Zen stresses the limitation of the language and writing , this is called " Furyuu Monji・不立文字 " on direct teaching without dependence on words or writing .
This is an individual and specific experiment for such person , and can never be explained with theory and doctrine .
But , when one sees the stagnation of the present Japanese Buddhism order , it seems this can't be helped .
The cat forgets to catch the mouse .
The priest forgets to save the people .
禅は仏教の精華であり、禅宗は中国で生まれ、その二つがニッポンに伝わっている、しかし、どこまで日本人に浸透したか、それは、大衆的にはならないのかもしれない、それに教団の現状と次代をになう青年僧のモンダイがある。
ところで、「ブラタモリ」で上野の住職が登場したことがあるが、飄々(ひょうひょう)として雅味(がみ)がある、
「これが 天台の宗風か」
禅宗や真言とは違う、はったりやカリスマではない、淡々としている、この風格はどこから来たか、天台止観の賜物(たまもの)か、どんな名優も及ばない、これが「宗教人」。
曹洞宗の僧侶は、どこか道元に、
真言宗の僧侶は、どこか空海に、
浄土真宗の僧侶は、どこか親鸞に似ている、
もっとも不勉強な道元で、
ややこぶとりの空海であり、
せわしくてややこしい親鸞ではあるが。
仏教学部の学生・僧侶になることが決まっている学生たちはどうなったか、当時、退官した東大の哲学教授が、学部の講座を受け持っていた、だから、友人のS君と最前列に座る、出席票が回収されると、後ろで、
「ガタリ」
青ゾリのアタマがドアの向こうに消えて行く、やがて、
「ガタリ・ガタリ・ガタリ・・・」
どんどん出ていって、とうとう2~3名になった、後でS君が、
「なんと失礼な連中だろうか」
「道元禅の後継者が 聞いてあきれる」
「坐禅のつもりで一時間ぐらい ガマンしたら どうだ」
一生を哲学に奉げた老教授は、マスコミに出ることもなく一意専心、ただただ学問の一生、かつてはこういうホンモノがいた、あの実存主義のセンセーとは次元が違う、教授の専門はヨーロッパの中世神学、
「一見 無意味に見える神学の研究 綿密な論理の追究が彼らの頭脳を鍛え上げ 近代の確立に貢献したのかもしれません」
講義が終わると、黒い傘を持って、隣接した公園を散歩しておられた、会釈すると染(し)みいるような微笑を浮かべられた。
「紫水晶のようだ」