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歳を取らないと分からないことが人生には沢山あります。若い方にも知っていただきたいことを書いています。

縁側

2015-05-13 06:33:22 | 日記

京都の町屋のように空襲の被害をまったく受けず、昔のまま保存されている住まいもありますが、戦後70年の間に日本の住宅は都市でも、田舎でも、随分変わりました。

一番変わったのは空襲で丸焼けとなり、やっと掘立小屋を建てて雨露をしのいだ時代から、ウサギ小屋と外国人から揶揄された狭い簡易住宅や、エレベーターのない公団アパートに入れるのが精一杯の幸せの時代が続いた都市の住宅でしょう。

東京で云えば昭和20年(1945年)3月10日の大空襲で10万人が焼死し、下町の大部分が焼野原となりました。中心部から遠く離れた山の手の住宅街は空襲の被害を免れましたが、そこには戦前の日本の優良な住宅が残ったのです。

たとえば田園調布は渋沢栄一らによって理想的な住宅地の開発を目標に、大正12年(1923年)8月から分譲が開始されました。道路を造り街路樹を植え、広場と公園を整備し、庭を広くとって緑地の一部として、街全体を庭園のようにすることを目指したのです。

分譲開始直後の9月1日に関東大震災が起き、東京府だけでも3万軒の住宅が倒壊し、17万軒が焼失、7万人の死者・行方不明者を出しました。震災に懲りた裕福な人たちが府下の田園調布に移り住んで、新しい山の手の住宅街が形成されはじめたのです。

昭和6年(1931年)に私が生まれた渋谷は、すでに山手線の主要駅になっていましたが、まだ、渋谷村字代官山でした。東京市に編入されて渋谷区となったのは翌年のことです。

田園調布はその渋谷からでも、とんでもなく遠く離れた土地だったのです。山手線の駅をターミナルとする各私鉄は、利用客を増やすために沿線の宅地開発に力を入れ、かなり遠くの駅の周辺でも区画を整理し、広い敷地を確保した分譲地を販売しました。東京の住宅地は西へ西へと広がっていったのです。

山手線の外側のこれらの裕福な住宅は、200坪から500坪くらいの広い敷地に建てられ、道路に面した塀はモルタル塗りや大谷石造りで庭先は垣根で囲い、外壁は防火上モルタル塗りの、応接間だけを洋風にした木造の和風建築でした。表玄関は洋風のドアをもち、内玄関は昔ながらの格子戸と云う作りです。

長い縁側を持つ2階建ての住宅には、雨戸が付きものでした。雨戸の開け閉めは結構大変で子供たちの朝夕の仕事になり、お手伝いさんがいても縁側の雑巾がけは子供たちもやらされました。庭の草取りにも動員されましたから、子供たちが家の仕事に協力するのはごく自然なことだったのです。

応接間との境は洋風のドアでしたが、縁側と畳の部屋の仕切りは障子で、部屋と部屋の間は襖(ふすま)で仕切られていましたから、大勢が集まるときは襖を取り払って、続きの部屋を一間として使ったのです。畳替えと襖の張替えは本職の職人さんの仕事で、障子の張替えは家族の仕事でした。

冬は火鉢と炬燵しか暖房はなく、家中どこからともなく隙間風が入ってきましたから、夜の室温は外気とあまり変わりません。火鉢では室温はほとんど上がりませんから、温まれるのは炬燵だけです。夜になると家族みんなが家中で一つの茶の間の掘り炬燵に集まる暮らしでした。

晴れた昼間は縁側には燦々と陽が当たりましたから、冬の間に全身が芯まで温まれるのは縁側の日向ぼっこでした。日光が射すと掃除した後の部屋の空気の中に細かい塵の浮いているのが目立ちます。縁側のガラス戸を閉め切っておけばサンルームとなって室内の気温も上がるのに、大抵の家は開け放して、陽も当たるけれど外気の中の生活をしていました。

寝るのは火鉢もこたつもない部屋ですから寝具も冷たく、寝巻の下に充分下着を着こんだ上に湯たんぽが必需品でした。寝具を陽に当てた日は布団が温かく、幸せな寝床になりました。当時は家が建て込んでおらず、庭もあり樹木もありましたからヒートアイランド現象はなく、冷房はなくても夏の方が冬より過ごし易かったのです。

この立派な住宅を戦前の日本家屋の例に挙げたのには、3つの理由があります。1つめは戦前の我が国の住いは、木材を吟味し職人の技を尽くした木造建築で、諸外国に比べても遜色のないゆとりのある居住空間をもっていたのです。

2つめはこれらの焼け残った立派な住宅は、戦後、占領軍の否応なしの接収の対象になりました。3つ目は戦後の経済の興隆期に猛烈な地価の高騰があったため、長男が親の家をそのまま継ぐことはなくなり、遺産相続のたびに1軒分の広い土地が相続人の人数に応じて分割されたり、売却した後に代価を分け合ったりして、かつての広い敷地を持った高級住宅街が消滅し、隣家と軒を接する狭さの目立つ住宅地に変容したことです。

2つ目の話に戻りますが、敗戦後各都市では占領軍の行政とその家族の住居のために、焼け残ったビル、商業施設、学校、病院、公園、住宅、土地などが強制的に接収されました。東京では皇居前の第一生命ビルにGHQの総司令部が置かれましたが、半分焼け残った帝国ホテルなどのコンクリートの建物や、これはと思われる個人の住宅が接収されたのです。

