MrKのぼやき

煩悩を解脱した前期高齢者男のぼやき

スピリチュアリティ再考

2008-06-15 12:24:55 | 健康・病気

6月8日に起きた秋葉原連続無差別殺傷事件、

この一週間、マスコミはその要因を色々と取り上げていた。

お決まりのようにネット社会の弊害やナイフ規制の甘さが指摘され、

派遣社員の悲哀、格差社会が生んだ悲劇などと報道されている。

再発防止のためには動機の解明が重要ではあるが、

若者によるこうした残忍な事件が発生するたびに心に浮かぶのは

果たして彼らに対して、道徳教育がきちんとなされてきたのだろうか

という疑問だ。

現在の日本は、一部の信仰者を除き、

ほぼ無宗教の社会であると言える。

宗教から人の道を学ぶ機会は殆どの人が持ち合わせていない。

当然、各々が自己を知る機会も殆どない。

それならば、宗教に代わるなんらかの精神的つながりが必要となって

くるのではないだろうか(それがネットではないことは確かだ)。

国民に精神的つながりが失われた今の日本は脆弱な秩序で

かろうじて成り立っているだけで

ちょっとしたことでキレるような人間が

いつ何時、何をしでかすかわからない社会だと思う。

今のままの教育では、日本の道徳秩序をこの先、保ち続けることは

困難となってくるのではないかと危惧する。

道徳教育の柱がない現代の学校現場において、

精神性の根底に触れる教育をもっと積極的に行うべきではないかと、

ふと思ってしまうのだ。

閑話休題

医療の現場においても精神性(スピリチュアリティ)が

ポジティブに働くのではないかとの考え方がある。

Washington Post 紙の記事だ。

記事はテネシー州メンフィスの感染症専門の

Manoj Jain 医師による。

6月10日付 Washington Post 紙

『医師は疑い深いかも(Doctors Can Be Doubters)』

神経外科医である知人は

脳腫瘍や椎間板ヘルニアの手術をする前に、

しばしば患者と一緒に祈りを捧げるという。

術前の待機室で患者の許しを得てストレッチャーの

脇に立ち、患者の手を握り祈りの言葉を唱える。

入院患者の40~60%が主治医に一緒に祈ってほしいと思っている

という調査があるが、

実際に患者と共に祈るという医師は5%に満たない。

しかし患者と共に祈りを捧げることに気乗りがしない医師たちは、

祈りや瞑想(meditation)などの

スピリチュアル(霊的、精神的)な行為が

我々の健康に良いかも知れないというエビデンスの蓄積に

直面している。

瞑想訓練講座に参加した勤労者は、瞑想しない者に比べ、

インフルエンザワクチンに対してより強力な免疫反応を示したと

2003年に報告された。

また教会への出席、祈祷および聖書学習の高いほど

平均拡張期血圧が低かったという、

一種の用量反応曲線を示した報告さえある。

これはあたかも宗教的な活動が降圧薬のように治療的に

作用したかのようである。

これまでのところ宗教/スピリチュアリティ(霊性、精神性)と

健康改善との間に因果関係があるとの明確な証明はないが

スピリチュアルな行為は延命の助けになりうると

確信している研究者がいる。

医学や社会において、宗教/スピリチュアリティと健康との関連に

関心が増してきている。

しかし、宗教/スピリチュアリティと医学の合体には

懐疑的な研究者が多い。

(あるいはたぶん『再合体』というべきだろう、

なぜなら宗教/スピリチュアリティはいにしえより医学の一部

だったからだ。

『神聖』や『癒し』は共に『全体』を意味する語源に由来する。)

