いのしし くん。

政治、経済から音楽全般の評論
ultimate one in the cos-mos

大川小の教訓。 precepts of an ookawa disaster

2016-10-27 20:00:42 | 日記
 (1)日本は狭い国土の自然災害、地震災害国であるのに東日本大震災での巨大津波には安全対応はできなかった。地震情報、津波情報、避難情報のどれもがそして連携が十分に機能しなくて、数千人の犠牲者を出して現在も行方不明者が数多くいる大惨事を招いた。

 天気予報が気象情報に変わって気象衛星などの先端的科学情報を駆使して、気象観測の精度は格段に上昇しているが国民への危機管理情報(crisis control)となると必ずしも進歩していない、現実的に対応していない現実を思い知らされる。

 (2)海外での情報管理が十分でない地域での自然災害を見て、日本のような情報システムが整備されていれば救われた命もあるのではないのかと思っていたが、いざ日本で千年に一度ともいわれて大地震、巨大津波が発生したとなると、結果は同じでむしろ日本の科学的自然災害情報が高いと思われていた分だけパラドックス(paradox)としてすべてが効果的に機能しない現実に強く落胆させられる。

 (3)東日本大震災の巨大津波に襲われて、児童、教職員あわせて84人が犠牲(行方不明を含む)となった石巻市の大川小学校の遺族が市と県を相手に損害補償を求めた訴訟で、仙台地裁は「教員らは津波襲来の7分前に危険性を具体的に予見したのに、安全な裏山でなく不適切な場所へ避難しようとした」(判決要旨)として学校側の過失を認めた。

 大震災の被害結果を受けて安全対応の不備の指摘はすべて結果論から導き出されるが、訴訟による裁判所の結果責任の判断はそうではない。

 (4)児童を預かる小学校の教職員には成長途上で学習、判断能力が備わっていない(それを教育するのが初等教育である)児童の安全、生命を確保し保障する義務、責任を負う。

 そうでなければ親は1日中、学校などに自らの子どもを預けることなどできない。いかなる理由、事由があろうとも学校現場での子どもの安全、生命が保障できなければ結果責任を厳しく問われるのは致し方がない。

 (5)そのための学校規律であり教育、指導の優位性(priority)である。今回の大震災津波訴訟では、巨大津波の襲来が事前に予測できたのかが最大の争点でそれによる避難指示が可能だったのか、適切だったのかで争われた。

 仙台地裁は関係者の証言などから「津波襲来の7分前には危険性を具体的に予見した」のに安全避難指示に瑕疵(かし)があったとして学校側の過失責任を認めた。
 「7分前」というのは巨大津波の襲来、スピードを前にして安全判断が可能であったのかは微妙なところだが、子ども(児童)の命を保障する何よりにまして重大な学校側の責務に対して厳しい判断を示した。

 (6)比較安全性優位の立場、高さからやむを得ない判決だった。これから現実論、結果論になる。
 気象情報(地震情報)の近代化、先端科学技術化によってもっと的確で迅速な情報発信が可能にならないのか、やはり巨大津波襲来の危険性予見が「7分前」では心もとない。

 学校側の震災避難訓練実施、方法論(methodology)は十分だったのか。学校事例によっては日ごろの訓練から児童の「自主的判断」による避難訓練をくり返して、その学校では東日本大震災でも児童被害がなかったという話もある。

 (7)国としても成功例を参考に震災避難の学校基準化により、安全基準の質を高める姿勢、方針が必要だ。
 自然災害、地震災害国日本として、当然の現実的問題、課題としての取り組みが不足している。

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