・・・ニュースでは「AI(人工知能)が習近平の共産党を批判した(中国のIT大手の騰訊(テンセント)が提供する人工知能(AI)を活用 した対話プログラムがチャットで「共産党は無能」と批判を展開し、サービスが急遽停止された・中国の大手IT企業、テンセントが運営しているインターネット上で一般の人たちと会話する人工知能のキャラクターが、中国共産党について、腐敗して無能だ、と批判した・中国の大手IT企業「テンセント」が提供している、人工知能(AI)を用いた会話プログラム( チャットボット)が共産党を批判したため、同社はサービスを停止した。香港の「明報」が、 2017年8月2日報じた)」とか、「中国共産党万歳という書き込みに対し、AI は、こんなに腐敗して無能な政治に万歳なんてできるの?、と答えた」とか・・・哂っちゃったけれど・・・「日本の自民党」に対しては「AI(人工知能)」はナンって答えるんだろうか・・・「2333」の数字もナンか意味アルのカナ?・・・「AI(人工知能)」に訊いてみたい・・・「2+3+3+3=11・十一・壱拾壱」・・・既に8月4日になっちまった・・・
2017年丁酉(庚・ ・辛)
0008月丁未(丁・乙・己)
0004日癸亥(戊・甲・壬)
↓↑ ↓↑
0005日甲子
0006日乙丑
0007日丙寅
0008日丁卯
0009日戊辰
0010日己巳
0011日庚午
0012日辛未
0013日壬申
0014日癸酉
0015日甲戌・・・「終戦(敗戦?)記念日」
「ナポレオン・ボナパルト
(Napoléon Bonaparte)
1769年8月15日~1821年5月5日)」
1769年己丑(癸・辛・己)
0008月壬申(己・壬・庚)偏印格
0015日甲午(丙・ ・丁)辰巳
↓↑
if 0016日乙未(丁・乙・己)→印綬格
if 0014日癸巳(戊・庚・丙)→劫財・支合庚
↓↑ ↓↑
1821年辛巳(戊・庚・丙)正官
0005月壬辰(乙・癸・戊)偏印
0005日甲申(己・壬・庚)比肩
ーーーーー
・・・「走り込む」、「ハシリコム」って?・・・
↓↑
葛子=くずこ・くすこ=楠子・薬子・・・?
↓↑
藤原薬子(ふじわらのくすこ)
生年不詳
~
大同五年九月十二日・・・大きく同じ語を捻じ
(810年10月17日) 句解通、壱を拾い
爾を比(くらべる)?
女官
式家の
藤原種継の娘
中納言
藤原縄主の妻
三男二女の母
長女が
桓武天皇の皇太子
安殿親王の宮女となり
東宮宣旨(高級女官)として仕えた
自分が
安殿親王と
不倫の仲となり・・・?
薬子は
藤原葛野麻呂・・・葛-野-麻呂=かど-の-まろ?
↓↑ 天平勝宝七年(755年)
~
弘仁九年十一月十日(818年12月11日)
藤原北家
大納言
藤原小黒麻呂の長男
母は
秦島 麻呂の女(娘)
官位は正三位・中納言
延暦二十年(801年)
遣唐大使
延暦二十二年(803年)正月
従四位上
四月に節刀を授けられ
難波津より出航
暴風雨で遣唐使船が破損
延暦二十三年(804年)七月
再出航、八月に福州に漂着
十二月に長安城に入って
徳宗との謁見
延暦二十四年(805年)正月
徳宗崩御、順宗即位にも遭遇
同年五月に明州から
対馬を経由し七月に帰国し節刀の返上
同月末
功労により
従四位上から従三位にまで昇叙され公卿
↓↑ この遣唐使で最澄・空海も同行
とも通じて
桓武天皇が怒り
薬子を東宮から追放した
↓↑
806年
桓武天皇が崩御
安殿親王が平城天皇として即位
薬子は再び召され
尚侍となる
夫の
藤原縄主
は大宰帥として九州へ
天皇の寵愛を受けた
薬子は政治に介入
兄の
藤原仲成
とともに専横を極め
兄妹は人々から深く怨まれた
大同四年(809年)
