岩窟竜王/新居浜祭り

 ほんとうにそうかな? ©澁谷かのん

キンゴジVSモスゴジ

2014-06-25 | 〆と幕とをピックアップしよか!
あーこれが映画化されれば本当に夢の対決だなあ。

わかればいい人だけわかればよいので詳説はしないが、東宝映画いやさ映画史上でも双璧をなす特殊技術作品がキンゴジ(1962)とモスゴジ(1963)である、最高の双耳峰というべきかもしれない。唯一の例外(*1)を除いて異論はほぼないだろう。

であるからしてキンゴジとモスゴジのどちらが秀逸かはもう好みによるしかない。キンゴジ派モスゴジ派どちらの贔屓部分も納得できるし、わたし自身にとっても正直どちらも最高なのでそうでない方を貶す気はまったくおきない。両雄並び立って甲乙付け難しの典型だろう、たとえて言えばミケランジェロとレオナルド、ハンセンとブロディ、潮騒のメモリーズのアキとユイ(*2)がその拮抗具合での好例とできようか。

そしてここにもあったのが「高木と梶内」(*3)である。少々の無茶は承知だが牽強付会はお手の物、高木の龍をキンゴジに梶内の龍をモスゴジと以下に見立てた。

どうせ実在のモデルを持ちえないのだから、毒々しくおどろおどろしく迫力を出せば王道なのに、なにかすっきりハンサム顔のキンゴジである。初代(*4)にあった耳や爪を省略して生物感を失いながらそれを補って余りあるフォルムの良さ。サウルスの雰囲気が強く頭部が平坦で、人間とは明らかに遠い種にあることが明らかで感情を推し量ることは困難な顔つき。草食のそれか肉食のそれなのか、はたまた昼行性か夜行性かの推論も難しい眼、焦点を結んでいるのかどうか、どこを見ているのかが定かではない視線。口はしっかりとは閉じないので可動域が小さいのか大きく開けることもなく性格を読み取りづらいことで却って異形感が増している。脚と身体のバランスが生物としては生存に支障がありそうなくらいに極端である。直接私淑を問わず正統な後継が少ない。
これらは高木の龍に該当する特徴に通じているといいたい。

こちらも架空の存在でありながら、むしろ人間的な感情があるのかもと思わせるモスゴジである。性格まで推し量れることのできそうな表情をしていて言うなれば悪党の面相だ。喜怒哀楽でいうならいかにもな怒りを露わにした顔は立体視の可能な両眼の位置と眉の造形によりぐっと引き立っている、瞳がかなり黒くて大きく幼児のそれのようだ、見方によればヒーロー的な眼力まで備えている。その先には食料なのかあるいは敵なのか、何かを見据えていることが明瞭にわかる。口を閉じた際の歯牙の見え方がナチュラルでよい。
これ以後にしばらく続く〇〇ゴジ達に直接間接の影響が大きい、結果的な版図はキンゴジよりも大きくなりその帰結としてバリエーションは多い。
そしてこれらは梶内龍に該当するのではと。

(*1)64年のキングギドラだけは別格としないとね。
(*2)いきなり文脈無視してしまうが、わたし自身は若小泉の有村さんがよい。
(*3)高木については安太郎と一彦を意図的に混同した。
(*4)54年の初代ゴジラのこと。本稿では「山下」と捉えて読むことも可能。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

9091近辺; 西町/大江

2014-06-02 | 19XX : 回顧シリーズ
ここから遡ること5~6年くらいと思うが、主要対峙カードは西町-大江と中須賀-東町と云うものだった。以前にも記述したが固定したものではなく、ときどきで顔合わせは変わりはするが、意識の中心、視線の中央はこの組み合わせではあった。
保守的な見方、わたし的な視座によればずれているから相手を違えろとなるのだろうが、現場で見た印象から言うと、A中須賀大江B中須賀東町C西町大江D西町東町の各取り合わせの中で坦懐に言えばCの場合に最も「棒が入っていた」となる。西町側の理由によるものか大江側のそれかはわからないが、その現場で思い切って入ってきた棒を何したりアレしたりしていたし、あちら側ではアレされたり何したりされていただろうことは想像に難くない。

