gooブログはじめました!キリヤ

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ
コジキジゲン

はしもとシチョウ

2013-05-20 15:41:53 | 古事記字源
 「ハシモト」さんは「エライ、ッ」・・・「政治家!?」では、ある、ナ、ッ・・・
 「本質」から逸脱して「国家枠」、「国家枠外」の論理に於いても「マスコミ知識人のタジタジのダメ論理」と「知識人らしい超党派の国会ご婦人達」の物言い、難癖、イチャモンは「大阪市長」に負けているなッ。
 意外や以外の「人権論理」を矮小化する「国会バッチを憑(つ)けた井戸端偽善会議」では「女性」の「解放」は無いだろう・・・
 インタヴューされていた「沖縄風俗嬢さん」の「コトバ」には「ヒケメ」もあったが、「本質」をスベテ語っていたなッ。
 「沖縄風俗嬢さん」のコトバは「ハシモ」氏のサラに「わかりやすい翻訳」でもあった・・・
 低レベルな「政治屋たち」、「貴婦人たち?」と「言揚げ」の「レベル」が断トツに異っているのは歴然である・・・
 それに、まったく、「政治屋」の「文化」が違っていてヨカッタね、ッ・・・レベルが「ワタナベみんなの党」→「視無名之(廼)答(等)」だから、ナ、ッ・・・
 前回もチョッと触れたが、
 「榎本武揚=釜次郎=号は梁川」
    ↓
 「榎=木(き・ボク・モク・十+八)」+「夏=頁(ケツ・おおがい・ページ・一ノ目八)」+「夂(チ・おくれる・ノ又)」の「本=木+一=十+八+一」、「武」+「揚」・・・
 釜次郎=かまじろう→「掛、真字、賂、得」・・・あの時、勝っていたら「北海道(蝦夷)共和国」はどう、なっていたんだろ・・・
ーーー榎本↓記紀の頁の夂(チ・おくれる)の本
                   遅・遅れる
                   知・贈れる→海事国際法→黒田キヨイタカ

ーーー↓号は梁川(リョウセン・梁=はり・川=かわ)

 ・・・梁+川→川の梁なら「橋」である・・・

 梁=「氵(みず・サンズイ→纂隋・纂蕊・纂蘂・纂髄)」

 +

 刀(かたな・トウ→等・当・唐・問う・討・答・訪・樋・橙・棟)

 +

 ハ(はち・やっつ・は→葉・場・羽・馬・罵)

 +

 十(壱拾・足→足軽→徒歩・歩行町=おかちまち)

 +

 八(ハチ・やっつ・捌→裁く・砂漠・沙漠・佐幕)」

 の

 記紀(古事記・日本書紀)の頁(ページ・ケツ・おおがい=鴎外)の夂(チ・おくれる)の本・・・

 「梁(リョウ)」を「漁る」・・・「真名仮名」・・・

   ↓文明開化の「梁」とは「南梁」の事績である

梁 (南朝) - Wikipedia

   ↓文明開化の「梁」

 梁(502年~557年)