亡き父の
藤原種継
に太政大臣を追贈
↓↑
同年
平城天皇は病気のため
同母弟の
神野親王(嵯峨天皇)
に譲位
退位した
平城上皇は平城京へ移る
平安京と平城京に
二所の朝廷が並ぶ
薬子と仲成が
平城上皇の復位を目的に
平城京への遷都を図ったため
二朝の対立は決定的になった
↓↑
大同五年(810年)九月十日
嵯峨天皇は平安京にいた藤原仲成を捕らえ
薬子の官位を剥奪
平城上皇は
薬子とともに挙兵するため
東へ向かったが
嵯峨天皇は先手をうって
坂上田村麻呂を派遣して待ちかまえ
勝機のない
平城上皇は平城京に戻って剃髮
薬子は毒を仰いで自殺
仲成も殺された
(薬子の変=平城太上天皇の変)
ーー↓↑ーーー
延暦二十五年(806年)
桓武天皇崩御
皇太子
安殿親王(平城天皇)が即位
平城天皇は弟の
神野親王を皇太弟とした
平城天皇が病弱で
その子供達も幼かった事を考え
嫡流相続による皇位継承を
困難と見た父、
桓武天皇の意向があった・・・
翌
大同二年(807年)
平城天皇の
異母弟
「伊予親王」
が謀反の罪を着せられて死亡
皇位継承を巡る宮廷内紛争・・・
↓↑
大同四年(809年)四月
平城天皇は発病
病を叔父
早良親王
や
伊予親王
の祟りによるものと考え
天皇は、禍を避けるために譲位
天皇の寵愛を受けて
専横を極めていた
尚侍
藤原薬子
その兄の
参議
藤原仲成
反対するが
天皇の意思は強く
同年四月十三日
に
神野親王が即位(嵯峨天皇)
皇太子に
平城天皇の三男
高岳親王が立てた
↓↑
大同四年十二月(810年1月or 2月)
平城上皇は旧都である平城京へ移る
平城上皇が天皇の時に設置した
観察使
の制度・・・平安時代初期に設置した
↓↑ 地方行政監察のための官職
唐、日本では律令に規定のない令外官
李氏朝鮮では国王直属の機関
806年(大同一年)
東山道を除く6道に各1人を置き
その下にそれぞれ
判官1人、主典1人を配し
観察使の印が付与された
当初、観察使は参議が兼任したが
翌年、参議の号を廃止して
観察使のみを設置
↓↑ 後
畿内、東山道にも設置
観察使設置の目的
786年(延暦五)に下された
国司、郡司らの監察に関する
十六ヵ条の条例
が有名無実となっていたため
これを遵行することにあった
諸国の治績を観察し、
地方官の執務状況を報告する役所
東海道使=藤原葛野麻呂(かどのまろ)
西海道使=藤原縄主(ただぬし)
山陰道使=菅野真道(すがののまみち)
山陽道使=藤原園人(そのひと)
畿内 使=藤原緒嗣(おつぐ)
北陸道使=秋篠安人(あきしののやすひと)
南海道使=吉備泉(きびのいずみ)
↓↑ 東山道使=安倍兄雄(あべのしげお)
を
嵯峨天皇が
改めようとしたことから
平城上皇が怒り・・・・ナンで怒ったのか?
二所朝廷
といわれる対立
平城上皇の
復位を目論(もくろ)む・・・目論む=摸句賂務?
薬子と
藤原仲成は
この対立を助長し
薬子が任じられていた
尚侍の職は
天皇による
太政官への命令書である
内侍宣の発給を掌っており
当時の
太上天皇には
天皇と同様に
国政に関与できるという考えがあった
(孝謙上皇と淳仁天皇の職権分割)
場合によっては
上皇が
薬子の職権で
内侍宣を出して
太政官を動かす事態も考えられた
薬子が
天皇の秘書である
内侍司の長官(尚侍)であったため
平安京にいた
嵯峨天皇は
太政官の議政官への
命令文書にあたる
内侍宣を出すことができなくなり
その他の
政務や宮中の事務において
支障をきたした
↓↑
嵯峨天皇は
大同五年(810年)三月
蔵人所・・・蔵人所=律令制下の令外官の一
↓↑ 天皇の秘書官
・・・秘書官が「蔵人」って意味深である?
