岩窟竜王/新居浜祭り

 がんばることにおしまいなんてあるんですか?! ©唐可可

【ア行】++

2014-11-28 | 悪魔の辞典(地域限定版)
【阿吽の呼吸】
声をかけるわけでもないのに息がぴったり合っていることの雅語的表現、2014年10月17日の工場前が典型例。差し上げて見栄とメンチを切った後に粛々と帰る東町、滑らかに道を塞ぐ大江。

【朝山端】
こんな力士が高砂部屋にいる、ボディビル出身。醜名は本人の名字に由来していて「あさやまばな」と読むのは少し惜しい。2016年九州場所では序二段優勝した。

【雨】
地上での天候のひとつで大気中の水分が水滴となって降る状態。これが三日間降り続いたりするとすべての人の心は折れ、意気消沈かぎりなく落胆ひとかたない。どんなに強靱な精神の人間でもこれには勝てずどんなに武闘派の太鼓もてんで勝負にならない。

【アナウンス】
さぁー入ってきたぞー。一番、太鼓の、大江太鼓だーい。差し上げたー。房がゆれているぞー。
〈同意語〉蛇足。不要。見たらわかるわ。うるさい黙れ。沈黙は金。

【陰謀論】
おおよそすべての物事には影に黒幕や裏で糸を引いている腹黒い実力者がいてその者の都合のよいように操っていると考えること。またその操りは用意周到かつ水一滴も漏らさぬ巧妙さなので常人には抗いがたく陰謀自体に気づくこともままならず、ひいてはその陰謀に気づくことはできる自分は冴えた人物であると理解することまで含む。その気になればどんなことでもこれを用いて説明つけることのできる万能な解読ツール、こじらせると危険。
〈例〉あの絵を描いたんは近藤とその一巻きよ。あいつらまんまと乗せられてばかじゃわ。

【牛】
牽かれていると善光寺に行けたりする動物。角が装飾品になったりするし肉は焼かれて食されたりする。人が乗っているわけでもなく聖獣霊獣のたぐいではないのに喜光地上幕に居る。

【エル=クラシコ】
el clasico (西) サッカー界における「伝統の一戦」の意、少なくとも親世代から続いていないとこう呼ばれてはならない。カルメッシVSアマリーヨ、ブランコVSベルデの対戦のこと。

【海老フライ】
名古屋人の大好きな海老にパン粉を付けてからりと揚げた料理のこと。尻尾には衣をつけないがこのせいで尻尾は食されずに皿上に残されることが極めて多いのは憂慮される事態である。名古屋の結婚披露宴では海老が大きければ大きいほど讃えられるらしいが、逆に海老が小さいと不満たらたらともなるらしい。先々代田ノ上の名古屋城幕には鯱ではなく海老フライが乗っていたという噂がある。

【エビ天】
魚介のすり身を素揚げにした料理で当地の名物ともされる、つけた甘さが強くて海老の風味はあまり感じられない。似た名の料理にエビ団子というものがあるがこちらになると海老らしさは完全に消失しているのでなんちゃって海老とされるべき。
<類語>わらび餅

【M3】
渦井川近く、国道11号線南側にあるスーパーマーケット。店名がその昔はママイというものでM2へ変わって2015年には建屋も新たにM3となって営業中。M3としたのはM1とはマルナカ、M2がマルヨシのことなのでとも言われるが、これは当地での歴史を無視した乱暴なあて推量である。駐車場が中萩と大生院の太鼓が出逢う貴重なかきくらべ場所であって、廃止や閉鎖の噂が何度となく流れては心配されたが、なお健在で今日に至っている。
〈類語〉人工生命M1号