(棒の)(や前)では両軍でいろいろされていたのだろうがそれも下ではあまり関係のない話。かき夫のたしなみとでも言いましょうかな、自分の足元近くに敵の棒端がもしもあったらそらあ踏みますわなあ。入って来はしてもありがちな脇あたりの高さを踏むには難しいけど、その時はちょうど膝の少し上くらいの高さでしてなあ、ちょうど踏むには実にいい塩梅だったんでしてね。わたしが右足で踏みはじめると周りの人もリズム合わせて踏んでくれますわなあ、まさにたしなみですな。そうしているうちに何かの具合でもう少し入ってきたもんだから足掛ける人がまた増えていきましてなあ、うまく共鳴して数回やってたら確かに鳴ったんですよ2回、ミキミキてな感じでしたな。このままうまく行けば折ってしまえる、そう思ってさらに体重を乗せて踏んだわれわれだったんですが、残念そこで棒端が地面に着いてしまってそれ以上はどうにもなりませんでしてな。あれはじつに惜しいことでしたよ。周りの同士も「惜しかったのお」「もうちょっとで折っとったのにねえ」と微笑みながら残念がっておりましたよ。こちらが後の時ですからなたぶん90年なのかと思いますわ。

久保田が新調したのは'89年でした。なにぶんこのH1代がアライブだったのはたったの5年ほどにしかなりません、印象が薄いのも当然、となるところですがところがそうでもないのが面白い。
今ではかえって不思議でしょうが当時は新調なんてちょっと現実的ではないような雰囲気があったからなんでして。理由? 雰囲気に理由はないも同然ですがあえて数点あげると、'85年の新田以来、どこもまだまだやらいでも……の年数だったことがひとつ。吉田はいないし梶内も高木もちょっと代替わりやらなんやらで品質に疑義がもたれつつあったことでふたつ。あわせて他にいい縫師は見当たらずで、暫くはこのまま使っていってもイインジャネ、との共通意識が醸成されていたと感じておりました、はい。
ところがそこに藤野師なんていう初耳の縫師を擁して、久保田がやってきたんでありますな。しかも出来が悪くない、いや待てよなかなかええじゃないかと、先代の風情まで香る逸品ではなかろうかという新調をいたしました。ここでも少し不思議でしょうかな、今だと。藤野ぉー? みたいに言われているのは21世紀の今ですが、当時は当時ですがな。これ以降大同小異の幕を量産してのちに評判を落としすぎてしまいましたが、藤野師の最良作は久保田H1代であると今でも思っとります、そういう出来でした。
それもがらりと一式の新調でした、なんどか言いましたんですがそれまであまりなかったことです、今ではそっちがほとんどでしょうけどな。お披露目はなかったと思いますな。
17夕にお家で風呂に入っていると久保田町から放送が聞こえてきましたよ。「新調太鼓台に相応しい立派な平和運行が出来ました、明日も是非平和運行を貫きましょう」との大意でしたわ。どこかが新調ご挨拶に来やしまいかと冷や汗ものだったんでしょうなあ。

大江が境内で旗竿を特別長くした重旗を振り回していたのを憶えている。二本の重旗はそのままだったので、わざわざそのために作ってきたのかと思うと微笑ましいというかご苦労様というか。ただそうしていたのはハッピも着ないしジャージも着てないハチマキだけ巻いた顔を赤くしたおいやんだった。今はあういうタイプの人を見ることはできなくなった。なにか惜しいことのように感じる。
昨年のように棒に乗っているのはびっしり黄色いジャージだけ、というのを見事な統制として讃える向きもあるようだが、お行儀がよすぎる嫌いがあるように感じるのだ。わたしは新居浜祭りの何が良いってアナーキーさを一等好んでいるので。

'91年に中須賀の房が白くリフレッシュされて一部で驚かれた。新調ではなく汚れがとれて黄ばみが目立たなくなったのだが、なぜどうできたかは謎で「洗濯した」との眉唾情報があるにはあった。

そんなこんなで翌'92年、取り合わせがAとDのトラディショナルなものへ回帰したのは知っているよネ。


この年の買い物:WHITESNAKE / SLIP ON THE TONGUE
この年HT:どんケツ続く……まあひどいもんだ………成績を見るなら実質のエースが猪俣では…………。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする