【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

お宝

2017-01-06 07:38:39 | Weblog

 昨年レコーダーを買い換えたら、これがお利口なのかお馬鹿なのか、予約をしていない番組も時々録画していてくれます。その中に「発掘!お宝ガレリア」という番組がありました。日本のあちこちに秘蔵されているお宝、たとえば「社長室にあるお宝」などを訪問して拝見する、という内容です。そこで皆さん、いろいろ熱く語っておられますが、この番組をそのまま「開運!なんでも鑑定団」につないだら、もっと面白くなるかも、なんて意地悪なことを思ってしまった私はやはり意地悪なんでしょうか?

【ただいま読書中】『北京の長い夜 ──ドキュメント天安門事件』ゴードン・トーマス 著、 吉本晋一郎 訳、 並木書房、1993年、3107円(税別)

 1991年湾岸戦争前夜から本書は始まります。アメリカは多国籍軍で戦端を開こうとしていました。しかしイラクに対して軍事援助を積極的に行っていた中国が安保理で拒否権を行使する可能性があります。そこで「切り札」として持ち出された(あるいは「持ち出すぞ」と示唆された)のが「天安門事件」でした。ただしこのカードは、現状維持が得策の西欧諸国にとっても取り扱いに注意が必要なカードでした。巨大市場としての中国は、損なってはならない既得権益および未来の利益だったのです。つまり「天安門」は「中国側の切り札」でもありました。
 鄧小平の改革開放政策は、大学生の間に民主主義を求める動きを起こしていました。それに理解を示していた胡耀邦は保守派の巻き返しで失脚。学生たちはアメリカの支援(特に中国に理解のある次期大統領のブッシュ)に期待しつつ民主化運動を進めます。
 チベットには二七軍が配置され、ゲリラの掃討を行っていました。大学で反革命思想にかぶれてしまった弟を案じる兄は、反動分子・反革命分子のチベット人に銃を突きつけています。
 「アメリカ(ホワイトハウスやCIA)」「中南海(中国の要人の住み処)」「中国の大学」「チベット」などが映画のカットバックのように次々読者の目の前に登場して、短いドラマを演じてすぐ次の場面に移っていきます。その積み重ねの中で、政治的に緊張がどんどん高まっていくことがわかります。まずチベットで大量殺戮が行われます。北京では胡耀邦が心臓発作で急死。弔意を示すため、そして政府に抗議するために、天安門広場に学生を中心とした人々が集まり始めます。その中には、多数の中国公安のスパイやCIAなどの外国諜報機関の工作員も混じっていました。学生たちは「民主主義を実現せよ」と連呼します。はたして皆が民主主義がいかなるものかを理解していたかどうかは不明ですが、何万人ものシュプレヒコールは中南海に緊急事態であるという認識をさせることになりました。しかし、中国政権内部の複雑な権力闘争のため、しばらく様子を見ることになってしまいます。様子を見ることにしたのは、諸外国も同様でした。学生たちは外国からの支援を期待しましたが、それは一切やって来ませんでした。そして鄧小平はついに「暴乱」に対する「雑草刈り」を決断します。
 1989年4月27日(木)デモが始まって12日目、三八軍は北京の地下道路網に展開します。学生たちに急襲をかけることが目的で、武力の使用は最小限と定められましたが、兵士は全員突撃銃で武装していました。地上では警官隊の非常線が非武装の学生たちに各所で突破されました。三八軍がついに出動しましたが、兵力はわずか千。数十万の群集に抗する術はなく、整然と撤退するしか手はありませんでした。それで学生たちはさらに意気軒昂となります。          
 ブッシュは閣議を繰り返します。彼はある程度北京官話が理解できるのでCNNの画面から直接情報を得ることができていました。しかし、学生に支援を表明することは、1週間後のゴルバチョフ訪中を台無しにする恐れがあり、またこれまでの莫大な対中投資を無にする恐れもあります。だからブッシュは静観を決め込みました。
 5月12日、学生の中から志願者(各大学から約400人)がハンストを開始します。ハンストの場所は、2日後にゴルバチョフの歓迎式典が開かれる予定地です。ハンスト参加者を守るように学生たちが円陣を作り、それをさらに市民が取り巻きました。その数、おそらく100万人(天安門広場は100万人が収容できるように設計されていて、そこが人で一杯になっていたことからの推計でしょう)。
 “終わり”が近づきます。ハンスト参加者の体力も、趙紫陽の党総書記としての役割も、中国政府の“忍耐”も、天安門広場の周辺に作られたトイレ(溝を掘ってテントをさしかけたもの)も。政府の意見は強硬手段でまとまりますが(だからチベットから二七軍の一部が北京に再配置させられました)、学生の意見は分裂し始めます。
 ゴルバチョフは不機嫌のまま帰国します。アメリカのテレビ取材班と長時間過ごした学生指導者には、言動に変化が生じます。広場目指して進軍する人民解放軍の前に、パジャマ姿の市民がたちふさがります。全国で20の都市で「暴乱」が起きています。
 6月3日(土)“長期戦”で疲れたために人がずいぶん減ってしまった広場に、正体不明の注射(麻薬?)を打たれ「命令があれば、射殺せよ」と命令された部隊が、投入されます。本書にはアメリカ人の目撃者の「兵士の列が膝撃ちをし、立ち上がって数メートル前進してからまた膝撃ちをした」、あるいは中国人の「撃たれた人の悲鳴を聞いても笑いながら射撃をしていた」という証言があります。救急車が重傷者や遺体を病院に運び込みました(その救急車が撃たれた、という証言もあります)。北京37箇所の病院でその夜だけで入院後に死亡または入院時にすでに死んでいた人は総計4000人。これに路上に放置されたままの死体を加算したら死者数がわかるはずですが、軍隊が死体を積み重ねてガソリンをかけて(あるいは火炎放射器で)路上で“火葬”してしまったので、総数は不明です。さらに病院に行かず、あるいは一度入院しても当局に逮捕されることを恐れてすぐに退院した人たちがその後死亡したかどうかも不明です。人民日報には「軍は人民を誰一人殺さなかった。逆に、将校・兵士・警官が4人残忍にも殺された」と発表されました。そして、一斉検挙と言論弾圧が始まります。
 しかし、イラクがクェート侵攻に使った武器に中国製のものが多かったとか、“ついで”にリチウム6重水素(水爆の材料)も大量に中国から輸入していた、と聞くと、「それでいいのか?」なんてことも思いますね。それと、国内での言論弾圧が現在も継続中であることを世界各国が放置していることも。