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スギ花粉

2017-02-08 06:31:45 | 日記

スギ花粉症は日本で最も多い花粉症で、2,500万人が患っています。日本のスギ花粉は2月から4月に飛散するため、患者はこの時期に急増します。スギ花粉症患者が多いのは日本などアジアの一部で、世界的にはヨーロッパイネ科花粉症、アメリカブタクサ花粉症が代表です。

近世まで日本には花粉症が存在しなかったと考えられていて、1961年荒木英斉が進駐軍の持ち込んだブタクサによる花粉症を発見したのが、日本における花粉症報告の端緒とされています。

1963年ころから目や鼻にアレルギー症状を示す患者が増加し、1964年齋藤洋三が「栃木県日光地方におけるスギ花粉症の発見」という論文を発表し、これがスギ花粉症の最初の公式発表です。日本でスギ花粉症が急増した原因は、大規模スギ植林が挙げられます。

第二次世界大戦後の復興や都市開発などで木材需要が急速に高まり、国内木材の供給量が不足し、林業の拡大と造林は当時の急務でした。農水省は成長率が大きく建材としての価値が高いスギやヒノキの植林や、代替植樹を大規模に行いました。

このことがスギ花粉の飛散量の爆発的増加をもたらし、スギ花粉症発症につながりました。都市化が進んで地面がアスファルトコンクリートで覆われ、花粉が吸着分解されにくく、地面に落ちた花粉が何度も舞い上がって飛散する状態がおきました。

スギ花粉の大きさは30~40㎛で、その飛距離は数十km以上、ときには300kmも飛びます。平均温度が10℃くらいになると飛散を開始し、2月下旬から3月にかけて飛散量が多く、スギの造林が部分的だと山火事を思わせますが、山全体が杉林だと霧がかかった状態になります。

花粉症の4大症状はご存知の通り、くしゃみ鼻水鼻詰まり・目のかゆみで、重症化すると喘息や頭痛・発熱がおきますが、スギ花粉ではアナフィラキシーショックは非常に少ないとされます。スギ花粉症患者の7割はヒノキの花粉症も併発していて、ヒノキ花粉の飛散は5月まで続きます。

数多くの治療が試みられていますが、アレルギー症状であるスギ花粉症には現時点では根治療法がなく、対症療法が行われています。花粉との接触を防ぐためゴーグルマスクを着けたり、空気清浄機で空気中の花粉を除去することなどが行われています。

薬物治療としては抗アレルギー薬やステロイド、Th2活性阻害薬などが服用され、点鼻薬や点眼薬も用いられます。長期間の投与となるためステロイド配合剤の服用などは、ステロイドの副作用を考慮する必要があり、重症時以外の長期投与には向きません。

対症療法のほかには免疫療法があり、日本ではスギ花粉症に対して有効率は80%と報告されています。皮下注射による減感作療法に加え、舌下減感作療法が行われていますが、舌下減感作療法に用いる舌下液はスギ花粉症に対応するシダトレンのみです。減感作療法は効果の持続が期待できますが即効型ではなく、数年の期間で治療を考える必要があります。

組織的なスギ花粉の調査は、1965年に今の国立病院機構相模原病院が開始したのが最初です。相模原病院の分析結果ではスギ花粉症が社会問題化したころの1982年の飛散量は、1965年の4倍に達していました。現在の花粉量は1965年当時の2~3倍です。

日本気象協会がスギ花粉情報を開始したのは1987年3月9日で、東京都衛生局の予測をもとに、東京都心と多摩地域向けに毎日の飛散予報をしたのが始まりです。現在では新聞・テレビ・インターネットで、地域ごとの毎日の飛散予測が出されています。

スギやヒノキの大規模や植林を開始した時点では花粉症の発症を予期しておらず、行政の対応が遅れました。1990年度に「スギ花粉症に関する関係省庁担当者連絡会議」が設置され、1994年度より科学技術庁によって「スギ花粉症克服に向けた総合研究」が実施されました。2005年度からは基礎研究よりさらに踏み込んだ具体的な取り組みがなされるようになっています。

