内的自己対話-川の畔のささめごと

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「自由であり、それゆえに傷つきやすく壊れやすいが、常に癒すことができる関係」― 『生きる希望・イバン・イリイチの遺言』より

2024-03-19 11:26:14 | 読游摘録

 昨日の記事で取り上げた渡辺京二の「最後のイリイチ」という書評的エッセイには、「ケア」という言葉が三度出てくるが、それは・専門化・制度化されたケアのことであり、イリイチの批判の対象としてである。当該の二段落を引用しよう。

イリイチは論壇に登場して以来一貫して、行政官僚や各種専門家によるケアの提供が、人びとから自立的かつ共同的な生存の基礎を奪い、人びとを際限のない、かつまたけっして満たされることのないニーズに憑依された存在に変えてしまうと主張してきた。彼によれば現代文明の悲惨の根元はここにあったのである。

イリイチの言う専門家のケアはマルクス主義その他の社会学や精神分析をも含んでいる。『遺言』のなかで彼は言う。「今日の社会学的想定は、精神分析であれ、マルクス主義であれ、ある人のその人自身に関する感覚を、イデオロギー、社会的条件、氏素性、そして教育によって形作られた幻影であるとしています」。すなわち学者とか思想家とか呼ばれる専門家は、われわれが何者であるかということまで教えこむ。こういったケアは、イリイチによれば人びとから他者と直面することによって生ずる驚きを奪い、ひいては人間の自由と愛の根拠を突き崩すのである。

 このような専門化・制度化されたケアは、一人の人をいわば記号化あるいはコード化してしまい、記号・コードの体系に応じた対応・処置・処理の対象へと変換してしまう。その対応・処置・処理は一定の有効性を持っているだろう。しかし、そこにはもはや他者はいない。それぞれ個別である他者に向き合い、その人の表情や身振りが表現しようとしていることに注意をはらい、予期せぬ反応に驚かされることも含めて、時を分かち合うということはもはやできない。
 イリイチは『生きる希望・イバン・イリイチの遺書』のなかで、聖書の寓話のなかのサマリア人は新しい人間関係の成立を象徴しているという。その関係とは、「自由であり、それゆえに傷つきやすく壊れやすいが、常に癒すことができる関係」(a relationship which is free, and therefore vulnerable and fragile, but always capable of healing)であり、それはちょうど自然は常に治癒の過程にあると当時考えられていた」(just as nature was then conceived as always in the process of healing)ことと対応していると言う。
 渡辺京二は、イリイチの「遺言」をそのまま鵜呑みにすることはできないとしたうえで、自分なりの遍歴を踏まえて、「彼の洞察の到達点が妙に近代というものの勘どころを押さえていることに、スリリングな感動を覚える」と言う。
 「というのも、知識人の出現とそのいとなみの歴史を私なりに理解することで、それ自体はよき意図以外の何物でもなかったものが最悪のものを産みだすに至るという、イリイチとおなじ逆説に私もたどりつくからである。」
 ここで知識人という言葉を使うのが適切かどうかについては留保したく思うが、それぞれの分野で専門的知識を独占的に所有している人たちが、たとえ初発の動機が万人の生活の改良という純粋な「善意」からであっても、いやそうであればこそ、最悪のものを生み出してしまうという逆説には否定しがたいところがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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