岩窟竜王/新居浜祭り

 ほんとうにそうかな? ©澁谷かのん

ネオクラシック(伝統回帰指向)

2016-02-19 | 真面目な提言をいたします
自分を含めてすべては変わる、人間がそう自我がそう意識がそう。森羅万象がそうなのだ。変わりようがないと思っているものも、こと人間や地球のスケールを超えてしまえば変わらないものはない。われわれが居る宇宙そのもの、時間でさえがビッグバンから生じたことがその好例であろう。
そんなことはみんながわかっている。だからすべてが変わることをややもすると嘆き残念がるのであろう、多くの人が老いを得るにしたがってその思いを強くしていくのだ。
だからこそ。すべてが変わっていく、それは仕方がない、だけど〇〇〇だけは変わって欲しくない----と願うものが人にはある。そのひとつが祭りなんだろう。

そしたら、変わってないことが実感できる方がいい。だけど何から何まで変わっているんだからそんな実感を得るのはとても難しい。
遠く山の端(やまのは;垣生のじゃないぜ、枕草子に出てくる方)こそ変わりはしないけど、商店街はシャッター通りになり、アーケードはなくなって背景が違う。太鼓の幕も代替わりしたし、人々の服装を含めた習俗はずいぶん違った。何も同じではありえない。まぁ商店街だのアーケードだの言ってみてもその昔はなかったものだったわけであるし。
せめてと考える……指揮者や重係の服装が「変わらなかった」らすこしはここの祭りは変わらないねえ、と実感できそうに思うのだが如何だろうか。かき夫のハッピがそうであってもいいのだけれど。
何かというと変わりすぎる新居浜祭りに寄せて思うことだ。

久保田もハッピを変えるようだ、これで伝統(何年のそれだかは追求しないが)を緩くとはいえ守っているのは、中須賀と西町、新田だけになってしまった。
伝統云々は言わないにしても、前記の三台以外のハッピ改変はすべて改悪と言いきってよい。東町は新タイプ着用がそう多くないことで許容でき、西原はぎりぎり及第点だがあとは……アカンな。

どうしてまた陳腐で下品で調子が良さそうなだけの意匠を選択するのだろうか、どうして伝統回帰でやらないのだろうか。
メジャーリーグのユニフォームをごらん。ネオクラッシクなヤンキースやレッドソックスのそれが一目瞭然でエクセレントだろう?
ドメスティックへと振り返ってNPBのユニフォームといったら、嗚呼……。

高校野球や大学野球では伝統あるチームはほぼ伝統を保守している。それが名門であることのひとつの条件であるともいわんばかりだ。
崩してしまった伝統なら保守はできない。ならどこかで伝統回帰を図ろうではないか。

関係あるようでないような画像で失礼、こういうのは恥ずかしいネ。分かりようもないが左袖のマークは何だったんだろうと思う。宮西小の校章かもなァ
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新調10周年に寄せた祝賀に代えて

2016-02-01 | 白虎組よ!!(贔屓のひきたおし)
冷静になって考えてみると「最終」なのかもしれない新調から各々10周年が過ぎました。幕の一生を考えるなら青年期が終了したところで、これから円熟期へと向かう一区切りの時期にあります、ここいらで講評をさせていただこうと存じあげました。

中須賀/Made by Master KOYAMA
わたしが2005の当初に鑑賞して下した評価よりもずいぶん高値安定のようだ。小山師の最高傑作とする声もあるくらいだが、小山師個人が真摯にじっくり取り組めた時期の集大成的作品ではあるだろう。どちらかというと縫師が太鼓よりも名前を上げたのではなかろうか、あきらかに中須賀以前と以降では需要がおおきくなったようで(供給もか?)しばらく安泰そうなのは結構なことだ。
ではあるのにこの時期に休みが立て込んでいるのはなかなかに痛い。S2代は新調二年目に休んだくらいだから似たようなものかもしれないが。一部で待望されている〆をつけての対戦は今後も難しそうなのはこの高評価の逆効果というべきものだろう。
とりわけ評判の〆、鼻が大きすぎると今頃になってだが思う、特に玉龍の右小鼻が。確かにS2代からそうなのだが鼻はかわらないサイズなのに、右に比べても小さめな左の眼球がそう感じさせるのかもしれない。

