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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

適菜収氏・小林秀雄 2/2

2018-11-20 02:16:09 | 文化




>>「調べる」という言葉は、これとは反対の意味合いの言葉で、対象を遠ざかって見るという言葉だ。>>今日の歴史家は歴史と交わるという困難を避けて通っているのだよ。>>歴史という対象は客観化する事は出来ない。
>宣長は歴史研究の方法を、昔を今になぞらえ、今を昔になぞらえ知る、そのような認識、あるいは知識であると言っている。

昔 (非現実) は、今 (現実) ではない。今は、昔ではない。厳密に分かれますね。

>>厳密な理解の道ではない、慎重な模倣の道だと言うのだな。>>この方法は歴史学というものがある限り変わらない。>>変わり得ないと私は思っているよ。──「交友対談」

>無知と野心がなければ戦争は起きなかったか?
>昭和二一年、雑誌『近代文学』の座談会で、文芸評論家本多秋五から戦時中の姿勢を追及された小林は次のように答えた。

>>僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。>>黙って処した。>>それについて今は何の後悔もしていない。

無智では動けませんね。動けば危険です。

>>大事変が終った時には、必ず若(も)しかくかくだったら事変は起らなかったろう、事変はこんな風にはならなかったろうという議論が起る。

タラレバ (もしも何々であっタラ、、、、もし何々であレバ、、、、) の議論ですね。

>>必然というものに対する人間の復讐だ。>はかない復讐だ。

繰り言か。

>>この大戦争は一部の人達の無智と野心とから起ったか、それさえなければ、起らなかったか。

この大戦争は、天災ではないでしょうね。我々の民族性にも関係がありますね。

>>どうも僕にはそんなお目出度(めでた)い歴史観は持てないよ。

日本人には、意思 (will) がないですからね。意思は、未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制(tense) というものがない。だから、日本語脳には意思の表現がなく、日本人は優柔不断・意志薄弱に見える。一部の人達の無智と野心だけでは、戦争はできないでしょうね。

>>僕は歴史の必然性というものをもっと恐しいものと考えている。>>僕は無智だから反省なぞしない。>>利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか。──「コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」

意思のある人間には、反省もある。反省すれば、以後の態度が変わりますね。

>非常に有名な言葉だが、別に小林は戦争や軍国主義を肯定したわけではない。

無智ではどうにもなりませんからね。

>歴史を後から裁断する人間の傲慢さ、みっともなさを指摘しただけである。

そうですね。小林は、日本人の得意技である ‘時流に乗ること’ のみっともなさを指摘しているのですね。無哲学・能天気はみっともない態度ですね。丸山真男は、政治批判をして人気を博していましたね。
‘私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官)

>史観の中に整理づけることがそもそもアホだと言ったのである。

史観の中の整理は、受け売りの専門家のすることですね。

>>こうあって欲しいという未来を理解する事も易しいし、歴史家が整理してくれた過去を理解する事も易しいが、現在というものを理解する事は、誰にもいつの時代にも大変難かしいのである。

そうですね。現実の判断は、難しいですね。

>>歴史が、どんなに秩序整然たる時代のあった事を語ってくれようとも、そのままを信じて、これを現代と比べるのはよくない事だ。>>その時代の人々は又その時代の難かしい現在を持っていたのである。>>少くとも歴史に残っている様な明敏な人々は、それぞれ、その時代の理解し難い現代性を見ていたのである。>>あらゆる現代は過渡期であると言っても過言ではない。──「現代女性」

いつの時代にも、現実への対応策は難しいですね。

>歴史は理論では裁断できない。>封建時代というものを設定し、その時代の道徳や思想に、「封建」という言葉を冠せ、「封建道徳」「封建思想」と呼んだところで、その時代の道徳や思想はわかるものではないと小林は言う。

