植ちゃんの「金沢・いしかわに恋をしました!」

金沢に永住して金沢・石川が好きになりました!その魅力を紹介します。

長谷山観音院の「四万六千日」金沢市

2018-08-31 04:33:49 | 日記


金沢の観光スポットレポート その955(No.1367)

◇長谷山観音院の「四万六千日」金沢市

観音院では藩政期から続く 「四万六千日」の行事が有名です。旧暦の7月9日(今年は8月19日)に行われており、この日は観音様の功徳日として朝から晩まで大勢の参拝者でにぎわいます。



■写真は東山観音通り


 
この日は観音院の御本尊、木造十一面観音が御開帳され、お参りすると四万六千日分の御利益があるとされています。さらに祈願されたとうもろこしを受けて帰ると商売繁盛や健康に過ごすことが出来るご利益があるとされ、多くの方が求められます。また、1升枡にお米が4万六千粒入るから四万六千日だという説もあるそうです。





東京浅草寺ではこの四万六千日の日には、ほおずき市や縁日が行われます。ほおずきは生薬として利用され、平安時代より鎮咳や解熱、利尿作用や咳、発熱、のどの痛みやむくみなどに効果があるとされてきました。

■写真は参道と六地蔵



観音院には御本尊木造十一面観音の他にも多門天像と持国天像がまつられ、この二点は金沢市指定文化財となっています。
本堂には御本尊木造十一面観音がこの日のみご開帳され、この他17体の仏像と掛け軸が展示されていました。残念ながら撮影禁止でした。



□長谷山 観音院

卯辰山入口にある観音院は1200年の歴史をほこる御本尊木造十一面観菩薩をまつり、金沢の発詳にちなむ「芋掘り籐五郎」伝説として有名な歴史的由緒をもっています。

また、加賀藩三代藩主前田利常公の正室珠姫様が観音様を篤く信仰され、社殿を寄進したとされています。御本尊のまつられている厨子には珠姫様が徳川家よりお輿入れされた証の葵の紋と前田家の梅鉢の紋の二つの紋を残されています。その後、前田利常公が境内伽藍を整備し、観音院は加賀藩前田家の安産祈願・お宮参りなどの祈祷所となったものです。
それからは、大和、鎌倉と並び、加賀の長谷観音とうたわれ今日まで多くの信仰を集めています。





■写真は本堂と参拝の列





■写真はとうもろこし



■写真は参道の行灯

撮影:2018.8.19

(つづく)

8月29日累計閲覧120万ページ達成しました。

2018-08-30 04:30:46 | 日記


8月29日累計閲覧120万ページ達成しました。

観光ブログ「植ちゃんの金沢・いしかわに恋をしました」は開設以来、約7年8か月で加賀藩最高石高119.5万石を目標とした、120万ぺージをお蔭様で達成しました。日ごろの皆様の訪問に感謝申し上げます。

■写真は金沢城公園(左から菱櫓、五十間長屋、橋爪門)



次はいつになるかわかりませんが、200万ページに向けて取材・更新しますので、今後とも訪問よろくお願いします。

■写真は金沢城公園(河北門から橋爪門を見る)

・累計閲覧ページ:1,202,580ページ
・累計訪問者数:316,601IP
・開設よりの日数:2,812日



■写真は兼六園(ことじ灯篭)





小立庵(そば)金沢市小立野(天徳院前)

2018-08-29 04:33:32 | 日記


金沢のグルメレポート その49(No.1366)

◇小立庵(しょうりゅうあん)金沢市小立野(天徳院前)

手打ち蕎麦の店、そば粉は自店で石臼挽き(石川県白山、山麗鳥越産そば粉を使用)、水は金沢市小立野の地下に100年眠っていた天然水を使用(百年水)手打ち、石川県内産そば粉、百年水これらが 小立庵の生命線です。HPより

そばご膳(1080円)をいただきました。冷つゆ蕎麦にゴマ豆腐、デーザートまでついていておいしかった。

■写真は外観





■写真は昼禅天ぷら御膳





<メニュー>

昼禅(ランチメニュー)
・天ぷら御膳=1000円(税別)
・刺身禅=1200円(税別)

・小立禅=2000円(税別)
・庵そば=1500円(税別)
・童心=1500円(税別)
・サワラ禅=1100円(税別)
・四念住禅=1500円(税別)
・天ザル=1200円(税別)
・おろしそば=1000円(税別)
・加賀野菜じぶにそば=1000円(税別)
・珠姫そば=1000円(税別)

■写真はマスターは金沢検定上級取得者



■写真は客席

□小立庵HP

撮影:2018.7.