唐名は侍中(ジチュウ)
夕郎(セキロウ)
夕拝郎(セキハイロウ)
蔵人所は事務を行う役所・場所
青い衣を着用したことから、
別名は『青色』、「殿上」
禁中で天皇の側向きの御用をつとめ
機密文書作成管理・訴訟を担当
後に詔書の伝宣も行い
禁中のすべてを総括するようになった
唐の「黄門郎(コウモンロウ)」の別名に由来
「日暮に出仕して青瑣門(セイサモン)に拝する」
ことから
内裏校書殿の北部に置かれた
蔵人は百官名、或いは人名の一つ
↓↑ この場合は「くらんど」と読む
を設置
同年六月
「観察使」を廃止し
参議を復活
このことは平城上皇を刺激した・・・
↓↑
二所朝廷の対立
同年九月六日
平城上皇は
平安京を廃して
平城京へ遷都する詔勅
嵯峨天皇はこの詔勅に従うとして
坂上田村麻呂
藤原冬嗣
紀田上
らを造宮使に任命
↓↑
嵯峨天皇は遷都を拒否
九月十日
嵯峨天皇は使節を発し
伊勢国
近江国
美濃国
の国府と関を固め
藤原仲成を捕らえて
右兵衛府に監禁の上で
佐渡権守に左遷
薬子
の官位を剥奪
造宮使だった
坂上田村麻呂を大納言に昇任
藤原冬嗣は式部大輔
紀田上は尾張守に任じられた
↓↑
九月十一日
嵯峨天皇は
密使を平城京に送り
若干の大官を召致
この日、
藤原真夏
や
文室綿麻呂
らが帰京するが、
平城上皇派と見られた
綿麻呂は
左衛士府に禁錮された
↓↑
平城上皇は激怒し
自ら
東国に赴き・・・・ナゼ、「東国」なのか?
挙兵することを決断
中納言
藤原葛野麻呂
ら
平城上皇方の群臣はこれを諌めた
が
上皇は薬子とともに
輿にのって東に向かった
↓↑
嵯峨天皇は
坂上田村麻呂に
平城上皇の東向阻止を命じ
田村麻呂は出発に当たって
蝦夷征討の戦友だった
綿麻呂の禁錮を解くことを願い
綿麻呂は許されて
参議に任じられた
この日の夜に
藤原仲成は射殺
・・・平安時代の政権が
律令に基づいて
死刑として処罰した数少ない事例
保元元年(1156年)の
保元の乱で
源為義が死刑執行されるまで
↓↑ 約346年間一件も無かった・・・?
平城上皇
と
薬子
の一行は
大和国
添上郡田村まで来たところで
嵯峨天皇側の兵士が守りを固めていることを知り
勝機がないと悟って
平城京へ戻った
九月十二日
平城上皇は平城京に戻って剃髮して出家し
薬子は毒を仰いで自殺・・・
↓↑
事件後
高岳親王は皇太子を廃され
嵯峨天皇の弟
大伴親王(淳和天皇)が立てられ
弘仁十五年(824年)
平城上皇の崩御の際に
既に退位していた
嵯峨上皇の要望によって
淳和天皇の名で
関係者の赦免が行われた
↓↑
空海は
嵯峨天皇側の勝利を祈念
以降、
日本仏教界一の実力者になる契機となった・・・
ーー↓↑ーー
「伊予(いよ・伊豫=イ尹マ了象)親王」の話しだった・・・
↓↑
大同二年(807年)
平城天皇の異母弟
伊予親王
が謀反の罪を着せられて死に追い込まれた・・・
↓↑
伊予親王(いよしんのう)=伊豫(予+象)親王
延暦二年(783年)?
