樋口先生と2人で担当している共通領域の 「倫理学」 ですが、
先週の金曜日から私の担当になりました。
そして、その第1回目が 「授業公開」 ということで他の先生方にご覧いただき、
授業後には 「検討会」 まで開いていただくことになりました。
福島大学ではFD活動としてこの 「授業公開&検討会」 というものを2004年度からやっていますが、
その第1回目が私の 「科学技術と環境の倫理学」 の授業だったのでした。
あれから10年、まだ福大の全教員が授業を公開し終えたわけではないはずですが、
なぜか私には2巡目のオファーが来てしまいました。
授業を公開してくれる方を探すのも大変と聞いていましたので、
あまりゴネてもしょうがありませんから2つ返事で引き受けることにいたしました。
参観してくださった先生方は9名。
皆さんお忙しいなか大変ありがたいことです。
先生方からのフィードバックはまたの機会にご紹介することにして、
授業公開のときには学生たちにも授業アンケートを書いてもらっていますので、
まずはその集計結果をご報告することにしましょう。
5段階評価での質問事項は6つです。
「1.担当教員の授業への意欲が感じられた。」 4.81。
「2.聞き取りやすい話し方だった。」 4.84。
「3.板書・パワーポイントなど見やすかった。」 4.38。
「4.内容や進め方、教材等に学生の学びを助ける工夫が感じられた。」 4.52。
「5.授業への集中や理解を妨げる要因がなく、学習する雰囲気が保たれた。」 4.67。
「6.授業の内容は理解できた。」 4.41。
うーん、1と2を除くと全体に低い評価ですね。
自分的に納得のいかないものもあります。
特に3番の 「板書・パワーポイントなど見やすかった」 が6つのなかで最低評価というのが、
一番意外だったし、なんでこんな低評価になるのか理由が見当つきません。
今回の授業では私にしては珍しく、授業内容のプリントを配付し、
板書は補足的な事項だけにしました。
M教室の4面に分かれた黒板をぴったり全部使い切る量で板書は終わりましたし、
文字の大きさもいつも通りけっこうな大きさで書いていたつもりです。
板書量が少なくてすんだので、わりと落ちついてきれいな字を書けていたと思うのですが…。
何がいけなかったんだろう?
書いた文字の前に突っ立って視界を遮ったつもりもないしなあ。
パワーポイント使わなかったからダメ?
次回の授業のときにみんなに直接聞いてみたいと思います。
5番の 「授業への集中や理解を妨げる要因がなく、学習する雰囲気が保たれた」 も、
もっと高くてもいいんじゃないかなあ?
アンケート用紙には 「もしもそのような要因があった場合には具体的に書いてください」 とあり、
そこに記入してくれていたのは3名のみ。
しかもその内容はというと、
「学生同士無駄話がなかった。」
「私語が全くなかった。」
「皆静かに授業を受けていたので、集中したい人を妨げることはなかった。」
というものばかりで、素晴らしい結果じゃないですか。
でも、こう書いてくれた人のうち上の2名は評価 「4」 なんですよ。
なぜ 「5」 をくれない?
これ以上どうしろと言うのだ?
前に書いたことがありますが、授業公開のときには先生どうしの私語がよく発生するので、
もしもそんなことがあったらこっぴどく注意してやろうと手ぐすねを引いていたのですが、
そんな不届き者の先生方もまったくいらっしゃいませんでした。
あとで書きますが、今回は授業の最初に授業内課題として、
みんなにワークシートに書き込む作業をしてもらいましたので、
その問いを起点にみんなを授業のなかにうまく引き込むことができたのではないかと自負しています。
だから5番に関してはもっと高く評価してもらえるんじゃないか思っていたんだけどなあ…。
どう改善したらいいかがわからないというのが一番困る。
これも今週聞いてみることにしよう。
4番と6番はまあ今回はこんなもんかなあと思います。
授業の最初の発問というのが、まず問1。
「あなたは脳死臓器移植をよいことだと思いますか、悪いことだと思いますか。
その理由も書いてください。」
これをけっこう時間を取ってみんなに書いてもらった後で、続いて問2。
「ところで、脳死って何ですか? 植物状態とどう違うのか書いてください。」
とても意地悪です。
第2回目の授業のときに 「倫理学的な考え方」 について講義し、
倫理学的な判断というのは事実判断と価値判断の2つから成り立っている、
一般的にはまず事実判断を確定させてから価値判断をするのが正しい順序である、
しかしながらこの順序が逆転してしまう場合もあるので気をつけなければいけない、
という話をしておきました。
そのことを体感してもらうために、今回はこういう引っかけ問題を冒頭に置いたのです。
問1はよいか悪いかという価値判断を問うています。
みんなはけっこうこれにスラスラと答えることができるのです。
ところがこの価値判断を下す前にきちんと確定しておくべき 「脳死とは何か」 という、
事実に関わる問いを出されると、みんな答えに窮して固まってしまうのです。
つまり、みんな脳死とは何かをよく知らないまま、
脳死臓器移植がよいか悪いかという価値判断を下してしまっているんじゃないの、
ということを実感してもらうための意地悪な設問だったわけです。
こういう意地悪なことをされると、誰だって頭に来ますよね。
なので、「授業の進め方」 に関して評価が低くなったのではないかなあと思っています。
しかも、本時のなかでは 「脳死とは何か」 についてまだ触れませんでした。
本時は 「脳死と臓器移植の歴史」 の話だけをして終わってしまいました。
せっかく脳死って何だろうという興味関心が引き出されたのに、
それへの解答が与えられないのですから、よけいにモヤモヤしてしまうでしょう。
私としてはモヤモヤも含めて 「学生の学びを助ける工夫」 のつもりなのですが、
本時だけを切り取って評価しようとすると、内容や進め方、そして内容の理解度という点では、
どうしても低い評価になってしまうことは否めないのではないでしょうか。
まあそれは甘受することにいたしましょう。
あと3回の授業を通じて理解度を深めていただければと思っています。
アンケート用紙の最後には、「今日の授業に参加して感じたことを自由に書いてください」
という欄があり、時間を取って全員に記入してもらいました。
批判的、否定的な内容を書いてくれたのは1人だけでした。
この人は4番と5番に 「2」 をつけていた人です。
「全学年へ向けた授業としては、テーマの選択に違和感がありました。医療現場のことについて述べたいのか、倫理学のことについて述べたいのかがあいまいだと感じました。次回の講義にてもっと詳しく考えてゆけると期待しております。」
うーん、私としては全学年に向けた授業とは思っていないんですよねえ。
共通領域の授業というのは基本的に1年生向けに開講しているつもりですから。
この授業では脳死臓器移植という具体的な問題を取り上げて、
その問題について考えていくことを通じて倫理学的な考え方を身につけてもらおうと考えています。
あいまいだと言われると、その通りなのかもしれませんが、
抽象的にただ倫理学の学説を紹介していくというスタイルだと、
1年生にはちょっと難しいというか、つまらなくなってしまうように思うのですが…。
ま、このスタイルに関してはご批判を甘受するしかないかもしれません。
全員を満足させるというのはムリですからね。
他はおおむね好意的な意見ばかりでした。
まずは事実判断と価値判断に関して。
「脳死臓器移植という重いテーマを用いて、倫理とはどういうものなのかということを考える授業であった。事実判断が不十分なままの価値判断がいかに滑稽であるか、授業内課題で思い知らされた。そして、脳死の概念の誕生による事実判断と価値判断の転換が非常によくわかった。」
「やっぱり脳死という大事で深いテーマだと一回聞いただけでは理解できないところもあったが、日本で臓器移植が他国より進んでいない理由を知ることができたのは大きい学びだと思う。事実判断が重要だと言っていたのが少し理解できた。軽く良いとか悪いとか決められないと思ったから、自分でも事実をもっと知らなければならない。」(この人は6番の評価が 「2」)
「事実判断ができないと価値判断はできないはずなのに、『なんとなく』 の価値判断をしてしまう恐ろしさを感じた。人を助けるための脳死臓器移植だが、手段が目的になって臓器移植のために脳死の人をつくるというのは犯罪でしかない。事実判断に必要な情報を持つことが求められると感じた。」
「今日の授業で取り上げられた 『脳死』 について、授業が進むほどに、私自身は脳死について無知だったと気づき、脳死というものについて正確な知識を身に付けたいと思った。正確な知識を身に付けることこそが、倫理学において、価値判断をする上で必要だと思うので、今後の倫理学の授業が進む上での意欲を駆り立ててくれた。」
「1、2番の課題を書いている時にすでに思っていたが、『脳死』 という専門用語をあまり深く知らないのに、価値判断をしていることにとても疑問を感じた。そのようなことが、国会でも行われていたかもしれないと思うと、少し怖いなと思った。」
「とても面白かった。内容が内容であるので面白かったというのは少しおかしいかもしれませんが、90分あっという間でした。脳死については、少し前に話題になったこともあり自分でもなんとなく考えていたので、価値判断も普通に書いてしまいましたが、脳死とはいったい何なのかが全然わかっていないのだと気づきました。議員の方々ももしそうであるならば恐ろしいことだと思いました。」
「事実判断が不十分であったことに気がついた。他の問題などについても、価値判断を下すことは授業課題などで訓練されていたが、事実判断があることが必要なのだと感じた。」
「倫理とは価値判断だけでなく事実判断も必要であるが、価値判断だけでも何かしらの考えが書けてしまうという話を聞いた時、自分の意見がまさにそれであって納得した。脳死臓器移植や植物状態について知らないことばかりなので、事実判断もできるようにしていきたい。」
「『脳死が良いことか悪いことか』 という質問には答えることができるのに、『脳死とは何か』 という質問には答えにつまって自分でもドキッとした。これからの講義で倫理的な脳死の問題について学んでいくのが楽しみです。」
「事実判断と価値判断の逆転、まんまと先生にだまされたなと思います。日頃気をつけようと心掛けているつもりではいましたが、自然な流れに、何の疑問も持たず書いてしまいました。そのくらい曖昧であり、逆転のリスクは高いのだと改めて感じました。最近の法改正についての報道の 『脳死を人の死とする』 という見出しや取り上げ方の意味がやっと分かりました。歴史も知らずに価値判断をしていたと思うと、改めておそろしいなと思います。」
「脳死だけでなく、何かの良し悪しを考える時、それがどういうものなのかもあまり考えず、なんとなくで答えを出していることに気づきました。自分の行為がひどく無責任なものに思えてきました。」
このように多くの方々は私の授業展開の意図を汲み取ってくれたようです。
脳死臓器移植の問題だけでなく、その他の問題でもこういうことをしてしまっているのではないか、
と気づいてもらえたというのは、この授業の狙いがみごとに成功した証のように思います。
脳死と臓器移植の歴史の話では、
1968年に行われた札幌医大の和田寿郎医師による日本初の心臓移植、
いわゆる 「和田移植事件」 の話をメインに据え、けっこう詳しく論じました。
それについてのコメントも多かったです。
「とても衝撃的な内容だった。和田移植がなかったらもしかして日本は臓器移植において遅れを取ることはなかったのかもしれないと思った。医学などは特に、専門分野の部分は一般の人は理解しきれず所謂 「専門家」 に任せっきりになってしまう傾向があるが、一般の人でも自ら調べ疑うという姿勢は少なからず必要だと思う。」
「日本で、脳死臓器移植が認められるまでに、重大な事件が起こっていたということは全く知らず驚きました。人の命を実験材料のようにしか扱っていなかったのではないかと思いました。」