(つづく)

立山初登頂と日本三霊山 -2(完)

2018-08-27 04:35:51 | 日記


北陸の観光スポットレポート その1(No.1365) 

◇立山初登頂と日本三霊山 -2(完)

8月11日(土)山の日立山の雄山に登頂し、日本三霊山(日本三名山)をついに達成しました。富士山には東京在住時の平成2年(1990)8月6日に"はとバスツアー"で登頂。
白山は金沢永住して2年目平成20年(2008)7月20日に日帰り初登頂以来毎年1回日帰りで10回登頂している。私は登山を趣味としているわけでなく体力テストのつもりで、白山日帰りに挑戦している。

■写真は一の越山荘(2705m)を見る



〇立山開山の資料

明治26年(1893)河合磯太郎氏によって、大日岳頂上付近にある修行の行われた洞窟から銅錫杖頭が発見されているが、剱岳の銅錫杖頭とほぼ同じころのものと考えられている。

銅錫杖頭は奈良時代(710 ?794)終わりから平安時代(794 ?1185)初め(1100~1200年前)に作られたものと考えられる。

全国の高い山には、奈良時代から平安時代初めにかけて開かれたものが多い。比叡山天台宗の僧、康済が9世紀後半に「越中立山」を開いたという記録がある。京都・随心院に残る延喜5年(905)7月11日の記録によれば、越中国の長官である佐伯有若が、自筆で名前を残している。「越中守従五位下佐伯宿祢 有若」「常設展示観覧の手引き」富山県立山博物館

■写真は一の越手前のメンバー



立山を開いたのは有頼? 有若? それとも狩人?狩人伝承が国守佐伯有若の伝説に変わって
いった?)

・「伊呂波字類抄」では、「立山を開いたのは越中守佐伯宿祢 有若であった」と いう。しかし、地元に語り伝えられてきた「立山開山縁起」では、「有若の息子である有頼が開山した」と伝えている。「立山黒部物語」立山黒部貫光株式会社

・「類聚既験抄」によれば、「狩人が立山で熊をうち、熊に矢を射立てた。熊は矢を立てたまま死んだ。その熊をよく見ると、金色に輝く阿弥陀如来であった。霊山と熊との深い関係が全国にある。山岳信仰に猟師が関与している。

・熊野権現の縁起では、「猟師が熊を射、血痕をつけていって、熊と思ったのが阿弥陀如来
であったことを驚き知った」

・羽黒山の縁起では、猟師が手負い熊を追っていく場面がある。

・金剛堂山の開山伝説では、役ノ行者が熊に案内されて登頂する。「立山連峰」文部省登山
研修所



■写真は一の越から雄山方面と雄山向かう石場





〇"立山"の山名と語義・呼称等について

・タチヤマ・・・・・そびえ立ちたる山
・顕ち山 ・・・・・神の降り立つ山
・大刀山 ・・・・・刀剱のように鋭い山
・多知夜麻・・・・・万葉集で詠まれる
・立山

■写真は雄山と雄山神社で祝詞の神主



〇佐伯 有頼とは

佐伯有頼(さえき の ありより、天武天皇5年(676年)頃 - 天平宝字3年(759年))は、飛鳥時代から奈良時代にかけての人物。「立山開山縁起」に登場する人物で、越中国司・佐伯(宿禰)有若の息子とされる。霊示を受け、神仏習合の一大霊場である立山を開山したという。出家して慈興と号したと伝えられる。





