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信州里山通信。自然写真家、郷土史研究家、男の料理、著書『信州の里山トレッキング東北信編』、村上春樹さんのブログも

「自然へのまなざし 〜江戸時代の自然観〜」川中島古戦場の長野市立博物館へ。戌の満水と善光寺地震(妻女山里山通信)

2023-10-28 | 歴史・地理・雑学
「江戸時代は、西洋科学の影響を受けて、自然の見方や世界観が変わっていく時期です。西洋からの技術や知識の影響により、自然の描写は写実的になり、宇宙観や自然観も大きく変化しました。」とパンフレットにあります。入館料は常設展と合わせて300円。11月3日は無料です。常設展の川中島の戦いの展示や動画が人気で県外者も多く訪れます。

 こじんまりとした展示ですが、なかなか充実した内容でした。撮影禁止以外は撮影が可能です。

「旧松代藩領明細地図」信濃教育会蔵。上が南です。割りと正確な絵図なので、地名を入れてみました。妻女山と記してあるのは展望台のある現在の妻女山(旧赤坂山)ではなく旧妻女山で本名は斎場山です。上杉謙信公御床几場と書いてあります。川中島の戦いの本陣ということです。旧松代藩領ということから明治時代に作られたものでしょう。松代城内は更地になっています。

 現在の川中島は、集落や街が連続していて境界が分かりづらいのですが、当時ははっきりと分かります。赤い線は道路ですが、山の周囲や川沿いに引かれた黒い直線はなんでしょう。測量のポイントでしょうか。左上に丸く描かれた皆神山。その下に尼厳山(あまかざりやま)。灰色に描かれた旧千曲川の河道が松代城のすぐ脇を流れていたことが分かります。戌の満水の時に殿様が船で逃げたという話も納得できます。

 寛保2年(1742)の戌の満水の被害を記した絵図。上が北です。濃いグレーに白い点々があるところが、洪水や山崩れの被害が出た場所です。被害の大きさが痛いほど分かります。善光寺と松代の文字は読めると思います。上が犀川、下が千曲川。新潟に入ると信濃川になります。

 妻女山付近の被害の様子。岩野村では村人の約3分の1にあたる160人(男58人、女102人、馬2頭)が亡くなり、家屋144戸が流出という未曾有の被害を出しました。松代藩最大の犠牲者を出したのです。我が一族も二人が犠牲になり、助かった娘が岸に上がると着物のたもとの中に蛇がたくさん入っていたという話が残っています。この絵図は左が北、右が南、上が東、下が西です。
信州『松代里めぐり 清野』発刊と戌の満水など千曲川洪水の歴史(妻女山里山通信)

「於桜村土肥坂望*鑪村震災山崩跡之図」(長野市芋井)。松代藩の御抱絵師、青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3〜1903明治36/1804〜1901の説も)の絵。雪卿は、松代藩が壊滅的な被害を受けた弘化4年(1847)に起きた善光寺地震から3年後の嘉永3年(1850)、藩主真田幸貫公(感応公)の藩内巡視に同行し、120日間をかけて「伊折(よーり)村太田組震災山崩れ跡の図」(真田宝物館蔵)などを描き上げました。雪卿は我が家の近所にあり名主をやった先祖とは幼馴染で親友だったそうです。虫倉山は、上部が硬い凝灰角礫岩(荒倉山火砕岩層)で、下部が柔らかい砂岩など。その境界部辺りの岩石が大崩落し、大田の集落を全滅させました。
*鑪村はたたらむらと読むのですが、この村はたたら製鉄と関係があったのでしょう。鑪(たたら・ろ)。

「鑪村震災大岩崩跡之図」(長野市芋井)あちこちで山体崩壊が起きた様です。善光寺地震では死者総数8,600人強、全壊家屋21,000軒、焼失家屋は約3,400軒を数えました。折しも善光寺御開帳の真っ最中で死者が増えました。参拝者の生存率は1割ぐらいとか。松代藩の立てた慰霊碑が、妻女山展望台の裏にあります。
青木雪卿が描いた善光寺地震絵図 現在との対比:現在の場所の写真との対比が凄い。雪卿の正確な描写が光ります。

「須弥山儀」嘉永3年(1850)田中久重作。世界は須弥山を中心に広がっているという古代インドの宇宙観が仏教とともに伝来。太陽と月が時計仕掛けで動くようになっています。北信五岳の妙高山はそれが元の命名です。

 伊能忠敬と交流があったという三重県津市稲垣家の定穀作の「地球儀」。オランダ製の地図を参考に製作したと考えられていますが、当時はもっと正確な世界地図があったので、かなりいい加減な地図しかなかったのでしょう。

「天球図」司馬江漢作。天の赤道の北側と南側の星図が描かれています。中国星座の上に西洋星座が描かれている珍しい天球図です。それぞれが何座か分かるでしょうか。

「北斎漫画」。観察力と描写力が凄い。小布施の北斎館は何度も訪れてブログ記事にもしていますがおすすめです。

「異国写鳥図」。孔雀。技法的に稚拙だなと思ったら、これは写本で、元になった絵がある様です。

 明治40年(1907)に牧野富太郎氏が贈呈した「草木図説」。

「人面魚の図」。文化2年(1805)に越中国(富山県)に出現したという人面魚。各地に瓦版や古文書が残っているそうです。ここには人面魚を殺したために金沢城下に火事が出たと伝えています。実際はなんだったのでしょう。左に書いてあるサイズを見るとかなり大きい。

「百鬼夜行絵巻」。夜更けに京の大路を異形のものが練り歩く様。後の水木しげるの「妖怪事典」に通じるものがあります。

「羽毛図巻」。松代藩の御抱絵師である山田島寅(とういん)作。狩野派の系譜なのでしょうか。見事な作品です。

 特別展の後で以前紹介した常設展を観て出ました。川中島古戦場公園(八幡原)は紅葉が美しい。古戦場祭りが開催中で週末には花火大会も。この先に駐車場や土産物屋、蕎麦屋などがあります。なんだか八幡原というより、美大生時代に訪れたパリのブローニュの森みたいだなと思いながら歩きました。

 八幡社の前にある武田信玄と上杉謙信一騎打ちの像。限りなく江戸時代に作られた物語なのでしょうけど、庶民の旅が盛んになり始めた江戸時代中期以降では、善光寺参りの土産物として川中島合戦絵図がたくさん作られ人気だった様です。ちなみに祖先は真田昌幸に仕えた足軽大将で、その長男は真田信繁(幸村)の影武者の一人で大阪夏の陣で討ち死に。もう一人、武田四天王のひとりの山縣三郎の家来で桔梗ヶ原の戦いで手柄を立てて感状と褒美をもらったものが。さらにずっと前に敵方の上杉方の小笠原長時に仕えて武田軍に敗退し村上義清の系統の清野氏を頼って妻女山の麓に定着したものがいます。詳細は不明ですが、戦国時代を生き延びるというのは非常に大変だったことが分かります。

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『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、
『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。
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「真田信之 - 十万石の礎を築いた男 -」真田信之松代入部400年記念 真田宝物館特別展へ(妻女山里山通信)

2022-10-29 | 歴史・地理・雑学
 12月19日(月)まで開催中の、「真田信之 - 十万石の礎を築いた男 -」真田信之松代入部400年記念 真田宝物館特別展に行ってきました。非常に見応えのある展示で、県外ナンバーの車もたくさん見られました。撮影禁止のものもありますが、撮影可能なものも非常に重要です。それらをアップします。信之や幸村の書状とか、真田マニアなら絶対に見逃せないものばかり。
真田宝物館公式サイト

 真田家の歴史から始まります。赤備えのイメージのディスプレイにワクワクします。

「真田昌幸 昇梯子の具足」天衝(てんつく)という大きな前立てと胴の四段梯子が特徴。軽量かつ実用的な仕様だそうですが、この兜の前立ては重くないのでしょうか。兜は何種類か持っていたそうなので、実戦用とかもあったのでしょうか。(左の掛け軸は撮影禁止なので消してあります)

「海津大絵図」で、床にレプリカが敷いてあり、くつのままお上がり下さいとあるのですが、皆さん無関心で見ていかないのです。私は地図フェチなのでじっくりと観察します。松代城を中心に、北は善光寺から南は狼煙山まで。東は奇妙山、西は西山地域まで描かれています。松代城の北に細い古川が描かれていることから、戌の満水の後で大規模な瀬直しが行われた後の地図だと思われます。川中島の集落もそれぞれ分かれていますが、現在は全部つながってしまってどこがどこやら境が分かりません。

 妻女山は、斎場山の場所に記されています。現在の妻女山は赤坂と。倉骨城(鞍骨城)もあります。斎場山と妻女山、赤坂山の混同の入れ違いの歴史については、拙書やこのブログでも何度も記事にしています。BS・TBSの歴史番組で歴史研究家の三池純正さんをガイドをしたこともあります。「真説・川中島合戦」洋泉社新書は一読の価値があると思います。

 皆神山。右奥の三角は狼煙山。武田の狼煙を上げる山城がありました。左奥に地蔵峠も見えます。

 真田家の墓や御霊屋がある長国寺。その奥にそびえる瀧山は奇妙山のこと。清滝も描かれています。左手前に真田幸隆に攻略された尼厳山。拙書でも記していますが、奇妙山は本来は帰命山であり、本名は仏師岳、仏師ケ岳といいます。

 善光寺。越後に通じる北国街道も。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が出版された頃は庶民の旅行も盛んになり、善光寺御開帳には全国から参拝者が集まり、川中島の戦いの絵図がたくさん刷られ飛ぶように売れたということです。幕末頃には、妻女山で上杉謙信槍尻の泉を巡って「霊水騒動」なるものが起きています。槍尻の泉が霊水で万病に効くと噂が広まり、城下や遠く越後からも霊水を求めて人が集まったとか。実は、この騒動を起こしたのは、当時名主をやっていた我が祖先の林逸作ではないかと思っています。おそらく村おこしのために。
上杉謙信槍尻之泉の新事実発見!妻女山湧き水ブームとは・・(妻女山里山通信)

 真田昌幸が信幸にあてた書状。

「大阪落城絵巻」大坂の陣。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣。我が家の祖先は、豊臣方についた真田昌幸の家臣で、足軽大将の林太郎左衛門といわれています。息子は林源次郎寛高といい真田信繁(幸村)の7人の影武者のひとりで大阪夏の陣で討ち死にしたと伝えられています。その後生き残った7人で某所に林村を作ったとか。そのうちのひとり、林采女(林織部?)が松代に移り住み帰農したと伝わっています。激動の戦乱を生き延びたということです。川中島には、「七度の飢饉より一度の戦(いくさ)」という言葉が残っています。度重なる飢饉よりもたった一度の戦の方が嫌だという重い言葉です。

 従四位の下侍従以上の者の冠。該当者は8代藩主・真田幸貫のみとか。彼は白河藩松平家から養子入りし、幕府の老中も務めました。我が家には、その後に老中を務めた松平乗全が描いた『庚辰春日』という白い牡丹を描いた一幅の掛け軸があります。岩野村の名主を務めた先祖が賜ったと思われます。近所には、幼馴染で松代藩の御用絵師の青木雪卿(せっけい)重明が住んでいました。

 黒船来航の際に、松代藩と小倉藩が横浜の警備につきました。その際に横須賀沖に停泊する蒸気船を描いた巻物。当時の横浜は、貧しい漁村でした。今の横浜の元を作ったのが松代藩というわけです。

 特別展示でないと見られない様なものが並んでいます。真田ファンにはお勧めの展示ばかりです。特に書状は、信之や信繁などの心情が見えて興味深いものがあります。

 信之の時代に幕府から問い合わせがあった系図の問い合わせへの返答。滋野天皇から始まっていますね。滋野、海野、根津、望月、真田は同系氏族といわれています。信濃には他に源氏村上がいます。出雲系の諏訪氏や金刺氏、信濃國造になった大和系の子孫や高句麗の帰化人の子孫達は、今にどうつながっているのでしょう。
滋野氏

 高野山での信繁(幸村)の書状。信之が江戸で二代将軍・秀忠のもとでの活躍を目出度いとしつつも、今年の冬は不自由で察して欲しいと。慰みに連歌を勧められたが老いの学問で難しいと言っています。戦の日々で教養を高める時間など無かったのでしょう。

 真田信之が、初代小野お通に宛てた松代移封を伝える書状。倉科の里や田毎の月、朝日山や善光寺などの名所が多くあり、都にも劣らないと。しかし、長生きしたため親しい人もいなくなり、朝夕は涙ばかりだと吐露しています。

 松代城と城下の地図。よく見ると現在の道と同じ通りがけっこうあるのが分かります。千曲川が城のすぐ横を流れているので戌の満水の前の地図だと分かります。

 5代藩主・真田信安が描いたもの。狩野派に師事したのでしょうか。見事な描写力です。

 6代藩主・真田幸弘所要の筆。馬、羊、鹿、狸、猫などの動物の毛だそうです。

 閉じても開いている様に作られた扇子。鮮やかです。

 8代藩主・真田幸貫の子・幸良の性質の貞松院の住居・新御殿の庭。庭園の面影は今も残っています。左奥は狼煙山、右は象山から鏡台山まで続く戸神山脈。武田別働隊が超えたと伝わる山脈です。当ブログでは、古文書に残る地名からそのルートを推測して記事にしています。

 帰りに松代城に寄りました。観光客もちらほらと。中にある大正時代の大きな石碑が松代城ではなく海津城と書いてあるのですが、なぜでしょう。幕末から明治初期の松代藩のことを調べれば分かります。

 松代城(海津城)から見る上杉謙信が最初本陣とした斎場山(妻女山)と、七棟の陣小屋を建てたという陣場平。海津城との距離感が分かると思います。近いです。間者もいたでしょうし、炊飯の煙とか大勢での移動とか丸見えだったと思います。

『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信)

斎場山から天狗山へ。上杉謙信斎場山布陣想像図。古書の虫干しで大発見(妻女山里山通信)

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。地形図掲載は本書だけ。山の歴史や立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。10本のエッセイが好評。掲載の写真やこのブログの写真は、有料でお使いいただけます。

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真田宝物館へ。御用絵師たちと真田の大鎧。見どころ満載(妻女山里山通信)

2019-12-07 | 歴史・地理・雑学
 松代藩十万石のお宝が詰まっている真田宝物館へ。「真田美術館へようこそ!/真田家の大鎧(おおよろい)」を観に行きました。

(左)真田宝物館。この向こうには真田邸があります。文武学校も近くですが工事中です。象山神社と記念館も歩いて行ける範囲です。(右)今回の展示。12月23日までです。週末に通ったら県外ナンバーの車も見られました。撮影禁止なので画像はありませんが、平日だったので学芸員の女性がつきっきりで説明してくれました。非常に興味深い話が聞けました。責任者の方にもお会いできてお話できました。真田マニアなら必見の展示です。

