礼拝での講解がⅠコリント15章に入って、わくわくした気持ちで御言葉に取り組んでいる。改めて、キリスト教とは、人生の処世訓として単なる教えを与えるものではなく、その中心は、どこまでも、キリストの十字架の死と復活の出来事なのだと再確認した。そしてそれは私たちのため(全人類いや万物)の救いのためである。キリストの身に起こったことは、私たちの身にも起こる。それが神の恵みである。
しかし「死人の中からの復活」などということは、到底、実感としてわかるものではない。また絶対に科学的に証明できるものではない。なぜならキリストの復活は、単なる蘇生ではないからである。蘇生してもまたいつか死ぬのである。しかし主イエスの復活は、死を打ち負かしての生である。この世で起こることを超えた神の御業である。
実感も証明による裏付けもないこの福音を信じることは、どうすれはできるのだろうか。確かに聖霊によって信じさせられる以外にないのであるが、ここでパウロが「わたしたちは、神の偽証人とさえみなされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。」(15章15節)に注目したい。聖書を通して知り得るかぎりのパウロであるが、私はパウロを偽証人と呼べるか、と自問する。またペトロやヨハネについても同様である。さらに歴史が下って、代々の尊敬するキリスト者たちが信じて来たこの信仰を、思い込みだなどと軽々にいうことなどできない。
私の自らの信仰は、まことに頼りのないものである。ある時は確信し、ある時はゆらぐこともある。そのような時、信仰に留まるように励ましてくれるのは、代々の信仰の勇者たちである。パウロが証人である。ルターがカルヴァンが、そして同胞の内村鑑三をはじめ多くの証人がいる。彼らはこの信仰に支えられて、真摯に時代を生き抜き、証し続けたのである。私もその末席にあって、続いていきたいと思う。
「こういうわけで、わたしたちにもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」(ヘブライ12章1~2節)
しかし「死人の中からの復活」などということは、到底、実感としてわかるものではない。また絶対に科学的に証明できるものではない。なぜならキリストの復活は、単なる蘇生ではないからである。蘇生してもまたいつか死ぬのである。しかし主イエスの復活は、死を打ち負かしての生である。この世で起こることを超えた神の御業である。
実感も証明による裏付けもないこの福音を信じることは、どうすれはできるのだろうか。確かに聖霊によって信じさせられる以外にないのであるが、ここでパウロが「わたしたちは、神の偽証人とさえみなされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。」(15章15節)に注目したい。聖書を通して知り得るかぎりのパウロであるが、私はパウロを偽証人と呼べるか、と自問する。またペトロやヨハネについても同様である。さらに歴史が下って、代々の尊敬するキリスト者たちが信じて来たこの信仰を、思い込みだなどと軽々にいうことなどできない。
私の自らの信仰は、まことに頼りのないものである。ある時は確信し、ある時はゆらぐこともある。そのような時、信仰に留まるように励ましてくれるのは、代々の信仰の勇者たちである。パウロが証人である。ルターがカルヴァンが、そして同胞の内村鑑三をはじめ多くの証人がいる。彼らはこの信仰に支えられて、真摯に時代を生き抜き、証し続けたのである。私もその末席にあって、続いていきたいと思う。
「こういうわけで、わたしたちにもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。」(ヘブライ12章1~2節)