【大生院女子高校】
コミックおよびアニメ作品の『咲-Saki-』で登場した学校で、第71回全国高等学校麻雀選手権大会の愛媛県代表。大会組み合わせ表にその名称を見ることが出来る。残念ながら初戦で剱谷高校に敗退したものと思われ、活躍場面はない。設定資料によるとメンバーの名前が先鋒喜来、次鋒上本郷、中堅下本郷、副将岸影、大将飯積となっている。今後は『シノハユ』で登場する可能性があるので要注目。

【帯】
腰の部分で締めてハッピが乱れないようにする紐。近年まったく使用されなくなっているが、紐がないと前をはだけているしそれはだらしないものであって、境内では似つかわしくないとの認識はまだ当地には生じていない。子供太鼓においては重宝されている。柔道の試合中ではその用をなさなくなってしまうが試合が終わると改めて締め直して身ぎれいにする意味合いを持たせる。最初期に締めた事実が確認されるのは、ルーク・スカイウォーカーで知られるジェダイの騎士達。

【親の心子知らず】
うちの息子だっきゃ学校の友人の手引きかしらんけんど新須賀についてしもたわや(涙)
〈反対語〉蛙の子は蛙

【オリジナル8】
病院前かきくらべに居たことのある八台のこと。サッカーJリーグが発足時からある10チームをオリジナル10などと称しているがその歴史はたかが20年程度。

【オリャー】
ちょうさじゃ~の声に続き発する掛け声。2~3人のリズムキーパーが出すならまだしも数十人が唱えていてはむしろこちらの方が音量が高くなる傾向にある。家虎でもあるので避ける方がよい。
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92㊦;そしてあの場所で

2014-11-18 | 19XX : 回顧シリーズ
そこに見えたのは西町の半裸姿でした。それとその向こうに東町の姿も。
場所はちょうどその、例の、あの百十四銀行前だったのでした。
「うわぁこっちでもやっりょるわぁ」と呻いて走り出していくと、どうも車は着いていない(*1)ようなのがわかったのでかなりハテナと思いはしつつ(*2)交差点近くまではすっかりもみくちゃになりなっていましたですな。

感じでは中須賀大江戦のときより多くの観客がいたようです。それもあって当時のソリでは動きが悪くて大きな戦況の差は生じません。半裸であることを除けば特筆すべきことはなく一宮境内でやることを河岸を変えてやったんでしたな。

一番盛り上がったのは、大江が海岸通りから南下して交差点に近づいてきたときだったでしょう。大江は全裸だったし台車に乗っていた。右折するそぶりも見せたんですが、大江は東町に割り込んで西町にいくつもりなのか?
もちろんそこに中須賀がいれば話は違ったんですが、西町では相手が違う。しかし機動力があって怒り心頭の持って行き場がなくなっている(*3)大江になんらかのはずみで持ってこられたら大変な西町は慌て気味に退き(*4)、登り道に避難した(*5)のは実に動的なダイナミズムを感じたものでしたよ。

西町も退いてしまって中須賀もやっぱり居ないことを了解した大江は結局、交差点は右折せずで東町とともに帰落することにしたんですね。

そして。大江のベクトルがあくまで中須賀への向きで西町に来ることではなさそうだと安堵した西町は動き出します。もう東町大江は丸二を曲がってしまって見えなくなっていたのですがね、東へ向けて昭和通りをまたぞろ進撃を開始しました、百十四を越え、ダイエーを越えて。棒上に某人(*6)を乗せていだので心強かったのもありましょうか。

翌'93年にまたお邪魔することになる東町自治会館前まで進行(*7)し東町を挑発したわけでした。これを気に入らない大江もわざわざ南下してきて、正面に向かい合う西町と大江が一瞬即発とも見えました。
しかし大江としても翌年のことを考えた(*8)か、あくまで次に中須賀をこそやらにゃあとの意義もあったろうし、大江の前を遮る形で東町が(*9)西町の眼前に出る(*10)ことによって当座の事なきを得たとは言えそうでした。それで顔が立ったところはあったよね、大江は今年の祭りは終わりと北上していきました。西町も車付きの大江が相手じゃ嫌だし、大江もそこでやってしまったところでモヤモヤ気分が晴れはしないだろうし、東町も大江にいい顔が少しできようし、の三方よし、な良き差配だったですね。



