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戦後の教育制度改革

2017-02-22 06:18:29 | 日記

1945年わが国は連合国軍の占領下におかれ、1952年平和条約が成立するまでの間、国政はすべて占領行政として行なわれていました。戦後の教育改革も占領政策の一部でした。1945年10月から12月にかけてGHQは戦時中の教育の処理方針を示し、速やかにこれを実施することを命じました。

1946年1月にGHQは、日本に教育使節団を派遣することを米本国に要請しました。使節団は3月に到着して教育改革の基本方策をまとめ、報告書をGHQに提出し、マッカーサーはこの報告書に示された教育理念と改革の具体的な方策によって、戦後日本の教育改革を進めることを決定しました。

GHQは米国教育使節団派遣に際して、使節団に協力する日本側教育家委員会をつくることを命じ、文部省はこの委員会には直接関与せず、ここで決定した方針を受けて改革の実務に当たることになりました。文部省は1952年に占領が終わるまで、GHQの助言・指導なしには教育関係法案は勿論、実施の方法も決定することはできなかったのです。

 

戦後の教育改革の基本となったのは日本国憲法です。これによって戦後教育改革の基礎が定められることになり、戦前の教育勅語は廃止されました。政府は教育基本法を成立させて教育の目標を定め、この教育基本法のもとに「学校教育法」、「社会教育法」、「教育委員会法」など戦後教育の基本規定が定まりました。 

戦後の教育改革のうち実施と成果に最も期待が寄せられたのは、六・三・三・四制による学制の改革でした。この六・三制は米国教育使節団報告書の中で望ましい学校体系として勧告されたものですが、小学校から大学に及ぶ全学校体系の改革は明治5年の学制頒布以来の大きな改革となりました。

戦時下に国民学校とした初等教育機関を小学校に戻し、明治5年以来高等科を含めて八年であった小学校を尋常科のみの六年とし、高等科二年を切り離して中等教育を施す中学校に編入したのは初等教育の大きな改革でした。

従来小学校高等科への進学者は少数で、通常、尋常科修了で中等学校に進学していたため、初等教育を六年制とすることに混乱はありませんでした。一方、中等学校は初等教育の一部であった国民学校高等科と定時制の青年学校を新制中学校に改編したため、新学制のなかでも最も大きな改革となりました。

旧制の五年制の中等学校には中学校、高等女学校、実業学校の三つの種別がありましたが、単一の三年制高等学校に改められました。初めの三年を中学校とし、それに続く二年に一年を加えて三年の高等学校としたので、後期中等教育の地位を高めることになりました。

新制高等学校はその多くが旧制中等学校の校舎をそのまま使用し、中学校の新たな設置のような新制度への切り替えによる困難な問題はなく、高等学校は学区制、男女共学制、総合制の原則を立てて統廃合を行ないました。

高等学校を希望するものをなるべく多く入学させる方針をとったため、さまざまな要求をもった生徒が入学することになります。公立高等学校には普通課程、職業課程を設ける制度とし、これらの課程を併せてもつ高等学校を奨励しました。

高等学校には定時制、通信制も併置して、全日制に入学できない者のために後期中等教育の機会を与えました。新制高等学校は年を追って学校数と生徒数が増加し、1952年には学校数4,506校、生徒数234万人となり、高等学校は教育における機会均等の原則を実現する大きな役割を果したのです。

高等教育機関も大きな改革を行ないました。旧制の高等教育機関としては大学・大学予科・高等学校・専門学校と教員養成の目的で設けられていた高等師範学校・女子高等師範学校がありました。終戦前には師範学校・女子師範学校の本科も、中学校・高等女学校の卒業生が入学する国民学校教員養成の専門学校になっていました。

これらの多様な高等教育機関を、単一の四年制大学に改編したのです。旧制大学は三年制でしたが、大学予科と旧制高等学校が高等教育機関の前期に当たっていたので、旧制大学は実質的に五年か六年の課程をもつ高等教育機関でした。この旧制大学が四年制の新制大学となり、高等教育の学校体系としては一段格下げで、高専から改編された新制大学と同格になりました。

旧制総合大学は新制の大学院をもつことで、高専が昇格した四年制大学とは異なる性格をもちましたが、四年制大学としては他の大学とは変わることのない新制大学になったのです。

旧制の高等学校・専門学校は新制大学に昇格しましたが、四年より短い年限で高等教育を受けたい要望もあり、1949年二年制または三年制の短期大学の設置も認めることになりました。

この結果、新制の高等教育機関は四年制大学を主体とし、二年制・三年制の短期大学が加わり、四年制大学の上にさらに大学院が設けられる制度となって改編が完了しました。なお大学の通信制・夜間制も認め、高等教育を受ける機会を増やす方策をとりました。

このように戦後の教育改革では、旧制度下の高等教育機関の間にあった格差を取り除いて、一様に四年制の大学としました。旧師範学校などは教員養成を主とする学芸大学、または学芸学部か教育学部に改編されましたが、教職員となるには教育職員免許法によって、教員免許を取得する制度になりました。

この学制改革によって職業教育をしていた実業学校が職業高等学校に転換した例は少なく、教育刷新審議会は1949年6月に中学校と高等学校の職業教育について改善を要望し、1951年6月「産業教育振興法」が制定され、中学校・高等学校での職業教育の性格と意義が明確にされました。

教育の機会均等の原則によって、盲学校・聾学校・養護学校を学校教育法の中で明らかにし、これを義務制とすることが定められました。また一般の小学校・中学校・高等学校に特殊学級を設け、通常の学級で学習することが困難な生徒を取り扱う方針も決定しました。これは特殊教育にとっては大きな改革です。