今になっても幕をまだ好きになれないのだが、ここは否定しないのが信者としての心得ならやむを得ずという感じか。なにかアコギを抱えて中世トラッド風な音楽をやって悦に入るリッチー・ブラックモア(ex. DEEP PURPLE, RAINBOW, BLACKMORE'S NIGHT )に対して、ストラト弾いてくれんかな~とか、なんとかもう一度グラハム・ボネット(ex. M.S.G., ALCATRAZZ)と組んでくれんか、ほんとにみんな死んでしまうぞ~とか思いながらブラナイはつまらんと言ってもしょうがないからだね。

西町/Made by Master KOUGAMI
鴻上師のメジャーデビュー作となった本作。小説家の場合には「処女作にはその作家のすべてが詰まっている」などと言われる。ロック音楽でもそうかな、そしてそれを受けた第二作(cf. QUEEN2 / QUEEN)や第三作(cf. TARKUS / EL&P)が大傑作となるのは時代に沿える力量をもつ表現者にはしばしばあることである。縫師はもちろん表現者といっていいはずだよね。とはいいながらでなんだが、第一作(cf. IN THE COURT OF THE CRIMSON KING / KING CRIMSON)が結局のところ最高傑作だったのこともまた多い。
注目のセカンド作品がまだ出ないところで推して知るべし、なのであろうか。まったく推測の域を出ないが、鴻上師は西町の作品製作を通して己の得手不得手を了承しただろうに、セカンドやサードを見られないのが残念なわたしである。

ついでに西原/Made by Master TAKAHASHI
糸の色はとてもよい。純金にはおよぶべくもないのだが、重厚な金色<こんじき>を望んでいるわけではないので高く評価しておきたい。禁色<きんじき>の紫とのマッチングもよし。糸色を選択した者はそのセンスを誇ってよい。
〆は高橋師の独特な風貌がうまく生きているといえる。意識してなかったろうがS1代〆の雰囲気がどこかに香るのは不思議な感じがする、分厚くないけど重を広めに覆っている点だろうか。炎の色が謙虚なのも好ポイントだ。西原らしさが減じそうだが、尾を巻き始めるあたりで羽子板が少し見えていたら、わたしにはさらに好ましくなる。
幕は……。上幕で色糸を使いすぎなのに高欄幕では使わなさすぎで一体感が損なわれて困りものだ。側面の人物につよく出るお人形感もあいまって美しくない。板へ竜頭を乗せました、御殿を建てました、多宝塔を置きました、というそんなにぶっきらぼうでいいのか、と嘆かざるを得ない構図なのはいかにも困るし、高欄幕のサイズの縦横が少し大きすぎなのも痛い。鳳凰と重層御殿で施された改変はもう修了したのだろうか?
一番の問題点は部分でなく総体にある。側面に顕著なのだが、上幕の下/高欄幕の上のラインですぱっと切れた感じを受ける、この原因は上幕の強い印象と高欄幕の弱い印象の差によるものだろう。部品に問題がなくとも配置が悪ければ綺麗にみえないのは当たり前、問題があるならなおさらのことだ。
強力なA面にくらべてB面が弱いところが残念なLPアルバム(cf. CAPTAIN AND ME / THE DOBBIE BROTHERS)は多く、曲順を変えてあればさらなる傑作扱いになっていたかと思う。今さら詮ないことだが上幕の図柄で高欄幕を、高欄幕の図柄で上幕となっていればどれほどましだったろうかを想像すると悔しい気さえする。
困った現状にはあるが、フロント面は唯一見栄えが良い面なので救いとなっている。ここで重旗を先祖返りさせればコストパフォーマンスのよい改良となろうだろうことは自信を持って言えるのだが……。江口も初心に戻ったのですから頼みますよ、しつこいですが。

もひとつおまけに口屋
分離独立、一種独特。独自の衣を纏いながら一定の構成員が居つづけているのはとても立派だ----との言をさしあげてよい。
初期にあった絶対平和運行はリテインで結構なのだが、女子も担げるゾとの題目はなかったことにされているのか? もし今もう一度このスローガンを表に出したら「口屋女子」(cf. 山ガール、歴女、刀剣女子)が出現して話題になるかも知れないのに。夏にやってるじゃないか!では答えとしては弱いよ。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする