井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

驟雨

2014年07月20日 | 日記

外出しようとしたら、バケツの底を抜いた如き土砂降りで、
しばらく屋内で、静まるのを待った。

「驟雨(しゅうう)」という言葉ももはや絶えつつあるだろうか。
にわか雨、夕立ち・・・・と置き換えは可能だが、ニュアンスがそれぞれ
微妙に異なるのは、日本語の持つグラデーションの豊穣さであろう。

茶に四十八、灰色に百通りの呼称があると言われているのが日本語である。

江戸茶、団十郎茶、芝翫茶、鶯茶、媚茶、瑠寛茶・・・・・

利休鼠、小町鼠、銀鼠、梅鼠、葡萄鼠、藍鼠、鯖鼠・・・・・

英語ならBLUE、NAVYと、このバリエーションがせいぜい2,3種ではないか。

和の色は、鉄紺、藍、薄藍、浅葱、納戸色、浅葱、露草色、水浅葱・・・・・・

目も眩むほどの豊穣さ。

そして色彩の豊穣は当然、和服の豊かさになるわけで和の伝統を次代へと
つなぐのも皇室のお勤めであるから、皇后陛下は代々養蚕を手ずからなさり、
折あらば和服をお召しになられるのだろう。

言葉もまた、皇室が雅な和語を伝えるに最もふさわしい場であり要塞でもあるので、
言葉を大事に遊ばしていただきたいのだ。それゆえにこそ歌会始はある。
おもうさま、おたたさまを残してくださいとはさすがに言わぬが、
パパママは寒い。豊かに両の手に有り余る自国の言葉を持ちながら
なにゆえ外国語、その必然性もなく、と残念に思うこともある。

私は台本にはリアリティの観点からパパ・ママを使うこともあるが
可能な場合は「お父さん、お母さん」と書く。できれば、お父様、お母様と
書きたいがもはや、上流のお家のセリフにしか書けぬ。
30年ほど前は一般でも品の良きご家庭では使っていらした。
秋篠宮家ではいまだ「お父様」「お母様」が健在であることが
有りがたく嬉しいことである。

秋篠宮紀子妃殿下とお嬢様が和服をきちんとお召しであることも
心丈夫なことである。振り袖をまとう時期は短いので、ぜひたくさん着ていただきたいし、
悠仁親王殿下の袴姿はたいそう、嬉しい。皇室はあまり急ぎ足で
近代化などして欲しくないのだ。秋篠宮殿下が有栖川流の書をよくなさり、紀子妃殿下もまた能筆で歌も巧みであられ、さこそ皇室であろうかと頼もしく拝し奉っている。

広い皇居のそこここにたゆたう、非合理の空間にこそ実は神が宿りたもう。
西欧合理主義の庭に日本の神々は顕現せぬ。浅はかな近代合理主義の
彼方に、神々は住まわれる。

靖国神社の拝殿で玉串を捧げるとき、いい大人である私が(無知と不慣れの故だが)
一瞬戸惑うのに、まだ幼かった悠仁親王殿下が神武天皇御陵、武蔵野陵ときちんとしたお作法で玉串奉奠をなさっているお姿に、心丈夫な思いを抱かせていただいた。
神前の二礼ニ拍手一礼も、早々と教えられているのであろう。
天と地をつなぐ祭祀の感覚も一朝一夕には行かず、それゆえ幼い頃から
神域に身を置かれ、五感を神に向けて研ぎ澄まされるのはよいことだ。

世外のSOMETHING GREAT、神を片鱗でも感知できぬ人々を責めはせぬが、
自らが感受できぬからといって、祭祀を蔑ろに思うことはいささか尊大であろう。
神界はある。民と神をつなぐのが、本来天皇陛下の御役目なのである。
アメリカ占領下のGHQによる、日本弱体化政策は皇室にもその手が及び、
祭祀が天皇の私的行為とされてしまってから、我ら大和の民は皇室の位置を
見失い混乱している。だが、本来祭祀抜きに皇室はない。
このまま皇室を見失って行くのか、また取り戻すのか今がどうやら
分岐点のようだ。日本国民はどちらの道を選ぶのだろう。