■写真は雄山山頂(3003m・雄山神社横)とお札





■写真は雄山山頂より室堂方面





■写真は下山するメンバー



■写真はみくりが池



■写真は立山玉殿の湧き水



■写真は帰りの立山(バスより)

参考:国立立山青少年自然の家HP、立山アルペンルートHP、ウィキペディア、他

撮影:2018.8.11

(立山初登頂と日本三霊山 完)

立山初登頂と日本三霊山 -1

2018-08-26 04:44:46 | 日記


北陸の観光スポットレポート その1(No.1364) 

◇立山初登頂と日本三霊山 -1

8月11日(土・山の日)立山の雄山に登頂し、日本三霊山(日本三名山)をついに達成しました。富士山は東京在住時の平成2年(1990)8月6日に"はとバスツアー"で登頂。白山は金沢永住して2年目平成20年(2008)7月20日に日帰り初登頂以来毎年1回日帰りで10回登頂。
私は登山を趣味としているわけでなく体力テストのつもりで、白山日帰りに挑戦している。

■写真はバスの中から弥陀ヶ原



今回は北日本観光バスツアーに参加(参加費6,000円税込み、弁当付き)し、バスで室堂(2,450m)まで行き、登山を開始してワンピース、サンダル姿の女性がいたことや、アジア系女性でサンダルで雄山を登頂していたことに驚きです。もっとも散策コースがあり石畳を歩けばいいと思うけれども、2,450mの山の天候は激しく変化するもので、せめてスニーカーでも履き、それ相当のウエアーは必要でないか?と思う。

■写真はスタート後の室堂平



〇行程記録

7:10金沢駅発、10:15室堂到着、10:30準備後出発、
11:25一の越到着。12:55雄山到着、13:20雄山発、
13:55一の越到着、15:20室堂着、15:40室堂発、金沢駅18:15。

■写真は立山高度地図

〇日本三霊山(日本三名山)とは!

日本三霊山とは、古より山岳信仰の盛んな日本において、霊山の三大として富士山・白山・立山を束ねた名数である。略して三霊山とも呼ばれる。
日本三名山とは、日本の名山(名高い山、もしくは、高評価の山)の三大として、富士山・白山・立山を束ねた名数である。略して三名山とも呼ばれる。



〇富士山

静岡県(富士宮市、裾野市、富士市、御殿場市、小山町)と山梨県(富士吉田市、鳴沢村)に跨る独立峰。標高3,776 mの日本最高峰。 国別の最高地点一覧)。成層火山。浅間信仰の対象であり、山頂には富士山本宮浅間大社の奥宮がある。
日本三霊山に限らず、その他の多くの霊山・名山の括りでも筆頭に挙げられている。

■写真は富士山のご来光を待つ(1990.8.5)



〇白山

石川県(白山市)と岐阜県(白川村)に跨る山で、両白山地の最高峰。標高2,702 m。白山信仰の対象で、山頂には白山比咩神社の奥宮があり、日本の各地に白山神社がある。日本三霊山・日本三大霊山・日本七霊山・日本三名山に挙げられる一方、日本四名山には挙げられていない。

■写真は白山御前ヶ峰初登頂(2008.7.20)



〇立山

富山県南東部にある飛騨山脈(立山連峰)の山。最高峰の大汝山(標高3,015 m)、主峰の雄山(標高3,003 m)、富士ノ折立(標高2,999 m)の三峰からなる。立山信仰の対象であり、山頂には雄山神社の峰本社がある。

■写真は当日のグループ



〇立山三山とは

別山、中義の立山(富士ノ折立、大汝山、雄山)、浄土山をあわせた名称

1)雄山(おやま)

立山の主峰3,003m。雄山神社峰本社がある。伊弉諾尊と手力男命を祀る。山の姿を仏の体になぞらえて、頂上を烏瑟ノ峰ともいう。
明治維新の神仏分離後、立山権現(立山の神)は復古して雄山神社に、峰名も雄山となる。神山を敬って御山とあがめたので、雄山という呼称にも結びつきやすかったのであろう。

