内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

冬休みの一日、灰色の空の下の徒然

2016-02-15 17:39:48 | 雑感

 先月末から昨日まで、中江兆民『一年有半』、正岡子規『病床六尺』、パスカル『病の善用を神に求める祈り』と、病と死に関わる文章を読んできた。一方で、それぞれの文章に感動しつつも、他方では、それぞれのテキストが書かれたときに彼らがそれぞれ置かれていたであろう境位を思いやり、我が身を振り返れば、死を前にしての何の覚悟も「あきらめ」もできていなければ、残された時間を楽しむ境地などにはもちろんなく、ましてや病を神に感謝する祈りなど、恩寵とはまったく無縁な自分のどこを叩いても金輪際出てくるはずもないと、罪悪深重の凡夫の体たらくをまたしても自覚せざるを得なかった。
 二月に入ってから先週金曜日まで、毎週の講義・演習とは別に、ほぼ毎日のように何か職業上の義務あるいは仕事がらみの約束があり、それぞれの拘束時間はさほど長くはなかったとはいえ、その間気が休まらず、少し疲れた。それで土日は気を弛め、今後の中長期的な研究計画などをぼんやり考えたり、そのためにあれこれの参考文献を机の上に積み上げては、それらを崩し読み(こんな言葉ないですけど)して過ごした。
 今週は一週間の冬休み。その間に普段は書けない原稿、発表草稿、少し先の講義ノートなど作成しておきたい。
 今日は、ジルベール・シモンドンの著作を積み上げて、ところどころ拾い読みしては、思索に耽っている(ような振りをしている)うちに日が傾いてきた。なぜシモンドンかというと、明日から、「技術・個体・倫理」というテーマでシモンドンを読むという長期連載を予定しているからである。途中何度か休憩するかもしれないが、七月半ばまでは主にこのテーマの記事が続くことになるだろう。とは言うものの、何のプランもなしに書き始めるのであるから、自分でもどの方向に論述が展開するのかまるで予想できない(まあ、論文じゃなくて、ブログの記事ですからね、その辺は気楽ざます)。
 しかし、この連載には、西田幾多郎・和辻哲郎・三木清の一九三〇年代後半のテキストを技術論という観点から読むことをテーマとするこの夏の集中講義のための準備作業という隠された(って自分でバラしてるし)意図もあるのである。
 実を申しますと、今日の記事は、書き始めるまでは、「私の好きな曲」というカテゴリーの記事として、昨日までの記事との繋がりも意識しつつ、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第十五番第三楽章「リディア旋法による、病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」について書くつもりでおりました。そこで、ゲヴァントハウス弦楽四重奏団の同曲の演奏を流しながら書き始めたのですが、第二段落で話が逸れてから逸れっぱなしで、とうとうベートーヴェンには戻って来ることができませんでした。聞く度毎に感動を新たにするこの崇高な音楽については、いずれまた機会を改めて書くことにいたします。
































































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