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センサー

 昨日話題にした花の名前は、竜虎の母さんが「ニワゼキショウ(庭石菖)」だと教えてくださった(感謝!)。どんな花にでも、ちゃんと立派な名前が付いているものだなと感心した。しかし、どうして花弁が開いたり閉じたりするのかは分からないままだ。簡単に言えば、雨や日光や気温を感じるセンサーがあんな小さな草花の中にも付いているということなんだろうが、自然の造化の精緻さというものに思い至るたび、言葉を失ってしまう。生きとし生けるもの、自らの命を守る最低限のものは天から与えられている。その点において天は平等なのであろう。
 勿論私たちにも色々なセンサーが生まれつき備わっている。五感といわれる、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚は、どれかひとつ欠けても生活に支障をきたす。第六感とよばれるものも存在すると思うが、いつでも働くものではないだろうから、そうそう当てにはできない。むしろ、五感を研ぎ澄ました中から生まれてくる特別な感覚と呼んだ方がいいように思う。勘や予感といったものも、経験から導き出されたデータを恣意的に解釈したものである場合が多い。「胸騒ぎ」というものも、かつてある1つの状況に追い込まれた時にある決まった結果が起こる可能性が多いことを経験的に知っているから、心が警告を発するのではないだろうか。
 
 しかし、私は自分のセンサーがかなり衰えてきているのを実感する。五感のうちもともと聴覚は弱いから大して苦にはならないが、視覚の衰えはいかんともしがたい。遠近両用のメガネにしてから随分楽になったが、それでも時にはメガネを外して新聞を読んでしまう。今もパソコンのモニターをメガネを外しながら見ているが、そのほうが焦点が合いやすく楽である。それだけならまだしも、最近は触覚をはじめとした皮膚感覚が弱ってきているような気がする。
 皮膚には、温点、冷点、圧点、痛点という4種類の感覚点があり、ものの刺激や温度、痛みなどを感じる、センサーのような働をしている。私は、この中で痛点の働きが特に弱まった気がする。以前にも書いたことがあるが、よく転ぶようになった。酔っ払っているときは当然でも、素面のときでもよく転ぶ。転べば当然痛い、はずだ。しかし、転んだ当座は痛みを感じないことが多くなった。恥ずかしいからかもしれないが、その瞬間はほとんど何も感じない。でも、1日後くらいにかなりの痛みを感じて、ああそういえば転んだんだった、と思い出すことが多い。嘘のようだが、本当の話だ。さらには、どこでどうしたのかさえ思い出せないが、ひざが黒く変色して痛みも感じるのに、全く覚えがない、そんな個所が今現在1つある。何でそんなことになるのだろう。
 やっぱり年とともに感覚全般が衰えているのだろうか。それが自然の摂理なのか、惰性から来る油断なのか、私には分からないが、その2つの相乗効果なのかもしれない。でも、そうした生き物として本能的に備わっている防衛本能とも言うべきセンサーが弱まっているのは由々しき事態のはずだ。一歩間違えれば命の危険さえあるはずなのに、正常に作動してくれない。困ったものだ。

 感覚が鈍くなり、外世界の刺激に反応しにくくなる、それが老いの始まりだとするなら、それを受け入れそれと折り合いをつけていくべきなのかもしれない。しかし、それに抵抗しようとする意志を持つことも必要ではないか、そんなことを思う昨今である。
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