むぎの城さんぽ

日本100名城&続日本100名城を巡っています。
近頃は山城歩きもエンジョイしてます!

秋元氏墓地(群馬県)

2020年09月22日 | その他
秋元氏墓地あきもとしぼち
別名
構造墓地
年代1590年(天正18年)
指定史跡市指定史跡
場所群馬県前橋市総社町植野150  地図

総社城初代城主秋元長朝の墓所が元景寺にあります。
長朝の父景朝は、関東管領上杉憲政に仕え、1587年(天正15年)に
ここ勝山の地を与えられました。
しかし、景朝は間もなく病で没してしまいました。
そのため長朝は父景朝を供養するために元景寺を創建しました。



元景寺

元景寺は総社城主、秋元長朝公が父君景朝の菩提供養のために開かれた寺です。
実はこの写真、屋根ばかり移っていますが、門の地べたに地元の方が数人
座って楽しくおしゃべりをされていたので、写さないようにと思ったら
中途半端な画格になってしまいました^^;



参道脇の細い道を奥へと入って行くと駐車場に到着します。
奥には墓地への道と、入口には標柱が見えます。


宝篋印塔

墓地へ。
真直ぐ正面突き当たりにあるのは秋元景朝の墓所です。
正面には宝篋印塔、向って左手が景朝の墓があり、
右手には正室の墓もあります。


秋元景朝

1587年11月12日景朝没。
この時景朝は63歳でした。


正室(春)の墓

景朝の正室、春(妙耕院)のお墓です。
春は、関東管領上杉憲政の養女で春を迎えたことにより地位を確立しました。


側室(戌)の墓

隣には長朝の側室の戌の墓があります。
なぜ側室?とまず疑問に思う。
総社城二代目城主泰朝の母ということらしいのですが…。
家紋に注目してほしい。
なぜか、織田家と浅井家の家紋が付いています。

疑問に思って調べてみると、敷島公園にある「お艶が岩」と関係がありました。
なんと、大坂夏の陣で豊臣秀吉の側室であった淀君が秋元長朝の陣に
助けを求めて来て、かくまったという内容の伝説が書かれた碑があるのです。
それによると長朝は、淀君を篭に乗せ木曽路を通り総社へと戻ったという。
「大橋の局」と名を変えて長朝の側室として暮らしていたようですが、
結局、この岩の上から利根の激流に身を投げてしまったという言伝えがあるようです。



境内にある看板の由来の部分にも淀君のことに触れられた文があります。



また、山門両側の古い梅の木は大阪夏の陣で淀君が長朝に助けを求めて
総社に向かう途中の信濃路で折り取った1本の紅梅が増えたと伝わります。


こっそり逃げて来たから公にもならずにいたのか、
まったくの作り話と思っているのか、こんなビッグ二ユースが話題にならないのは
なんとも不思議ですよね。
もし、本当ならばもっと有名になっていてもおかしくない話なのですが。
では大坂城で自害したのは秀頼だけだったの?
と疑問も沢山残りますが、群馬県には甘楽町に織田信長の次男織田信雄の小幡陣屋もあるので
まったく縁もゆかりも無い場所というわけでもない。
こんな興味深い話があるのに、何か証拠は出てこないのかなあ。
古文書とか出てきたら面白そうなのですが。


令和2年6月21日訪問



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