真田宝物館
「真田美術館へようこそ!/真田家の大鎧(おおよろい)」
2019年9月25日(水)~2019年12月23日(月)
「真田美術館へようこそ!」
 松代藩のお抱え絵師・三村晴山(みむら せいざん)と、幕末に松代藩の在野で絵を描いた女性の絵師・恩田緑蔭(おんだ りょくいん)を中心に、松代藩で活躍した絵師の作品をご紹介します。
 前期:9月25日~11月4日 後期:11月6日~12月23日(前後期で展示資料の一部入れ替えを行います)
「真田家の大鎧」
 江戸時代後期に作られ、真田家に伝わった4領の大鎧とそれに合わせた鎧直垂、陣羽織などを展示します。

斎場山から天狗山へ。上杉謙信斎場山布陣想像図。古書の虫干しで大発見(妻女山里山通信):榎田良長という人が描いた『川中島謙信陳捕ノ圖 一鋪 寫本 』が山の形や古道が超リアルだが調べても何者か分からないのです。
『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信):松代藩の御用絵師のひとりに青木雪卿(せっけい)重明と名主を務めた先祖が友人だったという記事。青木氏の子孫とのやりとりも
真田宝物館へ。戦国時代の英雄史観について(妻女山里山通信)


 江戸時代中期以降になると、伊勢参りとか善光寺参りとか、庶民の旅が盛んになります。十返舎一九のやじさんきたさんで有名な十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にもありますが、特にお蔭参りといわれる文政年間のものは、なんと日本人の8人にひとりがお伊勢参りをしたという驚愕の事実があります。善光寺参りも盛んでした。そんな旅人のために「川中島の戦い」の絵図がたくさん売られ好評を博した様です。そこで、個人的にそれらを集大成した展覧会を開催できないものかと真田宝物館で話したところ、長野市立博物館が最適と思いますと言われて訪れました。
 「川中島の戦い」の本を買い、学芸員の女性にその話をしました。朝日新聞や旺文社、キヤノン、パナソニックなどの仕事をアートディレクターやデザインプロデューサーとしていくつもの企画をしてきたので、個人的に川中島の戦いの絵図の集大成が観たいのです。当館のHさんに以前妻女山の初出を訪ねて行ったときに、江戸時代の人たちが見た川中島の戦いの研究をされたらどうですかといわれました。それは面白いなと思いました。しかし、興味は妻女山から斎場山、古代科野国、どこから出雲と大和は来たのかに興味が移ってしまいましたが、やはり、歴史的には全く重要視されない川中島の戦いが気になり始めました。この展示はぜひ開催して欲しいと思います。八幡原にあるこの博物館に最適な展示だと思います。合わせてグッズを販売していただくと嬉しい。川中島の戦いは人気があるので、県内外からの来場者が多数集まると思われます。
長野市立博物館

(左)博物館前の池には鴨がたくさん。(右)八幡社。祭神は、建御名方命(諏訪大社の祭神・大国主命の子)、誉田別命(応神天皇)。

 有名な上杉謙信と武田信玄の一騎打ちの像。史実かどうかは神のみぞ知るということでしょうか。川中島の戦いについては、地元ならではの記事を多数掲載しています。右上でブログ内検索をしてください。我が家もそうですが、近隣の家はほとんどが川中島の戦いに参戦し、その後住み着いた家系が多いのです。色々な口伝が残っていますが、それらを聴き集めて集大成した話は聞きませんね。残念なことです。
上杉謙信と武田信玄「川中島合戦陣取りの図」(妻女山里山通信):榎田良長の川中島の戦いの絵図

(左)八幡社御由緒。大分県宇佐市の宇佐神宮が総本社です。八幡神は、誉田別命(応神天皇)で、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めました。誉田は本田、秦氏との関係があるのでしょうか。大和王朝の祖ともいわれる徐福伝説とも関係があるのでしょうか。(右)「執念の石」。作戦の失敗から武田信玄の軍、武田軍の中間頭原大隅が馬上の謙信めがけて槍をついた外れて逃した。原は無念と傍らの石を槍で突き刺したという。まあ、江戸時代に観光用に作られた物語でしょうね。

(左)川中島大合戦図。この上なく大雑把なペンキ絵です。山並みの形が全くリアルではない。当時の長野市がペンキ屋の親父さんに頼んだのでしょうね。話にもならない図です。妻女山展望台の図も、以前、大阪から来たおじさんが、実際の風景と全く違うではないかと怒っていました。長野市観光課のレベルの低さが致命的に痛い。(右)首塚。戦が終ると、位の高そうな侍の首を切り取って洗って塩漬けにし持っていってあわよくば報奨金をもらう。死んだ侍から刀や鎧を奪い、女子供を売る奴隷市が立ちと綺麗事では済まない。そんな中でこの様なことができたのかはなんともいい難い。

 兵どもが夢の跡。手前に見える土塁は当時からあったとは思えません。この公園が整備されたときにもっともらしく作られたものだろうと思われます。川中島の戦いについては、いくつもの記事を上掲しています。右上の検索窓からブログ内検索で探してください。地元ならではの情報が読めます。

 真田宝物館で収蔵品の絵図を買い求めました。右は長野市立博物館で買い求めたもの。バックは真田信之所用の甲冑の兜をモチーフにしたフェイスタオル。左下に真田家家紋のひとつ「結び雁金」の金糸刺繍が。これは母校の松代中学の校章です。運動会では、真田節を踊りました。

 冷えた体を温めに温泉へ。土口水門からの堤防は、台風19号で越水しました。対岸の岩野橋すぐ上の横田河原は、洪水になると大量の土砂が溜まります。それを削除しなおかつしゅんせつ工事をし、流路を広げています。更に河川敷にもう一つの堤防を作っています。真ん中は凹字型の窪みを作って流れが入るようにしていました。これはどういう工法なんでしょうね。非常に興味深いものがあります。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。地形図掲載は本書だけ。立ち寄り温泉も。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

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面白すぎる! 戸隠地質化石博物館。豊かな信州の里山の初夏 その1(妻女山里山通信)

2019-05-03 | 歴史・地理・雑学
 3日が空いていたので前から行きたかった戸隠地質化石博物館(長野市立博物館分館)へ。昨年の夏は息子たちと糸魚川のフォッサマグナ博物館、一昨年は大鹿村の中央構造線博物館へ行きはまりました。想像以上に素晴らしい博物館でした。いい意味で雑多でカオスです(笑)。おすすめです。

 その前に、ネットで見つけた気になるパン屋さんへ。そのパン屋さんの近くから見る戸隠の西岳の雄姿。手前には長閑な里山の風景。ピンク色はオオヤマザクラでしょうか。

(左)信州鬼無里 野生酵母パン+イートインカフェ ソノマノです。(右)名刺を渡して撮影とブログにアップをさせていただきます。買い求めたのは。いちじくとクルミ(大)920円とマスカットレーズン460円。野生酵母は桑の実だそうです。帰ってBLTサンドにしようと思ったのですが、つまみ食いしたら旨すぎて止まらなく半分ぐらい食べてしまいました。結局BLTとアンチョビのスクランブルエッグをサイドメニューに食べたのでした。
ソノマノ

 406号線を戻って土合の分岐を北上します。戸隠篠ノ井線から標識に従って左折して登ると戸隠地質化石博物館。途中には標識がいくつもあるので迷わずに行けます。柵小学校の元校舎が博物館です。受付で名刺代わりのURLカードと拙書を見せて撮影とブログへの掲載の許可をいただきました。小さな子を連れた家族連れがたくさん訪れていました。

(左)ミンククジラの骨格標本。(中・右)地質化石博物館なのに、昔の小学校の品がたくさん展示されています。これは楽しい。2017年の夏に訪れた遠山郷の旧木沢小学校の展示も良かったですよ。
遠山郷の旧木沢小学校、大鹿村中央構造線博物館、鹿塩温泉山塩館、小渋ダム。大町エネルギー博物館、大町ダム、鬼無里の東京!?(妻女山里山通信)

(左)数字だけなので、これは計算機でしょうか。なんかもの凄く大袈裟な作りがいいですね。(右)ミシン。我が家にも昔足踏みミシンがあって母や祖母が色々作ってくれました。

(左)骨格標本室。その床においてある唐草模様の風呂敷が気になりますよね(笑)。(中)剥製もあります。(右)昔、小中学校の理科準備室にありました。人体模型。無造作に床に置かれた何かの毛皮(笑)。

(左)シロサイの頭蓋骨。笑っています。(中)透明標本。美しい。(右)生き物の体の中。もう本当にそのまんまです。食べ物になるとモツって言いますけどね。

(左)生き物もいます。スッポン。昔、父が千曲川でスッポンを捕まえてきてしばらく飼っていたことがありました。最後は旅館に売ったみたいです。美味です。(中)キイロスズメバチの巨大な巣。(右)蝶の標本。カブトムシの標本も。

(左)水晶。子供の頃、近くの山に水晶を採取に行きました。あれはどこにいったのでしょうか。(中)なんですかねこれは。(右)B型標準携帯音聲(せい)増幅器。いやはや、この様な珍しい機械がたくさん展示されています。

 戸隠に見られる植物の数々。初めて知るものもありました。

 松代藩の御用絵師、青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3〜1903明治36/1804〜1901の説も)が松代城内の茶室から見える風景を描いた「知身貴亭眺望西北之図」(真田宝物館蔵)。彼は我が家の斜め裏に住み、名主を務めた我が家の祖先、林逸作と幼馴染で彼が描いた祖先の掛け軸があり、友の為にと書かれています。
斎場山から天狗山へ。上杉謙信斎場山布陣想像図。古書の虫干しで大発見(妻女山里山通信):青木雪卿と我が家の祖先の関係

 非常に写実的に描かれているのが分かります。御用絵師、青木雪卿は、今でいうと記録を主とするカメラマンの様な仕事をしていたのでしょう。描写は極めて写実的で正確です。川中島は犀川の氾濫原で、大きな集落はなかったことが分かります。人々は山際や自然堤防の上に住んでいました。絵では、茶臼山や陣場平山には樹木がありません。人工の増大で薪が不足し、里山のあちこちは禿山だったのです。明治の埴科郡誌や更級郡誌には、かなりの里山の記述に樹木なしと書かれています。それはプロパンガスの普及まで続きました。逆にプロパンガスが普及し、林業や養蚕が廃れるに至って、里山は急速に荒廃していきました。里山は人の手が入って初めて豊かな自然が保たれるのです。妻女山里山デザイン・プロジェクトは、微力ですがそういう活動をしています。

 その2に続きます。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。郷土史研究家でもあるので、その山の歴史も記しています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。『真田丸』関連の山もたくさん収録。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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松代藩の祖 真田信之の御霊屋と墓所のある長国寺へ。真田宝物館へも(妻女山里山通信)

2018-02-18 | 歴史・地理・雑学
 松代藩の祖、真田信之の御霊屋と墓所のある長國寺(長国寺)を取材で訪れました。到着直後から雪が振り始め、雪中の撮影となりましたが、趣がありそれは素晴らしいものでした。『真田丸』放映の年は、全国から拝観者が大勢訪れたそうです。
「天文16(1547)年、信濃国の在地領主であった真田幸隆が、畏敬する伝為晃運(でんいこううん)禅師を開山第一世に招き、一族の菩提寺として松尾(現・)城内に「真田山長谷寺(しんでんざんちょうこくじ)」を建立しました。その後、永禄7(1564)年に松尾城外へと移され、本格的な禅寺として諸施設を整えました。江戸幕府が開かれると、幸隆の孫にあたる真田信之は上田藩主となりますが、元和8(1622)年の松代移封にともなって現在の場所へと移転し、寺号も「長國寺」(國は国の旧字体)と改めて、今日にいたっています。」(長国寺サイトより)

(左)山門の前にある「長国寺の鶴」の民話。(中)総門。(右)長国寺本堂。六文銭が。

(左・中)本堂の左右の木鼻の振り向き獅子。友人の宮彫り研究家によると、長国寺本堂の木鼻の木彫と向拝部の彫物は、北村喜代松、直次郎(四海)親子のものとか。正面蟇股の裏に刻銘があるそうです。また、本堂の内部には彼らの作った寺額、欄間があるそうです。私が持っている北村喜代松の本で確認しました。彼の木彫は、諏訪立川流や大隅流の様式化が完成されたものと比べると荒削りな感じがしますが、実はそうではないのです。より先鋭的で細く深く欅の特性を知り尽くし、その限界の造形を追求したといえます。諏訪立川流や大隅流に比べると非常に動的でダイナミック。個性的です。(右)山号として真田山(しんでんざん)の文字。

 本殿と境内の風景。雪がちらつき始めました。拝観料は300円。ですが、受付の入り口に「しばらくお待ち下さい」の表示が。しかたなく一人で御霊屋へ。黒い木製の塀で囲まれているので中に入れません。

(左)坐禅堂。修行の根本道場。(中)宝冠文殊菩薩。(右)昭和35年建立の戦没者慰霊堂の放光殿。

(左)恩田木工の墓所。松代藩六代藩主・真田幸弘の時代に藩政改革を行い、宝暦12(1762)年に46歳で没しました。彼の業績については過大評価であるとか色々評価が別れるようです。(中)元々は三代真田幸道公のために享保12(1727)年に建てられた御霊屋です。明治5年(1872)に同寺が伽藍諸堂を焼失したため、同19年(1886)本堂再建の際、この霊屋を現在の場所に移築して開山堂としたものです。(長国寺サイトより)(右)松代藩初代藩主真田信之の御霊屋の門。一般の人はここからは入れません。撮影していると男性が一人出てきました。そして受付に連れて行ってくれました。案内のお爺さんがいました。う〜むこの木札は問題ですね。他にも途中で帰ってしまった拝観者がいましたから。拝観料は300円。参拝者は無料です。

 それで案内された雪の舞う真田信之公の御霊屋。黒い建物は、松代藩の流儀なのだそうです。
「万治3(1660)年に建立された、松代藩祖・真田信之の御霊屋(おたまや)です。桁行3間、梁間4間の入母屋造り平入り、屋根は柿葺き(こけらぶき)の壮麗な建築です。いたるところに透かし彫りや丸彫りが施され、なかでも正面の唐破風の雌雄の鶴は左甚五郎作と伝えられています。内部の格天井には狩野探幽筆と伝わる天井画、奥に禅宗様仏壇を据え、現在は信之公と小松姫御夫妻の位碑を安置しています。国指定重要文化財に指定されています。」(長国寺サイトより)

(左)左甚五郎作と伝わる二羽の鶴。あくまでも里俗伝ですが。どうなんでしょう。(中)正面の左右の木鼻の木彫。左は唐獅子。右はおそらく麒麟でしょう。(右)軒下の鮮やかな木彫。松に椿でしょうか。

