稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

ディートリヒ・ボンヘッファー

2018年02月19日 | 行事
 毎月第3主日になされる学びは、今月から「ボンヘッファー」の著作に学ぶことに決まった。今日は第1回目なので、ボンヘッファーの生涯の素描をした。そのレジュメを添付する。ボンヘッファーの言葉は青字にした。

  ディートリッヒ・ボンヘッファー生涯    2/18/2018      N0.1
略年表 (1906年2月4日~1945年4月9日39歳2か月)
1906年2月4日 8人兄弟の6番目としてブレスラウで生まれる。
1923年(17歳) 大学の神学部に進む。
1927年(21歳) 学位請求論文「聖徒の交わり」(30年出版)
1928年(22歳) 2月 牧師補としてスペインのバルセロナへ。(~29.2/18)
1930年(24歳) 7月、教授資格獲得論文「行為と存在」(31年出版)
    9月5日(31年6月20日まで)から9か月間アメリカ、ユニオン神学校に留学。
1931年(25歳)8月1日ベルリン大学の私講師に就任。
       11月11日牧師任職式を受ける。
1933年(27歳) 2月1日ラジオ講演  1月30日ヒトラー帝国首相になる。
      夏学期に「キリスト論」講義 10月ロンドンのドイツ人教会の牧師に就任。
1935年(29歳) 4月26日牧師研修所所長になる。
1936年(30歳) 8月5日 大学教授資格はく奪。
1937年(31歳) 11月「服従」出版
1938年(32歳) 9月「共に生きる生活」執筆(39年出版)
1939年(33歳) 6-7月アメリカへ。  9月1日ポーランド侵攻第二次世界大戦
1940年(34歳)  講演禁止命令。夏 政治的抵抗運動へ参加。 「倫理」執筆開始。
1941年 3月出版禁止
1943年(37歳) 1月7日マリア・V・ヴェデマイヤーと婚約
       4月5日逮捕される(44年までテーゲル獄中)。
1945年(39歳) 2月7日ブーヘンヴァルト強制収容所へ。
       4月9日フロッセンブュルクで絞首刑。

時代背景
プロイセン(ドイツ)帝国(~1918年 ~12歳)→ワイマール共和国(1919~33年 13~27歳)
→第三帝国(1933~45年ヒトラー 27~39歳)
第一次世界大戦(1914~18年 8~12歳)  第二次世界大戦(1939~45年 33~39歳)
 略歴
8~12歳に経験した第一次世界大戦とその敗北は、少年ボンヘッファーのその後の歩みに決定的影響を及ぼした。つまり彼は牧師・神学者になるために大学の神学部に進むことになる。後年当時を回想して以下のように語った。
ドイツは嘆きの家となりました。飢餓と絶望の力はあまりに強く、また破壊的でありました。街頭には栄養失調の人々や、青ざめた病気の子供たちが満ちあふれていました。自殺者は、恐ろしいほどの数に上りました。毎朝のように、私は川岸にひと群れの人々が立っているのを見かけました。そこを通り過ぎる人は誰でも、そこで何が起こったということを知っておりました。このような印象は、小さい子供には残酷なものでした。」

 第一次世界大戦の敗戦によってプロイセン帝国は崩壊し、議会制民主主義の連邦制、国民主権のワイマール共和国になったが、ヴェルサイユ条約によって、ドイツは連合国側のすべての損失と被害を賠償するよう義務付けられた。この戦争責任がドイツ人に恨みと復讐を生じさせ、ヒトラー台頭の元凶となった。さらに1929年の世界大恐慌が追い打ちをかけた。
 
 21歳の時に著した学位請求論文「聖徒の交わり」は教会論を扱ったものだが、後バルトはそれを「神学上の一つの奇跡」と評した。18歳の春休みのローマ滞在が教会に対しての特別な関心を与えた。しかし牧師としての働きに魅力を感じ、牧師資格を取るため、翌年牧師補として1年バルセロナで働く。
 24歳の時、教授資格獲得論文「行為と存在」を提出。アメリカのユニオン神学校に留学後、ベルリン大学の私講師(助手)となり、「キリスト論」「服従」の講義をする。
 1933年ヒトラー政権誕生するが、ボンヘッファーは、ヒトラーの危険性を最初から見抜いていた。M.ニーメラーを中心に10月には「牧師緊急同盟評議会」が結成され、反ナチ教闘争が始まる。翌年1934年5月バルメン告白会議が開かれ「バルメン宣言」が発表される。
1935年(29歳)、告白教会から牧師研修所の所長の要請を受ける。牧師補の訓練に従事する。しかし40年には閉鎖される。この頃から政治的闘争、ヒトラー暗殺計画に関わるようになる。ボンヘッファーは、反体制派として目を付けられ、大学教授資格(36年)をはく奪され、出版禁止(41年)される。43年暗殺計画失敗。4月5日逮捕される。
 逮捕の3ヶ月前マリア・V・ヴェデマイヤーと婚約、二人の「往復書簡」がある。
 そのほかの「獄中書簡」も戦後に出版され、友人ベートゲに宛てた「神学書簡」は今なお多大の影響をキリスト教界に与えている。
 逮捕から2年後、1945年4月9日、絞首刑となる。その前日、捕虜としていたイギリス人将校のべストに託してベル宛に託した最後の言葉が残されている。
 「彼にこう伝えて下さい。私にとって、これがいよいよ最後です。しかしまたこれは始まりです。あなたと共に、私は、私たちの全世界的な教会の交わりを貫き、それがあるがゆえにあらゆる国家的な利害を超越するあの原理を信じております。そして私たちの勝利は確かです。――またこうも伝えて下さい。私たちが最後に会った時にあなたが語った言葉を、私は忘れたことがありませんでした、と。」

1944年12月末の作詩と言われる「良き力に」
 よき力に真実に、静かに囲まれ、
 すばらしく守られ、慰められて、
 私は現在の日々をあなた方と共に生きようと思う。
 そしてあなた方と共に新しい年へと歩んで行こう。

 古い年はなおもわれわれの心を苦しめようとしており、
 悪しき日々の重荷は、なおもわれわれを圧迫する。
 ああ、主よ、われわれのとび上がるほど驚いた魂に、
 救いをお与えください。あなたはそのためにわれわれを造り給うたのですから。

 そしてあなたが、重い杯を、
 苦い苦しみで今にも溢れんばかりに満たされた杯をわれわれに渡されるなら、
 われわれはそれを、ふるえもせず、
 あなたの良い、愛に満ちた手から受けよう。

 だが、あなたがもう一度われわれに喜びを、
 この世界について、その太陽の輝きについての喜びを下さるおつもりなら、
 われわれは、過去のことを覚えよう。
 そしてその時、われわれの生はすべてあなたのものだ。

 今日はこのろうそくを暖かく、明るく灯らせておいて下さい。
 それはあなたがわれわれの暗闇の中にもって来て下さったものなのです。
 もしできることなら、われわれがもう一度会えるようにお導き下さい。
 われわれは知っています。あなたの光は、夜輝くのです。

 静けさが今、われわれのまわりに深く広がるとき、
 われわれにあの豊かな音を聞かせて下さい。
 目には見えなくてもわれわれのまわりに広がる世界の豊かな音を、
 すべてのあなたの子らの高貴なほめ歌を。

 良き力にすばらしく守られて、
 何が来ようとも、われわれは心安らかにそれを待とう。
 神は、夜も朝もわれわれのかたわらにあり、
 そしてどの新しい日も必ず共にいまし給う。
コメント
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