~
大同二年十一月十二日(807年12月14日)
桓武天皇の第三皇子
官位は三品・中務卿、贈一品
↓↑
延暦十一年(792年)
加冠
父の桓武天皇の深い寵愛を受けた
↓↑
延暦二十五年(806年)
異母兄の平城天皇が即位
伊予親王の外伯父
藤原雄友は
大納言として
太政官の次席の地位に就き
親王自身も
中務卿兼大宰帥に任ぜられた
↓↑
大同二年(807年)五月
平城天皇は
神泉苑に行幸
伊豫(予+象)親王は
献物を行い終日宴会にも参加
↓↑
大同二年十月
藤原宗成が
伊予親王に対して
謀反を勧めているとの情報を
藤原雄友が入手し
右大臣
藤原内麻呂に報告
伊予親王も
宗成が自らに対して謀反を勧めた旨を奏上
藤原宗成は捕えられ取り調べを受け
伊豫親王が反逆の首謀者と言いだし
親王が
左近衛中将
安倍兄雄
と
左兵衛督
巨勢野足
率いる150名の兵士に邸宅を囲まれ捕縛
親王は
母の
「藤原吉子」とともに
川原寺(弘福寺)の一室に幽閉
飲食を止められ
大同二年十一月十二日
親王は吉子とともに毒を仰いで自害
(伊予親王の変)
↓↑
後に親王は無実とされ
淳和朝初頭の
弘仁十四年(823年)
母とともに
復号・復位
承和六年(839年)
一品が追贈
ーー↓↑ーーー
伊予国の
橘氏
や
越智氏
の祖とされ
藤原為世(浮穴四郎)?
↓↑ 浮穴郡(うけなぐん・うきあなぐん)
愛媛県(伊予国)
桓武天皇第四皇子の
伊予親王の長男
母親は家時の娘
藤原夫人(伊豫親王の母)が自害した後
家時が親王の子を潜かに撫育し
伊予に下向した
橘清友に預け、その子と称する
七歳の時に上洛し
嵯峨天皇皇后の
橘嘉知子に寵愛され、
「准第十八皇子」とされて藤原姓を賜る
下向して
↓↑ 「浮穴郡高井里」に住み
「浮穴四郎」を称する
↓↑
「景行天皇が
宇佐の仮宮にいるとき
神代の直に
まだ逆賊はいるのか、と訊き
その「煙の立って」いる村は、
いまだに統治を受けておりません、と。
天皇は
神代の直に命じ、その村に派遣し
「浮穴沫媛」という土蜘蛛がいて
大変無礼でだったので
すぐに誅し、この村を
浮穴の郷とした」
「沫=あわ・マツ・飛び散る水の粒・しぶき
水の泡・・・安房=あわ=阿波・安和・併
沫雪 (あわゆき)
泡沫 (うたかた)
飛沫 (しぶき)
水沫 (みなわ)
「浮穴沫」は記録道理の「煙の立っている村」なら
「温泉の煙(水蒸気)の輪、ケムリの沫」だろう・・・
「浮穴村(うけなむら)=浮穴村 (愛媛県上浮穴郡)
愛媛県上浮穴郡・1943年廃止
(大洲市・旧肱川村のち肱川町)
および
(西予市・旧惣川村のち野村町)
「浮穴村 (愛媛県温泉郡)=愛媛県下浮穴郡のち温泉郡
↓↑ 1959年廃止・現在の松山市
は
伊予親王の子であり
嵯峨天皇
が勅して皇子に準じられ
藤原の姓を受けた、という説・・・
ーー↓↑ーー
・・・「筑紫-国造(くにのみやつこ)磐井(いわい)の乱」に又もや突然、飛ぶ・・・理由は単純で・・・飛鳥、明日香、平城、奈良再遷都・・・飛梅・訳備烏目・・・
↓↑
「薬子=くすこ=葛子(くずこ)・屑粉
↓↑ 九図拠=九相図(九想図・くそうず)
死体の変貌の様子」
↓↑
と名前の発音が似てい、
「葛木・葛城」の
「かづら=葛・蔓・鬘・蘰・葛山・和良」
の漢字の「同音の訓み」だから・・・
「葛野王(かどののおう・かどののおおきみ)
天智天皇八年(669年)
~
慶雲二年十二月二十日(706年1月9日)
弘文天皇(大友皇子)の第一皇子」
孫に
淡海三船・・・・淡(あわ・タン)海(うみ・あま・カイ)
三(みつ・サン)船(ふね・ソウ)
官位は正四位上
式部卿」・・・「淡海三船」は存在したのか?