2)大汝山(おおなんじさん)

中義の立山の中央峰3,015m。富山県の最高地点。己貴神(別名:大国主命)が祀られていたことに由来する。
立山曼陀羅図には祠が描かれているが、現在信仰をうかがわせるものはない。

3)富士ノ折立(ふじのおりたて)

中義の立山の北峰2,999m。富士権現を祀ったことに由来。“富士ノ折戸”“富士ノ折立岩”とも記した。
立山曼陀羅図では、雄山、大汝山、別山の山並みから奥まったところに富士山形に描かれる。

4)別山(べつさん)

別山2,880m。帝釈天を祀るので、帝釈岳の別名があった。立山曼陀羅図では、雄山、大汝山、浄土山と並ぶ重要なピークである。

5)浄土山(じょうどやま)

浄土山,2831m。阿弥陀堂や、天日鷲命と長白羽命を祀った祠の跡がある。高山植物やハイマツに覆われる山上の姿は立山三山随一。雷鳥の生息数も多い。このような環境を阿弥陀の浄土になぞらえたことに由来する。

■写真は立山周辺地図





■写真は室堂スタートと室堂平



■写真は浄土山





■写真は雪渓のメンバー



■写真はガスが晴れた雄山









■写真は室堂平の花

参考:国立立山青少年自然の家HP、立山アルペンルートHP、ウィキペディア、他

撮影:2018.8.11

(つづく)

天徳院「珠姫まつり」

2018-08-25 04:20:58 | 日記


金沢の観光スポットレポート その954(No.1363)

◇天徳院「珠姫まつり」

8月9日(木)金沢かがやき100の会の8月例会で天徳院珠姫まつりに参加した。

加賀百万石の危機を救い、平和と繁栄のため尽くされた珠姫の遺徳を偲んで開かれるもので、珠姫様の亡くなられた日元和8年(1622)7月3日が、今の暦で8月9日にあたることから毎年この日を中心として法要・法話その他の催し物を開催している。

珠姫の輿入れは3歳(数え年なので満では2歳)で、慶長6年(1601)江戸から東海道、北国上街道を90日かけて数百人の行列で行われたといわれている。







■写真は山門



■写真は山門通路左の烏す沙摩明王



■写真は山門通路右の本堂水かけ金洗い弁財天





■写真は本堂の彫刻と懸魚(けんぎょ)



■写真は天徳院の説明を聞く参加者



■写真は詠歌を聞く参加者



■写真はたまゆらの舞



■写真は本堂より山門方面



この鳥観図は合資会社名古屋光彰館製版「加能宝鑑」掲載のもの。明治丗(30)年(1897)九月刻とあり約100年前に描かれたもので、4万坪の広さが想像できる。天徳院物語より

■写真は天徳院鳥観図

□天徳院の歴史(天徳院HP)

□珠姫さま略伝(天徳院HP)

□天徳院寺宝ページ(天徳院HP)

□珠姫の菩提寺 天徳院‐1(植ちゃんの金沢いしかわに恋をしました)

□珠姫の菩提寺 天徳院‐2(植ちゃんの金沢いしかわに恋をしました)

撮影:2018.8.9

(つづく)

金沢城公園 石垣巡り‐13 その他の石垣 番外編②(完)

2018-08-24 04:35:07 | 日記


金沢の観光スポットレポート その953(No.1362)

◇金沢城公園 石垣巡り‐13 その他の石垣 番外編② (完)