しばらく百十四前の続きをやって満足したらしく(*12)西町は帰落の途につきます。まだまだまだシャッター通り(*11)になりきってはいない昭和通りを勇躍西進、レッドホール(*13)横を通って帰落し、昼から一気にアナーキー化した'92年の祭りは終わったのでした。

この時の西町、消防倉庫横で最後の差し上げをしたと思うんですが、そこで青年団諸氏はバンザイバンザイ勝った勝ったと騒いでおったのです。やってもないのに勝ったもないもんだろう(*14)とわたし自身は苦笑いしつつ、敢闘には大きく賞賛すべきであろうと拍手を送りました。
今になってみれば、この頃からいわゆるサエアガリと称されるお調子者的性格が噴出し増長してきたのではないかと思うのですがどうでしょうか、それでやってもないのに勝った勝ったと言っていたんだろうなと。
お調子者自体は節度が保たれていれば(*15)愉快なものですが、その節度の蓋がなにかの契機で取れてしまった頃だったのかもと思うのです。どちらかというと悪い意味での、不愉快なサエアガリになりつつあるような----。

この年のTH:なにかの間違いのようなあわやのセリーグ優勝が目前にあるにはあった、あと一歩、手を伸ばせば届くところに。が、やはり。


(*1)話を通して車なしでやり合わんかということにしたらしいですが。
(*2)久保田とかどこ行ったんだろうとついでに思いつつ。
(*3)中須賀が解体しているのは偵察やら情報で了解していたはず。
(*4)こういうのを見ているから西町が打倒大江としていた昨今をわたしはヤルナアと言っているんです。
(*5)中須賀はこの先にいるはずなのでそちらにどうぞ、ということですよね。
(*6)陶芸セミプロの人。
(*7)これを「侵攻」ととるのもそりゃあそうでしょうなあ、招からざる客なのは間違いない。
(*8)この時点で来年はでれないかもとの意識があっただろうし、ここでまた西町に行ってしまうとさすがにその確度が「確定」にまで上がってしまうことを危惧したのでは?
(*9)ここで大江に行かせては大江には少々気の毒と空気を読んだこともあるんじゃないかな。
(*10)やれやれもうひと仕事か……といった感じはあったように思う。
(*11)その萌芽は多くあった、それでもね。銀泉街もあったし。
(*12)東町がその後また昭和通りまで出てきたこともあったみたい。あれだけやっても元気が残っていたんですな。いいことだ。
(*13)大坪東映というべきか。
(*14)西町から思わせれば東町をとことん追い詰めたし、大江を追い返してやった、となるだろうとは思うけども。技ありと有効で一本ってな感じ?
(*15)そりゃあなかなか難しいけれど。
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92㊥;それだけじゃなかったし

2014-11-15 | 19XX : 回顧シリーズ
中須賀-大江後に西町と東町が百十四銀行前で徐車ながらやり合い始めたのはご承知おかれておりましょうが、そのほかはどうしたのか?

'92年は大江が先頭で一宮へ行く年廻りでした。なので大江が中須賀へ向いて行くことになると前述のように新田江口は登道へ待避し、西町も広銀横へよけて空間を提供しました。中須賀は素直に(?)受けてしばらくガッチャンガッチャンやったわけですが、中須賀の後に西原もいたわけです。