 中国南北朝時代の江南に存在した王朝

 斉の始祖

 蕭道成の

 族弟

 蕭順之の子

 蕭衍は、

 斉の皇帝

 東昏侯の暴政で

 兄、

 蕭懿が殺害

 501年に

 荊州襄陽において

 藩鎮や豪族・土豪を結集して挙兵

 建康に進撃

 東昏侯や側近を粛清した

 蕭衍は

 新帝に東昏侯の弟

 和帝を擁立

 502年に

 和帝から禅譲

 梁を建国

ーー

 武帝

 疲弊した民政の回復を図り、

 積極的な政治改革を行なった

 創業当初の

 天監年間

 九品中正法の改定

 梁律の頒布

 租税の軽減等の政策

 治世は安定

 旧来の貴族の子弟が入る

 国子学以外に、

 寒門の子弟を対象とした

 教育施設として

 五館を設置

 武帝の長男である皇太子

 蕭統(昭明太子)の

 『文選』、

 蕭統の死後皇太子となった

 蕭綱(簡文帝)らによる

 宮体詩を収録した

 『玉台新詠』の編纂

 「捨身」の教えである過度の

 仏教保護や経済政策の失敗

 貴族層の実務忌避

 台頭した寒門側近による専権

 官吏の綱紀弛緩

 繁栄の影で社会不安が深刻化

 548年

 北朝の東魏の降将

 侯景が河南

 十三州を手土産にして

 武帝に帰順

 武帝は侯景の帰順を受け入れたが、

 東魏軍は侯景・梁軍を破って河南を奪還した

 東魏は梁との和睦を図り、

 武帝もそれに乗ったため、

 東魏に破れて

 寿春に逃れていた

 侯景は窮地に立たされ、

 臨賀王

 蕭正徳と内通して

 1000名の軍を率いて

 548年

 十月

 二十二日

 首都

 建康を包囲

 各地に分封されていた

 諸王や宗室たちは

 互いの利を見て牽制し

 武帝の救援に積極的に動かなかった

 その上、梁軍で唯一の

 名将だった

 羊侃が急死

 549年二月に

 偽りの和議を

 侯景と結んだ

 挙句に

 三月十二日には

 和議を破棄されて

 建康は攻撃されて落城

 武帝は

 侯景に捕縛されて幽閉

 首都陥落後

 二ヵ月後に

 八十六歳で崩御

 侯景は武帝に代わる新しい皇帝として皇太子の

 簡文帝を擁立したが、

 侯景の厳重な監視下に置かれた傀儡であった

 各地の藩鎮はこれに従わず、

 侯景は自ら軍を率いて

 物資確保のために

 三呉地域の平定に乗り出した

 武帝の

 七男

 蕭繹は建康から逃れてくる梁の残党や避難民を吸収して勢力を拡大し、江陵を中心にして侯景と対峙し、

 対する

 侯景も

 巴陵で激突し、

 蕭繹軍の

 名将

 王僧弁の活躍で

 侯景軍は大敗し、

 王僧弁や

 陳覇先により

 建康に追い詰められた

 侯景は

 簡文帝を殺害し、

 新たに擁立した

 蕭棟も廃して

 自ら皇帝に即位し

 陳覇先や王僧弁を迎撃したが敗北

 逃走中に部下に裏切られて

 552年四月に殺害

 侯景の乱は平定

 梁の新たな皇帝には

 蕭繹が元帝として即位

 梁国内では

 武陵王

 蕭紀が元帝に従わずに争ったが

 この戦いで

 元帝が勝利

 この一連の混乱の間に

 勢力を拡大した

 西魏が

 襄陽にいた

 蕭詧(武帝の孫、昭明太子の子)を後梁の皇帝、

 宣帝として擁立し、江陵に迫る

 江陵は

 554年

 十一月に

 西魏軍

 五万により陥落

 元帝は戦死

 旧都

 建康を守備していた

 王僧弁と陳霸先は、

 元帝の九男である

 蕭方智を擁立

 王僧弁は梁再興のために

 北斉と同盟を結ぶ事を説く

 徐陵の提言を受け、

 武帝の甥

 蕭淵明(蕭懿の五男)を北斉から迎え皇帝に擁立

 蕭方智を皇太子とした

 この即位に陳覇先が

 非正統性と

 北斉の介入に反対したため、

 王僧弁と陳覇先の対立

 555年九月

 陳覇先は王僧弁を建康で殺害し、

 再び

 蕭方智を皇帝とし、

 二年後の

 557年十月に

 敬帝から禅譲

 陳を建国

 梁は滅亡

 後梁は

 西魏とそれに代わった北周・隋の傀儡政権として、

 後主・

 蕭まで三代続いたが、

 587年に

 隋の

 文帝によって廃された

 梁の経済

 南朝では宋、斉の時代から

 貨幣経済が急速に発展して

 基軸通貨であった

 銅銭の銅の不足と私鋳による

 悪質貨幣の蔓延で

 正常な経済発展が損なわれていたため、

 武帝は