レッテルを貼るは、断罪を実行するための口実にすぎないですね。

>どの時代にも矛盾や混乱があったのであり、その中にそこで苦しみ、生活をしていた人々を理解しようとしなければならないと。

そうですね。それが人生を理解するというものですね。政治学は存在しませんね。

>歴史は、人類の巨大な恨みに似ていると小林は言う。>それは、われわれの愛惜の念であり、因果の鎖ではない。

因果応報の説教では、満足できませんね。

>小林は、子供に死なれた母親を例に出す。>母親にとって、歴史事実とは、子供の死という出来事が、幾時、何処で、どういう原因で、どんな条件の下に起こったかという、単にそれだけのものではない。>そこには、かけ代えのない命が、取り返しがつかず失われてしまったという感情が伴う。

そうですね。それは、アニマルも同じです。

>望みが打ち砕かれるところに、われわれは歴史の必然を経験する。>抵抗するから、歴史の必然は現れる。

歴史の必然は、自然災害のようなものですか。政治・人為はどうなっているのですか。

>これは因果関係や史観といったものとなにも関係はない。

そうですね。因果関係や史観といったものは、個人の頭の中にある内容ですからね。人・人により違っています。

>われわれが日常生活において感じる素朴な歴史感情である。>痛みは伝達不可能だ。

そうですね。他人の痛みはわからない。だが、歴史は繰り返す。泣き寝入りするのですか。学んで思わざれば則ちくらし。思って学ばざれば則ちあやうし。(為政第二の十五)
感情に溺れることなく、自分の意見をもちましょう。未来社会の建設に参加しましょう。


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適菜収氏・小林秀雄 1/2

2018-11-20 01:58:43 | 国際・政治


>適菜収氏は、小林秀雄は歴史を「生身の人間のいるところ」と捉え、後から歴史を裁断する人間の傲慢さに憤ったという。>『小林秀雄の警告 近代はなぜ暴走したのか?』から小林が歴史を見る目とは何かをご紹介しよう。
>人間のいないところに歴史はない

そうですね。歴史は、個人の考えであります。個人の脳裏にある内容であります。人間のいないところには、個人もいません。だから、歴史も存在しないです。

>近代人は時間の経過とともに人類は進化してきたと考えるようになった。>学校の教科書には、一番左にアウストラロピテクスのイラストが、一番右にわれわれ現代人のイラストが描かれていたりします。>人類は古代から中世、近代へと一直線に進歩してきたという西欧中心のいわゆる進歩史観です。

そうですね。一直線の方が、同じところをぐるりぐるりと回っているよりも考えやすいですね。

>昔の人間よりも現在の人間のほうが、理性的で合理的で優れていると彼らは考える。>理性的で合理的な判断が「正解」にたどりつくなら、「正しい歴史」「歴史の目的」も存在することになる。>ドイツの哲学者ヘーゲルは、世界は弁証法的な運動の過程にあると考えた。>いろいろな矛盾や対立を発展解消していくうちに、理念が実現されるようになると。>歴史を弁証法的に捉えれば進歩史観になるが、小林はこうした発想自体を拒絶しました。

我々の日常生活においては、弁証法で事を処理しますけれどもね。歴史は別物ですかね。

>>私達は、歴史に悩んでいるよりも、寧(むし)ろ歴史工場の夥(おびただ)しい生産品に苦しめられているのではなかろうか。>>例えば、ヘーゲル工場で出来る部分品は、ヘーゲルという自動車を組立てる事が出来るだけだ。
>>而(しか)もこれを本当に走らせたのはヘーゲルという人間だけだ。>>そうはっきりした次第ならばよいが、この架空の車は、マルクスが乗れば、逆様(さかさま)でも走るのだ。──「蘇我馬子の墓」