「和田移植のお話に衝撃を受けたとともに怒りと呆れを覚えました。また、今まで触れることの少なかった 『脳死』 などのお話を、正しい知識を持った上で考えていきたいと感じました。」
10年前に授業公開した頃と比べて、現在私が自分の授業改革のなかで力を入れているのは、
いかにして授業外での学習時間を増やしてもらうかという点です。
特に宿題を課したりはしませんでしたが、授業のなかの端々で、
自分で本を読んだり、インターネットで調べてみたりしてほしいということを伝えました。
そのメッセージもある程度は受け止めてもらえたようです。
「事例がとても興味深いお話だったので、自分でくわしく調べてみたいと感じた。」
「脳死と植物状態はどちらもよく耳にする言葉ですが、違いを答えるようにと言われたとき、全然わかっていなかったことに気づきました。来週までに違いを調べて考えていきたいと思います。」
「授業の内容がハイレベルで難しい内容であったけれども、この問題は科学技術が大きく飛躍している今日、とても深く考えなければならないと思った。この一週間で脳死について調べ、授業の理解を深めなければならないなと思った。」
学生の学ぶ意欲を引き出すような授業になっていたらいいのですが…。
こう書いてくれた人たちが本当に時間をかけて調べてくれたのかどうか、
次回の授業内課題で確認してみたいと思います。
さて、授業公開後の検討会では様々なご意見をいただくことができました。
それについては別稿にてご報告することにいたします。
先週の金曜日から私の担当になりました。
そして、その第1回目が 「授業公開」 ということで他の先生方にご覧いただき、
授業後には 「検討会」 まで開いていただくことになりました。
福島大学ではFD活動としてこの 「授業公開&検討会」 というものを2004年度からやっていますが、
その第1回目が私の 「科学技術と環境の倫理学」 の授業だったのでした。
あれから10年、まだ福大の全教員が授業を公開し終えたわけではないはずですが、
なぜか私には2巡目のオファーが来てしまいました。
授業を公開してくれる方を探すのも大変と聞いていましたので、
あまりゴネてもしょうがありませんから2つ返事で引き受けることにいたしました。
参観してくださった先生方は9名。
皆さんお忙しいなか大変ありがたいことです。
先生方からのフィードバックはまたの機会にご紹介することにして、
授業公開のときには学生たちにも授業アンケートを書いてもらっていますので、
まずはその集計結果をご報告することにしましょう。
5段階評価での質問事項は6つです。
「1.担当教員の授業への意欲が感じられた。」 4.81。
「2.聞き取りやすい話し方だった。」 4.84。
「3.板書・パワーポイントなど見やすかった。」 4.38。
「4.内容や進め方、教材等に学生の学びを助ける工夫が感じられた。」 4.52。
「5.授業への集中や理解を妨げる要因がなく、学習する雰囲気が保たれた。」 4.67。
「6.授業の内容は理解できた。」 4.41。
うーん、1と2を除くと全体に低い評価ですね。
自分的に納得のいかないものもあります。
特に3番の 「板書・パワーポイントなど見やすかった」 が6つのなかで最低評価というのが、
一番意外だったし、なんでこんな低評価になるのか理由が見当つきません。
今回の授業では私にしては珍しく、授業内容のプリントを配付し、
板書は補足的な事項だけにしました。
M教室の4面に分かれた黒板をぴったり全部使い切る量で板書は終わりましたし、
文字の大きさもいつも通りけっこうな大きさで書いていたつもりです。
板書量が少なくてすんだので、わりと落ちついてきれいな字を書けていたと思うのですが…。
何がいけなかったんだろう?
書いた文字の前に突っ立って視界を遮ったつもりもないしなあ。
パワーポイント使わなかったからダメ?
次回の授業のときにみんなに直接聞いてみたいと思います。
5番の 「授業への集中や理解を妨げる要因がなく、学習する雰囲気が保たれた」 も、
もっと高くてもいいんじゃないかなあ?
アンケート用紙には 「もしもそのような要因があった場合には具体的に書いてください」 とあり、
そこに記入してくれていたのは3名のみ。
しかもその内容はというと、
「学生同士無駄話がなかった。」
「私語が全くなかった。」
「皆静かに授業を受けていたので、集中したい人を妨げることはなかった。」
というものばかりで、素晴らしい結果じゃないですか。
でも、こう書いてくれた人のうち上の2名は評価 「4」 なんですよ。
なぜ 「5」 をくれない?
これ以上どうしろと言うのだ?
