルが訪れます。彼女は、「若い頃の兄の詩は、神を冒瀆するものであったから、あなたが持っている原稿を破棄してほしい」とヴェルレーヌに訴えます。

いかにもわかった、というように頷くヴェルレーヌ。しかし、彼はイザベルが帰った途端、彼女が住所を書いた名刺を破棄してしまうのですね。そして、アブサン酒を前に、もの思いにふける彼……その前に、若い日のランボーが座っています。

「僕のこと愛している?」と聞くランボー。その幻が消えていった後、再び、一人、カフェで、アブサン酒を前にしているヴェルレーヌ。

 最後に、こんなナレーションが流れていきます。

「彼の死後、今も毎夜、彼に会っている――私たちの大きく輝かしい罪。決して忘れない。私達は幸福だったのだから」

そして、地をゆくランボーの前方に広がる海。

「見つけたぞ

 何を? 永遠を

 それは太陽に溶けた海だ」

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英国 田園風カフェのこと

2020-08-08 17:05:40 | アート・文化

 

ああ、外食したいなあ……でも、コロナのせいで、今一つ、そんな気分にはなれないです。 

       

この2枚の写真は、私の好きな、郊外のカフェ。イギリスの田舎の家を思わせる佇まいで、中の調度も、ナチュラルな感じで、心がなごみます。

 

    

食事のメニューは、ドライカレーとホットサンドイッチのみなのですが、いかにも家庭の手作りという感じで、丁寧に調理されています。

ここに来る度、窓からのぞくハーブのお庭を眺めたりして、まったりと時間を過ごしてしまう私。

……早く、この自粛ムードが和らぎますように。

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太陽を灼いた青年

2020-08-06 09:22:33 | 本のレビュー

「太陽を灼いた青年」(井本元義 著)を読む。とても面白かった。

最近、こんなに面白い本はなかった。とはいっても、これは小説やエッセイとなどではなく、

詩人アルチュール・ランボーの足跡を、ランボーを深く偏愛し続ける著者が追った評伝というべきもの。

もともとランボーには、個人的に興味があった。一体、彼に興味を抱かない人間などいるだろうか。

十九世紀後半のパリの文壇に、きらめく彗星のように現れた天才少年。同じく時代を代表する詩人ヴェルレーヌとの同性愛と、銃撃と共に終わった彼との友情。「地獄の季節」「イルミナシォン」といった作品を残し、わずか二十歳にして、詩作と決別――それからのちの、ランボーの人生は、放浪に続く放浪だったことは御存じのとおり。

遠くジャワの外国人部隊に入隊したかと思えば、そこを脱走。アデンをへて、アフリカはアビシニアへ。この時、ランボーはまだ二十六才くらいだったと「思うのだけれど、彼はそのアビシニア(現代のエチオピア)のハラールという土地で、以後十一年もの間、貿易商人として生きるのだ。

白人など稀な、アフリカの闇に、身を潜めるようにして。まったき孤独のうちに。

そして、膝に腫瘍ができ、身動きもできなくなった末に、フランスへ戻る。ランボーが憎み、とうとう最後まで離れることができなかった故郷と家族の元に戻るのだが、すでに、その時、彼の片足はなかった。そして、結局マルセイユの病院で、激しい痛みと苦しみのうちに亡くなるのだが、これは1891年のことで、ランボーは37才だった。

作者の井本氏は、「ディカプリオは、ランボーのイメージに合わない」とおっしゃっておられるのだけれど、私には、二十代半ばの頃観た、映画「太陽と月にそむいて」の印象がとても鮮やかなのだ。ランボーを演じたレオナルド・ディカプリオが、手に負えない不良少年の、しかも茶目っ気のあるランボーを生き生きと演じていたのが、今も目に浮かぶ。

そして、大学時代、学校の図書館で手にとった本に、上記の「太陽を灼いた青年」の表紙にもある南国の樹影の前に佇む白い服の男を写した写真があって、「これが、アフリカでのランボーなんだ」と、強い印象を受けたことがあった。これも表紙の右側にある、美少年ランボーの写真。この少年が、どのような魂の旅の果てに、こんな修行僧のように痩せた、黒い肌の男に変わったのだろう?――と。

「ついに見つけたぞ

 それは何、永遠だ。

 太陽と溶け合った海だよ」

あまりに有名な、彼の詩。この詩にランボーの生涯が集約されていると思うのは、私だけだろうか? ほとんど「放浪病」としか思えない、少年時代からの家出や旅。ランボ―は、何かを求め、動き続けずにはいられなかったのだと思う。例え、それが自身の破滅をもたらすものだったとしても。

ドラマチックな人生を送った人々の物語で、一番興味深く、心を打つのは、彼らの晩年である。だからこそ、アフリカの荒涼とした都市ハラールに、ランボーが何を考え、長い月日を過ごしたのかは、多くの人々の想像力を刺激するのではなかろうか?

銃を売ったりする武器商人として生きながら、アフリカの夜々、ランボーは何を思っていたのだろう? 砂漠からの風が吹きすさび、ハイエナの鳴き声さえ聞こえる。夜空だけは、美しい満天の星々の下で、手製の楽器ハープを弾く。

井本氏もおっしゃっていられるが、ランボーの後半生は、彼が詩を捨て去ったとしても、それ自体が、詩そのものなのだ。

p.s この本の中で、ずっと昔から、神秘的に魅了されてきた「アデン」という土地の写真を見ることができた。イエーメンの港湾都市だと言う。これも大学時代、古本屋で見つけたポール・二ザンの「アデン・アラビア」という小説のエキゾチックな響きに魅了されて購入したものの、読まずじまいだった。アラビアの地にある、ナツメヤシと豊かな港があるに違いない街ーーこの名前がかくも魅惑的なのは、エデンというもう一つの素晴らしい土地の名とよく似ているからかもしれない。

この本は、いつかなくしてしまっのだが、ぜひきちんと読みたいもの📚

 

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