岩窟竜王/新居浜祭り

 言って良いことと悪いことがありますの ©鬼塚夏美

近過去-川西-7/8

2008-06-04 | ちょいと昔はこうだった
ラス前となりました、東町です。
重旗は赤紫の地に染め付けたものようでした。どうしてもわたしには左側のそれが「町--東」と読めてしまうんですね。

グリーン系の色ならウチらの色だからかまわんだろ~と考えているのか、服色はウグイス色から深緑、果ては蛍光色まで幅の広いことったらないですが、伊達巻きに使っている緑の色が基本の色だと思われます。深緑物件は構成員ほとんどの人の母校である北中男子の体操服(当時のあれはジャージとはいえないね)と色まで酷似していて、五十歩五十二歩のものでした。
ほとんど白くて局所に緑のラインが入る当時としてはモダーンなものを披露したり、胸に"東町"でなく"指揮者"と記したり、上下同色の(暗黒時代といいたい)ローセンスジャージの下半身を白に変えて(自分達からは3Nに倣ったとは言うまいよ)みたりで「先鞭をつける」タイプなのかも知れません。
台車にチームカラーの塗色をしたり、紋を書いみたのも嚆矢であったような気がします。1993年の下駄を履かせた台車ってのは空前絶後でしょう。

ハッピは折々の注文時に異なってしまった程度の変化でほとんど変わりませんね。
端管が印象的。黒いペンキで塗ってあり、ほとんど先細りとなっていないものでした。真鍮製だったのか、金色だった時もあったように記憶します。
1972年に使ったフェリーボートは実にグッドチョイス(同年久保田のそれと雲泥の差)でした。トラックでいえば露天となっている荷台の部分が長くて、乗せてみるとかき棒の両端が見えるほどの船。岸から見ても太鼓の全貌がわかる実にスペクテーターなものでした。余裕のある大型船だったのかなんとフェリー上で担き、差し上げるという史上初の光景を現出させたのです(船長さんとかに不安はなかったのかなあ)。これが翌々年時の台船出現へのインスパイアになったのではないか? とはひとつの仮説ではあります。
コメント (2)
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