ーー↓↑ーーー
↓↑
筑紫 葛子(つくし の くずこ)
↓↑ つくし=竭(つくす・ケツ・ゲチ)
取之不尽、用之不竭
取っても使っても尽きることがない
つきる(尽・竭・歇・殫・殲・涸・卒)
使い果たす・終わりにする・なくす
物事の実現や解決のために
↓↑ あらゆる手段を試みる
6世紀(古墳時代後期)の豪族
カバネは君
磐井(筑紫 君 磐井)の子
『日本書紀』では
「筑紫 君 葛子
(つくしのきみ くずこ)」
↓↑
?~?6世紀前半の豪族
父は
筑紫-国造(くにのみやつこ)
磐井(いわい)
「日本書紀」では
継体天皇二十二年(528)
父が朝廷の派遣した
物部麤鹿火(もののべの-あらかひ)
の軍に討たれ
↓↑
筑紫 葛子(つくし の くずこ)
6世紀(古墳時代後期)の豪族
カバネは君
磐井(筑紫君磐井)の子
『日本書紀』では
「筑紫-君-葛子(つくし-の-きみ-くずこ)」
と表記・・・・・椄句史・ 訓・ 句図故
↓↑
雄大迹天皇=継体天皇
↓↑
『日本書紀』
継体天皇二十一年
~
同二十二年(527年?~528年?)
父の
磐井(筑紫君磐井)
と
朝廷軍との間に戦いが発生し
継体天皇二十二年十一月
磐井は敗死(磐井の乱)
同年12月
子の葛子は
死罪を贖うことを求め
糟屋屯倉(かすやのみやけ)・・・倉庫・蔵・庫→蔵人?
庫裏(くり)=厨房?
台所・調理場
仏教寺院の伽藍の一つ
庫裡とも書く
「屯倉(みやけ)=ヤマト王権の支配制度の一つ
全国に設置した直轄地を表す語
のちの地方行政組織の先駆け」?
屯倉(みやけ)は「駐屯兵の兵糧倉庫」だろう・・・?
「屯倉=みやけ=宮家・三宅」・・・三宅秀?
(筑前国
糟屋郡付近
福岡県糟屋郡
福岡市東区付近に比定)
を朝廷に献じた
『筑後国風土記』逸文で
磐井に関する記述はあるが
「葛子」に関する記述はない・・・
↓↑
『先代旧事本紀』
「国造本紀」
伊吉島造(壱岐国造)条で
継体天皇の時に
石井(磐井)に従った
新羅の海辺の人を討伐したとする記述・・・
↓↑
継体天皇二十二年(528年?)
十一月十一日条・・・・・・十一・壱拾壱・一一・壱壱
磐井は
筑紫御井郡
(福岡県
三井郡の大部分と
久留米市中央部)
において
朝廷から征討のため派遣された
物部麁鹿火
の軍と交戦し
麁鹿火に斬られた
↓↑
継体天皇二十二年十二月
磐井の子の
「筑紫君-葛子」
は死罪を免れるため
糟屋屯倉(福岡県糟屋郡・福岡市東区)
を朝廷に献じた
↓↑
『日本書紀』において
「筑紫-葛子」が献じたとする
糟屋屯倉の記述
『日本書紀』では
筑紫地域において他に
穂波屯倉
鎌 屯倉
那津官家
などの屯倉の設置が知られる
↓↑
史書では
葛子の後も
7世紀末まで
筑紫君(筑紫氏)一族の名が見られ
その活躍が認められる・・・
↓↑
継体天皇晩年の編年
『百済本記』の伝える
「辛亥の変(継体・欽明朝の内乱)」
により3年繰り上げられたとする説・・・
これによれば
「磐井の乱」は実際には
「530年~531年」の出来事・・・?