金沢城公園石垣巡りの撮影をしていて「石垣巡りコース」にない石垣を紹介します。

6)極楽橋下空堀石垣 

二の丸から三十間長屋の極楽橋の下にある両面の空堀石垣には刻印のある石が多くある。





■写真は極楽橋下空堀石垣



7)橋爪二の門二の丸側石垣



■写真は橋爪二の門二の丸側石垣



8)陸軍が弾薬倉庫として石垣に穴をあけて使用した跡。





■写真は陸軍弾薬倉庫跡



9)鶴丸倉庫下の石垣

火災で鉛瓦が溶けて着いた石。





■写真は鶴丸倉庫下の石垣



10)石川門の三の丸側石垣

石川門三の丸側も桝形と同じ時期に創建・改修されたものでおなじ積み方になっている。





■写真は石川門の三の丸側石垣

撮影日:2018.7 - 8


<バックナンバー>

□金沢城公園 石垣巡り‐13 その他の石垣 番外編①

□金沢城公園 石垣巡り‐12 いもり堀付近 石展示場②

□金沢城公園 石垣巡り‐12 いもり堀付近 石展示場①


□金沢城公園 石垣巡り‐11

□金沢城公園 石垣巡り‐10

□金沢城公園 石垣巡り‐9


□金沢城公園 石垣巡り‐8


□金沢城公園 石垣巡り‐7

□金沢城公園 石垣巡り‐6

□金沢城公園 石垣巡り‐5


□金沢城公園 石垣巡り‐4


□金沢城公園 石垣巡り‐3


□金沢城公園 石垣巡り‐2


□金沢城公園 石垣巡り‐1

(金沢城公園 石垣巡り 完)

金沢城公園 石垣巡り‐13 その他の石垣 番外編①

2018-08-22 04:35:11 | 日記


金沢の観光スポットレポート その952(No.1361)

◇金沢城公園 石垣巡り‐13 その他の石垣 番外編①

金沢城公園石垣巡りの撮影をしていて「石垣巡りコース」にない石垣を紹介します。

1)河北門右新丸側石垣

自然石積み、粗化工石積み、切石積みが1か所で見れる石垣。







■写真は河北門右新丸側石垣



2)河北門左新丸側石垣 





左側の三の丸下石垣に鉢巻き石垣を見ることができる。



■写真は河北門左新丸側石垣 



3)河北門三の丸側石垣 

■写真は河北門三の丸側石垣



4)切手門左の石垣 

ここでも「金場取残し石」が見られる。見栄えを重んじた石垣。



■写真は切手門左の石垣



5)裏口門石垣 



元築石に使用された石か??



■写真は裏口門石垣

撮影日:2018.7 - 8

(つづく)

金沢城公園 石垣巡り‐12 いもり堀付近 石展示場②

2018-08-21 04:29:47 | 日記


金沢の観光スポットレポート その951(No.1360)

◇金沢城公園 石垣巡り‐12 いもり堀付近 石展示場② 

■写真はいもり堀



6)石切丁場での石づくり(築石・つきいし)

石垣の石材として一般的な築石(平石)も石切丁場で作られました。
原石に長方形の穴を一列に堀り、矢(クサビ)を打ち込んで割る作業を繰り返して石材を作ります、正面の形よりも全体の大きさを重視す、控え(奥行)を長くとることが特徴です。



■写真は石切丁場での石づくり(築石)



7)細工のある切石

右側は、橋爪門続櫓で角石の隣に置かれた角脇石です。上部にくぼみがつけられ、別の板石材を組み合わせることで、平坦な部分が広げられています。上に積む石を安定させるための工夫と考えられます。
左側は、薄い板状の切石で、修復用として火災で面が剥離した石の前面にはめ込まれたものです。ともに細やかな石加工技術の冴えがうかがえます。

■写真は細工のある切石(右側)





■写真は細工のある切石(左側)



8)鬘石(かずらいし)

厚みのある長方形の石材で、櫓や長屋といった建物を乗せる石垣の最上部に使用されました。菱櫓や五十間長屋の鬘石は、建物材を固定するためホゾ穴が刻まれています。

■写真は鬘石



9)橋爪門続櫓台内部から出土した旧材

橋爪門続櫓台内部には、文化5年(1808)の改修以前の石材が多く埋め込まれていました。
左の石は、面に火災で焼けた鉛瓦がべったりと張り付いていますが、部分的にはがされて
います。万を新たに作り直し、再利用を試みたものと考えらえます。