趨勢としては大江が押していき中須賀が下がりながら受ける感じでしたから、西原は中須賀が下がる毎に十二分の余白をとりつつ西進することになるわけです。どこかで(*1)で交わすことはできたはずですが、そのまま姿が見えなくなってしまいました。少しずつ下がっていくうちにほとんど自治会館あたりにまで来てしまったことに気づいたのでしょう。
その時の西原の心持ちを推測(*2)してしまうとですが----
一、カキフが執行部ともどもケンカ見物(*3)で散り散りとなってかなり減ってしまうし。
二、こんな状況になってしまっちゃあ宮入なんてわけにはいきにくいし。
三、大江は中須賀に向いて来たわけだけど(*4)中須賀突破後についでに来られちゃあたまらんし。
四、ここからまた登り道に出張っていって大江やらどこやら刺激してしまうのはちょいと危険----。
五、運営委員会はこの時点でおそらくなす術なし状態になったし。
と考えたことだろう、西原はそのまま自治会館へと撤収したのでありましょう。その後西原を見たという話を誰からも聞いておりません(*5)からおそらくのんびり解体したのかと思われます。

西原と違って特にとばっちりを心配しないでもいい立場の久保田新田江口は、一宮へ行った(*6)(*7)という話を聞いています。目当ての太鼓はすっぽかしでようやく現れたのは三台なのですから境内で待ちぼうけの観客をさぞ落胆したことでしょう。彼らに責任はまったくないのでじつに気の毒ではあるのですが。

わたし自身は中須賀が撤収しはじめたので、残りの太鼓は予定どおり行くだろうから一宮で見物でもしようと花園から昭和通りを登り道に向かって歩いて行くことにしました。そして登り道手前くらいで我が目を疑う光景にまた出くわしたわけです。

(*1)花園とかで。
(*2)妄想に近いけれど外してないとの自信はございます。
(*3)それと参加もあったでしょうね。
(*4)大江不利中須賀優勢の状況が正しく西原までには伝わりにくいのは無理ない。
(*5)中須賀のあたりに居た西原人に「ところで西原はどこ行ったん?」と聞いたら「知らん」と答えられたくらいで……。
(*6)かきくらべ、はしたのかな?
(*7)2020年4月の視聴によって以下が判明した 。----久保田新田江口が境内入り、定位置には据えずそのまま参道へ進み、そして出た。かきくらべというべきものは見受けられない。特筆しておくべきなのは、三台にもかかわらず観客はかなり多いこと。昭和通り組は来ないことを了解してないせいもあるにせよ多い。(例えば)2018年は8台が居たにもかかわらずこの時より少なく見える。
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92㊤;歴史的一勝

2014-11-13 | 19XX : 回顧シリーズ
船御幸後の中須賀浜でしたですな。
まぁいつもの奴をやってたんですが、大江の(たぶん)芯棒からベキッみたいな音がしたわけです。多分に下がっている状態の前棒を無理にあげようとしたら鳴ってしまったんでしょう、わたしの右足も多少なりとも影響したのじゃないかな。
その音を聞いた大江はさっさと退いて帰って行きましたな。東町を追い越していきましたから変に急いでいたようです。

さて聞いた話ですが急いで基地に帰った大江は、棒が二本マズイ状態だったようで180度くるりと回転させて当座の修復として、鎧(もちろん木の。あぁよきオールドタイム。代名詞ともいえるログハウス鎧が登場したのはこの二年後)を装着したとのこと。
今なら棒が鳴っていれば差し替えでしょうし、鎧はバリバリの何重にもなることでしょうな、ランチも後回しの突貫作業だったとも聞きましたよ。

モバイル情報なき当時のこと、大江の決起具合はほとんどまったく伝わっておりませんでした。これは中須賀に鎧なしという事実で了解されていただけましょう。下半身脱いで新田と江口を登り道へとどけさせたやる気の大江が実際に向かってくるのを見た中須賀各員はなにかの冗談だろと感じておりました。江口新田がどいてしまうと西町が残るわけですが、西町は相手を察して口屋方面へ道を空けるとなりまして。敵は台車でこっちも台車だったんですが、もっとあけすけに言ってみるとこんな時にしたないのになあまでありましたか。