2007年、Healthcare Research and Quality は

瞑想に関する 813 の研究を評価する調査チームを結成した。

そのグループはいくつかの研究からエビデンスを報告したが

残りの研究の大部分は研究デザインに欠陥があり

結論を見極めるのが不可能であった。

2006年、American Heart Journal に掲載された

『取りなしの祈り』の治療効果についての大規模研究の報告では、

祈ってもらうことは転帰を改善させなかった。

そして、患者が、自らが祈りの対象となっていることを知った場合には

ネガティヴな効果さえあるようだった。

たとえ祈りが転帰を改善させることが示されたとしても、

宗教的な違いがあることを考慮すると、

医師がそれを日常の治療の一部に取り入れることは非現実的だ。

医師がユダヤ教徒やイスラム教徒やヒンズー教徒の患者に

『Shalom』、『Allah』、『Om』の言葉を用いても

その祈りは心からのものとは言えないだろう。

単に患者-医師の関係を改善させるためでなく

患者の治癒の助けとなると思って祈りを用いるのであれば、

医師がキリスト教徒の患者にはキリスト教の祈りを捧げるが、

他宗教の患者にそれぞれの祈りを捧げないのは

不公平であり、差別である。

これまでのところ、

祈りや瞑想の利益、不利益に関しての研究結果が曖昧であることから

私は自分の気持ちに拠り所を求めることにしている。

私自身は、ためらうことなく、祈りや瞑想の行為は、

薬物、手術、患者-医師関係以上に利益をもたらすものと信じている。

実際にそのことを経験してきているし

幾度か患者とともに瞑想してきた。

かつて、若いHIV陽性の女性が

重症肺炎からの回復後も息切れを訴えた。

医学的にはなんら治療の対象とならず、

彼女の不安以外に明らかな原因はなかった。

多少のためらいはあったが、私は彼女と瞑想をするよう申し出た。

彼女は同意し、その結果快方に向かった。

運動療法や栄養食を推薦するのと同じように、

どうしたら通常の治療に精神的行為を取り入れることが

できるだろうかと思う。

可能であるとは思うが、その実践には2つの重要なコンセプトを

理解することが必要だと思う。

第1に、

我々は宗教(社会的境界、儀式、会員資格を持つ組織的団体)と

スピリチュアリティ(我々の中にある神聖な感覚と、

より強い力との関係)とを区別する必要がある。

スピリチュアリティは宗教に根付いているかもしれなし

そうでないかもしれない。

しかし、すべての宗教の核はスピリチュアリティである。

患者のスピリチュアリティの中心に関わることができれば、

異なる宗教の患者への『適切な』祈りや

『正しい』言葉を見つけるのに悩む必要はない。

自分の患者と重要な局面で(一般的な祈りを用いて)祈ったり

瞑想したりすることはできると思う。

時に、これが気の進むものではなく、

あるいは十分な時間がなかったとしても

単純に患者の生命の精神的な部分を鼓舞できるだろう。

これなら私の末期心不全患者とともにできることだ。

私は聖書に触れて言った。

「多くの患者さんはこれが大いなる救いになると思っています。

あなたがこれを利用していることは喜ばしいことです。」

「ドクター、私はそれがなければ切り抜けてこれなかったんです。」

彼は希望と楽観の口調で答えた。

第2に、

我々医師達はこれまでの医学の伝統的な

肉体-精神の対象を越える必要がある。

患者の大部分は、

魂と精神を持つものとして自分自身を理解している。

そして、もし私が、医師として、また科学者として、

心身一体的な見方で彼らを治療しようと望むなら、

この考え方を考慮に入れておく必要がある。

私は最近、朝の回診でこのことを思い出した。

私は部屋に入ってゆき、「Jonesさん、おはよう。」

患者は角の椅子に座り、首をうなだれ、唇を黙ったまま動かしていた。

私は彼の祈りを妨げてしまったことに気づいた。

私は彼に加わって、こうべを垂れた。

彼は続けた。

「主よ、私の回復を助け、苦痛を和らげていただき感謝します。

そして、主よ、今主治医が来たので、

今朝は祈りを短く切り上げなければなりません。」

私達は声をそろえて言った、「アーメン」。

(以上記事要約)

日本ではなかなか受け入れがたい状況だ。

日本で、外科医が手術の直前に患者とともに

『神様、手術が成功しますように』と祈ったとしたら、

患者は不安にかられて手術室から飛び出すかもしれない(笑)。

あるいは、『この先のあなたの病状は神のみぞ知るです。』

などと言ったら、

即刻、別の病院に代わりたいと言い出すだろう(苦笑)。

しかし実際、

外科医というものは、たとえ手術に絶対的自信を持っていたとしても

術前には、

手術の成功を神に(仏に)祈りたい気持ちを持っているものだ。

もし、そんな気持ちを上記の記事のように、スピリチュアルなところで

患者と共有できたら、それはすばらしいことだと思う。

一層良い結果が期待できるし、

医療事故や医療訴訟も減る可能性がある。

宗教はなくても、さらに根っこのところでつながっている社会。

そんな社会の実現は、見果てぬ夢、なのだろうか。

コメント (2)
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