(左)御霊屋の拝観料は、500円です。案内のお爺さんが開けようとするのですが、何度やっても開きません。しかたなく真田家の墓所へ。(中)御霊屋裏手の真田家十二代までの墓所。(右)初代信之公の墓所。大明神の位を授かっているので鳥居があります。墓は何度か修復した痕跡が見られます。

 さて戻って御霊屋ですが、鍵が開きません。まあ江戸時代の鍵の構造なんてたかが知れていますし構造も想像できたので、「あのう、私がやってみましょうか」といってやると一発で開きました。やれやれです。
 御霊屋内部は畳敷きで荘厳豪華です。許可を得て撮影しました。これらの文様や木彫には全て意味があります。単なる思いつきのデザインではありません。ひとつひとつに全てメッセージが込められているのです。欄間に彫られているのは、孔雀でしょうか。御霊屋は、元々は五棟あったそうです。色々事情があり移譲されたとか。

(左)格天井。狩野探幽の作と伝わるものですが、里俗伝です。(中・右)左右の絵は、松代藩の御用絵師の作といわれています。

 上は梁を支える肘木ですが、描かれている文様が非常に不思議です。モールス信号の様な破線は何を意味するのでしょう。易経の八卦とも違いますし。肘木の下に掛かっている金属製の透かし彫りも初めて見ました。左右の花は菊でしょう。下には武田の四つ菱かと思われる様な文様もあり、興味深いところです。あるいは亀甲に花菱? 真田家の家紋は「六文銭(ろくもんせん)」「結び雁金(かりがね)」「州浜(すはま)」です。ちなみにモーニング娘。18の羽賀朱音ちゃんと世界的アコーディオン奏者のcobaと私の母校の松代中学の校章は結び雁金です。

 その下の欄間の木彫。孔雀かな。孔雀は仏教では鳩摩羅天という天部の乗り物です。中国で、聖徳をそなえた天子の兆しとして現れるとされた、孔雀(くじゃく)に似た想像上の瑞鳥(ずいちょう)。つまり鳳凰(ほうおう)かもしれません。麒麟・亀・竜とともに四霊(四瑞)と呼ばれました。白い枠からはみ出た頭や羽など、構図感覚も秀逸です。いったい誰の作なのでしょう。これらも左甚五郎でしょうか。

 雪が激しくなってきました。案内のお爺さんはちょっと体調が良くないそうで、そんな中色々お話を聞けて有難うございました。真田宝物館へ向かいます。

(左)善光寺地震の図。中央が山体崩壊した虫倉山。(中)松代城の周囲。左は妻女山山系。上の茶色は土石流に襲われた所。作者不明。(右)松代藩の御用絵師、青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3年から1903明治36年)。雪卿は、松代藩が壊滅的な被害を受けた弘化4年(1847)に起きた善光寺地震から3年後の嘉永3年(1850)、藩主真田幸貫公(感応公)の藩内巡視に同行し、120日間をかけて「伊折(よーり)村太田組震災山崩れ跡の図」(真田宝物館蔵)を描き上げました。伊折村太田組とは、現在の長野市中条太田地区のことです。地震当時、虫倉山が大崩壊して太田組11戸54人が犠牲になりました。
『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信):コメント欄で青木雪卿重明のことが分かると思います。名主をしていたわが家の祖先と幼馴染で親友でした。
善光寺地震

(左)太田組11戸54人が犠牲となった山崩れの図です。現在も林内には大きな岩が残っていますが、下の斜面は段々畑の水田となっています。(右)雪に煙る松代城。本当の春が待ちどうしい信州です。

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本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。
 インタープリターやインストラクターのお申込みもお待ちしています。長野県シニア大学や自治体などで好評だったスライドを使用した自然と歴史を語る里山講座や講演も承ります。大学や市民大学などのフィールドワークを含んだ複数回の講座も可能です。左上のメッセージを送るからお問い合わせください。


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大彦命と布施氏の布制(布施)神社詣でと茶臼山ラッセル(妻女山里山通信)

2016-01-29 | 歴史・地理・雑学
 以前の記事「茶臼山の茶臼ケ城、修那羅城、篠ノ城探索。布施氏の山城は想像以上に大規模でした(妻女山里山通信)」で、望月氏の後裔(こうえい:子孫)である布施氏について記しましたが、その布施氏を祀る布施(布制)神社が、茶臼山を中心として東西南北に4社あります。その内の北の篠ノ井山布施の社と西の山布施にある社は訪れたことがあるので、残りの2社を訪れてみました。前回、『滋野系図』より布施氏は滋野氏(望月氏)の後裔と記しましたが、滋野氏の祖は清和天皇なので、辿ると崇神天皇まで行くのでしょうが、まず間違いなく何度か切れているので真実は霧の中です。

 長野市篠ノ井五明にある布制神社(左)。延喜式式内社で、主神は布施氏の祖といわれる大彦命(おおひこのみこと)。『古事記』では大毘古命と記載。当社は、927年に完成した延喜式に記載があります。他の3社は南向きですが、ここのみ東向き。布施神社が正しい表記ですが、仏教のお布施に繋がるということで現在は布制神社と表記するそうで、これは明治の廃仏毀釈の置き土産でしょう。本来の布施神社に戻すべきです。
『日本書紀』では、崇神天皇10年9月9条で、『大彦命を北陸道へ、子の武淳川別命(たけぬなかわわけのみこと)を東海へ、吉備津彦命(きびつひこのみこと)を西道へ、丹波道主命(たんばにおみちぬしのみこと)を丹波へ派遣したとしされています。いわゆる四道将軍のひとりです。
『古事記』には、崇神天皇が伯父の大彦命を北陸道(越国・高志国)へ、その子武淳川別命を東海道へ遣わせたとあります。日本海側を進んだ大彦命は越後から東に折れ、太平洋側を進んだ武淳川別命は南奥から西に折れ、二人の出会った所を相津(会津)というとあります。 その後、社伝によると、大彦命は五明の布制神社後背(西)の瀬原田の長者窪に居を構えそこで薨去(こうきょ)した(亡くなった)といいます。
 境内にある天満宮(中)と合祀された石祠が数多く並んでいます(右)。明治の廃堂令で長野市に400あったお堂で残ったのは僅か16。現在は40ほどに復活。南方熊楠が猛反対した神社合祀令により多くの産土神が合祀されたり消えてしまったのです。廃仏毀釈や合祀令は、中国の文化大革命に匹敵するといっていい明治政府による非情な文化破壊だったのです。明治政府の祖となる明治天皇が偽物だったのですからそこまでする必要があったのでしょう。詳細は「田布施システム」で検索を。
「1町村1社を標準とし、整理統合された数多くの神社跡は、その神社林が払い下げられ伐採されていく。熊楠の主たる研究対象は、この神社の森に保護された微小な生物であり、神社を単位とした共同体の風習や伝承である。それが一朝にして破壊の危機に立たされた。森がはぐくんできた数千万年の生物が、合祀令によって一朝に消え失せる。産土神を遠くの神社に合祀され、参詣の不便さをなげく村民の声を聞くにつけ、また、合祀後の払い下げを見込んで巨樹の多い神社を合祀の対象に選ぶ神官や郡長らの所行を見るにつけ、熊楠は怒りを爆発させた。」(新・田辺市民読本「南方熊楠」より)拙書でも粘菌のコラムで取り上げていますが、私が敬愛してやまない明治の偉大な研究者です。

 次に南西に車を走らせ、川柳将軍塚古墳の南の麓にある篠ノ井石川の布制神社へ(左)。参道が狭いので一の鳥居の脇に駐車して登ります。鳥居の中に見えるのが川柳将軍塚古墳のある山。400m足らず登ると社殿の赤い鳥居(中)。拝殿は新しく、後背の本殿もそう古いものではなさそうです。拝殿から南南東を見ると森将軍塚古墳が見えます(右)。赤い鳥居の前に東山道支道の標柱が立っています。
 神社に来る途中に長野市指定文化財建物 石造多層塔がありました。高句麗の王族、前部秋足(ぜんぶのあきたり)が延暦18年(799)に篠井性を下賜(かし)されています。それが現在の篠ノ井の名称の元でしょう。この時、多くの高句麗の豪族が帰化しています。高句麗人はツングース系で石の文化を持ち、現在の半島の人とは異なります。長野市には高句麗式積石塚古墳として大室古墳群が、多くが破壊されましたが妻女山にもあります。千曲市には堂平積石塚古墳群があります。

 石川の布制神社の上にある川柳将軍塚古墳(左)。前方後円墳で、地元ではここが大彦命の御陵といい伝えています。その上にある姫塚古墳は、更に古い時代のもので、やや小型で前方後方墳(中)。途中の四阿から南方を見ると森将軍塚古墳が見えます(中央の白い部分)。右上は有明山、左奥は五里ヶ峯。

 これは以前夏に訪れた茶臼山西の山布施にある布制神社(左)。村史には奈良時代後期の宝亀8年(776)創建とあります。拝殿は江戸時代後期のものでしょうか。木彫には諏訪立川流の様式らしき立派なものが見られるのですが、明治の村史には特に記載がありません(中)。これは後で研究者の友人に確認したところ、石川流の山嵜儀作の木彫と分かりました。その木彫の写真と説明は、「山布施の布施神社と諏訪立川流木彫。布施氏の須立之城探訪。陣馬平のカモシカの親子」の記事を御覧ください。
 神社から東方を見ると茶臼山北峰と崩壊してしまった南峯が見えます(右)。

 布施氏の領地を見たいと思い茶臼山へ。先週の雪かきで腰を痛めてしまったので若干躊躇したのですが、旗塚まで車で行けば大丈夫だろうと強引に茶臼山植物園入口のゲートまで車を入れました。積雪は10~30センチでしたが、先に歩いてくれた人が2名ほどいたようで、その足跡を辿りました。山頂西側の登山道(左)。気温が6度なので樹上の雪が落ちる度に粉雪の光の柱が立ちます。アニマルトラッキング。これはニホンジカのもの(中)。ノウサギが駆けまわった跡(右)。

 茶臼山のアルプス展望台から。中央やや左の高い杉の木に囲まれている山布施の布制神社。奥は左から爺ヶ岳、山頂に雲がかかった鹿島槍ヶ岳、右に雪解けの頃に武田菱が現れる五竜岳。北アルプスの仁科三山。命名の元となった仁科氏は、『信濃史源考』では、大和国の古代豪族安曇氏の一支族が仁科御厨に本拠をおいて、土地の名をとって名字としたといわれています。1400年の大塔合戦では、新守護として強圧支配をした小笠原長秀に対して村上満信と仁科氏を盟主とする大文字一揆を起こして守護軍を追いやっています。戦国時代の仁科氏の動静は非常に複雑で、武田に降りたり、信長の代には高遠城主で陥落したり。後に善光寺平に移ったものは故郷の湖を偲んで青木を名乗ったという説も伝わっています。また秀吉の景勝の国替えで付いていったのか米沢にも仁科姓があります。

 右へ目をやると、神城断層地震で山頂が4割も崩壊してしまった虫倉山。松代藩の尊崇が厚かった神話の山です。拙書でも紹介しているさるすべりコースが早く復活するといいのですが。虫倉山は善光寺地震でも大崩壊しており、その様を藩の御用絵師、青木雪卿が描写しています。彼については、「『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信)」を御覧ください。コメント欄も読んでいただくと全貌がかなり見えてくると思います。

 そこから5分ほど北へ下って反対側が見える善光寺平展望台へ。川中島の奥に白い根子岳と黒い四阿山がそびえています。大河ドラマ『真田丸』の真田家と非常に関係の深い山で、麓の山家神社の奥宮が二つ、その間に信仰の原点といわれる小石祠があります。奥宮は拙書でも紹介しています。
 左手前のビル群は、長野冬季オリンピックで選手村になったところ。現在は住宅地。その手前が北陸新幹線。

 右に目をやると、松代方面。プリン型の皆神山の左上に保基谷岳、右に菅平の大松山。左中央に広い畑地が見えますが、地名を御厨(みくりや)といって平安時代に布施氏の荘園があった場所です。大麻を栽培し麻布を朝廷に献上もしていました。布施がつく地名は布施五明、布施高田、上布施、下布施、山布施などたくさん残っています。葛飾北斎と栗で有名な小布施は、鎌倉、室町時代にその名が登場するそうですが、ここも布施氏と関係があるのかもしれません。

 最後に妻女山展望台からの茶臼山。今まで記してきたことは、調べればだいたい分かることなのですが、この妻女山麓の会津比売神社の祭神、会津比売命(あいづひめのみこと)の会津が気になります。
 崇神天皇の命で東征から戻った出雲系の大彦命がこの地に暮らしたとありますが、同じ頃、『古事記』によると崇神天皇は大和系の武五百建命(たけいおたつのみこと)を科野国造に任命しており、森将軍塚古墳がその御陵ではないかといわれています。そして、その妻が出雲系の会津比売命と神社御由緒には記されています。会津比売命の父は皆神神社の祭神、出速雄命(いずはやおのみこと)で、その父は諏訪大社の祭神、建御名方命(たけみなかたのみこと)、その父は大国主命です。出速雄命が大彦命に敬意を評して娘に会津比売と名付けたということは考えられないでしょうか。果てしない妄想ですが、古代科野国は大和系と出雲系が結ばれて造られたといえるのです。

 この会津比売神社は、特異な社で同名の社が他に全くありません。往古は山上にあったが上杉謙信が庇護していたため武田の兵火に焼かれて山陰にひっそりと再建されたと伝わっています。
 延喜元年(901年)に成立した『日本三代実録』には、貞観二年(860年)に出速雄神に従五位下、貞観八年(866年)に会津比売神と妹の草奈井比売命に従四位下を授くとなっています。その後、出速雄神は、貞観十四年(872年)に従五位上に、元慶二年(878年)に正五位下を授くとなっています。当時の埴科郡の大領は、諏訪系統の金刺舎人正長であったため、産土神(うぶすながみ)としての両神社の叙位を申請したものと思われるということです。金刺舎人正長 は、貞観4年(862)に埴科郡大領外従7位に任命されています。
 金刺氏は、欽明(きんめい)天皇( 539 ~ 571年在位)に仕え、大和国磯城島の金刺宮に由来するものです。金刺氏は諏訪下社の大祝(おおほうり・シャーマン)であり、中世に諏訪大社上社大祝によって追放されるまで存続しました。屋代遺跡群出土木簡には「他田舎人」や「金刺舎人」の名が見られます。舎人(とねり)とは、皇族や貴族の警護や雑務をしていた役職。会津比売神社が歴史から消えていったのも、金刺氏の衰退と関係があるのかも知れません。
 また、『松代町史』(上巻)第二節には、この地の産土神(うぶすながみ)と伝わる皆神山にある皆神神社(熊野出速雄神社)の祭神で、諏訪の健御名方命の子でこの地の開拓を任じられた出速雄命(伊豆早雄)と、その御子である斎場山(旧妻女山)の麓にある会津比売神社の祭神・会津比売命(出速姫神)の、会津(あいづ)または出(いづ)が転訛して松代の古名である海津となったという説が記されています。