1995年に自民党内の「花粉症等アレルギー症対策議員連盟」が本格的な対策の推進を働きかけるようになったのが大きく影響し、2002年度のアレルギー関連予算は7年前の27倍に達する73億7200万円になっています。

しかし行政の花粉症対策は基礎研究や治療法の開発、花粉飛散の予報技術の向上が主で、花粉発生源であるスギ・ヒノキの人工林への根本的な対策は進んでいません。一方、輸入木材の普及で我が国の林業は廃れ、林業従事者の減少から植え替えや伐採も難しくなっています。

近年は花粉の少ない品種が開発されていて、一般のスギに比べて花粉量が1%以下の少花粉品種は130種類以上、無花粉のものは2種類が開発されています。林野庁は2017年度には少花粉品種などの植え替えを1,000万本に増やすことを目標にしていて、現在10%強にとどまっている割合を3分の2ほどに拡大すると云います。日本全体のスギ林は453万ヘクタールもあるため、これらのスギ林をすべて少花粉品種に移行するのは非常に難しい問題です。

都道府県別のスギ花粉症の有症率は1位が山梨県の26.9%、長野、高知、静岡と続き、5位が三重県の24.8%です。46位が北海道の2.9%、47位は沖縄県で0.6%です。2005年に北海道十勝支庁管内の上士幌町が避花粉地として名乗りをあげ、2006年には鹿児島県奄美群島も療養や保養目的の花粉症患者の誘致を始めています。

 スギは青森県の鰺ヶ沢を北限とし、不連続的に鹿児島県屋久島の南限地まで分布しています。北緯40度42分から30度15分の暖温帯から冷温帯に及びます。垂直分布では、和歌山県新宮市浮島の森の標高Omから、最高は富山県立山剣岳地方の標高2,050mです。

天然スギの産地は、青森、秋田地方、北陸、山陰地方等のいわゆる日本海側の各地と、伊豆半島、紀伊半島、四国の東南部及び屋久島等のいわゆる太平洋側の各地で、これらの地域は年間降水量が1,500㎜以上の地域です。また分布の中心域は、最寒月の平均気温が—2.0~4.0℃、最暖月の平均気温が20.0~25.0℃で、年間の平均気温が10.0~14.0℃で冷温帯の南部にあります。

 宮崎県日南市にある飲肥杉は、初代飲肥藩主伊東祐兵が17世紀初めに窮乏する財政を立て直すために植林したのが始まりとされ、約400年の歴史があります。九州地方ではおそらく天然スギはすべて伐採されて消滅したものと考えられていますが、宮崎県東臼杵郡北方町の渡瀬国有林内には鬼の目山材木遺伝資源保存林があり、1985年の宮崎大学の調査により林内に生育するスギは天然性であると報告されています。  

塚田松雄は花粉分析の結果から九州のスギは氷河期に姿を消し、1,500年前以降に、九州各地でほとんど同時に見られるようになったと述べています。この理由として、「人間の意図的な植林なしには考えられない。本州からもたらされたものであろう。」としていますが、屋久島から来た可能性が挙げられます。

江戸時代の三大農学者の一人大蔵永常の「広益 国産考」(1859)に、 「今から百五、六十年前に屋久島から採集した杉の種を吉野郡に播いて、苗を仕立てた」と書かれているので、現在九州各地に見られるほとんどの杉林は400年前から各藩で植林されたもののようです。

20年5月400年前に植林された奈良県吉野郡川上村下多古に生育している吉野杉の調査では、「歴史の証人」とよばれる地域に生育する最大のスギの樹の樹高は51.1m、幹周は5.42m、樹齢380年でした。     

屋久杉は屋久島の標高500mを超える山地に自生するスギで、狭義には樹齢1,000年以上のものを指します。杉の樹齢は通常長くても500年程度ですが屋久杉は桁外れに長く、栄養の少ない花崗岩の島に生える屋久杉は成長が遅く木目が詰っていて、降雨が多く湿度が高いため樹脂分が多く腐りにくい特徴を持つので寿命が長いと云われ、樹齢2,000年以上の大木が数多く見られます。

