内的自己対話-川の畔のささめごと

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渡辺利夫『放哉と山頭火 死を生きる』

2016-01-04 01:44:36 | 読游摘録

 昨年日本で刊行された文庫新刊で最近購入した中の一冊に、渡辺利夫『放哉と山頭火 死を生きる』がある。同書は、他の多くの文庫版と違って、「ちくま文庫」のために書き下ろされた作品であるから、文字通りの新著である。
 著者は、経済学博士であり、アジア研究の碩学。筑波大学教授、東京工業大学教授を経て、現在、拓殖大学総長。
 本書は、文芸評論家による作家論、放哉や山頭火の専門研究家による評伝、思想家による哲学的解釈などとは違った独自のアプローチを提示している。
 著者は、放哉と山頭火の作品を折に触れて読み返し、伝記的事実を丹念に辿るという作業を前提としつつ、両者の生きた姿を、人生のその都度の場面で詠まれた自由律俳句を核として、蘇らせようとする。筆致は簡潔、安易に情緒に流されることもなく、過度な感情移入もなく、過剰な「哲学的」解釈もない。
 「あとがき」から引用する。

 私は放哉を生きている。山頭火を抱えもっている。現世からの逃避、過去への執着からの解放。そうした願望を意識の底に潜ませていない人間は少なかろう。しかし、人々にとって、それは叶えることのできない業のごときものである。人間の業のありようを、自由律句という形式を通じて、私どもの心に、時に鋭く、時に深々と語りかけてくれる異才が、放哉であり山頭火である。放哉と山頭火の句が読む者を捕らえて離さないのは、二人が現代を生きるわれわれの苦悩を「代償」してくれるからなのだろう。

 その生涯の軌跡を辿れば、この世的には、放哉も山頭火も、度し難い「敗者」である。師友の好意に甘え、わがまま勝手に生き、社会に適応できなかっただけの脱落者でしかない。しかし、両者の作品が今もなお読み手を惹きつけてやまないのは、私たちがこの世的には生きることができない生き方を命と引き換えに生き抜いて息絶えたその凄絶とも言える長くはない生涯を通じて、私たちが自らの人生では回避した苦悩を、虚飾を極限にまで排した言語表現として、結晶化させているからなのであろう。



































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