■写真は橋爪門続櫓台内部から出土した旧材



10)河北門下層遺構出土の石材

平成18~20年(2006~2008)度に実施した河北門の発掘調査で、桝形路面の下層から出土した石垣材です。
大溝の中に金沢城初期(17世紀初めの頃)の土器と一緒に廃棄されていました。石材加工の時期的な特徴がよくわかります。



■写真は河北門下層遺構出土の石材

撮影日:2018.8.17

(つづく)

金沢城公園 石垣巡り‐12 いもり堀付近 石展示場①

2018-08-20 04:37:06 | 日記


金沢の観光スポットレポート その950(No.1359)

◇金沢城公園 石垣巡り‐12 いもり堀付近 石展示場①

■写真は展示場全景



1)キゴ山西丁場跡の石材

ここで展示している石材は、金沢城公園西部で使用するため、平成11年(1999)にキゴ山から運び込まれた戸室石です。
当時、金沢城の石切り丁場は戸室山北部と考えられいましたが、加工途中や完成した石材が含まれていたことがきっかけになって調査が進み、キゴ山を含む広い範囲に多数の石切り丁場が残されていることがわかりました。







■写真はキゴ山西丁場跡の石材



2)石切丁場での石づくり(角石・すみいし)

石垣の出角には、切石上に加工した専用の角石が用いられました。石切り丁場に残されたいたもので、石材加工の大部分が現地で行われていたことがわかります。





■写真は石切丁場での石づくり



3)石切丁場での石づくり(切石)

切石積石垣の石材(特に江戸前期)は、正面の大きさや形を優先して加工し、控え(奥行き)は比較的短いことが特徴です。石切り場での作業段階で、形や寸法を整え、切石積み専用の石材として制作されていました。
(キゴ山西丁場跡、江戸前期)





■写真は石切丁場での石づくり(切石)

採掘坑の周辺には、おびただしい石屑や加工途中の戸室石、時には完成品とみられる石材も残されています。
石切り丁場は、原石の採掘だけでなく、石材へ加工する作業場だったのです。



4)粗化工石

粗化工石は、割石にノミやツルなどの道具を用い、粗く加工・調整したもので、切石より長大で、高く積むことに適しています
展示している石材には、五十間長屋の石垣創建時(寛永8年・1631)に遡る、刻印を刻んだものや、石を割りとった際の痕跡である矢穴があるものが見られます。



■写真は粗化工石



5)切石の表面調整写真

左側は寛文期。中は宝暦期。右は文化期

■写真は切石の表面調整写真(看板より)

撮影日:2018.7- 8.

(つづく)

金沢城公園 石垣巡り‐11

2018-08-18 04:11:31 | 日記


金沢の観光スポットレポート その949(No.1358)

◇金沢城公園 石垣巡り‐11

<城外周ルート>

13)大手堀の石垣

堀際にある粗割り石を積み上げた石垣は、金沢城初期の石垣です。このころ、尾坂から河北坂を経由して本丸に居至る大手筋の要所が固められてました。
上段の石垣は小阪門台の石垣で、寛政11年(1799)の地震で崩れ、翌年改修された。

・創建:慶長(1596~1615)頃
・現状:上段は寛政期(1789~1800)改修時、下段は創建時か



■写真は大手堀の石垣



■写真は大手門(尾坂門)かがり台下石垣



14)大手門(尾坂門)の石垣

慶長期(1596~1614)高山右近の指導により、西丁口にあった大手を尾坂口に移したと伝えられる。巨大な割石を使った「切石積み」の石垣。巨大石(鏡石)と呼ばれ、一般には城の正面によく用いられた。金沢城の石垣の中で最大の石もこの中に組み込まれている。

大きな櫓台が残っているが櫓や櫓門が記載されたものは少なく、末森城より移設した屋根付きの門(棟門)が設けられていたが、明治17年(1884)に消失した。

・創建:慶長期(1596~1614)頃
・改修:寛政12年(1780)



■写真はかがり台門下石垣(鏡石)



■写真は大手門正面の石垣



■写真はかがり台門下石垣内側



■写真は大手門城内より見る



■写真は大手門より新丸公園を見る

撮影日:2018.7

(つづく)