1560年頃大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の改築にあたって、屋久島からスギ・ヒノキ材が運ばれたことが同神宮の石碑に記されていて、これが記録に残る初の屋久杉の伐採利用です。1587年の豊臣秀吉の九州制圧後、石田三成島津義久に命じて屋久島の木材資源量の調査を行っており、1590年頃に小豆島の大型船11隻が京都方広寺大仏殿造営のための屋久杉材を大阪へ運んだとされます。

江戸時代に入り、屋久島出身で薩摩藩に仕えていた日蓮宗の僧で儒学者泊如竹が、屋久島の島民の貧困を目にして屋久杉の伐採を島津家に献策したとされ、1640年頃から山岳部奥地の本格的な伐採が始まりました。

屋久杉は船材・建築材など様々な形で製品化されましたが、多くは平木と呼ばれる屋根材に加工され薩摩藩に販売が独占されました。島民は薩摩藩に年貢として平木を納め、またそれ以外の産物も平木に換算して石高が計算され、いわば「平木本位制」とも云うべき経済統制が行われました。年貢の割り当て分以外の屋久杉は、米その他の品物と交換される形で薩摩藩に買い上げられ島民の収益となりました。

明治時代1873年地租改正で島の90%以上が国有地とされ、島民による伐採が制限されました。屋久島側は国有林の払い戻しを求めて裁判を起こしますが敗訴し、島の経済的困窮が問題となって1921年に山林局鹿児島大林区署によって「屋久島国有林経営の大綱」が発令されました。

2001年各種の保護区以外の国有林では伐採可能な林を切り尽くし、天然屋久杉伐採は終了しました。現在土産物などの加工に使われている屋久杉は土埋木と呼ばれるもので、伐採の跡の切り株や台風などで倒れた倒木です。

日光杉並木は、旧日光神領内にあたる大沢-日光間16.52km、小倉-今市間13.17km、大桑-今市間5.72kmの3区間の両側にスギが植栽された並木道の総称です。総延長は35.41kmで世界最長の並木道としてギネスブックに登録されています。

日光杉並木は松平正綱が1625年(寛永2年)から1648年(慶安元年)まで20年以上の歳月をかけて、紀州から取り寄せた杉の苗木を植樹したものです。すでに390年が経過していますが、現在でも12,500本のスギが生い茂り、高さ30-40mほどに成長しています。日本で唯一、国の特別史跡および特別天然記念物の二重指定を受けています。1999年(平成11年)12月には二荒山神社日光東照宮などとともに世界遺産の登録を受けました。

いまや国民病とも云われる花粉症、中でもその8割を占めるのはスギ花粉症ですが、スギは樹齢20~30年で開花し始め、以後、花粉を飛ばし続けます。1950年代中頃から1970年代にかけて「拡大造林」で植えられたスギがすべて樹齢30年を超え、スギ花粉の飛散は2030年までは増加して2050年までピークを維持し、その後徐々に減少していくと予想されています。

戦時中に過剰に伐採された山地に、終戦直後洪水予防のためのスギの植林が行われましたが、1950年代後半からは急速に高まった木材需要に応えるため、広葉樹に比べ成長が4倍も速いスギなどの針葉樹への転換、いわゆる「拡大造林」が国策となりました。

木材価格の高騰に加えて、1957年には拡大造林への補助を再造林の2倍にしたため、山林所有者はこぞって広葉樹を伐採しスギに植え替えました。それまで年間5万ha前後だったスギの造林面積は、50年代後半から60年代後半にかけて3倍に拡大し、山全体がスギ林という風景が普通になりました。

その一方で1964年に輸入木材の完全自由化に踏み切り、安価で大量に供給される外材の需要が急拡大した結果、我が国の林業は停滞しました。日本全体のスギ林は現在453万haもあり、林業従事者の減少で植え替えや伐採も難しい現在、人手だけを頼りにこれらのスギ林をすべて少花粉品種に移行するのは不可能でしょう。

いまだに林業へは導入されていませんが、林業の人手不足を補う唯一の解決策は産業用ロボットの大幅活用かもしれません。行政が予期せずにこしらえたスギ花粉症は公害病とも捉えることができ、この解決には行政が率先して当たるべきでしょう。51兆とも云われる外国への融資の前に、花粉の飛散の元を断つことを目指して、日本第一、で行くべきです。

 

 


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