1949年6月にはわが国はじめての「社会教育法」が制定され、この中で公民館、学校施設の利用、通信教育などを規定しましたが、図書館は1950年に「図書館法」、博物館は1951年に「博物館法」が特別立法され、それぞれが活動を展開しました。戦後全国各地域にわたって社会教育の中心施設となったのは公民館でした。

このように学校や社会教育の制度は新しくなりましたが、これらの制度によってどのような教育をするかは、さらに重要な問題でした。その中で注目されたのは1945年12月の修身・地理・歴史の授業を停止し、戦時中使用されていた教科書をすべて回収する指令です。

新学制とともに教科書は、民間で編集し文部省が検定する制度に移行する方法がとられました。学校教育法では教育は学習指導要領によることと定められ、新学制による学校教育の出発には必須なものとなりました。特に新しい科目の社会科や家庭科や自由研究などは、指導の基準となるものがなくては授業を始めることができませんでした。

新学制による児童の学習を指導する方法として従来の系統学習を改め、児童・生徒の学習活動を尊重する必要があることを明らかにしました。児童・生徒の自律的活動を進めるための討議法が新しい方法の一つとして奨励され、討議を通しての活動に期待しました。

また児童・生徒が生活の中の問題を捉えて、地域でさまざまな問題解決学習を展開することが奨められました。学習活動は教科書・教材を学ぶばかりでなく、経験をもととした学習を展開する方法として単元学習が提唱されたので、教材を単元に編成する方法が注目されました。

教育の効果は、戦前は学科試験で絶対評価で評定されていましたが、戦後児童・生徒の学習活動が多様な形をとり、個人の能力による教育効果の差も著しくなったので、これを客観的に評価する方法が問題となりました。成績の記録について指導要録をつくる方針を指示し、学習の評価を客観的に行うために小・中学校の指導要録では相対評価が用いられ、当初は正規分布を前提にして五段落の評定を機械的に割り当てたのも戦後の新しい方式でした。

1949年に学校保健計画の実施要項を定め、小学校では新しい健康教育を全般の教育活動の中で考慮することとし、中等学校では体育科を保健体育科に改め、健康教育を教育内容の一分野としました。

1946年12月学校給食を普及奨励する方策を通達し、食糧不足に対処して発育の助長と健康保持のために、都市の小学校児童に対して学校給食を行なうことになりました。1952年には学校給食実施方針を定めて、都市と町村とを問わずに学校給食を行なうようにし、これを学習指導の一部としました。

文部省は1947年に教育委員会による教育行政の方策をまとめ、「教育委員会法」が成立したのは1948年6月です。同年10月5日に教育委員の第一回選挙が行なわれ、都道府県と五大都市で教育委員会が発足し、さらに1952年11月1日には全国の市町村に教育委員会が設けられました。

戦後の教育改革のうち最も多くの人々の注目を集め、その実施と成果に期待がかけられたのは六・三・三・四制による学校体系の改革でした。この六・三制は教育使節団報告書の中にも望ましい学校体系として勧告されましたが、草案では従来の六・五制が勧告されていました。

六・五制の学校制度で義務教育を九ヶ年とした場合、中等教育の五年を三年と二年に分割することになる欠陥がありました。また旧制度では小学校は高等科を含む八年制でしたから、六年の初等教育及び九ヵ年の義務教育の問題を併せて解消するには、六・三・三制の新しい学校制度を打ち出す以外になかったのです。

第三委員会の「報告書」が提出されたのが1946年3月23日で、最終「報告書」の完成が3月30日ですから、使節団はこの一週間で六・五制から六・三・三制に変更したことになります。実はこの六日間が南原・ストッダードの秘密会談の結果、報告書の内容が六・五制から六・三・三制に変更されていく、日本側が要望を貫いた重要な過程でした。

戦後の日本の学校制度は教育使節団報告書の勧告に基づくものでしたが、勧告にいたる経緯の中で日本側教育家委員会、特に南原委員長の演じた役割が非常に重要だったのです。米国教育使節団報告書は3月31日マッカーサーに提出され、その内容は「学校教育法」(昭和22年法律第二十六号)により制度化されました。

GHQは六・三制こそ軍国主義、超国家主義の日本の教育を民主的な新教育に切り替える決め手で、これなくして日本の民主化はあり得ないと早期実施に圧力をかけました。占領軍の強い要請により1947年から六・三制は急遽スタートしたのです。

戦災による教育施設の損傷、校舎の不足は深刻で、多くは小学校と中学校の同居でした。廊下や昇降口、間切りした屋内体操場を使い、雨が降れば傘をさして授業をするありさまでしたが、とにかくスタートしました。

日本は戦後の教育改革に当たり、米国教育使節団の勧告を一方的に受け入れたと考えている人が多いのですが、実は、日本の民主化や新日本の建設は新教育制度でと、日本側の強固な意思を盛り込んだのです。占領下の困難な情勢の下でしたが、六・三制の学制改革はその構想も、その実施も、まさしく、日本側の主体的所産だったのです。

4年制大学への進学率は、1954年(昭和29年)の18歳人口1,713,361人に対する男子の13.3%、女子の2.4%から、2009年(平成21年)には18歳人口1,211,242人に対し男子の55.9 %、女子の44.2%と、男子女子合計の進学率が50.2%となり18歳人口の半数を初めて超えました。

戦後の教育制度改革で目標とされた高等教育の機会の拡大と、性別、信条にかかわらず平等に教育を受けさせる民主主義の原則は確かに達成されました。実社会での男性優位は、これまでの社会慣習から、まだ、依然として強固ですが、男女間の教育の機会均等が果たされたからには、いずれは実社会での男女の機会均等も果たされる日が期待できるでしょう。


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