シャンテ サラのたわ言・戯れ言・ウンチクつれづれ記

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運指が自然となるには何年かかる?

2015年07月10日 | Vn ビギナー事始め
「シンドラーのリスト」を弾くイツァーク・パールマン、指揮者はジョン・ウィリアムス (https://www.youtube.com/watch?v=ueWVV_GnRIA)。
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「兄貴もこれくらい 練習して弾いてくれよ」__といって弟が車のステレオ装置で聴かせてくれたのが、イツァーク・パールマン独奏の「シンドラーのリスト」だった。 あまりの美音で、思わずいった__「こんな綺麗な音色は10年以上弾いてないと出ないよ。 私はまだ5年だよ」

確かに “美音” そのもので、どのような音色かというと、クラシック曲なら「タイスの瞑想曲」で聴くような音だといえば、分かるだろうか? あんまり 綺麗すぎる音を続けるとクラシック曲では段々と鼻についてきて ある意味 いやらしく聴こえるものだが、ポップスなら数分、「タイスの瞑想曲」でも10分くらいだから、美音のままで聴ける。

YouTube にパールマン独奏の「シンドラーのリスト」が投稿されているので、視聴してみた。 生演奏で、楽々とパールマンが弾き終わると聴衆がスタンディング・オベーション (総立ちの拍手) をする。 米英のどこかの会場録画だろう。
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さっそく 無料のスコアをネットで探してダウンロードしてみた。 ジョン・ウィリアムスの ついこの間の作曲だから、無料も珍しい。 楽譜前半を見てもスローで優しい曲に見える。 ところが、だ。

イントロをファースト・ポジションで弾くと、弦を一音毎に変えながら弾くという 弾き難い奏法になってしまう。 映像で楽々とパールマンが弾くのは、フィフス・ポジションを駆使しているらしかった。

私はやっさもっさと へどもどしながら弾くが、プロは楽々と弾く。 当然といえば当然なのだが、プロはスコアが頭の中に入っているが、私の頭の中ではこの音は弦のこの位置、あの音は弦のあの位置、次の音は弦のあの位置 … と一音毎に運指を考え、考えして弾いている。

プロは考えなくとも、スコアを見たら自然と運指の指示が脳から左手指に伝わり、右手もそれに応じて弓を動かすのだろう。 その心境に至るまでには10年、20年と毎日 殆どの時間を練習に費やして出来上がった結果だろうと想像する。

5年やそこらで、日に2時間弱の練習しかしていなかったドシロウトにはできない芸当だ。 プロとなるには、自然な運指ができるくらい 毎日練習に励まないと、つまり スコア毎の自然な運指が頭の中にできるまで練習した結果なのだと理解できる。

更に この音符はこの音、次の音符はあの音、と音程が頭の中に浮かぶと その音を出すための運指も自然とできるのだろう。 いちいち音符と運指を考えながら弾くようではプロとして務まらない。

そうやって10年、20年と毎日練習すれば、皆プロのソリストになれるかというと、必ずしもそうでもないだろう。 昔からレコード雑誌を見ていると、新人ヴァイオリニストが有名指揮者と一緒に協奏曲のレコードを出して注目され、次は?と待っていたら、何も出ず そのまま消えてしまうケースが多いのも事実だ。

この世界も当然 競争が激しい。 また成長が止まったり、病気や事故などで断念してしまうこともあるのだろう。 病気といえば チェロのジャクリーヌ・デュ・プレ、事故ではウェルザー・メストの例がある。 また ナージャ・サレルノ=ソネンバーグは1994年 事故で小指を切って引退したが、幸いにも96年 復帰した。 もう1人 チョン・キョンファは、2005年 指の故障で演奏活動を休止していたが、11年に復活したという。

だから 何十年も第一線で活躍し続けるのは、たゆまぬ努力と、幸運の持ち主であることの証明だろう。 パールマンは足が不自由ながら、ずうっと第一線で活躍してきた。 その並み大抵ではない努力を認めるべきだろう。
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ウィキペディアから __ ジャクリーヌ・デュ・プレ、OBE (Jacqueline du Pré、1945~1987) は、英チェロ奏者。 夭折の天才チェリストとして名高い。 デュ・プレは、4歳の時にチェロの演奏を志す。 最初 母親からチェロの演奏を習い、5歳からはロンドン・チェロ・スクールで正式に音楽演奏家としての道に踏み出す。 10歳のときには既に国際的なコンクールに入賞、12歳で BBC 主催のコンサートで演奏を行っている。 次にギルドホール音楽学校に入学した。

正式なデビューは1961年にロンドンで行われ、同年にはエルガーのチェロ協奏曲を録音し、16歳にして早くもチェロ演奏家として国際的な名声を得る。 1971年 (26歳) に指先などの感覚が鈍くなってきたことに気付く。 この症状は徐々に悪化し、1973年初の演奏旅行のときには既に満足のいく演奏が行えなくなっていた。 同年秋に “多発性硬化症” と診断され、チェロ演奏家として事実上引退。 1975年にはエリザベス女王から OBE 勲章を授与されている。 多発性硬化症の進行により、1987年に42歳で死去した。

フランツ・ウェルザー=メスト (Franz Welser-Möst, 1960~) はオーストリアの指揮者。 当初の志望は指揮者ではなくヴァイオリニストだった。 ところが1978年 シューベルト没後150周年記念日にシューベルトのピアノ五重奏曲『ます』の演奏のため会場に向かう途中、交通事故に遭遇して背骨を3ヶ所も折る重傷を負い、ヴァイオリニスト志望の断念を余儀なくされた。

志望を指揮者に転向し、2002年からは米名門クリーヴランド管弦楽団の音楽監督を務めている。2010年からウィーン国立歌劇場音楽監督。 2014年 総監督との意見の対立からウィーン国立歌劇場音楽監督を突如辞任した。

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メストはもう4年でウィーン・オペラを辞任している。 あそこは “伏魔殿” だから、名だたる有名指揮者が就任しては、ハッピーではない形で辞任している事が多い。 政治、官僚も絡んでいるのかも知れない。 けれど そんなことをいわれながら、世界最高のオペラ劇場としての名声も維持しているから、不思議な劇場でもある。

以上

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