内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

聴き手の応答力を目覚めさせるためにこそ話す

2017-05-09 23:59:59 | 読游摘録

 一昨日の記事で予告した通り、今日から Jean Starobinski, La parole est moitié à celuy qui parle... Entretien avec Gérard Macé, La Dogana / France Culture, 2009 の摘録を始めます。
 本書の冒頭で、対談相手というよりも質問者・聴き手の役割をこれから引き受けようとしているジェラール・マセは、拙ブログの一昨日・昨日の記事で取り上げたモンテーニュの『エセー』の中の一文 « La parole est moitié à celuy qui parle, moitié à celuy qui l’escoute » に言及しながら、「あなたにとって、この文は、あらゆる言葉は他者に聴かれることによってより豊かにされるということを意味するのですか、それとも、反対に、私たちはつねに誤解に晒されているということを意味するのですか」とスタロバンスキーに尋ねます。
 それに対して、前者の意味に取るとスタロバンスキーは答えます。モンテーニュは、生動しつつある言葉をテニスで対戦中の選手同士が打ち合うボールのように見なしていて、言葉が十全に言葉になるのは、話し手と聴き手とを隔てる距離を言葉が乗り越え、聴き手からの応えが話し手に返されたときだけだと考えているとスタロバンスキーは注解します。
 このような生きた言葉のやり取りは、対話者同士が共通の規則に従っていることを前提としていると述べた後、スタロバンスキーは、歴史家・文芸批評家・教師としての自分の態度について語り始めます。

Historien et critique de la littérature, enseignant, mon métier a fait de moi quelqu’un qui parle, qui cherche à éveiller l’écoute, mais pour inviter les écoutants à parler à leur tour. Je n’ai pas voulu seulement proposer une écoute, mais éveiller l’aptitude à la réplique (p. 9-10).

 ただ聴かせるだけでなく、聴き手に話すことを促すために話す。聴き手の応答力を目覚めさせるためにこそ話す。そうありたいとスタロバンスキーは言うのです。
 話を聴いている人に自分もそれに対して応答したいという気を引き起こすように話してこそ、言葉は生動し、話は「伝わり」、知識は伝播するのでしょうね。