金沢城公園 石垣巡り‐10

2018-08-17 04:20:33 | 日記


金沢の観光スポットレポート その948(No.1357)

◇金沢城公園 石垣巡り‐10

<城外周ルート>

10)蓮池堀(百閒堀)縁の石垣

蓮池堀(はすいけぼり、百間堀)縁の石垣は、豊富な刻印に特徴があります。刻印は石切場で刻まれた合印(あいじるし)と考えられ、金沢城では200種類以上が見つかっています。一箇所の石垣に数種類の刻印が混在するのが通例ですが、ここでは地区ごとにまとまりがあり、数メートル間隔で刻印の種類に変化が見られます。

・創建:元和~寛永(1615から1644)頃
・改修:元文2年(1737)等に一部改修
・現状:上部を除けば概ね創建時





■写真は蓮池堀(百閒堀)縁の石垣



■写真は明治初期の蓮池堀(看板より)



11)東の丸東面の石垣

東の丸石垣は、金沢城で本格的な石垣づくりが始まった文禄年間(1592)に造られた城内
最古の石垣です。最上段の6m分は小段をつけて積み上げているものの、石垣の総高は
21mに達し、文禄期の石垣としては日本有数の規模を誇る自然石積み石垣です。

創建:文禄元年(1592)
改修:元文元年(1736)辰巳櫓下
現状:創建時の石垣(一部を除く)

■写真は東の丸東面の石垣(よみがえる金沢城より)



■写真は東の丸東面の石垣



12)三の丸東面の石垣

三ノ丸東面の石垣は、文化年間(1803?16)加賀藩穴生(あのう)の後藤彦三郎、小十郎親子の手で全面的な修築がおこなわれました。「堀縁の石垣は粗く積む」のが作法であるべきと考えた二人は、本来なら石垣勾配にあわせて石を置くべきところを、意図的にずらして荒々しい表情の石垣に積み直したようです。「場にふさわしい石垣づくり」が当時の技術者のこだわりでした。

創建:元和~寛永(1615~1644)頃
改修:寛文頃、文化4年(1807)
現状:文化4年修築時

■写真は桜の三の丸東面の石垣







■写真は三の丸東面の石垣



■写真は雪の三の丸東面の石垣

撮影日:2018.7ほか

(つづく)


金沢城公園 石垣巡り‐9

2018-08-16 04:36:35 | 日記


金沢の観光スポットレポート その947(No.1356)

◇金沢城公園 石垣巡り‐9

<城外周ルート>

7)本丸南面の高石垣(辰巳櫓下~申酉櫓下)

自然面を残す粗割り石を積み上げた初期の「粗化工石積み」石垣です。 明治時代に上部の一部が取り壊されて現状の姿になりましたが、もとの高さは約12間(約22m)以上ある城内随一の高石垣あった。
三代藩主利常の頃(1610年頃)、築城の名手篠原一孝の指揮によるものと伝わる。

・創建:慶長年間後期(1610)頃
・改修:寛文6年(1777)、安永9年(1780)、文化13年(1816)
・現状:上部は明治時代に撤去・改変下部はおおむね藩政期の姿をとどめる。







■写真は高石垣



■写真は明治40年ころの高石垣(辰巳櫓付近)(看板より)



8)鯉喉台櫓(りこうだいやぐら)石垣

主に寛文4年(1644)の改修時の姿を残す、歴然とした「粗化工石積み」で、加賀藩の石垣技術者後藤彦三郎は「城内随一」と称しました。高さは約八間(14.4m)ありましたが、明治40年(1907)に上部が壊されいもり堀とともに埋められました。

・創建:元和(1614~24)ないし寛永(1624~44)
・現状:下部は寛文4年時、上部は2010年復元





■写真は鯉喉台櫓(りこうだいやぐら)石垣



9)車橋(くるまばし)門周辺の石垣

堀縁の石垣は、本来この付近で車道側に折れて堀の南端に続いていました。そこには増水時に堀の余水をいもり堀側へ落とす水門が造られ、「車橋」という名の木橋と門がありました。背後左手の石垣は、明治末の道路工事で堀を埋め立てた際の石垣で、当時流行した「谷積み」の手法で積まれています。