帝国陸軍の代々木練兵場が接収されて、日本政府の負担でワシントンハイツと云う米軍住宅地が建設され、練馬にもグラントハイツと云うアメリカ人専用の大規模なニュータウンが建設されました。そこには小学校をはじめPXと呼ばれるスーパーマーケットや映画館、ガソリンスタンド、ボーリング場などアメリカ文化が直輸入されたのです。

米軍住宅は敷地を充分にとり、日本の建設業者や大工が、従来、慣れ親しんだ尺間法でアメリカ仕様の2x4住宅を建て、これが図らずも我が国初の2x4工法の住宅になりました。

ワシントンハイツは1946年昭和21年)に建設され、1961年(昭和36年)に、3年後の東京オリンピックの選手村・競技場用地にするために全面返還が決まりました。日本政府は移転費用の全額を負担して、調布飛行場に代替施設を建設しました。

ワシントンハイツは1964年(昭和39年)8月12日に返還が完了し、代々木選手村として使用された後、現在は代々木公園国立代々木競技場国立オリンピック記念青少年総合センターNHK放送センターなどになっています。

米軍家族のために接収対象になった個人の家は、有無を云わせず立ち退かされました。丹精込めた日本庭園が芝生やプールに造り替えられたり、返還されてみたら床の間にペンキが塗られていた例もあったと云います。桂離宮にまでペンキを塗る改築命令が出されたそうですから、当時の強引なやり口が目に見えるようです。

日本の住まいは明治を迎えて封建的な身分制度の規制がなくなり、資力に応じて住宅が造られてきました。西欧化の波が住宅にも訪れましたが、明治時代に実際に洋館を建てたのは政治家、実業家などに限られ、その場合でも普段の生活は併設された和風住宅であったりしました。

西洋建築に刺激を受けた和風建築の大工の技量も上がり、建築の質は向上していきます。明治後期から昭和初期の富裕層により建てられた住宅は、当時の日本の良質の木材をふんだんに使い職人の高い技術に支えられて、最も優れた品質を持っています。大正以降はサラリーマン、知識人ら都市の中流層が洋風の生活に憧れ、一部を和洋折衷にした住宅が都市郊外に多く造られるようになりました。

第二次世界大戦の空襲で多くの住宅が焼失した都市部では、敗戦後の1947年に政府主導で「バラック住宅」の建設が始まります。1950年にはこの「バラック住宅」の居住性や耐久性を高めるために住宅金融公庫を発足させ、「木造住宅建設基準」を設定して戦災復興住宅の建設に力を注ぎました。

金融公庫は住宅建設費や土地購入費を融資し住宅建設を軌道に乗せましたが、当時の住宅レベルは住むには極めて不充分なものでした。平均的な間取りは6畳と4畳半に台所と便所で、この中で食事、就寝、接客と棲み分けをし、風呂は銭湯を利用しました。

戦前は農家でも町屋でも、生業と結びついた職住一致の住宅が多かったのですが、戦後はサラリーマンの増加で職住分離の住宅が主流になります。狭い住宅では玄関が入口になり、縁側がなくなり、床の間がなくなりました。

高度経済成長期に入ると、住宅需要はますます盛んとなります。木材資源の逼迫する中で住宅を大量に供給するため、外壁のモルタル塗りや室内の合板の利用が激増しました。高級木材と高い技量に支えられてきた伝統工法は、筋交いやボルト・ナットを用い、使用する木材量の少ない木造軸組工法に取って代わられました。

1970年代からはプレハブ住宅が普及し、住宅の工業製品化が進みます。鉄骨構造鉄筋コンクリートの住宅が増え、窓枠もサッシの時代になって雨戸がなくなります。木造軸組工法の住宅にもプレカット材が使われるなど、伝統的な工法からは大きく隔たったものになります。ユニットバスなどは工業製品化のうちのヒット作品でしょう。

日本の生活習慣が欧米形に変化した結果、和室を造らない場合も多くなり、和風建築には欠かせなかった漆喰和紙などの建材は使われなくなりました。サイディングアルミサッシコンクリートブロック、石膏ボードなど1960年代以前にはなかった建築材料が多く用いられるようになりました。

住宅の質の均一化や高気密化が進み、エアコンが普及して冬も暖かく夏も涼しく過ごせる住宅に代わりました。一頃シックハウス症候群などの、建築材料の健康上の問題も生じましたが解決されています。かつては余程粗末な住宅でなければ、床の間のない家はなかったのですが、現在都会では和室はあっても床の間は形だけのものしか造られなくなりました。

一方、アメリカ式の個人主義の影響か、家族が各自の閉鎖的な個室を求めるようになりました。ウサギ小屋から比べれば大分広くはなりましたが、地価の高騰で建築面積のゆとりを取ることは難しく、狭苦しい小部屋を数だけ増やして、部屋数を誇示するようになったのです。 

殆どの家が入口から直接各自の個室に入れて、昔のように家中のみんなが1つの炬燵に集まるようなことはなくなりました。最近は居住面積も増えリビングダイニングを大きくとる傾向になってきて、広めの空間ができてきたのは好いことだと思います。 

急激な地価の高騰が続いてどんな土地でも購入しさえすれば、値上がりで資産家になれた時代は、すでに、過去のものです。土地付きではあっても、隣家と軒を接する庭のない戸建住宅に住む意味は希薄になりました。建て込んだ土地の木造住宅は、大地震に対する備えも不十分です。 

居住性の向上のためにも、震災への備えのためにも、今後は、3,4百軒分の土地をまとめて10数軒分の土地に40階、50階建の高層マンションを建て、残りの周囲の土地を全部緑地にすれば、今よりも災害に強い広い住宅に住め、眺望にも満足できて、公園並の緑地の樹木や草花に囲まれた生活ができると思うのですが、いかがでしょう。

 

 

 


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