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演奏解釈の多様性を、豊富な実例で聴く「BBC」ライヴシリーズの魅力に気づいたころ

2010年11月02日 10時59分22秒 | BBC-RADIOクラシックス



 1995年の秋から1998年の春までの約3年間にわたって全100点のCDが発売されたシリーズに《BBC-RADIOクラシックス》というものがあります。これはイギリスのBBC放送局のライブラリーから編成されたもので、曲目構成、演奏者の顔ぶれともに、とても個性的でユニークなシリーズで、各種ディスコグラフィの編者として著名なジョン・ハントが大きく関わった企画でした。
 私はその日本盤で、全点の演奏についての解説を担当しましたが、それは私にとって、イギリスのある時期の音楽状況をトータル的に考えるという、またとない機会ともなりました。その時の原稿を、ひとつひとつ不定期に当ブログに再掲載していきます。そのための新しいカテゴリー『BBC-RADIO(BBCラジオ)クラシックス』も開設しました。
 なお、2010年1月2日付けの当ブログにて、このシリーズの発売開始当時、その全体の特徴や意義について書いた文章を再掲載しましたので、ぜひ、合わせてお読みください。いわゆる西洋クラシック音楽の歴史におけるイギリスが果たした役割について、私なりに考察しています。

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 以下は「BBCラジオクラシックス」第3期の発売に際してのキャンペーン用リーフレットのために執筆したものです。第1期30種、第2期20種の発売と、第3期のためのCDのテスト盤をいくつか聴いてのものです。
 このシリーズがどれほど考え抜かれているかに気付き、驚いていた頃に書いたものです。「西洋音楽の演奏史」を横軸にして聴くことの面白さを、もっと知ってほしいと思っていましたが、未だに、歴史を背景にせずに、単独の演奏の個性を、「奇異」「珍奇」と面白がることしか出来ない人が多いことが残念でなりません。そのあたりの私の嘆きは、『クラシック・スナイパー 6』(青弓社)をお読みください。


■《BBC-RADIOクラシックス》の魅力

 全貌を見せ始めた当シリーズを、これまで既に60点以上聴いてみて、まず第1に感心するのは、70数分という1枚のCDの収録時間の制約のなかで、ベストのカップリングへの努力や熱意が感じられることだ。作品を作曲家ごとに再編集するにあたって、めずらしい小品の類を複数のコンサートから1曲ずつ探してくるといった具合だ。(こうした場合のメインとなる大曲は、おそらく豊富に保存されている同曲異演の中から、ベストの演奏を選び出しているだろう。おおむね、どれも期待どおりのものだったが。)
 こうした編成のCDは、安易に有名曲を組合わせたり、一晩のコンサートをCD化して制作するよりも、遥かに手間がかかるはずだ。それが、曲目リストの中に、聞き慣れない小品を見つけ、それが他の曲と演奏者も録音日時も全く異なるものだったりすると、「この短い1曲だけを!」と、思わず膝を叩いていまう。このCDシリーズは、契約問題などの制約のなかで、文献踏査的な綿密さを精一杯発揮していると思う。そうでなければ、とても陽の目を見ることがなかったというものが、片隅できらりと輝いている。そのことをまず指摘しておきたい。
 だが、このシリーズの魅力は、そうした編集物ばかりではない。歴史上のエポックとなった重要なコンサートのいくつかは、その会場の空気をもそっくり収録したかのようなBBCの優秀な録音技術で収められている。それが、豊富なライヴ音源から選ばれて制作された当シリーズのもうひとつの特徴で、ストコフスキーの「告別コンサート」や、「ブリティッシュ・ライト・ミュージック25周年記念コンサート」、「ヘンデル生誕300年記念コンサート」などがそれだ。2年にわたるプロムスでのプリッチャードによる「ウィーン音楽の夕べ」の楽しさも特筆ものだ。
 ロンドンは音楽の自由市場として、世界中の演奏家を次々に招聘して、彼らの芸術を吸収する機会を貪欲に求め続けている。彼らとロンドンの聴衆との出会いの幸福なドキュメントの再現も豊富だ。
 ロジェストヴェンスキーによるチャイコフスキーの「第5」や、ヨゼフ・スークによるベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」、クルト・ザンデルリンクによるマーラーの「第9」など、正に一期一会の貴重な記録がCD化されたことをうれしく思う。スタジオ収録では、ダリウス・ミヨーの自作自演も重要な録音だ。
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 しかし、このシリーズの魅力は、さらに、もっと違う所にある。これは、このシリーズを聴く前から、うすうす予想していたことではあるが、その予想的中以上のおもしろい結果が、聴き進むにつれて生まれている。
 ご承知のようにイギリスは、ヨーロッパ大陸にとって巨大な島国で、西洋音楽史のなかで、特異な位置を占めている。ベートーヴェン以降の音楽に限って見ても、ドイツの伝統音楽と例えばフランスとの関係は、ベルリオーズのベートーヴェンへの傾倒を持ち出すまでもなく、長い不即不離の関係がある。まして、ドイツ・オーストリアの音楽的伝統は、オーストリア・ハンガリー帝国の下に、東欧世界をひとつながりのものにしているのは周知の事実だ。
 イギリスは、それらを絶えず外側から見つめてきた国だ。西洋音楽を、その本流から少し距離を置いて享受してきた彼らは、様々の国柄の要素を等分に吸収することで、ローカリズムに陥るどころか、むしろ、外に対してはインターナショナルな普遍性を、そして、内に対しては、独自の自国の感性の客観的確立を、それぞれに目指していたようだ。(こうしたイギリスの歩んでいる道筋は、西洋音楽の学習期から、そろそろ自立の時期を迎えている日本のクラシック音楽界も、事情が似てきたように思う。)
 この一連のシリーズで、最も興味深いのは、彼らがこれまで、自国の外に出すときには、それなりの〈装い〉をさせてきたイギリスの作曲家たちの作品が、彼らの日常のレヴェルで聴けること。そして、スタンダードな西洋古典音楽の演奏でも、同じく、自国の感性を、普段着のままで聴かせることにある。毎日のように彼らの生活の一部としてラジオから流れていた音源からのCD化の面白さが、実は、そうしたところにあるのだ。そのなかには、プリッチャード/BBC響のブラームス「第2」の感動的演奏や、グローヴズの「新世界から」、サージェントの「未完成」、ボールトの「田園」といった自然体の演奏もあるが、マッケラスのマーラー「第4」や、デル・マーのリヒャルト・シュトラウス、レッパードのドビュッシー、といった特異な演奏もある。
 これらを一通り聴いてみた時、それぞれの作品が誕生した伝統から離れたところで、どれだけの新しい解釈が可能なのかが見えてくる。演奏解釈の多様性について、これほどの多くの事例で応えてくれるシリーズはない。このBBC-RADIOクラシックスは、西洋音楽のゲストとしての位置を存分に生かしてきたイギリス人たちの、層の厚さ、歴史の長さの成果を知るよい機会となっている。(1996.7.2 執筆)


【ブログへの再掲載に際しての付記】
次回から第3期のリリース分を掲載します。


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