・創建 元和~寛永(1615~1644)頃
・改修 江戸後期から明治初期
・現状 江戸後期、明治44年



■写真は江戸後期の車橋周辺(看板より)

撮影日:2018.7

(つづく)

金沢城公園 石垣巡り‐8

2018-08-14 04:35:39 | 日記


金沢の観光スポットレポート その946(No.1355)

◇金沢城公園 石垣巡り‐8

<城外周ルート>

4)玉泉院丸南西の石垣

玉泉院丸の南西に張りだしたこの石垣は、大きくはらみ出して不安定な状態のため、平成18、19年に解体・積み直しによる保存修理を行った。

・創建:元和~寛永(1615~1644)頃
・現状:平成18~19年保存修理



■写真は玉泉院丸南西の石垣



5)いもり堀の石垣

いもり堀の北西部に位置する個の石垣は、石の正面を部分的に均して刻印を施す石加工に特徴があり、初期の粗い加工石を積んだ石垣の一つ。この石垣は、土手の上部に石垣を巡らす「鉢巻き石垣」が続いている。

・創建:元和~寛永(1615~1644)頃
・改修;不明
・現状:お概ね創建時の姿を残す。



■写真はいもり堀の石垣



6)明治の石垣

明治40年のいもり堀埋め立ての際、土取りで削り込まれた崖面を保護するため、陸軍が築造した石垣です。延長約360mの曲線的な石垣は、石材を斜めに落とし込む「谷積み」の技法で造られています。本丸南面石垣の石材を再利用しており、所々に刻印や矢穴が見られます。





■写真は明治の石垣

撮影日:2018.7.-8.

(つづく)

金沢城公園 石垣巡り‐7

2018-08-13 04:31:14 | 日記


金沢の観光スポットレポート その945(No.1354)

◇金沢城公園 石垣巡り‐7

<城外周ルート>



1)数寄屋敷西方の堀縁石垣

いもり堀の北側にあたるこの場所は、水堀から四間半(約8m)、延長67間(約120m)の石垣が築かれいる。石の正面を部分的に均して刻印を施す石加工に特徴があり、はみだし認められることから、平成15年に変位を観測する装置を設置し、石垣の定点観測続けている。

・創建 元和~官営(1615~1644)
・改修 昭和53年一部改修



■写真は数寄屋敷西方の堀縁石垣



2)玉泉院丸鼠多門続櫓台石垣

玉泉院丸の北西隅に位置する櫓台石垣で、絵図では堀底から高さ五間三尺五寸(約10m)と記されている。文化7年(1810)の修築を担当した石垣技術者の後藤小十郎による指図が残っており、石垣勾配の設計法をを知ることができる石垣です。比較的丸みのある石を多用することから「鶴目積」の石垣とも呼ばれた。

・創建:元和~寛永(1615~1644)頃
・現状:文化7年(1810)修築時の姿を残す。





■写真は玉泉院丸鼠多門続櫓台石垣



3)玉泉院丸鼠多門石垣

この付近は玉泉院丸と金谷出丸(現在の尾山神社)を結ぶ 木橋が架けられていた場所で、河原石を積んで保護し堀の土手の一段くぼんだ箇所が木橋のたもとで、そこに橋脚が立っていた。石垣は土手の上部に石垣を巡らす「鉢巻き石垣」となっており、鼠多門の通路部分は明治期に積みたされていたが、現在鼠多門、鼠多門橋を20年度完成予定で工事中です。

・創建:元和~寛永(1615~1644)頃
・改修:明治10年(1877)木橋取り壊し明治17年(1884)鼠多門焼失
・現状:江戸期に状態を残す。

■写真は玉泉院丸鼠多門石垣



■写真は明治初年の玉泉院丸鼠多門(看板より)



■写真は完成予想図の玉泉院丸鼠多門(北國新聞記事より)

撮影日:2018.7.

(つづく)