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。陣馬平への行き方や写真も載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

お問い合せや、仕事やインタビューなどのご依頼は、コメント欄ではなく、左のブックマークのお問い合わせからメールでお願い致します。コメント欄は頻繁にチェックしていないため、迅速な対応ができかねます。

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斎場山から天狗山へ。上杉謙信斎場山布陣想像図。古書の虫干しで大発見(妻女山里山通信)

2015-12-28 | 歴史・地理・雑学
 週末から寒気が入って日曜の朝は粉雪が舞っていました。しかし、盆地は積もることもなく日中はよく晴れました。12月はまだ一度も積雪がありません。所用のついでに妻女山へ。斎場山から久しぶりに北へ延びる尾根の天狗山へ行ってきました。最初は、陣馬平からログハウスへ寄るつもりでしたが、その奥の谷から狩猟の銃声が聞こえたため引き返しました。ヤマドリを狙っているようです。正月の鍋や雑煮の材料にするのでしょう。ヤマドリは絶品ですからね。

 斎場山へ。第四次川中島合戦で、上杉謙信が最初に本陣としたと伝わるのがこの斎場山古墳の上なのです。下の妻女山展望台のある場所ではありません。古名は赤坂山。斎場山が地元で言う本来の妻女山なのです。夏は樹木の葉が生い茂るのでほとんど展望はありませんが、今の落葉期で積雪がない時が一番の見晴らしが得られます。妻女山から20分。ぜひ訪れてください。拙書でも詳しく紹介しています。

 一旦長坂峠へ戻って、天狗山へ向かう北東面の巻道をトラバースします。5分ぐらいで天狗山の先端に着きます。ここから前阪といって西側に下りる道があり、つづら折れで下って行くと旧岩野駅に出ます。この道は江戸時代の絵図にも登場する古道です。写真は、その天狗山から妻女山(旧赤坂山)方面の眺め。松代PAの向こうに松代城跡(海津城跡)が見えます。意外と近いのです。松代PAからは高速には乗れませんが、403号からPAを利用することができます。松代PA辺りは猫島といい、その北には猫ケ瀬といって猫でも渡れるほどの浅い瀬があったといわれています。展望台と招魂社の手前の斜面は、酷い藪になっていますが、2枚下の写真で分かるように昔は梅林でした。現在も少し残っていて春には花を咲かせますが、ほとんどが老木となり枯れました。手入れをしないと里山はこんな風に荒れてしまうのです。

 これは江戸時代後期に榎田良長という人が描いた『川中島謙信陳捕ノ圖 一鋪 寫本 』という斎場山に布陣した上杉軍の布陣を描いた絵図です。「出典:東北大学附属図書館狩野文庫(平成20年5月23日掲載許可取得済)」
 それに分かる限り地名を入れてみました。これだけ記入できるというのは、この絵が極めて事実にそって写実的に描かれているということなのです。千曲川は戌の満水以後の瀬直し後の流路なので、推定で戦国時代の流路を入れてみました。堤防もないわけですから好き勝手に流れていたわけです。赤い線は山道なのですが、驚くべきことに現在もほとんど辿ることができます。笹崎の中腹を通る谷街道は、江戸時代にできたので戦国時代にはなかったはずです。笹崎の先端は、瀬直しの際に大きく削られ崖地になっており、上信越自動車道の薬師山トンネルがぶち抜いています。
 赤坂山(現妻女山)下の蛇池は、千曲川の河道の名残で、高速道路ができるまでは残っていました。赤い丸は上杉軍を現します。上杉謙信槍尻ノ泉が現在と異なる場所にありますが、これは明治時代になり外国から伝染病が入った時に避病院を作るため泉を利用し、泉はその後別の場所に移されたからです。現在の泉も、私が子供の頃はもう10mほど上の桑畑の中にありました。大河ドラマ『天と地と』の時に、うちの父たちが道路沿いに下ろして石碑を立てたのです。かように物語は作られていくのです。
 江戸時代後期は、お伊勢講や善光寺参りなど庶民の旅も盛んになり、川中島合戦の絵図などが土産物として非常に売れたのだそうです。文政のおかげ参りなどは、日本人の8人にひとりが行ったという狂乱ぶり。これも調べると非常に面白くて病みつきになります。

 上の写真は、かなり前、今はない出版社から買い求めた掛け軸になった航空写真で、戦後GHQが撮影したもので、日本の隅から隅までを調べ尽くしたのです。天皇陵までも暴いたことは知られていませんね。そこで田布施システムが浮上するわけなんですが。写真のアングルはほとんど上の絵図と同じなので比較すると面白いと思います。この頃は養蚕や果樹が盛んで、麓から尾根上まで畑がたくさん見られます。それが現在と一番違うところです。黄色い線は、現在の林道や山道です。この頃は、403号から妻女山、斎場山へ行く広い林道はありませんでした。よく見ると今とは違う細い山道が見えます。それらは残っているものもあれば、林道によって切断され消滅してしまった箇所もあります。

 妻女山松代招魂社。六文銭の紋があるように戊辰戦争以降の戦没者を祀った神社で、上杉謙信とは無関係です。本殿の後ろには、亡くなった戦士たちの墓標が並んでいます。そこから北へ歩くと四阿と赤坂山古墳ともいわれる小さな丘。大正天皇と真田氏のお手植えの松跡と、善光寺地震の慰霊碑があり、その先に展望台があります。戊辰戦争で会津若松城をメリケン砲で破壊したのは松代藩でした我が一族の先祖の一人は高遠藩の保科正之に仕え、後に豪商となって会津藩を支えました。その末裔は今も会津で商人をしています。皮肉にも戊辰戦争はある意味信州人同士の戦だったのです。それ以前、秀吉の国替えにより上杉景勝が会津に転封されましたが、善光寺平の土豪は全て家来であったため、家族家来が全員会津に移りました。その後の保科正之の転封と、会津は信州人が作った街なのです。更に私のブログをずっと読んでいる方は分かると思いますが、横浜は松代藩が作った街です。

 展望台から見た八幡原(はちまんぱら)方面。赤坂橋の上に見える森がそれです。初めて訪れた人は、川中島が思っていたよりもずっと広いといって驚かれます。この展望台へは車で行けますが、上杉謙信槍尻ノ泉のカーブが急で、泉の水が溶けて凍っているとスタッドレスでも登れない時があります。冬の晴天後一旦溶けた後の凍結と春先が特に危険です。登れない場合は、高速のトンネル前に駐車して徒歩で約15分です。

 久しぶりにいい天気なので、古書の虫干しをしました。『歴代草書選 5巻』白芝山編 大観堂です。5巻を厚紙を布で覆ったもので巻くのですが、留め金がさり気なく象牙です。意外と状態がいいので明治時代のものと思っていましたが、調べると文化13序、嘉永2(1849年)と分かりました。いわゆる草書辞典です。

 肖像画は、幕末に生きたわが家の祖先で、岩野村の名主を長きに渡って務めた林逸作です。作画は、松代藩の御用絵師、青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3年から1903明治36年)。家が近所でひとつ違いのためか、近しい関係にあったようで、友の為にと書かれています。逸作爺は、善光寺御開帳の時にたまたま隣り合わせで意気投合した夫婦から、縁ができ小さな頃に養子に来た人物で、享和4年(~2月10日)文化元年(2月11日~)(1804)の生まれ。天保2年(1831)の古文書(妻女山の霊水騒動が起きた頃)、弘化4年(1847)の名寄帖、安政2年(1855)の古文書があり、描画は元治元年(1864)61歳とあることから、少なくとも27歳から51歳、あるいは60歳まで名主を務めたということになります。おそらく彼は、林一族の娘を妻にしたと思われます。彼が妻に買い与えた高価な鼈甲(べっこう)の簪(かんざし)や櫛(くし)などを見ると、大本家の娘をめとったのかも知れません。かなり贅沢をさせています。
 林逸作の時代は、天保の大飢饉、天保の改革失敗、善光寺大地震、黒船来襲と一気に幕末から明治へと移る激動期です。松代は尊皇攘夷に固まり、官軍として戊辰戦争に参加。その功績から明治新政府には松代から多くの人が入ったそうです。明治政府の事実は、維新などでは全くなく、薩長の田舎侍を使って英米仏の金融資本がクーデターを起こさせて作り上げた傀儡政権ですが。田布施システムで検索を。
 ところで上の草書辞典は、逸作爺が使っていたものかもしれません。と思って肖像画を見ると、彼の後ろの座卓に乗っている本が正にこれではないですか。いや驚いた。間違いないでしょう。167年前の本でした。
 右は、『新字鑑』で、古い漢字を調べる時に重宝しています。これはずっと新しい戦後の本ですが、これについては以前「愛と魑魅魍魎の『新字鑑』」という記事を書いています。編者は、漢学者の名門の家系に生まれた中国文学者、塩谷温ですが、劇的なエピソードがあります。興味のある方は、リンクの記事を読んでみてください。切ない話です。
 今年の更新はこれが最後になります。ご愛読ありがとうございました。自然や歴史記事はもちろんですが、ネオニコチノイド系農薬の記事へのアクセスが非常に目立ちました。来年は2016年、2017年代問題の嬉しくない幕開けです。世の中も非常に不安定です。一人一人が人任せにせず、情報を精査し、疑い、自分で考え行動しないと日本は本当に終わるでしょう。では、皆様が健康で過ごせますように。良いお年を。

◆関連リンク記事
上杉謙信斎場山布陣想像図
『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信)
岩野村の伊勢講と仏恩講(ぶっとんこう)。戌の満水と廃仏毀釈。明治政府の愚挙(妻女山里山通信)
愛と魑魅魍魎の『新字鑑』

『信州の里山トレッキング 東北信編』川辺書林(税込1728円)が好評発売中です。陣馬平への行き方や写真も載せています。詳細は、『信州の里山トレッキング 東北信編』は、こんな楽しい本です(妻女山里山通信)をご覧ください。Amazonでも買えます。でも、できれば地元の書店さんを元気にして欲しいです。パノラマ写真、マクロ写真など668点の豊富な写真と自然、歴史、雑学がテンコ盛り。分かりやすいと評判のガイドマップも自作です。その山の名前の由来や歴史をまず書いているので、歴史マニアにもお勧めします。

本の概要は、こちらの記事を御覧ください

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岩野村の伊勢講と仏恩講(ぶっとんこう)。戌の満水と廃仏毀釈。明治政府の愚挙(妻女山里山通信)

2015-01-26 | 歴史・地理・雑学
 今回の記事は、自分自身の備忘録としての側面が強いもので、善光寺平南端にある千曲川畔の小さな集落の歴史の話です。状況に応じて、その都度加筆修正します。歴史や郷土史、民俗学や文化人類学に興味のある方には、面白い内容だと思います。名もない寒村の話なのですが、この記事へのアクセスがトップのBABYMETALの記事についで多いので驚いています。アンダーラインのある文は、全て過去記事や外部へのリンクです。過去記事も読むと、本を一冊読むぐらいの量になりますが、興味のある方は、ぼちぼち読んで下さいませ。
                
 川中島の戦いで有名な妻女山の麓に岩野(いわの)という集落があります。明治の埴科郡誌によると、古代は斎場山(旧妻女山)の麓にあることから斎野(いわいの)といい、室町時代の延徳年間(1489~1491年)に上野村(うわのむら)と改称されます。この時代に国中で疫病が大発生し、延徳から明応へ改元せざるを得ませんでした。当地でも疫病が猛威を振るったのかもしれません。そして、江戸時代中期の始め、寛文6年(1666年:松代藩領内の総検地あり)に現在の岩野に改称されました。最初の改称の理由なのですが、疫病だけではなく、斎野という名称そのものが疫病の流行と共に忌避される対象となった可能性もあります。
                
 斎場とは、古代においては祭祀(さいし)を行う清浄な場所という意味だったのです。「齋(いつき)の場」あるいは「ゆにわ」ともいわれました。隣の清野村の清野は、古名を須賀野(菅野・すがの)といい、清々しい野という意味。どちらも神聖なる場という意味でした。古代科野国の聖地だったのです。
 ところが、斎場という語は時代を経るに連れ、単に葬儀、あるいは葬儀場を意味する言葉に変容して行きます。殯(もがり)という古代の、死体が白骨化するまで見届け、死を受認するという風習も、大化の改新の薄葬令や仏教の伝来と共に消えました(その名残がお通夜)。そんなわけで、いつしか忌避の対象になってしまい、改称を余儀なくされたということでしょう。
妻女山の位置と名称について「妻女山は往古赤坂山であった! 本当の妻女山は斎場山である」
                
 明治の土口村誌には、斎場山の代わりに松代藩が付けたと思われる妻女山という名称は最も非なりと否定し、読みと意味が同じことから祭場山とすべきであると記しています。妻女山の妻女は、上杉軍が残してきた妻女を想いなどという伝説がありますが、そんな下世話な話ではなく、山上(御陵願平)に神社があり謙信が庇護していたという、信濃国造の妻であった会津比売命のことを想定して付けたのだろうと思います。山上の神社は、戦後武田軍により焼かれ、後に現在の山陰に再建との里俗伝があります。詳しくはリンクを。
                
 会津比売命は、『日本三代実録』貞観8(866)年6月甲戌朔条(最初の行)の記述に、「授信濃國-無位-會津比賣神 從四位下」と記されています。官位のない会津比売命に従四位下(じゅしいげ)の位を授けますよということです。かなり高い位を授かっています。その理由は、大和王権より初代科野(信濃)国造に任ぜられた武五百建命(たけいおたつのみこと)[古事記]の室(妻)といわれているからなのです。父は皆神神社の祭神・出速雄命(いずはやおのみこと)で、祖父は諏訪大社の祭神・建御名方富命(たけみなかたのみこと)。その父は大国主命です。この科野で、出雲系と大和系が結婚したのです。これはある意味衝撃的な出来事だったはずです。一緒に従四位下を授かった、草奈井比賣神というのは、会津比売命の妹です。さぞや美人姉妹だったことでしょう。
 会津比売命と、父の出速雄命(いずはやおのみこと)については、「松代の古名・海津という地名の起源」を。武五百建命と会津比売命については、以前の記事「古代科野国の初代大王の墓といわれる森将軍塚古墳の歴史検証」をお読みください。『會津比賣神社御由緒
                