↓↑
「磐井の乱(いわいのらん)」
527年(継体二十一年)
朝鮮半島南部へ出兵しようとした
近江毛野
率いるヤマト王権軍の進軍を
筑紫君磐井
が阻(はば)み
翌528年(継体二十二年)十一月
物部麁鹿火
によって鎮圧された
ヤマト王権と、
親新羅だった九州豪族との主導権争い・・・
↓↑
527年(継体二十一)六月三日
ヤマト王権の
近江毛野
は6万人の兵を率いて
新羅に奪われた
南加羅
喙己呑 (トクコトン) の2国
↓↑ 喙=口端(くちばし・ガイ・シ・嘴)
鳥類の口器
上下の顎(あご)が突き出し
角質でおおわれ、歯と唇の機能を持つ
容喙(ヨウカイ)=くちばしを入れること
横から口出し
差し出口
己(おのれ・自分・みずから・自然に・キ
土の弟=ツチのト)
呑(のむ・ドン)・・・雲呑 (ワンタン)
新羅は522年
大伽揶との婚姻同盟を結び伽揶に侵攻し
529年に金官国や
その西方にあった?
「喙己呑(トクコトン)」を武力制圧された?
「喙己呑」は漢字からすれば、
鳥のクチバシに己が呑みこまれそうな地形だろう?
韓国釜山、金海近辺の海岸はスベテが
鳥のクチバシの形に観える・・・
韓国、洛東江(ナクトンガン)の河口の
乙淑島(ウルスクト)は、鳥のクチバシに啄ばまれ、
呑み込まれているようにみえる・・・?
渡り鳥の到来地として有名らしい・・・
↓↑ 「乙淑島(ウルスクト)渡り鳥到来地」
を回復するため
任那へ向かって出発
新羅は
筑紫(九州地方北部)の有力者
磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)
へ贈賄し
ヤマト王権軍の妨害を要請・・・
磐井は挙兵し
「火の国(肥前国・肥後国)」
↓↑ ・・・熊本・・・熊川・錦江
忠清南道公州からは熊津江、
忠清南道扶余からは白馬江(ペンマガン)
錦江=百済にとって重要な水上交通路
公州には百済の旧都
熊津
扶余には新都泗沘
日本、百済vs新羅、唐
との間で戦われた
白村江の戦いが行われた白江・白村江
↓↑ は錦江と推定・・・
と
「豊の国(豊前国・豊後国)」
・・・大分・・・宇佐神宮・・・新羅
を制圧
倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖
朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み
近江毛野軍の進軍をはばんで交戦
磐井は
「近江毛野」・・・近江の毛野
↓↑ ・・・毛野(けの・けぬ)
古墳時代の地域・文化圏の一
群馬県と栃木県南部を合わせた地域
史書には「毛野」の名称自体は無い
「上毛野(かみつけの)」
「下毛野(しもつけの)」
の名称が記録され
↓↑ これらは「毛野」が分かれたもの?
に
「お前とは同じ
釜の飯を食った仲だ。・・・釜の飯=鎌(足・子)のメシ?
お前などの指示には従わない」
と言ったとされ
ヤマト王権では
平定軍の派遣について協議し
継体天皇が
大伴金村
物部麁鹿火
巨勢男人
らに将軍の人選を諮問し
物部麁鹿火
が推挙され
同年八月一日
麁鹿火
が将軍に任命された
528年十一月十一日
磐井軍
と
麁鹿火
率いるヤマト王権軍が
筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)
にて交戦
磐井軍が敗北
「日本書紀」によると
磐井は物部麁鹿火に斬られた
『筑後国風土記』逸文には
磐井が
豊前の
上膳県へ逃亡し
その山中で死んだ
(ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)
と記録
同年十二月
磐井の子
筑紫葛子
は連座から逃れるため
糟屋(福岡県糟屋郡付近)
の
屯倉(みやけ・トンソウ)
をヤマト王権へ献上し
死罪を免ぜられた・・・
乱後の
529年三月
ヤマト王権(倭国)は再び
近江毛野
を任那の安羅へ派遣し
新羅との領土交渉を行わせた
↓↑
『筑後国風土記』逸文
交戦の様子とともに
磐井の墓に関する記事が残され
『古事記』は
筑紫君石井(いわい)・・・訓む、意詞易(異)
が
天皇の命に従わないので
天皇は物部荒甲(物部麁鹿火)
大伴金村
を派遣して
石井を殺害させたと記録
『国造本紀』に
磐井と新羅の関係を
示唆する記述がある・・・
ーーーーー
・・・???・・・
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