>まずは自分の中にある常識を、疑ってみよう。>自分が常識だと思っていることは、果たして本当に正しいのか? >「みんなが正しいと言ってるから、きっと正しい」と思い込んでるだけではないか?
そうかもしれませんね。常識を守る方が自力で思考するよりも楽ですね。だから脱出する勇気がない。
見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の頭の中にある非現実の内容は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人とアニマルが共有する非言語の世界である。非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて文章の内容を逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。理解は人間だけが持つ言語の世界である。
理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので取りつく島がない。かくして、日本人の対話は成立しない。
>その常識が正しいかどうか、自分の頭でちゃんと考えたのか?
優秀な人は「純粋によく観察する」が、凡人は「自分の期待したもの」しか見ようとしない。
よく観察するとは現実のただ一つの内容 (事実) と非現実の多数の内容 (考え) を勘案して判断することですね。オオカミに対峙する七匹の子ヤギたちには後者がなかったので禍が降りかかった。
>もしかして、周りからの”見えない同調圧力”によって正しいと思わされてるだけではないか?
そういう事も十分に考えられますね。山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘しています。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いています。
>それとも自分で考えるのが面倒くさいから、適当に周りに合わせているだけではないのか? >目の前にある常識を、何も考えず無条件に受け入れてはいけない。>自分の人生における常識・ルールは、自分で決める。
そうですね。自主・独立の精神を堅持することが大切ですね。
>絶対に、他人には決めさせない。>自分の人生の主導権を、他人に握らせるな。>何が正しいのか、常に自分の頭で考え、自分で判断するんだ。>これは、あなたの人生なんだから。
そうですね。我々日本人は日本語と英語の両言語を良く学び、思考における時制の大切さを十分に理解する必要がありますね。英語にある時制 (tense) を使った考え方を会得すれば、我々は自己の意思 (will) を明らかにすることも可能になるし、自分自身の世界観 (world view) を持つことも出来ます。さすれば我々は国際社会において相手の理解も得られ、未来社会の建設に協力することも可能になります。かくして、我々日本人は、人類の進歩に一層の貢献が可能になるでしょう。
『有能な人材が世界から日本に集まり、ここで世界に向けてサクセスストーリーが生まれるという国家を目指すべきです。 このための具体的な政策課題として (1)英語を第2公用語にする (2)定住外国人に地方参政権を与える (3)インターネットの接続料はじめ知的生産活動の基本コストを諸外国並みにする (4)日本の制度やシステムの中で国際基準と合致しないものを一括して見直す―の4点を提案したいと思います。』 (茂木敏充外務大臣)
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