 享保16年(1731年)、藩主は第四代真田信弘の時代に編纂された真田氏史書『眞武内傳』の川中島合戦謙信妻女山備立覺には、「甲陽軍鑑に妻女山を西條山と書すは誤也、山も異也。」とあります。戦国時代は口述筆記のため、読みが合っていれば漢字はどうでもよかったのですが、松代藩、怒ってますね。松代には西條山(にしじょうやま)という別の山がありましたしね。しかし、藩が命名した妻女山は、不評だったわけです。妻女山の初出は、現在調べた限りでは、江戸中期初めの正保4(1647)年、幕府の命により作られた『正保国絵図』です。制作には松代藩が関わっています。戦国時代には、妻女山という山名はありませんでした。恐らく西条山と誤記されることに業を煮やした松代藩が、改名したのでしょうが、この名称は全国的に全く普及しませんでした。マスコミもネットもない時代ですから当然です。
                
 いずれにせよ、斎場山という本名が、妻女山という俗名に変えられ、昭和の時代に赤坂山へその名称が移ってしまったということなのです。でも岩野は岩だらけでもないのに、不思議な村名だなと子供の頃に思っていました。祝野という名称があったという里俗伝もあります。まあ、優秀なコピーライターがいなかったということでしょうか。現代も、歴史を無視した大手ディベロッパーがつけた安っぽい町名が全国あちこちにありますね。歴史に学ばない者は、いずれ歴史に逆襲されます。歴史の記憶を失うことは、己を失うことです。文化を失うことです。
                
 岩野の集落は千曲川の畔にあるため、古代より度々洪水の被害に遭い、平安時代の貞観、仁和の大地震では、八ヶ岳が突然水蒸気爆発をおこし崩壊。千曲川・相木川を堰き止めて“大海(南牧湖)”や“小海湖”を造り、翌年大決壊して善光寺平までその被害は及んだといいます。小海湖は、江戸中期まであったようですが、恐らく「戌の満水」で決壊して消滅したのでしょう。当地は、その後も幾度も洪水の被害に遭っています。
                
 そして、なんといっても前述の江戸時代中期1742年(寛保2年)に起きた「戌の満水」では、村人の約3分の1にあたる160人(男58人、女102人、馬2頭)が亡くなり、家屋144戸が流出という未曾有の被害を出しました。松代藩最大の犠牲者を出したのです。原因としては、北流していた流れが、蛇行を無視して一気に西から村を襲った。増水の速度が異常に速かった。山際でいつでも逃げられるという油断があった。山際の方が海抜が低く逃げ遅れた者が流された。などが考えられます。
 その時の村のある組の伊勢講帳には、数人で伊勢講へ代参したことが書かれているそうです。それらの話を、『ムラにおける講集団とその役割」ー岩野地区の伊勢講を事例としてー』という論文にまとめた女性が近所にいます。彼女は調査のほとんどを、一昨年鬼籍に入った父から聞き出したそうです。父の葬儀には彼女も参列してくれ、お爺ちゃんがいなければ卒業できませんでしたと言っていました。私の息子が、祖父の話で卒論を書くと言ったら止めたでしょうけどね。卒業できなくても知らんぞと(笑)。父もなかなかやるなと思いましたけれど。それをきっちりまとめて論文にした彼女も凄いなと思いました。こちらで、その概論が読めます(19番目)
                
 その論文で彼女は、岩野の伊勢講が、信仰的な側面だけでなく、講仲間によって葬儀の際に野働きといって、埋葬の穴を掘ったり、納棺や棺を担いで墓地まで行き埋葬する役割があったということを記しています。葬儀において村人の相互扶助的な役割があったということです。内働きは、内輪(ウチワ)や隣家(リンカ)がやるわけです。その性格のためか、逆に土葬が無くなると同時に、伊勢講も消滅したと母は言っています。そして、奇しくもその最後の土葬となったのが、1972年に鬼籍に入った祖母だったのです。
 彼女は、幾度も聞き取りに見えた様ですが、父は歴史の話ができるのが相当嬉しかったのか、何度もその時の話をしてくれました。まあ、若くて可愛い美人の娘さんが、熱心に話を聞きに来てくれるのですから、それは楽しかったでしょうよ(笑)。しかし、卒論にするとは知らなかった様です。父が彼女の名前をお姉さんのそれと間違えていたというのはご愛嬌でしたが。父の最晩年に幸せな時間を作ってくれた彼女には、本当に感謝しています。非常に聡明な女性なので、臆せず色々なことにチャレンジして欲しいですね。彼女とは、民俗学の話を色々としてみたいのですが、なかなか会える機会もないのが残念です。
 ひとつは、彼女が論文で戌の満水以後に、村の代表が伊勢参りに(代参講)として行ったと書かれているのですが、それは何年後か。村の財産がすべて流失したので。旅行費用はどう捻出したのか。戌の満水以後に伊勢講が始まったと記されていますが、それ以前に松代藩の古文書に伊勢宮の記述があるが、それはどう説明するかなどです。伊勢講自体は戦国時代に始まり、江戸時代になり発達した経緯があるわけで。しかし、小さな集落で古文書も流失し、旧家にあるかもしれない古文書も埋もれたままで、非常に解析が困難なのです。
                
 そうそう、彼女の家の大本家の庭で、晩年の後藤新平と村の重鎮達が撮った写真があります(村会議員だった若い頃の祖父も)。彼はなぜこんな小さな村にわざわざ訪れたのか。以前の記事、【1930年頃の日本】OLD JAPAN-1930s と 東京復興の父・後藤新平。リンクの記事では、ナショナル・ジオグラフィックの貴重な当時のカラー写真のスライドショーと、後藤新平と祖父の写った写真も掲載しています。震災からの復興を成し遂げた現東京の父ともいうべき後藤新平が、腐敗しきった現在の政治家、官僚、財界人と放射能で汚染された東京を見たらなんと言うでしょうか。
                
「戌の満水」で、伊勢講が始まったと思っていたら、前記の『眞武内傳附録』(一)川中島合戦謙信妻女山備立覚において、上杉軍の斎場山(旧妻女山)布陣を書いているのですが、「赤坂の上に甘粕近江守、伊勢宮の上に柿崎和泉守、月夜平に謙信の従臣、千ケ窪の上の方に柴田(新発田)道寿軒、笹崎の上、薬師の宮に謙信本陣」と記されているのです。戌の満水より11年前の記述です。既に伊勢宮があったことが分かります。伊勢宮とは、西幅下の笹崎の近くにあったらしく、祖母がよく伊勢宮の畑に行って来ると言っていたと父から聞いたことがあります。その土地は後年洪水で流失しました。そのいずれかの洪水の際に、伊勢宮も流出し、その後も伊勢講は続いたのですが、伊勢宮は再建されなかったということでしょうか。どこかに移されてないかと色々探しているのですが、明治生まれがもういないので難しいですね。
「戌の満水」の後に松代藩が行った大規模な瀬直し(領民を守るためではなく、松代城を守るため)では、幕府に城普請の許可を得るとともに、一万両の拝借金を許されました。そのことが松代藩の財政を逼迫させ、領民に多大な辛苦を強いることになりました。領民の復興は後回しにされたのです。なんだか、福島第一原発事故後の日本と似ていますね。
                
 講自体は、戦国時代に組織が強化されたそうですから、当地の伊勢講も実はもっと古いのかも知れません。千曲川畔の各地には伊勢宮が数多くあります。加えて近隣の山には、御嶽講や大山講などの石碑や石像もあちこちに残っています。里山トレッキングをしていると、古墳や塚や、石碑や石像に遭遇することがあるのが楽しみなんです。
 だいたいこの地は川中島の戦いで戦場になったわけで、元からいた住民で戻ってきた者もいるでしょうが、現在の住民の多くは戦後移り住んだ武士が帰農したといわれています。我が一族も、小笠原長時に使えたとかとかなんとか*。元は松本の林城辺りの出とかなんとか。分かっている最初の祖は、林采女(うねめ:宮中の女官を束ねる官職名。戦国時代以降勝手に名乗る風潮があった。佐久間象山は修理)といって、戒名を釈林斎(ここに斎場山の斎の字があることが重要)といい、薬師山の北山隧道の上に天正10年3月10日没と記された墓があります。墓の様式は戦国時代のものではなく、明らかに幕末ごろのもの。集落の苗字を見ても、元々は武田か上杉に使えた武士だろうと思われるものが多いのです。そんな系図の村ですから、講への参加も早かったかもしれないと思うのです。
*これは後で誤りと判明。先祖は武田信玄の四天王のひとり山縣三郎昌景に使えた林織部というものがおり桔梗ヶ原の戦いで手柄を立て褒美をもらったという感状書の写しが残っています。また真田昌幸に使えた足軽大将の林太郎左衛門というものがおり、その長男は真田幸村(信繁)の7人いたという影武者のひとりで大阪夏の陣で討ち死にしています。その後、岩野に居を構えたのか、それ以前の川中島の戦いの後に移り住んだのかは分かっていません。
                
 数ある講の中でも伊勢講は非常に盛んだった様で、特に60年周期の「お蔭参り」で検索すると分かるのですが、当時の伊勢参りというのは、本当に凄いもので、1705年(宝永2年)のお蔭参りでは、参詣者が330万~370万人。当時の人工が2800万人弱ですから、なんと日本人の8人に一人は参拝したということになります。伊勢講のメンバーで積立をし、くじ引きで当たった数人が代参するのが習わしだった様で、他の村の記録を読むと、農閑期に、短くても数ヶ月、東北や九州からだと半年も旅をした様です。山梨県上野原村の記録では、伊勢参りだけでなく、京都や奈良にも行っています。この熱狂ぶりは、経済を活性化する側面もあり、庶民の不満のガス抜きの効果もあって、幕府にも止められなかったのでしょう。実際に他国の文化を経験する事で、得られるものも大きかったはずです。無尽講や頼母子講なんていうのは、今でも残っている地域があります。
 たまたま蔵書にあるのを見つけて読み始めたのですが、岩波新書の江戸時代シリーズで、『「おかげまいり」と「ええじゃないか」』藤谷俊雄著。これは面白い本です。江戸時代の人々の熱狂ぶりが伝わってきます。と共に、「ええじゃないか」が結局革命には至らなかった事もよく分かります。民俗学や文化人類学は本当に面白いですね。里俗伝は、歴史家は軽視しがちですが、英雄史観では見えてこない時代を動かした人の営みが分かります。しかし、富や権力が一極集中して、たった1%の人間が世界を動かしているという現代は、人類史上最も異常な時代なんでしょう。
                
 彼女と話した時に、なぜ葬儀の相互扶助が仏恩講(ぶっとんこう)ではなく、伊勢講なのか聞いた?と訪ねたのですが、そこは分からなかったそうです。その際に、宗教的な問題じゃないかなと。色々な宗派があるし、伊勢講ならまとめ易かったんじゃないかなと言ったのですが、これが最近とんでもない間違いであることに気づきました。そもそも伊勢講と仏恩講では、まったく歴史が違うのです。信毎から出ている『「戌の満水」を歩く』というムックの中で、父が「仏恩講は、明治の廃仏毀釈で始まった(明治5年という記録)。戌の満水の犠牲者供養とは特に関係がない」と言っているのです。つまり、伊勢講の方が、遥かに歴史が古いということなのです。集落のほとんどは浄土真宗ですが、他の宗派の人も村の行事として参加しているそうで、宗教的な縛りは緩かったようです。また、村にあった正源寺は、戌の満水で流出しましたが、再建までかなりの時間を要したはずで、それも伊勢講が葬儀の相互扶助に用いられた理由かも知れません。
                
 元々日本では、農村を中心に「村落共同体」という集団単位で長い間生活していました。明治時代になるまで、現在の我々が概念として持っている「家族」という集団単位は存在していなかったのです。現在の「家族」につながる婚姻制度(一夫一婦制)が生まれたのは明治時代に入ってからです。1898年(明治31年)に「家制度」が制定され、武家の家父長制的な家族制度を基に、それを一般庶民にまで浸透させようと図ったのです。そのヒエラルキーの頂点には、もちろん天皇がいるわけです。この「家制度」は1947年(昭和22年)に、女性の参政権、日本国憲法の制定に伴い廃止され、現在の家族制度に繋がっています。つまり日本の一般大衆においては、「家族」はたった100年程度の歴史でしかないのです。それ以前、父子による血縁を重んじたのは、武家(あるいは武家の血筋)だけでした。名門の系統にいることが、唯一の存在理由(レーゾンデートル)の拠り所になっていたのです。
 多国籍企業による独裁的寡占の進行で、資本主義は完全に動脈硬化を起こしています。原価30円の紙を一万円と共同幻想に浸る時代は、そろそろ終わるのかもしれません。昔、ジャン・ボードリヤールの『記号の経済学批判』を読んだ時に、商業主義経済はいずれ破綻するのかなと、思った記憶があります。ありとあらゆるものが、商業主義の中で家族や人生さえも消費の対象となり、そこから逃れる術はない中で、家族とは何なのかを追求し、これからの人々の意識に合った新しい集団形態とは一体どのようなものが相応しいのか、考えなおす時代に来ているのでしょう。
シミュラークルとシミュレーション』J.ボードリヤール
                
 大正時代以降というのは、村落共同体が国家の圧力や、発達してきた経済市場の圧力で、徐々に浸食され始めた時代といえます。核家族は、都市部では既に大正時代に見られる(消費の爛熟。モボ・モガの出現)のですが、敗戦後、GHQの占領(植民地)政策の中で増大し、家族は生産の場と消費の場に分断されました。家庭は徐々に伝統的に継承されてきた教育機能を喪失した集団となり現代に至っているのです。皮肉な話ですが、恋愛至上主義ゆえに結婚制度が壊れ、家族が消失するという現象が、戦後の日本です。婚姻の商品化が、それに拍車をかけました。祖父母や父母は、神前でも仏前でもなく人前結婚でしたが、それが普通でした。核家族の脆弱さについては、厚労省もその問題点を指摘しているほどです。夫婦別姓、事実婚、同性婚、養子縁組や小さなコミューンなど、フランスや、友人がいて訪ねた北欧などは、既にかなり家族観や結婚観が変貌しています。誕生から死まで、全てのステージでメディアと企業が作ったライフプランに乗っかって生きるような(生かされるような)人生に疑問を持つ人が増えてきていると感じます。
                
 3組に1組が離婚し、7組に1組が不妊に悩み。家庭内離婚は数知れず。それ以前にお金があっても忙しく、お金がなければ貧乏で結婚できない現状。結婚できなければ子供も作れない社会です。昔は一人扶持(ぶち)は食えなくても二人扶持は食えると言いました。なぜそうでなくなったのでしょうか。共働きと家事分担が当たり前の時代に変わっても、「お金は男が稼ぐもの」という価値観に男女とも縛られ続けているのも問題ですが、働く既婚者をケアする政策が事実上、全くされていないのが最大の問題でしょう。少子化対策など全くないのが現状です。加えてこれから2016,17年には放射能パンデミックが必ず起きます。ウクライナの例を見ると、人口の大規模減少は避けられないでしょう。
 いずれにせよ、古代から家族という制度があったわけでもなく、不変なものでもなかったということです。興味のある方は、『日本婚姻史』を読まれるといいかも知れません。『共同体社会と人類婚姻史』未開部族の婚姻様式などから、人類500万年に亙る共同体社会の原基構造に迫るブログもお勧めです。
                
