友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

公園からトイレがなくなる

2012年02月21日 21時32分14秒 | Weblog

 公園からトイレが撤去される。理由は維持管理にお金がかかるからだという。公園の管理は市が行っている。樹木の剪定や庭・トイレの清掃は市のシルバー人材センターに委嘱している。市は財政が厳しいというので、保育園の統廃合を計画しているが、そうした動きの一環として公園のトイレを撤去しようというものらしい。外回りの仕事をしていた時、急に用便がしたくなって困ったことがあったが、公園を目指せば必ずトイレがあるから助かった。それが撤去となると、子どもたちはもちろん外回りの人も困ることなる。

 

 昔のように、雑木林や鎮守の森がそこかしこにあれば、男の子は平気で用を足すことが出来た。しかし今、電信柱に向かって小便をする姿など見たことがない。遊び場は公園に限られてきたし、何よりも公園にはトイレもあって安心できる。キレイな公園はトイレもキレイだ。昔に比べれば、トイレの使い方は随分よくなったと思う。公園を造って欲しいという要求は多いが、いざ造るとなると、不良が集まるとか花火をするとかアベックが来るとか、どうしてこんなことが心配なのかと思うくらいいろんな不安材料を並べる人がいる。

 

 緑の多い都市を唱えながら、街路樹の落ち葉が家の中に落ちてくるとか、落ち葉で足を滑らせたら危険だとか、苦情が来ると市はまだ紅葉もしていないうちに枝を切り落としてしまう。冬にもならないうちから街路樹は丸裸でなんとも情けない。公園に井戸を掘って、災害の時に使えるようにしようと提案しても、手押しポンプを見たことのない若いお母さんから、「子どもが怪我をしたら保証してくれるのですか」と詰問されて、市は困惑している。公園に不良たちがたむろするようにならないかと心配する人もいる。公園を緑の森にしたなら、樹木の陰に隠れて淫行をするかもしれないとまで言う。

 

 いったい何が大事なのだろうかと耳を疑ってしまう。自分以外の人間はそんなにも信用出来ないないのかと思ってしまう。いや、あなた自身がそうしてしまう恐れのある人なのではないのかと思う。公園を造って欲しい、緑いっぱいの街にしてほしい。人はそう言いながら、どうしてそんなに否定的なことばかり考えるのだろう。公園がない方が安全で安心なら、公園など望むのはやめた方がいい。でも、公園の多い緑豊かな市を望むなら、それをどうやって実現していくか、積極的に考えていくべきだろう。

 

 行政の基本的な姿勢は、昔から何事もなくである。行政が批判を受けるような事態を招かないことが行政の仕事の目的と錯覚している。面倒なことになりそうなことには積極的な関与はしない。けれど、市民が一生懸命になって動き出せば、行政は逆な意味で批判を受けることになるから、我が身に火の粉が降りかからないように、務めを果たしてくれる。行政を動かすのは市民である。文句だけ言っていても、行政は変わらない。行政も市民との協同という言葉を使うようになったが、必ずしもその中身は協同とは言いがたい。市民が主役というよりも行政の下請けになっているからだ。

 

 公園のトイレの撤去は、市民と市の協同の意味を問うひとつのチャンスではないだろうか。

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