【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

研究<意見?

2021-06-11 07:46:43 | Weblog

 「専門家の意見を聞く」と二言目には専門家に責任を負わせようとしている政治家が、尾身さんが国会で五輪開催にものを言った瞬間「あんなの自主的な研究だ」と公然と無視する構えを示しました。普段「意見を聞く」と言っていたのは何だ?と思うと同時に「意見は聞くが研究は無視」という態度に、私は茫然。「専門家」としては「意見」よりも「研究」の方が「上」なのですから。「意見」には厳密な根拠は必ずしも要求されませんが、「研究」には必ず厳密な根拠と論証が要求されます。それを「自主的な研究」と切って捨てる政治家は、頭のどこか(おそらく言葉の中枢、あるいは現実認識、あるいは倫理観)が壊れているのではないか、と私は思っています。
 田村さんはあとから「研究の自主性は大切」などの言い訳をしています。もちろん言論の自由があるから、何を言っても良いでしょう。でも私にも言論の自由があるから、言います。「私は、田村さんの言い訳を、信じません。実に見苦しい態度だと思います」。

【ただいま読書中】『猫の大虐殺』ロバート・ダーントン 著、 海保真夫・鷲見洋一 訳、 岩波書店、1986年、87年2刷、3800円

 18世紀のフランス人が何をどのように考えていたのか、それを著者は史料から具体的に明らかにしようとします。日本だったら江戸時代の文献から江戸っ子がどんな人情の機微を感じていたかを明らかにする、といった感じかな?
 まず登場するのは「赤頭巾」。この民話はグリム兄弟で有名になりましたが、その原型は18世紀フランスの農民が語り継いでいたそうです。短いけれど衝撃的な話の展開と結末に驚いていると「これくらいで驚いてはいけないよ」と、18世紀フランス農民版の「眠れる森の美女」「青ひげ」「シンデレラ」「ヘンゼルとグレーテル」「美女と怪物」「三匹の犬」「母が私を殺し、父が私を食べた」などが次々紹介され、そこで「強姦」「同性愛」「近親相姦」「人肉食」などが「子供に毎晩語られる民話」に盛り込まれていることがわかります。
 「民話の解釈」はデリケートな作業ですが、特に「どの民話」を解釈するか、が重要です。後の時代に改変されたもの(つまりは「現代の民話」)を現代風に解釈して「昔の民話に隠されているものがわかった」なんていうのは、滑稽な態度なのです。だってそれは「現在の自分」を語っているのに過ぎないのですから。たとえば「悪魔に与えられた3つの願いをソーセージに使ってしまった農民の話」は、農民の間抜けさを笑うこともできますが、思わず空腹に負けてしまった彼らの悲惨な生活について考えることもできます。
 「猫の大虐殺」は、植字工が書き残した自身の体験です。18世紀フランスで文字が読める庶民は植字工くらい、というのは、言われてみたらなるほど、の指摘でした。仕事でどうしても必要ですから、年季奉公で学んでいたことでしょう。著者はまた「親方や親方の奥方が可愛がっている猫を虐殺する行為」に、親方と職人の間の緊張関係を見ます。奉公人は年季奉公を終えたら建前上は親方への昇進資格が与えられますが、実際には奴隷なみの扱いを受けていました。さらに18世紀には、年季奉公を経由しない無資格の印刷工が「雇い人」として親方に雇われるようになります。この頃から「労働力」は「商品」となり、職人は「(後世の言葉で言う)ブルジョア」に対する「格差」を実感する日々でした。それに対する反発が「猫の虐殺」に噴出し、さらにこれは半世紀後のフランス革命の予兆(時代の雰囲気)と言えるのではないか、と著者は見ています。
 まだ「ブルジョア」とか「知識人」という言葉はきちんと(定義とか共通認識の存在下で)使われているわけではありませんが、すでにその概念を持ってその記録を残したフランス人が何人もいます。私に興味深かったのは、「18世紀中頃の“作家”」について膨大な資料を集めたデムリ警部の記録です。まだ「文筆業」が確立する前、様々な“アマチュア”が様々な文章を様々なルートで発表していました。それをなるべく網羅的に収集するのは大変な作業だったことでしょう。この雑多な塊から著者は「庇護」を抽出します。作家は「作品」を気に入ってくれた有力者から「庇護(社会的地位を与えられ経済的に安定すること)」を受けることを“人生の目標”としているかのようです。西洋では古代ローマ時代から「パトロンから庇護を受けること」は「文化の伝統」だったので、それも当然の行為だったのでしょう。そもそも「印税」という概念はまだ存在せず、出版は出版業者に独占されていてしかも海賊版も平気で横行している時代です。「ベストセラーでウハウハ」という期待はかけらも存在していません。ただ「イデオロギーの力」はすでに存在していました。だからデムリ警部は「作家」を社会的身分としては認めませんが、文芸作品を芸術としては尊重しイデオロギーとしては警戒していました(だから警察の業務として監視していたわけです)。特にデムリ警部が危険視したのは「誹謗」や「告発」あるいは「無神論」でした。これは「フランス国王を頂点に頂く、『庇護』のシステム」に対する脅威になる、と彼は認識していたのです。数十年後に革命が起きることを思うと、彼のこの認識は実に正しかったようです。
 そして「百科全書」や「ルソー」が登場し、フランスは19世紀を迎える準備ができます。