 江戸時代の共同体の話に戻りますが、江戸時代というのは誤解を恐れずにいうと、ゆるやかな共産体制だったといえます。年貢は個人で払うのではなく、村に課せられます。家屋敷地内の畑は別として、山林は個人所有ではなく、村の財産で、組単位で管理していました。我が家が所有する山林は、属していた組のものを、明治になってそっくり買ったものだと父も言っていました。田畑は個々の領主の所領でしたが、年貢は名寄帳を元に、村全体に課せられるものでした。年貢は飢饉の時などは相当に厳しいものだったようですが、農民が本当に単なる農奴であったのなら、伊勢参りなどできるはずもありません。江戸時代を貶める教育をしたのは、明治政府の策略でした。実際、年貢が租税として個人に課せられる際には、全国で一揆が起きています。特に松代藩は、戊辰戦争のために膨大な軍事費を使って財政を破綻させたあげくに、「松代騒動(午札騒動)」が勃発。大規模な一揆が起きました。農民数千人が松代城下に迫り、約200戸を焼きました。これにより真田幸民も謹慎処分になりました。その真田への反感でしょうか、大正時代に建てられた松代城の石碑には、松代城ではなく、海津城と刻まれています。
 明治維新というのは、実は英仏の金融勢力を背景とした「田布施システム」によるクーデターであったというのが真実です。こんなことは決して大学では教えません。戦後GHQが、全ての天皇陵を調査しその結果を発表しています。興味の有る方は、「田布施システム」、あるいは「孝明天皇 暗殺」で検索を。歴史はいつも時の権力者によって都合よく捏造されるものなのです。
                
 この集落の、もうひとつ特徴的な側面は、集落内の道がいずれも微妙に曲がっていて、綺麗な直線がほとんどないということです。カギ型に曲がった小路もいくつかあります。父は、昔はカギ型の箇所がもっと多かったと言っていました。特に集落に入ってくる道が全部曲がっていて内部が見通せないのです。その理由は、ここが笹崎の難所を利用した松代藩の外部に対する橋頭堡の様な役割の村だったからだと考えられます。松代には、「ま抜け言葉」というのがあります。「行きましょう」を「行きしょ」。「やりましょう」を「やりしょ」など。これは江戸初期に、真田信之は父・弟と別れて徳川方につき、その功によって父・昌幸が築いた上田城とその領地を継ぐことを許され、1622(元和8)年には松代に転封となったわけですが、完全には信用されていなかったから、外部の隠密を見破るために考えられたものだという俗説もあります。しかし、この曲がりくねった細い道は、車社会には全くそぐわないもので、住民は往生しています(笑)。

 上の写真は、仏恩講が行われる清水庵地蔵堂で、生前の父が私の息子達に由来や仏像の説明をしているところです。801(延暦20)年、征夷大将軍、坂上田村麻呂が正法寺と号した清水庵地蔵堂を岩野に建立と伝わる古刹ですが、古くは戌の満水で流出した荘厳山正源寺の境内にあったといわれています。地蔵堂の北の堤防の辺りの芦原という字に寺屋敷という地名があります。そこに正源寺があったということで、現在はその一部が集落の主な墓地になっています。ところが、前記の様に戌の満水で流出。貴重な古文書なども失われたといいます。
                
 後に斎場山の北西の麓、旧岩野駅の南に再建されましたが(再建年度は不明。地蔵堂と同じ文政の頃か)、後継者がなく戦後廃寺になりました。本堂は篠ノ井御幣川の太平観音堂として寄進されたのですが、2005年8月24日未明に全焼しました。ここでも貴重な古文書が失われたかも知れません。正源寺の山号の荘厳山とは、薬師山のすぐ東にある前方後円墳の土口将軍塚古墳のことです。正源寺と共に流出したと思われる清水庵地蔵堂は、1822(文政5)年に村出身の、中興釋妙証僧尼により再建され、同じく村出身の再盛透禅法師(宮本勘左衛門)により、1856(安政6)年に近村(不詳)より寄進を願い、百観音菩薩を安置したと伝わっています(8体損失)。再建は、なんと戌の満水から80年後のことです。いかに洪水のダメージが大きかったががうかがい知れます。戌の満水で被災者を出した他の村には、今も慰霊祭などの行事があるのですが、当地には石碑はありますが、慰霊祭などはありません。村人の3分の1が亡くなるという悲劇に、贖う気力さえ奪われたのでしょうか。言葉を失います。
                
 仏恩講は、明治5年(1872)に、村の宮本英重と山崎与一が伊勢参りに行き、その途中に京都の西本願寺に参拝し、六字名号を拝領し、始まったと伝わっています。しかし、明治新政府の神仏分離政策により廃仏毀釈の動きが高まります。それは神仏混淆(こんこう)の中で従属的立場に置かれていた神道側から仏教側への激しい攻撃を生み、寺院や仏像の破壊といった廃仏毀釈の動きをもたらしました。
 明治5年には、修験道を廃し、無檀無住の寺院庵堂の廃止の布告が出されました。岩野の地蔵堂でも透禅法師が廃却届けを提出。仏像仏具は正源寺へ移され、地蔵堂は村へ譲渡、透禅法師は還俗(げんぞく)し、宮本勘左衛門として帰農した旨が書かれています。
 しかし、地蔵堂は7年後の明治13年に再び認められ、『科野国仏堂明細帳』に記載されました。長野市内ではわずか16箇所と少なく、廃却されたお堂は400箇所にのぼります。その再建の基になったのが仏恩講の存在であったと考えられているのです。仏恩講を組織した宮本英重が、地蔵堂の本寺的な正源寺の檀家総代で、透禅法師と親戚関係であり、仏恩講が檀家に相当するような組織としてお堂の再興を願い出たということの様です。仏恩講が、本来の浄土真宗では相容れないようなお堂の行事を主体的に行っているのも、このような歴史に由来すると思われるということです。岩野の仏恩講は、地蔵堂を守ることを目的として作られたということです。(参考文献:『村人の祈りと集いの場~お堂の役割を探る~』長野市博物館)
                
 現在の堂宇は、1970(昭和45)年建築のもの。古い地蔵堂は、藁葺でした。お釈迦様の入寂した涅槃会(3月15日)に、上新粉で作った「やしょうま」を沢山奉納し、それを貰いに行ったことを思い出します。お釈迦様が臨終の際に、弟子のヤショに美味かったと言ったと父は話してくれました。「ヤショうまかった」が「やしょうま」に転化? ダジャレですか・・。他には妻のヤソダラという説や、痩せ馬が転化したという説もあるようです。「やしょうま」は、今でも人気があり、春になると、和菓子屋の店先やスーパーに並びますが、昔は各家々で食紅を入れたり、胡麻や青海苔などを入れたものを作ったものです。私は祖母の手伝いをして作った思い出があります。中国菓子の麻花兒(まふぁーる)も作りましたね。背が高く「おはなはん」が大好きなハイカラな祖母でした。やしょうまは、今でも信州の春を告げる郷土料理のひとつです。
                
 正源寺は、浄土真宗本願寺派(西)で、大本は上野国(こうづけのくに:群馬県)にあったが、戦乱を避けて当地に移ったという由緒があります。現在の住民の多くが檀家の千曲川対岸の東福寺にある専精寺(元は土口にあった)は、浄土真宗本願寺派(東・大谷派)です。専精寺は、海野山報恩院専精寺といい海野氏と深い関係にあるようです。正源寺も上野国ということで、真田や滋野、海野辺りと深い関係があるのかも知れません。東京の高輪にある榮山淨喜院正源寺(ばんえいさんじょうきいんしょうげんじ)は、慶長8年(1603年)、上野国新田郡出身の繁蓮社昌誉萬榮和尚によって木挽町に創建とあります。恐らく同根なのでしょう。これについては、現在調査中ですが、正源寺は、前記の様に、戌の満水で流出し、再建されたが廃寺になり、挙句の果てに全焼という哀れな末路を辿ったがために、ほとんど記録が残っていません。旧家に関連の古文書でも残っているといいのですが・・。
                
 正源寺より古い古刹として、薬師山(笹崎山)の瑠璃殿があります。正式名称は、笹崎山(一名薬王山)政源密寺といいます。「笹崎山薬師如来の縁起」については、長いので以前書いたリンクのページを参照してください。境内の広さは四町(4ha)余りで、七堂伽藍が建ち並び壮大なものであった。とあるのですが、どうなんでしょうね。ただ、こちらも何度も洪水に襲われ、山上に移ったり里に下りたりを繰り返していた様です。縁起には、戦国時代には山頭にあったが、武田の兵火に焼かれたとあります。謙信が寝屋としていたとも。そうすると御陵願平にあったのか。会津比売神社が当時山上にあったが、同様に兵火に焼かれたという里俗伝もあり、御陵願平、陣場平、堂平(下の絵図参照)などが山上の平地なんですが、それぞれがあった場所がどこなのか非常に興味深いところです。
                
 真ん中の写真、左の本尊は行基(668~749年)作といわれていますが、松代町史には、慈覚大師(円仁:794~864年)と記されています。行基作と伝わる木彫は、この地に多いのですが、行基ではなく弟子の伴 国道(ともの くにみち)を鎮東按察使として陸奥・出羽の東国へ赴任させている〔天長5年(828年)頃か〕ので、その途中に弟子達と立ち寄ったのかも知れません。戌の満水で流出したが、十二河原で見つかったという逸話まであります。百番観世音菩薩は、上杉謙信の家臣、宇佐美駿河守が安置といわれていますが、別の本では文政5年(1822年)安置と。右の派手な魚籃(ぎょらん)観世音菩薩は、幕末の松代藩の御用絵師、青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3年-1903明治36年)の慶応2年(1856年)正月2日61歳の時の作。右の地獄絵図も恐らく彼の作でしょう。彼は我が家の斜め裏に居住し、当時名主をやっていた逸作爺と仲が良かった様で、肖像画を送られていますが、友の為にと書かれています。
                
 逸作爺は、子がなかった先祖が、善光寺御開帳の時にたまたま隣り合わせで意気投合した夫婦と縁ができ、養子に来た人物で、享和4年(~2月10日)か文化元年(2月11日~)(1804年)の生まれ。天保2年(1831)の古文書(妻女山の霊水騒動が起きた頃)、弘化4年(1847)の名寄帖、安政2年(1855)の古文書があり、描画は元治元年(1864)61歳とあることから、少なくとも27歳から51歳、あるいは60歳まで名主を務めたということになります。本家、大本家でもなく、養子でありながら若くして名主に選ばれたのですから、相当優秀で人望もあったのでしょう。時代は、天保の大飢饉、天保の改革失敗、善光寺大地震、黒船来襲と一気に幕末から明治へと移る激動期です。松代は佐久間象山の進言などにより尊皇攘夷に固まり、官軍として戊辰戦争に参加。その功績から明治新政府には松代から多くの人が入ったそうです。

 写真右は、薬師山の先端の笹崎。左の未舗装の道は、昔の堤防です。現在の堤防上(中央の家の土台の高さ)には6,7軒の家がありました。その笹崎の山際に、地元で金毘羅さんと呼ぶのが右の写真。仏恩講で管理をしているそうですが、世話人をしていた父も、起源や由来は分からないと話していました。幕末か、どんなに古くても文化文政の頃だと思います。なぜ金毘羅さんと呼ぶのかと思っていたら、近所の方に、堤防上にあった家の間に金比羅宮があったという話を聞きました。それがどこへ移設されたかは分からないそうです。もしかしたら現在秋葉社といわれているものが、それかもしれません。
 金比羅さんは、明治維新の神仏分離・廃仏毀釈が実施される以前は真言宗の象頭山松尾寺金光院でした。廃仏毀釈というのは、天皇制を神格化するために行われた文化破壊の愚行でした。南方熊楠も猛反対した合祀令も、文化と歴史を大きく歪め破壊しました。

 左に水祖(みおや)罔象女(みずはのめ)神。真ん中に秋葉社の石祠。右に水天宮。俗に金毘羅さんともいいます。これらがいつからここにあるのか分かりませんが、石碑を見るとそう古いものではなさそうです。いずれにせよ、皆水に関係のある祭神で(秋葉社は防火ですが、消火には水が必要)、この集落がいかに水害に悩まされていたかを物語っています。戌の満水で助かった我が一族の娘が、死に物狂いで岸に上がると、着物の袂に蛇がたくさん逃れて入っていたという言い伝えさえあります。

 秋葉社の中に置いてあった御札。八百万の神。右は、そこから、伊勢宮があったと思われる岩野橋方面を見たところ。

 左は、薬師山への登山道入り口と廃線になった長野電鉄屋代線の北山隧道。サイクリングロードとして復活の予定です。中と右は、登山口にある祠(何社か不明。上の薬師山瑠璃殿の里宮か。破風板の先端が屋根を貫く千木(ちぎ)が無いので伊勢宮とは違う? あるいはこれが金比羅宮か)と市大神の石碑。市大神は、大国主命ですね。会津比売命の曽祖父(ひいおじいちゃん)です。もうひとつ道祖神もあります。薬師山の祭り(おやくっしゃん)では、昔はここに飴細工や駄菓子やおもちゃの店が出ました。市の神様の石碑があるということは、昔はここに市が立ったのでしょうか。昔、父か祖母に、ここに千曲川で採れた魚を中心に市が立ったという様な話を聞いた気もするのですが、記憶が定かではありません。

 GHQが昭和23年に撮影した航空写真です。昔、私がある出版社(廃業)から買い、父に贈った掛け軸状の大きな写真です。赤丸の場所に昔は伊勢宮があったと思われます。明治43,44年の大洪水の前は、千曲川はこの写真より50mほど左を流れていたそうです。赤い線は、うちとあと二軒の旧家で金を出し合って岩野橋を造った場所。渡り賃としてわずかな金を徴収していたという話を聞いています。その袂に伊勢宮はあった様です。祖先が名主を30年余り務めていたという幕末の頃の話だと思います。50mもの河原があったので、我が家はそこに一反分(300坪=約992平方メートル)の伊勢宮の畑があったそうです。上の写真の赤坂山(現妻女山)の右側(東)は、旧清野村ですが、中沖と西沖にそれぞれ伊勢宮があります。
                