前に書いたことがありますが、授業公開のときには先生どうしの私語がよく発生するので、
もしもそんなことがあったらこっぴどく注意してやろうと手ぐすねを引いていたのですが、
そんな不届き者の先生方もまったくいらっしゃいませんでした。
あとで書きますが、今回は授業の最初に授業内課題として、
みんなにワークシートに書き込む作業をしてもらいましたので、
その問いを起点にみんなを授業のなかにうまく引き込むことができたのではないかと自負しています。
だから5番に関してはもっと高く評価してもらえるんじゃないか思っていたんだけどなあ…。
どう改善したらいいかがわからないというのが一番困る。
これも今週聞いてみることにしよう。
4番と6番はまあ今回はこんなもんかなあと思います。
授業の最初の発問というのが、まず問1。
「あなたは脳死臓器移植をよいことだと思いますか、悪いことだと思いますか。
その理由も書いてください。」
これをけっこう時間を取ってみんなに書いてもらった後で、続いて問2。
「ところで、脳死って何ですか? 植物状態とどう違うのか書いてください。」
とても意地悪です。
第2回目の授業のときに 「倫理学的な考え方」 について講義し、
倫理学的な判断というのは事実判断と価値判断の2つから成り立っている、
一般的にはまず事実判断を確定させてから価値判断をするのが正しい順序である、
しかしながらこの順序が逆転してしまう場合もあるので気をつけなければいけない、
という話をしておきました。
そのことを体感してもらうために、今回はこういう引っかけ問題を冒頭に置いたのです。
問1はよいか悪いかという価値判断を問うています。
みんなはけっこうこれにスラスラと答えることができるのです。
ところがこの価値判断を下す前にきちんと確定しておくべき 「脳死とは何か」 という、
事実に関わる問いを出されると、みんな答えに窮して固まってしまうのです。
つまり、みんな脳死とは何かをよく知らないまま、
脳死臓器移植がよいか悪いかという価値判断を下してしまっているんじゃないの、
ということを実感してもらうための意地悪な設問だったわけです。
こういう意地悪なことをされると、誰だって頭に来ますよね。
なので、「授業の進め方」 に関して評価が低くなったのではないかなあと思っています。
しかも、本時のなかでは 「脳死とは何か」 についてまだ触れませんでした。
本時は 「脳死と臓器移植の歴史」 の話だけをして終わってしまいました。
せっかく脳死って何だろうという興味関心が引き出されたのに、
それへの解答が与えられないのですから、よけいにモヤモヤしてしまうでしょう。
私としてはモヤモヤも含めて 「学生の学びを助ける工夫」 のつもりなのですが、
本時だけを切り取って評価しようとすると、内容や進め方、そして内容の理解度という点では、
どうしても低い評価になってしまうことは否めないのではないでしょうか。
まあそれは甘受することにいたしましょう。
あと3回の授業を通じて理解度を深めていただければと思っています。
アンケート用紙の最後には、「今日の授業に参加して感じたことを自由に書いてください」
という欄があり、時間を取って全員に記入してもらいました。
批判的、否定的な内容を書いてくれたのは1人だけでした。
この人は4番と5番に 「2」 をつけていた人です。
「全学年へ向けた授業としては、テーマの選択に違和感がありました。医療現場のことについて述べたいのか、倫理学のことについて述べたいのかがあいまいだと感じました。次回の講義にてもっと詳しく考えてゆけると期待しております。」
うーん、私としては全学年に向けた授業とは思っていないんですよねえ。
共通領域の授業というのは基本的に1年生向けに開講しているつもりですから。
この授業では脳死臓器移植という具体的な問題を取り上げて、
その問題について考えていくことを通じて倫理学的な考え方を身につけてもらおうと考えています。
あいまいだと言われると、その通りなのかもしれませんが、
抽象的にただ倫理学の学説を紹介していくというスタイルだと、
1年生にはちょっと難しいというか、つまらなくなってしまうように思うのですが…。
ま、このスタイルに関してはご批判を甘受するしかないかもしれません。
全員を満足させるというのはムリですからね。
他はおおむね好意的な意見ばかりでした。
まずは事実判断と価値判断に関して。
「脳死臓器移植という重いテーマを用いて、倫理とはどういうものなのかということを考える授業であった。事実判断が不十分なままの価値判断がいかに滑稽であるか、授業内課題で思い知らされた。そして、脳死の概念の誕生による事実判断と価値判断の転換が非常によくわかった。」
「やっぱり脳死という大事で深いテーマだと一回聞いただけでは理解できないところもあったが、日本で臓器移植が他国より進んでいない理由を知ることができたのは大きい学びだと思う。事実判断が重要だと言っていたのが少し理解できた。軽く良いとか悪いとか決められないと思ったから、自分でも事実をもっと知らなければならない。」(この人は6番の評価が 「2」)
「事実判断ができないと価値判断はできないはずなのに、『なんとなく』 の価値判断をしてしまう恐ろしさを感じた。人を助けるための脳死臓器移植だが、手段が目的になって臓器移植のために脳死の人をつくるというのは犯罪でしかない。事実判断に必要な情報を持つことが求められると感じた。」