なんとか間に合ったのは本当に幸運でした、ここで待ってりゃ来るだろなんてタカラスポーツのところあたりに座り込んでいたのをなにか気が向いて迎えに行くかぁとなったんですから。この歴史的一勝を見逃していたらもう死ぬまで勝ち目には会えなかった、といっても間違いじゃなさそうで(悲)。

なにぶん実戦はお互いしばらくぶりのことでして、そろりと当たっていっておっかなびっくりのクリンチから始まるんだから何が横綱かいってなもんでした。とはいっても現場の体感ではさすがの着車と思われるすごいスピードで衝突しておるわいとひしひしと感じていたんですがね。

クールヘッドを標榜するわたしですがこの時ははしたなくも大興奮いたしたものでした、思い出したら顔から火が出ますよ。あれから何度か衝突の場面を迎えましたがこの時ほどにはエキサイトしたことは一度もなかったですな。初体験の衝撃というものでしたでしょうねえ、やっぱり。
時効なので告白しますが正直このときだけです、わたしが他人に危害を加えたのは。文句をつけてきた黄色いカキフの頭を鷲掴んで小突きまわしたのと台場にロープを掛けてようとこっそり忍び寄ってきた緑のおっさんを蹴飛ばしたことです、我を忘れていたんだと思います、今に至るもどなたか存じませんがほんとうにすんませんでした。西原や江口の指揮者クラスの人も中須賀の棒上に上がっていたのを見ましたが同じくエキサイトの至りの故だったんでしょうなあ。

なにしろこっちの長胴とあっちの長胴が共鳴するような場所であれこれしていたわけでして、ふだん聞きなれたこちらの長胴はともかく、めったに至近距離で聞くことの叶わないあちらの長胴もお互いケンカビートで打ち付けられているんですからこら堪ったもんじゃなかったです。台車同士なのでも棒が飛んでくることなどなく長胴打ちも安心してしっかり叩いていたんでしょうな。

広銀前あたりで始まったのにいつの間にか住銀を越えたところまで来てそろそろ残余体力が乏しくなってきたようでやめんか気分がぼちぼち出てきましてな。少し離れて睨み合い後、大江は住銀の交差点を左折北上して行きました。ここで中須賀は大江が前後を入れ替えて来ることを警戒して西原町交差点西まで下がったのは当初はどこかに忘れていた戦時感覚を取り戻したせいでしょう。

しばらく待っても大江の再来襲の気配はない模様で、そのうえ大江に対し解体命令が出たとの情報が伝ってきて(命令は出たかも知れないけど毎度毎度の無視だったのはご承知のとおり)、中須賀は少し安心、大いに気をよくして花園まで戻って撤収することになったわけでしたよ。
この現場では、大江にトドメを差しに行く~一宮へ向かうなど選択はいくらかあった筈ですがね、勝ち逃げしようゼとの意識が醸成されたようで、「さっさとばらすか」との提案や「昔はいつも悔し泣いて帰りよったのに今日はうれし泣きじゃわ」の歓喜もあがっておりました。今回はラッキー!との感覚が共有されていたのは事実でしたな、ちと恥ずかしい。

わたしはこの後、少なくとも一年間は中須賀が最強の座にあるとの論より証拠論を立てて悦に入っていたものでした、この論は都合二年間保ちました・・・。
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旅の思ひ出(南部久慈編)

2014-11-07 | 諸国漫遊;郵便局のある処へ
遠いわ、久慈。盛岡までは新幹線で行けるがそこからはJRを使おうが自動車で行こうが3時間はかかるので大変。わたしがあらためて述べるまでもないが『あまちゃん』のロケ地でもあるわけでその遠さをものともせず多くの観光客は押し寄せるらしい。ロードサイドの看板には土日祝は自家用車で来ないでね的なことが書かれているくらいだからTVの力は恐るべし。