 青い線は、戌の満水が来る前の千曲川の流路の想像図です。恐らく戦国時代もこんな感じだったことでしょう。千曲川は、一級河川としては類を見ないほど水位の増減が激しく、その上犀川の流れに押されて、南側の山際に押し付けられるように流れていたのです。昔は堤防などないのですから、網目状に勝手に流れ、洪水の度に流路が変わったのです。川式(川敷)という地名は、川だったことを証明するもので周囲より低く、展望台から見下ろすと、2本の平行な畑道と共に、昔の流路が浮かび上がって来ます。赤坂山の文字の坂の字の上の山際には、下の絵図に描かれている千曲川の流路の跡である蛇池(または、ヒビ池)が残っています。現在は埋め立てられ高速道路の下ですが、私もここで雷魚を釣ったりザリガニを捕まえたりしました。小学校か中学校でやった理科の授業の、カエルの解剖のウシガエルもここで捕まえた様な気がします。
地名から読む戦国時代の千曲川河道(第四次川中島合戦当時の千曲川)
上杉謙信が妻女山(斎場山)に布陣したのは、千曲川旧流が天然の要害を作っていたから

 これは、江戸時代後期に榎田良長という人が描いた『川中島謙信陳捕ノ圖 一鋪 寫本 』(かわなかじま けんしん じんとり の ず)。出典:東北大学附属図書館狩野文庫(平成20年5月23日掲載許可取得済)。それに、地名や遺跡名、神社仏閣名を書き込んだものです。これだけ書き込めるほど正確に描かれているということなのです。上の写真とは天地が逆で、上が南です。新しい千曲川の流路や蛇池が描かれていることからして、この絵図が戌の満水の瀬直し以降、つまり1781(天明元年)より後に描かれたということが分かります。絵を逆さにすると、笹崎の上で二つの流れが合流しているなど、昭和23年当時とよく似ていることが分かります。絵図の赤い線は山道を、赤い点は兵士を表しているのでしょう。
                
 江戸時代後期になると、伊勢講だけでなく庶民の旅が盛んになるのは、十返舎一九のやじさんきたさんでお馴染みの『東海道中膝栗毛』がベストセラーになったことでも分かります。善光寺参りも盛んで、その土産に何種類もの川中島合戦絵図が描かれ売られたといいます。これもそのひとつかも知れませんが、他の絵図に比べると段違いに地形の描写が正確なのです。この榎田良長なる人物が、いつの時代のどういう人物か調べたのですが分かりませんでした。善光寺参りの旅人が、この様な絵図を買い求めて、戦国の世に思いを馳せたのでしょう。平和だからこその営みです。
                
 この絵図には、他に信玄の茶臼山陣取りの図と川中島古戦場の絵図があります。それらについては、以前の記事『上杉謙信と武田信玄「川中島合戦陣取りの図」』で紹介しています。ご覧ください。今は地滑りで崩壊してしまった茶臼山南峰にあったかもしれない山城も描かれています。赤い線の古道や、千曲川と犀川の渡しも描かれていて興味を引きます。いずれにせよ、歴史に学ぶという謙虚さがなければ、また同じような自然災害で、多数の犠牲者を出すかも知れないということです。広島、長崎、チェルノブイリに学ばなかった日本が、福島第一原発の核爆発やメルトダウンで、人類未曾有の放射能汚染のまっただ中にいます。そして、現在破滅の危機にある現状を見れば、自ずと分かるでしょう。政府や御用マスコミの情報だけを頼りにしていたら、生き残れませんよ。
 仏恩講に関しては、新しい資料も入手したので、いずれ加筆していきます。廃仏毀釈は、中国の文化大革命に匹敵するほどの文化破壊だったわけです。それに贖うために全力を尽くした村民の気持ちが仏恩講に込められていたのです。権力者は常に歴史を捏造すると心得よ。

この記事の続編『信州『松代里めぐり 清野』発刊と戌の満水など千曲川洪水の歴史(妻女山里山通信)』もぜひお読みください。
 
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村上春樹さんのピーター・キャットを中心とした70年代のクロニクル『国分寺・国立70Sグラフィティ』
 70年代というのは、学生運動がある程度沈静化して、アメリカ文化を若者に浸透させる新たな愚民化政策が始まった頃と私は捉えています。アメリカのグッズ紹介を中心としたカタログ雑誌『ポパイ』が創刊されたのもその頃。実は、その原点となった本があるのです。現時点で32ページの記事を掲載中。外国からのアクセスも増えてきました。孫崎 享さんの『戦後史の正体』導入部も必読です。
国分寺・国立70Sグラフィティ

[BABYMETAL] 矢沢もヒッキーも成し得なかった世界へのハードルを軽々と超えてしまった美少女達

【必見】マスコミ報じず!アメリカ政府が公表した放射性ヨウ素の汚染地図が凄まじい件!東京の千代田区で5154Bq/kg!
アメリカ政府が発表したストロンチウムの汚染地図がヤバイ!神奈川県を含めて関東各地で放射性ストロンチウムを検出!
 今年は、2016年問題の前年。昨年以上に厳しい現実を突きつけられるのは間違いない。情報弱者にならず、安全性バイアスにかかるべからず。太平洋沿岸の魚介類は、危険。汚染地の食材を積極的に使う「食べて応援企業リスト」。国産表示は危ない。「ホワイトフード」の食品汚染情報と安全食品。
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『龍馬伝』にも出た老中松平乗全の掛け軸から推測する幕末松代藩の人間模様(松代歴史通信)

2011-01-20 | 歴史・地理・雑学
 わが家に白い牡丹を描いた一幅の掛け軸があります。気に入っていたので高校の頃応接間に掛けていたこともありました。この掛け軸の画題は『庚辰春日』で、雅号は「源 乗全」とあります。庚辰(かのえたつ)というのは、年でいうと1820年ということになりますが、乗全はまだ26歳。年ではなく月とすると3月。3月の春の日ということなんでしょうか。『庚辰春日』は、けっこう春の画題にされているので、春を題材にした絵の定型題なのでしょうか。清々しく好きな絵でしたが、特に誰が描いたかなどと思うこともなくいました。

 それが、去年の初夏でしたか、家にある掛け軸の虫干しをしようと色々広げていく中で、この掛け軸が目にとまりました。絵としてはかなり秀逸ですが、ディテールを見ると茎の線が甘い部分もあって、大家の作品ではないことは一目瞭然でした。しかし、なにかひっかかるものがありました。源 乗全という名もどこかで目にした事があるような記憶がありました。

 そんな時に便利なのがインターネットです。ググッてみるとすぐに分かりました。源 乗全は、松平乗全(まつだいら のりやす)の雅号のひとつでした。『龍馬伝』では、ペリーの黒船来航の場面で出てきました。乗全は、大給松平家宗家9代三河西尾藩第4代藩主で、幕府の老中(年寄衆・定員は4~5人)を務めた人物です。病弱な家定の将軍継嗣問題では紀州藩の徳川慶福を推し(紀州派)、海防参与の水戸藩主徳川斉昭を擁する一橋派閥と対立したため、一度失脚しますが、安政5年(1858)には大老・井伊直弼の推挙により老中に再任されます。桜田門外の変で井伊直弼の暗殺後、万延元年(1860)に辞任しました。ちなみに直弼は 孝明天皇の勅許無しでアメリカと日米修好通商条約を調印した開国派です。個人的に書簡をかわすほど親交が厚かった乗全は、同じく老中の上田藩主松平忠優(まつだいら ただます)と共に開国派でした。寛政6年(1794)生誕--明治3年(1870) 没。

 その松平乗全が、どう松代藩とつながるのかというと、乗全が最初に老中に任命された弘化2年(1845) まで老中を務めていたのが、松代藩の第8代藩主 真田幸貫(さなだ ゆきつら)なのです。その幸貫は、寛政の改革を主導した定綱系久松松平家第9代陸奥国白河藩第3代藩主 松平定信の次男で、江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の曾孫に当たります。つまり、幸貫が天保の改革の失敗で罷免された後に老中になったのが、乗全だったというわけです。同じ松平氏ということでもあり、当然親交があったと考えられます。幸貫は、天保13年(1842)に幕府の老中兼任で海防係に任命され、西洋事情の研究から開国派になります。乗全が開国派というのも幸貫や象山の影響もあったかもしれません。ちなみに老中の勤務時間は午前10時から午後2時までだったそうです。

 また、乗全の父定信は、象山の父一学と親交があり、幸貫は定信の改革手法を手本とし、後の象山の登用などを行ったそうですから、幸貫は当然定信の子である乗全とも深い親交があったことでしょう。幸貫は文武に長けており、佐久間象山・村上英俊・片井京介・山寺常山・長谷川昭道・三村晴山など多くの優れた人材を輩出しました。その中の三村晴山(みむら せいざん)は、松代藩の御用絵師であり学者でもありました。象山・勝海舟の命を受けて島津斉彬への密使の役目を果たしたこともある人物です。後に東京美術学校(現東京芸術大学)設立にも加わった狩野芳崖なども育てました。

 狩野芳崖は象山に心酔し、彼の書風も真似たとか。その象山ですが、自信家として有名で、俺は優秀だから俺の子供は間違いなく優秀だ。優秀な子供を生める尻のでかい女を紹介しろと坂本龍馬に言ったとか・・。実際に妻になった勝海舟の妹のお尻が大きかったかどうかは知りませんが、お順との間には子供ができませんでした。お順の前に、お蝶とお菊という二人の妾がいました。お蝶は彼女が13歳の時に手をつけた娘です。残念ながら二人との間にできた子はほとんどが早くに死別しています。

 そのお蝶との間にできた息子・三浦啓之助(佐久間格二郎)は、勝海舟の紹介状を持って父の敵を討つべく新撰組に入隊します(14、15歳頃)が、全く役立たずである事件で投獄されてしまい、戊辰戦争の後で慶応義塾に入るも中退、司法省に勤めますが暴力事件を起こして首。最後は明治10年にうなぎによる食中毒で亡くなっています。偉大すぎる父を持った子供の不幸でしょうか。典型的な機能不全家庭という感じもします。
 象山が結婚した時、彼は42歳、お順は17歳でした。海舟は大反対だったようですが、お順は学者の妻になるのが夢だったと譲りませんでした。海舟は象山の門下生のひとりでしたが、象山を傲岸不遜(ごうがんふそん)な人間と見ていたようです。「佐久間象山は物知りで、学問も博し、見識も多少持っていたよ。しかし、どうも法螺吹きで困るよ。あんな男を実際の局に当たらしたら、どうだろうか。なんとも保証はできない。」と言ったとか。「事を成し遂げる者は、愚直であれ、才走ってはならない」とも言っています。『海舟語録』

 しかし、象山は、横浜開港の先覚者であり、現在の横浜の繁栄は象山のお陰といっても過言ではないでしょう。また、弘化3年(1846)5月象山、36歳で帰藩を命じられ5年間松代に帰った時は、養豚、植林、葡萄の栽培、温泉や鉱脈の採掘などに天分の才を発揮しました。さらに、嘉永7年(1854)に吉田松陰密航未遂事件に連座した罪で入獄の後、帰郷してから文久2年(1862)までの蟄居生活でも、エレキテル(電気治療器)を作ったり(鑑定団で150万円!)しています。万延元年(1860)には電信実験も。〔嘉永2年(1849)日本初説は誤り〕 象山は、豪放磊落(ごうほうらいらく)なオタクという両義性(Ambiguïté)を持った人物であったという感じもします。ただ、その当時彼の真の先見性を理解できる人は皆無だったということでしょう。他人が見えないものが見えてしまう不幸を彼は背負っていたのかもしれません。

 話がえらく脱線しましたが、その松代藩の御用絵師のひとりに青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3年から1903明治36年)という人物がいました。雪卿は、松代藩が壊滅的な被害を受けた弘化4年(1847)に起きた善光寺地震から3年後の嘉永3年(1850)、藩主真田幸貫公(感応公)の藩内巡視に同行し、「伊折(よーり)村太田組震災山崩れ跡の図」(真田宝物館蔵)を描き上げました。伊折村太田組とは、現在の長野市中条太田地区のことです。地震当時、虫倉山が大崩壊して太田組11戸54人が犠牲になりました。

 御用絵師というのは、襖絵や障壁画を描くだけでなく、当時の記録カメラマンでもありました。災害の様子を記録したり、藩の絵図を描いたり、動植物の写生図、藩主や家来の肖像画なども描いていました。雪卿は、主にそういった役目の絵師だったのかもしれません。彼は、妻女山の麓・岩野に住んでいました。彼は生涯独身でした。松代城のお姫様にいたく気に入られ、結婚できなかったとかいう言い伝えがあります(実際はそうではないという話を子孫の方から知らせていただきました。詳細はコメント欄で)。けさへいという養子をもらい、その妻と子と葡萄畑を作ったりして、余生を送りながら明治10年頃没したということです。ちなみにわが家も葡萄畑をやり葡萄酒を販売していました。明治36年没ですから、私の祖母が9歳の時。近所なので知っていたでしょう。

 わが家には、その雪卿が描いた掛け軸があります。モデルは祖先のひとり逸作で、幕末に長きに渡り岩野村の名主を務めました。描画は元治元年(1864)とあり、雪卿は親友であったようで、絵には友の為にと書かれています。逸作61歳とあるので、生まれは享和4年/文化元年(1804)です。時代は、妻女山の謙信槍尻之泉霊水騒動から天保の大飢饉、天保の改革失敗、善光寺大地震、黒船来襲と一気に幕末から明治へと移る激動期です。
 わが家の祖先、逸作は養子で、養父母には子がなく、たまたま善光寺御開帳で隣り合わせた川合の人と意気投合し仲良くなり、縁あってもらった養子ということです。何歳で来たかは不明ですが、まだ赤ん坊か幼児だったのでしょう。ひとつ違いの雪卿とは近所の幼なじみで仲が良かったのだろうと思います。


 右の派手な魚籃(ぎょらん)観世音菩薩は、青木雪卿重明による慶応2年(1856年)正月2日61歳の時の作。右の地獄絵図も恐らく彼の作でしょう。詳細は、「岩野村の伊勢講と仏恩講(ぶっとんこう)。戌の満水と廃仏毀釈(妻女山里山通信)」を。

 というわけで、松平乗全とわが家にある彼の掛け軸がなんとなく、乗全-幸貫-雪卿-逸作という線でつながったのですが、どういう理由でわが家に来たのかは全く不明です。長年に渡り名主を勤めた褒美でしょうか。

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虫倉山と松代藩(妻女山里山通信)

2010-11-15 | 歴史・地理・雑学
 妻女山展望台から虫倉山は、茶臼山の右奥にこんもりと見えます。松代城からも同様に見えます。虫倉山は、松代藩の領地でした。中条村、小川村までが松代藩の領地で、松本藩の美麻村との境には口留番所が置かれ、出入り口を取り締まっていました。また、虫倉神社は、松代藩真田家の尊崇が厚く、江戸幕府の老中となった第八代藩主幸貫は、定紋の幕、祭礼幟、鳥居を寄進。夫人が神簾、姫が千羽鶴を奉納しています。