「今日の授業で取り上げられた 『脳死』 について、授業が進むほどに、私自身は脳死について無知だったと気づき、脳死というものについて正確な知識を身に付けたいと思った。正確な知識を身に付けることこそが、倫理学において、価値判断をする上で必要だと思うので、今後の倫理学の授業が進む上での意欲を駆り立ててくれた。」
「1、2番の課題を書いている時にすでに思っていたが、『脳死』 という専門用語をあまり深く知らないのに、価値判断をしていることにとても疑問を感じた。そのようなことが、国会でも行われていたかもしれないと思うと、少し怖いなと思った。」
「とても面白かった。内容が内容であるので面白かったというのは少しおかしいかもしれませんが、90分あっという間でした。脳死については、少し前に話題になったこともあり自分でもなんとなく考えていたので、価値判断も普通に書いてしまいましたが、脳死とはいったい何なのかが全然わかっていないのだと気づきました。議員の方々ももしそうであるならば恐ろしいことだと思いました。」
「事実判断が不十分であったことに気がついた。他の問題などについても、価値判断を下すことは授業課題などで訓練されていたが、事実判断があることが必要なのだと感じた。」
「倫理とは価値判断だけでなく事実判断も必要であるが、価値判断だけでも何かしらの考えが書けてしまうという話を聞いた時、自分の意見がまさにそれであって納得した。脳死臓器移植や植物状態について知らないことばかりなので、事実判断もできるようにしていきたい。」
「『脳死が良いことか悪いことか』 という質問には答えることができるのに、『脳死とは何か』 という質問には答えにつまって自分でもドキッとした。これからの講義で倫理的な脳死の問題について学んでいくのが楽しみです。」
「事実判断と価値判断の逆転、まんまと先生にだまされたなと思います。日頃気をつけようと心掛けているつもりではいましたが、自然な流れに、何の疑問も持たず書いてしまいました。そのくらい曖昧であり、逆転のリスクは高いのだと改めて感じました。最近の法改正についての報道の 『脳死を人の死とする』 という見出しや取り上げ方の意味がやっと分かりました。歴史も知らずに価値判断をしていたと思うと、改めておそろしいなと思います。」
「脳死だけでなく、何かの良し悪しを考える時、それがどういうものなのかもあまり考えず、なんとなくで答えを出していることに気づきました。自分の行為がひどく無責任なものに思えてきました。」
このように多くの方々は私の授業展開の意図を汲み取ってくれたようです。
脳死臓器移植の問題だけでなく、その他の問題でもこういうことをしてしまっているのではないか、
と気づいてもらえたというのは、この授業の狙いがみごとに成功した証のように思います。
脳死と臓器移植の歴史の話では、
1968年に行われた札幌医大の和田寿郎医師による日本初の心臓移植、
いわゆる 「和田移植事件」 の話をメインに据え、けっこう詳しく論じました。
それについてのコメントも多かったです。
「とても衝撃的な内容だった。和田移植がなかったらもしかして日本は臓器移植において遅れを取ることはなかったのかもしれないと思った。医学などは特に、専門分野の部分は一般の人は理解しきれず所謂 「専門家」 に任せっきりになってしまう傾向があるが、一般の人でも自ら調べ疑うという姿勢は少なからず必要だと思う。」
「日本で、脳死臓器移植が認められるまでに、重大な事件が起こっていたということは全く知らず驚きました。人の命を実験材料のようにしか扱っていなかったのではないかと思いました。」
「和田移植のお話に衝撃を受けたとともに怒りと呆れを覚えました。また、今まで触れることの少なかった 『脳死』 などのお話を、正しい知識を持った上で考えていきたいと感じました。」
10年前に授業公開した頃と比べて、現在私が自分の授業改革のなかで力を入れているのは、
いかにして授業外での学習時間を増やしてもらうかという点です。
特に宿題を課したりはしませんでしたが、授業のなかの端々で、
自分で本を読んだり、インターネットで調べてみたりしてほしいということを伝えました。
そのメッセージもある程度は受け止めてもらえたようです。
「事例がとても興味深いお話だったので、自分でくわしく調べてみたいと感じた。」
「脳死と植物状態はどちらもよく耳にする言葉ですが、違いを答えるようにと言われたとき、全然わかっていなかったことに気づきました。来週までに違いを調べて考えていきたいと思います。」
「授業の内容がハイレベルで難しい内容であったけれども、この問題は科学技術が大きく飛躍している今日、とても深く考えなければならないと思った。この一週間で脳死について調べ、授業の理解を深めなければならないなと思った。」
学生の学ぶ意欲を引き出すような授業になっていたらいいのですが…。
こう書いてくれた人たちが本当に時間をかけて調べてくれたのかどうか、
次回の授業内課題で確認してみたいと思います。
さて、授業公開後の検討会では様々なご意見をいただくことができました。
それについては別稿にてご報告することにいたします。
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