二〇一七年一月十五日 NO・四三―四二 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)イザヤ 六十章(月) 〃 六一章
司会 高 澤兄(火) 〃 六二章(水) 〃 六三章
奏楽 慰 子姉(木) 〃 六四章(金) 〃 六五章
招詞祈祷 詩編百九編二六~三一節 (土) 〃 六六章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌六七番 ◎十九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日は「祈りのこころ」の読書会です。
交 読 文 詩編百三一編 ◎本日は責任役員会。
讃 美 讃美歌二八四番 ◎二一日(土)午後三時より当教会にて内間康二郎氏と
献 金 感謝の祈り 高澤姉 小村慰子姉の結婚式です。
讃 美 聖 歌五二〇番 いったいあなたがたの持っているもので、
説 教 Ⅰコリント四章六~十三節 いただかなかったものがあるのでしょうか。
讃 美 聖 歌四七三番 もしいただいたのなら、なぜいただかなかった
祈 祷 みつ子師 ような顔をして高ぶるのですか。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 Ⅰコリント四章七節
キリスト者としての基本認識
「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるのでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」(七節)。これは、人間存在の根本を問う言葉である。その背後にあるは、存在するすべてのものは、神によって創造されたということである。つまり私たちが今生きているのも、また自分の能力や環境も神から賦与されたものであって、自分で造り上げたものではないということ。このことをわきまえる者は、自分を誇ることはない。だからパウロは「だれも人間を誇ってはならない」(三章二一節)ことを繰り返し述べている。しかし神を知らない人間はこの事実を知らず、自らを誇る傾向にある。それゆえ、人は、自己評価、他人からの評価に拘泥するのである。そしてこの高慢こそ、差別を生む原因なのである。コリント教会の人々は、生来の人間的誇りに加えて、福音の恵みに与り聖霊の賜物を頂いた結果、さらに高慢になっていたようである。彼らは将来神の国で味わう祝福を、今すでに手に入れているかのように振舞っていたのである。
そのような彼らに対して、パウロは自分の現状を「今の今までわたしたちは、飢え、渇き・・・」と告げ、さらに「今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされている」と述べる。主イエスは「今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」(ルカ六章二一節)と言われ、さらに「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(マタイ二十章二六・二七節)と言われた。そして主イエスご自身、この世では十字架の死を遂げられたのであった。キリストの福音を宣べ伝える使徒は、主イエスと御足の跡に従う以外の者ではない。ここに示されているキリスト者の歩みは「栄光の歩み」ではなく、「十字架の歩み」である。しかし一見惨めに見えるその歩みは「侮辱されては祝福し、…ののしられては優しい言葉を返す」(十二・十三)生き方である。これが人間には愚かに見える神の知恵であり、神の愛である。自己満足の高慢からは、蔑視と差別が生まれる。しかしキリストの恵みを知る謙遜からは、和解と平和が生まれる。
礼 拝 次 第 (日)イザヤ 六十章(月) 〃 六一章
司会 高 澤兄(火) 〃 六二章(水) 〃 六三章
奏楽 慰 子姉(木) 〃 六四章(金) 〃 六五章
招詞祈祷 詩編百九編二六~三一節 (土) 〃 六六章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌六七番 ◎十九日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日は「祈りのこころ」の読書会です。
交 読 文 詩編百三一編 ◎本日は責任役員会。
讃 美 讃美歌二八四番 ◎二一日(土)午後三時より当教会にて内間康二郎氏と
献 金 感謝の祈り 高澤姉 小村慰子姉の結婚式です。
讃 美 聖 歌五二〇番 いったいあなたがたの持っているもので、
説 教 Ⅰコリント四章六~十三節 いただかなかったものがあるのでしょうか。
讃 美 聖 歌四七三番 もしいただいたのなら、なぜいただかなかった
祈 祷 みつ子師 ような顔をして高ぶるのですか。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 Ⅰコリント四章七節
キリスト者としての基本認識
「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるのでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」(七節)。これは、人間存在の根本を問う言葉である。その背後にあるは、存在するすべてのものは、神によって創造されたということである。つまり私たちが今生きているのも、また自分の能力や環境も神から賦与されたものであって、自分で造り上げたものではないということ。このことをわきまえる者は、自分を誇ることはない。だからパウロは「だれも人間を誇ってはならない」(三章二一節)ことを繰り返し述べている。しかし神を知らない人間はこの事実を知らず、自らを誇る傾向にある。それゆえ、人は、自己評価、他人からの評価に拘泥するのである。そしてこの高慢こそ、差別を生む原因なのである。コリント教会の人々は、生来の人間的誇りに加えて、福音の恵みに与り聖霊の賜物を頂いた結果、さらに高慢になっていたようである。彼らは将来神の国で味わう祝福を、今すでに手に入れているかのように振舞っていたのである。
そのような彼らに対して、パウロは自分の現状を「今の今までわたしたちは、飢え、渇き・・・」と告げ、さらに「今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべてのものの滓とされている」と述べる。主イエスは「今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる」(ルカ六章二一節)と言われ、さらに「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(マタイ二十章二六・二七節)と言われた。そして主イエスご自身、この世では十字架の死を遂げられたのであった。キリストの福音を宣べ伝える使徒は、主イエスと御足の跡に従う以外の者ではない。ここに示されているキリスト者の歩みは「栄光の歩み」ではなく、「十字架の歩み」である。しかし一見惨めに見えるその歩みは「侮辱されては祝福し、…ののしられては優しい言葉を返す」(十二・十三)生き方である。これが人間には愚かに見える神の知恵であり、神の愛である。自己満足の高慢からは、蔑視と差別が生まれる。しかしキリストの恵みを知る謙遜からは、和解と平和が生まれる。