小袖海岸とかには興味がないので祭りだけ見学したが勿体なかったろうか? そう言われるようなことも考えられるがアムステルダムに行ってマリファナやらないのも勿体ないことだろうし京都に行きながらお座敷で舞子と遊ばないのもそうであろうように個人の自由だね。

さて、久慈秋祭り。
八戸の影響があるのか八戸の方に影響があるのかはよく知らないがバリエーションであるといってよかろう。同じく南部藩だしね。

普段の曳航中は電線や家屋に影響のない大きさで身を縮こませていて、見せ場で背を伸ばして両脇を拡げる手法はこのあたりでは好まれる趣向であるのだろう。


乗せる人形やレリーフはおなじみの発砲スチロールが材料のようだ。これなんかはドラゴンボールの神龍をお手本としているに違いない。時宜を見るのも大有りで、妖怪ウォッチのキャラクターまで取り入れられていた。


擦れてしまっていてもう何を見てもあんまり驚かないわたしだけれどかなりびっくりした面があってね、何?ってこうなると山車の範疇を逸脱してると感じた、いや範疇の定義の再構築を迫られたのかもれない。

山車は山車で間違ってなかろうが、驚かされたのはこの中身でなんと10㌧トラックだぞ。当然内燃機関があるので自走できる、そりゃあ運転手は要るがね。いくら僕たちが新居浜太鼓台サイキョ!とか言ってても絶対に敵わないから挑戦はしないでおこうね。挑発もやめよう、遠いから来やしないと思っても厳禁だ。なにしろ相手がその気になれば高速道路を走ってくることができる。

こんなのはいくら映像で見てもわからないところだ、現地見学とはこういうところがヴァリューありだね。ところ変われば品変わる、だ。
                          <旅した日:2014年9月19日>
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策士策に溺れる

2014-11-03 | レビュー2014(午)

実に合目的に作られたよいソリだったと思う。
ただ工場前でも使わずで勿体ないなあと思っていた、いい仕事しそうだったのにと。
こういうの作れるのは西町だよなあ、と。

その高性能ソリがあんなシーソーのような使い方をさせられる羽目になるとはね。
ソリ自体は高性能だが、車軸との結合が弱いとは……。
それはそうかもしれない、滑走面をできるだけ多く取ることが目的ならば車軸を受ける抉りを浅くした方がよくはある、だが浅すぎたのか----。
合目的に腰高にしたのだろうが、かえって当て所をショウオフしてしまったか----。

不幸中の幸いもあった。外れた弾みで下手したら横倒しにまでなったかもしれず、怪我人続出の大惨事もありえた、それを考えればあれでもましか。
滅多にないことと思うけど、そう思うわたしだって口屋の車軸が折れたの見たことあるわけだし。

まぁ次はまた考えてくるんだろう。
前々から思っていたが太鼓の全体重を支える二輪は、取り扱いが面倒ではあるものの東方が使うシャーシタイプの方が頑丈に違いない。大江浜での二輪保管所をフェンス越しにじっくり眺めていると大江のそれが一番堅牢に見えた。多分に帰納法的な見方になってしまうがこれがやっぱり合目的なのだろうな。

そんなわけで、二輪タイヤも含めての方向性がまたがっちがちの硬構造へ行くだろうね。反省点や弱点は必ず補強されてデフォルトになってしまうのが平成時代だから。
四本柱が折れては万事休すなので金属に変えて。
横棒が折れてしまってはバンザイするので何本も重ねたり鉄棒おいて保護したり。
長胴割れたらオシマイだから鎧は木では心許ない、ならば鉄+ゴムで何重にもする。脱着には手間をとられるので常時装着へ。
かき棒折られたらまったく不細工なのでやたら太くして。
それが今度は二輪の番で、車軸を太く頑丈にしてくるかシャーシタイプに戻すか、だろうけど。

これらを古老や先達が見たら「ここまでせなようやらんのか」と呆れられるに違いない。乱暴で厳しい人ならば怒ること必定ですぞ。
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