各人に哲学は必要ですね。他人の考えを受け売りすれば、受け売りの人は大怪我をすることになるでしょう。

>ドイツ出身の哲学者マルクスは、ヘーゲルの弁証法を利用して、歴史科学なる概念をつくりあげた。

>>あらゆる歴史事実を、合理的な歴史の発展図式の諸項目としてしか考えられぬ、という様な考えが妄想でなくて一体何んでしょうか。

考えは、個人個人で違いますからね。正解はただ一つではない。個人の数だけある可能性もある。

>>例えば、歴史の弁証法的発展というめ笊(ざる)で、歴史の大海をしゃくって、万人が等しく承認する厳然たる歴史事実というだぼ沙魚(はぜ)を得ます。──「歴史と文学」

現実の内容はただ一つ。非現実 (考え) の内容は人の数だけある。万人が等しく承認する内容は、現実の方です。歴史は過去 (非現実) であり、現実ではない。万人の一致した体系は、妄想でしょう。

>ヘーゲルのような妄想の体系を打ち立てれば、歴史はどのようにでも解釈できる。>ヘーゲルは歴史上の一人物に過ぎず、歴史がヘーゲルのシステムのなかにあるのではないと小林は言う。

そうですね。各人に哲学は必要ですね。Everyone needs a philosophy.

>史観は歴史を考えるための手段であり道具にすぎない。

そうですね。史観は、自分が考えるための筋道ですね。他人に言って聞かせるためにも便利です。

>しかし、その手段や道具が精緻になるにつれ、当の歴史の様な顔をし出す。

それは、迷信というものでしょうね。

>人間は理性的で論理的で合理的だ。>そこが人間の弱さである。>だから簡単に理論に流される。

そうですね。人間は、理性的で論理的で合理的でないと、その内容が脳裏に収まらないようにできている。人間の弱さですか。

>よって、小林が言うように「人間のいないところに歴史はない」という常識を、常に努力して救い出さなければならない。

そうですね。人間がいなければ、個人もない。個人の考えもない。だから、歴史 (考え) もない。

>「史観」さえあれば歴史はいらないのか?
>近代啓蒙主義とは、理性や明示的なものを信仰し、説明不可能なものを「迷信」と斬り捨てる運動だった。

そうですね。’迷信’ という言葉は、負け惜しみをするときの捨て台詞でしたね。

>合理的な目的が存在するなら、それに従うことが「正義」となる。

矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを示している。だから、正解は一つではない。矛盾のある文章も、その矛盾を取り除けば、正しい考えになる。だから、対話も必要ですね。

>その成れの果てに登場した「絶対的な知的自己決定」という発想が地獄を生み出したのは歴史を振り返れば明らかだ。

絶対的な妄想ですね。妄想地獄というべきでしょうか。

>>唯物史観に限らず、近代の合理主義史観は、期せずしてこの簡明な真理を忘れて了う傾きを持っている。

簡明な真理を忘れるのは、有頂天になっているからでしょう。

>>迂闊で忘れるのではない、言ってみれば実に巧みに忘れる術策を持っていると評したい。>>これは注意すべき事であります。>>史観は、いよいよ精緻(せいち)なものになる、どんなに驚くべき歴史事件も隈(くま)なく手入れの行きとどいた史観の網の目に捕えられて逃げる事は出来ない、逃げる心配はない。>>そういう事になると、史観さえあれば、本物の歴史は要らないと言った様な事になるのである。──「歴史と文学」

手段 (史観) の目的 (哲学) 化が起こりましたね。一つの史観が、各人各様の哲学を破壊しましたね。個人主義の消滅です。

>こうして近代人は歴史を見失った。

個人の考えを失ったということは、自己を見失ったということですね。

>歴史は「生きているもの」「動いているもの」である。>小林は自然科学のような実証主義が、歴史の命を殺してしまったと言う。

科学も歴史も、自己に都合の良い事実だけを組み合わせて考え (非現実) とするものですがね。人は、考え直すことができるから、科学も歴史も限りなく前進します。

>歴史とは諸事実を発見したり、証明したりといった退屈なものではない。
>歴史を考えるとは歴史に親身に交わることなのだと。

そうですね。各人に哲学は必要ですね。そうでなければ我々は、烏合の衆になります。


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