 虫倉山の虫とは、蛇という漢字が虫偏であるように、古来は昆虫というよりは、蛇の象形文字でした。それも毒蛇の。蝮(まむし)と書かれている本が多いのですが、私は仏教の発祥地・天竺(インド)のコブラではないかと思っています。虫の本来の字は、蟲(虫という字が三つ)ですが、生物全般を表すものであったそうです。では、虫倉山の虫はというと、水神信仰の虫であり、この場合の虫とは龍のことです。倉は御座(みくら)、つまり神の座のことです。

 虫倉山は、不動滝に象徴されるように周り中にいくつもの沢を持ち、麓の山村を潤してきました。その信仰の中心地であったわけです。その北にある戸隠や飯縄山の様に修験の山ではありませんが、里人の深い信仰を集める山として大切にされ、また松代藩の尊崇をも受けたのでした。虫倉山の山腹には巨岩や洞窟がいくつもあり、それらの多くは信仰の対象になっています。虫倉神社の奥社裏にある夫婦岩などはその典型でしょうし、虫倉神社の元社自体が元穴といって洞窟です。

 洞窟は、原始においては住居であり、それが墳墓となり、修験の場となり、信仰の場となっていきました。洞窟は臨死体験の場であり、御霊と出会える場であり、黄泉の国への入り口でした。現在は、1847年5月8日(弘化4年3月24日)の善光寺地震や風化により消滅したり、辿る道が崩壊したりして麓から穴だけが見えるものもあります。虫倉山の南の麓にある太田の集落から真北を見上げると、山の中腹に大きな洞窟がぽっかりと穴をあけているのが見えます。周りは断崖絶壁で到達は極めて困難に見えます。あの洞窟が調査されたかは未確認ですが、ひょっとしたら数多くの石の仏像が安置されているのではないでしょうか。

 その善光寺地震で、古い太田の集落は虫倉山の大崩壊により消滅しました。11軒の家が埋まり54人の村民が亡くなりました。その様子は、善光寺地震から3年後の1850年(嘉永3年)、松代藩主真田幸貫の藩内巡視の折に、御用絵師・青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3年から1903明治36年)により、克明に描かれています。当時の御用絵師というのは、現代でいうカメラマンのことでもあり、状況を克明に描写するのが重要な任務でした。これらの絵は松代の真田宝物館」に所蔵されています。雪郷は、我が家の近所で名主をしていた祖先と近しい関係にあったようで、友の為にと書かれた彼の祖先を描いた掛け軸が残っています。

 妻女山展望台から見る奇妙山は、中国からの黄砂により黄色くどんよりと霞んでいました。黄砂は、中国の工業地帯の上を飛んで来るため大量の汚染物質を含んでいます。その上、極めて微細なため呼吸器官や内蔵に悪影響をもたらすそうです。戦国時代や江戸時代も黄砂は飛んで来たはずです。当時、この空を黄色く染める謎の物質を見て、遥か中国から来たと想像できた人はいたのでしょうか。

★このトレッキングは、フォトドキュメントの手法で綴るトレッキング・フォトレポート【MORI MORI KIDS(低山トレッキング・フォトレポート)】にいずれアップします。北アルプスの大パノラマや山座同定を掲載する予定です。

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★ネイチャーフォトは、【MORI MORI KIDS Nature Photograph Gallery】をご覧ください。キノコ、変形菌(粘菌)の写真はこちらで。
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真田宝物館へ。戦国時代の英雄史観について(妻女山里山通信)

2008-10-05 | 歴史・地理・雑学
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 松代にある「真田宝物館」へ行きました。「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」のサイトを立ち上げる際に、「松代文化財ボランティアの会」のサイトより文章を引用させていただいたので、そのお礼を兼ねて挨拶に伺おうと思いました。ところが、事務所の住所が分かりません。そこで、会員の方が案内をされている「真田宝物館」へいけば分かるだろうと訪れたわけです。ちょうどテーマ展示で「江戸時代の旅をのぞいてみよう!」も開催中。旅好きで知られた六代藩主・真田幸弘が描かせたという、道中の様子を描いた絵巻物も気になります。

 早速ボランティアの会の方に、案内をお願いしました。こちらはひとりでしたが、快く案内してくださいました。真田家のことや松代城のことは、私も概略は知っていましたが、真実かどうかは別として、伝わる逸話や、嫁入り道具の細かな調度品の数々、大正時代に作られたという花の丸御殿の緻密な模型などは興味深いものでした。今回は、見ることができませんでしたが、狩野派の描いた大きな龍虎図は大迫力で一見の価値があります。そして真田幸弘の松代から江戸までを描いた道中絵図は、特に岩野の笹崎越や土口の謡坂などが、克明に描写されていて、大変参考になりました。平野部の道の描写は、特徴が無く平板になりがちですが、峠などは描写のポイントであり、作者も自然と力を入れる所なのでしょう。

 そんな、話の中で色々やりとりしている内に、わが家と松代藩の話などをし、妻女山(斎場山)の研究をしている旨を話し、史料を探している旨を話すと、学芸員のHさんを紹介してあげるので聞いてみたらいいと言われました。渡りに舟とずうずうしくも事務所を訪ねました。Hさんは、わざわざ貴重な時間を割いていただき、妻女山に関する史料や絵図を探してくださいました。中でも『眞武内傳』より前の正保4年(1647)年に幕府の命令によって作られた『正保国絵図(しょうほうくにえず)』に、既に斎場山が妻女山と書かれていることを確認できたのは、今回の収穫でした。つまり、江戸時代中期の初めには、既に妻女山という名称があったということです。

 Hさんの話で、最も興味深かったのは、戦国時代を語ったり表現したりする時に、例えば大河ドラマや時代小説、歴史研究家の書籍などに共通する英雄史観についてでした。私自身これには違和感を覚えながらも、第一級史料のない戦国時代においては、充分に注意していても、つい江戸時代に創作された物語の世界に入りがちで、それをそのまま戦国時代の話としてしまいがちでした。第四次川中島合戦は、その第一級史料のなさから、真っ当な歴史研究の対象外であるということを知っていても尚、でした。

 Hさんのアドバイスは、江戸時代の川中島合戦という視点で研究したらどうですか、というものです。それをそのまま戦国時代の話として持っていくからおかしいなことになると。歴史学の立場からすると『甲陽軍鑑』の本格的な研究は、まだまだ始まったばかりだそうですから。民俗学的な見地から、純粋に江戸時代の人にとっての川中島の戦いを研究することは、まだされていないので、やってくださいと言われてしまいました。これは、非常に面白いテーマかもしれません。

 私は、郷土史家というより、むしろナチュラリストとして地理的な面で斎場山の研究に入ったのですが、あまりに時代に翻弄された斎場山(妻女山)を知り、つい歴史研究にも首を突っ込んでしまったというわけです。Hさんは、古代史が専門だそうですが、古代科野の国と斎場山について、ぜひ解明してくださいと勝手な期待をしてしまいました。

 Hさんから、戦国時代の新しい考証として参考になる人を教えていただいたので、早速午後、図書館に出向いて探しました。借りてきた本は三冊。『飢餓と戦争の戦国を行く』『戦国の村を行く』藤木久志:朝日選書。『文書にみる戦国大名の実像 武田信玄と勝頼』鴨川達夫:岩波新書です。信玄の弱気と強気、男色がからむどろどろした人間関係など、従来の英雄史観の信玄とは異なった人物像を文書から紐解いています。『戦国の村を行く』は、数ヶ月前に読んだばかりで、非常に感銘を受けましたが、改めて読み込んでみたいと思います。私と同じように英雄史観の戦国時代に違和感を持っている方はぜひ一読されることをお薦めします。

 さて、写真の肖像画は、幕末に生きたわが家の祖先で、岩野村の名主(なぬし)を長きに渡って務めた林逸作です。作画は、松代藩の御用絵師、青木雪卿(せっけい)重明(1803享和3年から1903明治36年)。家が近所でひとつ違いのためか、近しい関係にあったようで、友の為にと書かれています。逸作爺は、善光寺御開帳の時にたまたま隣り合わせで意気投合した夫婦から、縁ができ養子に来た人物で、享和4年(~2月10日)文化元年(2月11日~)(1804)の生まれ。天保2年(1831)の古文書(妻女山の霊水騒動が起きた頃)、弘化4年(1847)の名寄帖、安政2年(1855)の古文書があり、描画は元治元年(1864)61歳とあることから、少なくとも27歳から51歳、あるいは60歳まで名主を務めたということになります。時代は、天保の大飢饉、天保の改革失敗、善光寺大地震、黒船来襲と一気に幕末から明治へと移る激動期です。松代は尊皇攘夷に固まり、官軍として戊辰戦争に参加。その功績から明治新政府には松代から多くの人が入ったそうです。

 青木雪卿ですが、彼は生涯独身でした。一説には松代城のお姫様にいたく気に入られ、結婚できなかったとか(これに関しては、後日子孫の方から新事実を教えていただきました。こちらの記事のコメント欄をお読みください)。けさへえという養子をもらい、その妻と子供達と暮らし、なんと100歳まで生きたということです。今回、青木雪卿を紹介したのは、真田宝物館に絵が展示されていたからです。真田宝物館へは、一度足を運ばれることをお薦めします。そして、ぜひ松代文化財ボランティアの会の方々に、案内を頼んでみてください。より深く面白く展示を鑑賞することができるはずです。
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上杉謙信槍尻之泉の新事実発見!妻女山湧き水ブームとは・・(妻女山里山通信)

2008-09-26 | 歴史・地理・雑学
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 第四次川中島合戦において上杉謙信が斎場山に布陣した際に、謙信が槍尻で突いたら水が出て陣用水としたといういわれがある「上杉謙信槍尻之泉」ですが、これは江戸後期の川中島合戦ブームに便乗して作られた作り話だと思われます。あそこの地形を見ると、別に槍で突かなくても自然に何カ所かで水が湧き出ていたことは充分に想像できるからです。

 江戸後期、1802~9(享和2~文化6)年にかけて十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』がベストセラーになると、旅ブームが起きます。続いて信州では、作者不詳の『甲越信戦録』がヒットします。信玄と謙信の一騎討ち、啄木鳥戦法、信玄の茶臼山布陣、勘助討ち死にの胴合橋などは、すべてこの本が初出です。史実に創作もかなり含まれている読み物です。続いて1823(文政6)年、松代藩八代藩主に真田幸貫(松平定信次男)が就任。この頃江戸歌舞伎が全盛期を迎え、庶民の旅も盛んになります。

 そして、1831(天保2)年、この頃らしいのですが、松代藩士月岡万里嘉知が、江戸詰中の父に宛てた書状の中で、妻女山湧き水ブームの大騒ぎについて記述しています。日付は4月14日。まもなく松代城でも桜が咲く頃でしょうか。主文では、日々暖かくなってきたことや花の丸御殿「御茶部屋」の茶坊主に病人が多く出て迷惑している様などが書かれていますが、追記として妻女山湧き水ブームのことを書いています。

 「尚々岩野村妻女山より霊水出 毎日貴餞群集御大さハぎニ御座候 右之水諸病或はでき物色々之病気効能御座候由 右之池は昔謙信公川中島御陣之節妻女山二御陣有之其節石突二而御掘被成候跡卜申伝ハ利 今度何れより申出候哉 御城下近在ハ申不及善光寺下越後よりもまへり候由 毎日大さハぎニ御座候以上」(真田宝物館だより第20号より)

 要約すると「岩野村妻女山より霊水が出て、毎日貴賤群衆で大騒ぎになっています。この水は諸病・でき物など、色々な病気効くという噂がたったためです。この池(泉)は、むかし謙信公が川中島に出陣の時、妻女山に御陣なされたおり、槍の石突きで堀られた跡といい伝えられています。この度は、どこから噂が出たのでしょうか。城下近在はいうまでもなく、善光寺町、下越後よりも人が押しかけ、毎日大騒ぎです。」というようなことです。昔も今も大衆の空騒ぎは同じようにあったということですが、この謙信槍尻之泉、どうも江戸時代と現在では、その位置が違うようなのです。

 現在の妻女山が、戦国時代は赤坂山で、本当の妻女山は斎場山といい斎場山古墳の頂であるということは、このブログでも再三再四記していますが、謙信槍尻之泉も別の場所だったというのは、今回初出であると思います。

 それに気が付いたのは、妻女山(斎場山)について研究した私の特集ページ「「妻女山の真実」妻女山の位置と名称について」、別ページの上杉謙信斎場山布陣想像図の一番下にある江戸時代後期に描かれた榎田良長による『川中島謙信陳捕ノ圖』を見ていた時のことです。現在は、会津比売神社下から妻女山へ登る道の途中に泉があるのですが、図会では左下に分かれて小径が延びていて、その先に小さなお堂があり、どうもそれが謙信槍尻之泉らしいのです。この図会が描かれたのは、同じ頃ですから泉は既に有名だったはずです。不思議に思って調べると、意外な事実が判明しました。

 父によると、江戸時代に泉と池があったとされる場所に、明治22年清野村に岩野村が合併したときに、その場所に伝染病患者を収容する清野村避病院が建てられたというのです。当時の写真は、当時村役場に勤めていたKさんの家に残っています。場所は、妻女山へ登る高速道路のトンネルをくぐった上の平地です。現在の道は、今の泉から登って右へ曲がっていますが、舗装される前は図会のように左へ曲がっていました。右手は谷で蕗がたくさん生えていました。どちらかというと地形的には、こちらの方が泉が出そうな感じです。上の絵で、池とあるのは千曲川の古い流れの跡で、戦国時代の千曲川は妻女山にぶつかって流れていたのです。泉の水もこの池に流れ込んでいました。子供の頃は、雷魚がいて釣りをしたこともあります。その池は、高速道路が作られるときに埋められてしまいました。

 清野村避病院は、水を必要としたので謙信槍尻之泉の上に建設したようです。霊水伝説も関係あるかも知れません。その時に、江戸時代からの泉と池は消滅し、現在の泉に取って代わられたらしいのです。この病院は、明治45年9月、一町五か村組合立伝染病院の開院に伴って閉鎖されたようです。

 ということで、現在の上杉謙信槍尻之泉はオリジナルではないということが、ほぼ判明したといえるのですが、引き続き清野村誌などで確認したいと思います。ちなみに会津比売神社の参道には、謙信槍先之泉なるものがありますが、あれは昭和の作で上の泉の水を下へひいただけのものです。かように人はいつの時代も都合良く逸話を作り出していくものなのでしょう。

 ところで、この時に岩野村の名主をやっていたのは、実は我が家の祖先の林逸作なのです。ひょっとしたらこの騒動は、彼が村興しのために一計を案じて仕掛けたのではなどと思ってしまいます。親友に松代藩の御用絵師、青木雪卿がいました。二人による発案かもしれません。
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