二〇二四年三月三日 NO・五十―四九 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)マルコ 八章 (月) 〃 九章
司会 高 澤兄(火) 〃 十章 (水) 〃 十一章
奏楽 内 間姉(木) 〃 十二章 (金) 〃 十三章
招詞祈祷 ヨエル三章五節 (土) 〃 十四章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 二二番 ◎七日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
交 読 文 詩 編百二六編 ◎礼拝動画 こちら
讃 美 讃美歌三七九番
献 金 感謝の祈り 坂本兄
讃 美 聖 歌一五八番 口でイエスは主であると告白し、
説 教 ローマ十章九~十三節 心で神がイエスを死者の中から
聖 餐 式 復活させられたと信じるなら、
讃美祈祷 聖 歌五二九番 松田兄 あなたは救われるのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ十章十節
キリスト教の核心
9節は、「口」と「心」、10節は、「心」と「口」の順番になっているが、9節は、8節の順番を踏襲しただけで、10節で、時間的順序に言い直している。ここから心で信じるだけでなく、口で告白しなければ救われないと言われているのだ、と取るのは、字面に囚われすぎている。そのようなことがここの主題ではない。むしろ9~10節はキリスト教の根幹に関わる最も重要なことが言われているのである。それは①「イエスは主である」、②「イエスは死者の中から復活させられた」ということである。
「イエスは主(キュリオス)である」とは、初代教会の最も重要な信仰告白である。当時、ローマ皇帝を「主」と呼んだことに対抗して、キリスト者はイエスこそ主である、と信仰告白した。しかしそれに留まらない。「主」という言葉は、ユダヤ人が神の名である聖四文字YHWH(ヤハウェ)に代わって用いた語である。それゆえキリスト者が「イエスは主である」と信仰告白することは、ユダヤ人にとって神への冒瀆以外の何ものでもない。イエスは人間だから。それゆえ教会(キリスト者)が「イエスは主である」と告白する時、「イエスは神である」と告白しているのである。フィリピ2章6~11節の「キリスト讃歌」はそのことを示している。特に9節の「あらゆる名にまさる名」とは、ヤハウェを表す呼称である。
それと共にイエスの「復活」こそ教会の宣教の中心であった。使徒言行録に記されているペトロによる説教見よ(2章24、32節)。「復活」は「蘇生」ではない。朽ちない永遠の命に与ることである。それは神の専有であるゆえ、復活もまたイエスが神であることを証明する。そして人間イエスの復活こそ、その他の宗教と区別される唯一無二の出来事であり、教会の宣教の核心である。さらに言えば、13節の「主の名を呼び求める者」とは神への祈り(礼拝)を指すのであり、それが主イエスに用いられている。
11~13節に「すべて」と言う語が四回も出ており強調されている。11節のイザヤ28章16節の引用文にパウロはわざわざ「誰も(すべての人)」を付加している。民族、能力のすべての区別・差別は撤廃された。すべての人が罪人であるように、すべての人が救いの対象であり、主イエスの御業は、すべての人のためである。文字通り時代を超えて全人類のためにある。「『すべて』は全世界より貴重である」(ベンゲル)。
礼 拝 次 第 (日)マルコ 八章 (月) 〃 九章
司会 高 澤兄(火) 〃 十章 (水) 〃 十一章
奏楽 内 間姉(木) 〃 十二章 (金) 〃 十三章
招詞祈祷 ヨエル三章五節 (土) 〃 十四章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 二二番 ◎七日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
交 読 文 詩 編百二六編 ◎礼拝動画 こちら
讃 美 讃美歌三七九番
献 金 感謝の祈り 坂本兄
讃 美 聖 歌一五八番 口でイエスは主であると告白し、
説 教 ローマ十章九~十三節 心で神がイエスを死者の中から
聖 餐 式 復活させられたと信じるなら、
讃美祈祷 聖 歌五二九番 松田兄 あなたは救われるのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ十章十節
キリスト教の核心
9節は、「口」と「心」、10節は、「心」と「口」の順番になっているが、9節は、8節の順番を踏襲しただけで、10節で、時間的順序に言い直している。ここから心で信じるだけでなく、口で告白しなければ救われないと言われているのだ、と取るのは、字面に囚われすぎている。そのようなことがここの主題ではない。むしろ9~10節はキリスト教の根幹に関わる最も重要なことが言われているのである。それは①「イエスは主である」、②「イエスは死者の中から復活させられた」ということである。
「イエスは主(キュリオス)である」とは、初代教会の最も重要な信仰告白である。当時、ローマ皇帝を「主」と呼んだことに対抗して、キリスト者はイエスこそ主である、と信仰告白した。しかしそれに留まらない。「主」という言葉は、ユダヤ人が神の名である聖四文字YHWH(ヤハウェ)に代わって用いた語である。それゆえキリスト者が「イエスは主である」と信仰告白することは、ユダヤ人にとって神への冒瀆以外の何ものでもない。イエスは人間だから。それゆえ教会(キリスト者)が「イエスは主である」と告白する時、「イエスは神である」と告白しているのである。フィリピ2章6~11節の「キリスト讃歌」はそのことを示している。特に9節の「あらゆる名にまさる名」とは、ヤハウェを表す呼称である。
それと共にイエスの「復活」こそ教会の宣教の中心であった。使徒言行録に記されているペトロによる説教見よ(2章24、32節)。「復活」は「蘇生」ではない。朽ちない永遠の命に与ることである。それは神の専有であるゆえ、復活もまたイエスが神であることを証明する。そして人間イエスの復活こそ、その他の宗教と区別される唯一無二の出来事であり、教会の宣教の核心である。さらに言えば、13節の「主の名を呼び求める者」とは神への祈り(礼拝)を指すのであり、それが主イエスに用いられている。
11~13節に「すべて」と言う語が四回も出ており強調されている。11節のイザヤ28章16節の引用文にパウロはわざわざ「誰も(すべての人)」を付加している。民族、能力のすべての区別・差別は撤廃された。すべての人が罪人であるように、すべての人が救いの対象であり、主イエスの御業は、すべての人のためである。文字通り時代を超えて全人類のためにある。「『すべて』は全世界より貴重である」(ベンゲル)。