官軍の東上、あんなにスムーズに行ったのが不思議だった、徳川の御三家の尾張藩が通したのだ、尾張藩は、頑固な保守派の17人を処分している、それは薩長軍を通過させるためで、
「日本の内乱が 拡大するのを防ぐためである」
明治維新の成功は、尾張徳川家の協力のおかげだろう、明治政府は、この事実を隠しとおしたようだ。それにしても。これまでの維新史は、坂本龍馬については記したが、桂小五郎・西郷隆盛・高杉晋作・・・ずいぶん褒(ほ)めている、実際はどうだったのか。
ここにもうひとつのエピソードがある、こうした事態を予想した徳川幕府の始祖たちと天海和尚は、上野に東叡山寛永寺を建立し、その一坊に皇族を置いた、これが輪王寺(りんのうじ)の宮、それ故に、徳川方にも「錦の御旗(にしきのみはた)」があり、これを描いた錦絵が残存している。
もうひとつ、箱館(はこだて)に向かう開陽丸の船室で、この宮様が「天皇に即位」したというのだ、「三種の神器(さんしゅのじんぎ)」もなしにそんなことが可能なのか、明治の中期、これを追究していた歴史学者がいたが、終に、その証拠・文書を探し当てられなかったようだ。
ところで、徳川方の者は、今なお、正当に評価されていない、さわやかな若者がいる、江戸で高名な道場の跡取りだったが、中年の高弟に道場を譲り、榎本とともに蝦夷に向かう、彼を慕う娘との別れ、
♪ 湯島通れば 思いだす
江戸の男の 心意気
下町娘のなみだ。
かたい契りを 義理ゆえに
水にながすも 江戸育ち
坂本龍馬よりも何倍も潔(いさぎよ)い、この国の歴史が大東亜戦争になだれこんでいったのは、明治維新の評価と反省をしなかったからではあるまいか、多くの若者が箱館(はこだて)戦争で死んでいる、さぞかし悔しかっただろう、さぞかし無念だったろう、
あかぬ別れの 中空に
鐘は墨絵の うえの山
腹黒い公卿(くげ)や貪欲(どんよく)ないなか者、そしてイギリスの遠隔操作、フランスの凋落(ちょうらく)、歴史の流れは複雑だ、そろそろ本当の事実を語るべき時なのかもしれない。