 良質な貨幣の発行、通貨不安を取り除いた

 ところが武帝は

 523年から

 銅銭に代わる

 新たな基軸通貨として

 鉄銭を鋳造する命令を発し

 貨幣不足は解消されたが

 偽銭が大量に出回り、貨幣の信用は無くなって

 530年代に貨幣の価値は急速に下落

 それが梁の衰退につながった

 皇族・官僚

 武帝の治世が長期化し

 皇族や官僚に私財を蓄え不正が横行

 武帝の実弟

 蕭宏は武帝の治世で

 三億に及ぶ不正蓄財を行なってた

 官僚も日夜酒宴や女色に溺れて実務を省みなくなり風俗が乱れ奢侈が横行

 民衆からは厳しい租税を収奪

 治安も乱れ、中央では賄賂が横行

 冤罪で処罰される者も増大

 白昼殺人。強盗が起こるが、それを捕縛すべき官吏は金銭の授受次第で見逃すという事態

 武帝は

 貴族の子弟が入る

 国子学と、

 五館という学校を設置

 五館とは儒教の経典五経に通じた博士の官が学生の教育に当たる学校で、単なる教育機関ではなく、試験を行なって

 官吏を登用する

 官吏養成所の性格を持っていた

 後に隋で開始される

 科挙の源流

 武帝は身分の上下に関わらずに

 才能次第で官吏を登用

 奈良時代や平安時代の日本文学に影響を与えた

 武帝は貴族の中でも下級の貴族を選抜して側近に登用し、法制や礼制の整備に努めた

 曹魏時代からの

 九品中正法を改めて

 品から班に改め、

 従来の基準を大幅に改編し

 皇帝権力を強化するために

 官僚制への移行を積極的に推進した

ーー

 武帝は仏教に傾倒

 梁の衰退を招いた

 武帝は在位中に

 四回も「捨身」を行なう

 武帝は仏教に基づいて儀礼、政事を行なった

 大赦と

 改元を伴って行なった

 異常ともいえる仏教傾倒は

 仏教隆盛をもたらした反面で、

 皇帝や皇族の放恣や側近による専権、貴族層の実務忌避や寺院の建立による

 財政悪化

 民衆の窮乏と社会不安の増大

 国勢の衰退を助長

 

 高祖武帝(蕭衍、在位:502年 - 549年)

 太宗簡文帝(蕭綱、在位:549年 - 551年)

 廃帝豫章王(蕭棟、在位:551年)

 世祖元帝(蕭繹、在位:552年 - 554年)

 閔帝・貞陽侯(蕭淵明、在位:555年)

 敬帝(蕭方智、在位:554年 - 557年)

 蕭荘(在位:557年 - 560年)

    王琳ら・北斉によって擁立(南梁)

 後梁

 中宗宣帝(蕭詧、在位:554年 - 562年)

 世祖明帝(蕭巋、在位:562年 - 585年)

   後主(蕭、在位:585年 - 587年)

ーーーーー↓梁(はり)

 建物の水平短径方向に架けられる横木

 床や屋根などの荷重を柱に伝える材のことであり、

 主に

 曲げ応力を担う。

 梁はおもに鉛直荷重を伝えるが、

 地震などに際しては

 水平方向の荷重を支えることにもなる

 梁に荷重がかかると、内部には、圧縮・引張・曲げ・剪断応力がはたらく。

  鉛直荷重がはたらいた場合、たいてい梁は

 下に凸となるような形に

 たわみを生じ、

 上部はわずかに

 縮み、

 逆に

 下部は

 伸びるように変形。

 断面のおよそ

 上下半分近辺には

 伸びも縮みもせず、

 圧縮応力も

 引張応力も

 生じない面があり、

 そこは

 「中立軸」と定義される。

ーーーー↓「倭建(ヤマトタケル)」は建築技師、匠の守

 枕草子

 (二九段)・・・弐拾九段・二十九段・弐九段・念玖

         2+9=11=壱拾壱=一足一

         2×9=18=壱拾八=一足捌

 心

 ときめき

 するもの

 雀の子。

 兒

 あそばする所の

 前

 わたりたる。

 よき

 薫物

 たきて

 一人

 臥したる。

 唐鏡の

 少し

 くらき

 見たる。

 よき男の

 車

 とどめて

 物いひ

 案内せさせたる。

 頭洗ひ

 化粧じて、

 香に

 しみたる

 衣著たる。

 殊に

 見る

 人なき

 所

 にても、

 心の

 うちは

 なほ

 をかし。

 待つ人

 など

 ある夜、

 雨の

 脚、

 風の

 吹き

 ゆるがす

 も、

 ふとぞ

 おどろかるる。

ーーーーー

 ・・・いと、おかし・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする