MrKのぼやき

煩悩を解脱した前期高齢者男のぼやき

“ディープ・スロート”

2013-12-23 18:09:15 | アート・文化

『ディープ・スロート』というと、
卑猥なセックス用語としか考えない方がほとんどだろうが、
もともとは1972年にアメリカで公開された
ハード・コア・ポルノ映画のタイトルで、
本作品は大ヒットを納めた。
そしてその後のポルノ・カルチャーに大きな影響を与えたという。
制作にはアメリカマフィアも絡んでいたとされ、
かなりいかがわしい面もあった。
喉の奥にクリトリスがあるという主人公の女性を演じた
Linda Lovelace(リンダ・ラブレース)自身もまた
ずいぶん謎に満ちた人物だったようである。
この“伝説のポルノ女優”の人生を描いた映画『ラブレース』が
来年春に公開の予定という。
このリンダ・ラブレースという女性、
果たしてどんな人だったのだろうか?

12月9日付 ABCNews.com

'Deep Throat' Star Linda Lovelace Took Porn Mainstream 映画“Deep Throat(ディープ・スロート)”のスター Linda Lovelace(リンダ・ラブレース)がポルノを主流に変えた

Lindalovelace

By SUSAN DONALDSON JAMES,
公開されていなかった 840 に及ぶポルノスター Linda Lovelace のネガやフィルムの写真がニューヨークの Museum of Sex(セックス博物館)に展示されている。
 (有名なアメリカのポルノ女優)Jenna Jameson(ジェナ・ジェイムソン)や Traci Lords(トレイシー・ローズ)が登場するより昔、ポルノ映画がメジャーとなる第一号の映画、1973 年公開の“Deep Throat”のスター、Linda Lovelace(リンダ・ラブレース)がいた。
 今日、“Deep Throat”といえば1972年のウォーターゲート事件における(ワシントンポスト紙記者の)Woodward(ウッドワード)と Bernstein(バーンスタイン)の匿名の情報源が最も連想される。しかし、ニューヨーク市にある Museum of Sex(セックス博物館)のキュレーターによると、当時、オーラルセックスだけでオルガスムに達することのできた女性のこのプロット・ドリブン・ストーリーはアメリカ人のポルノグラフィー観を永遠に変える文化的原動力になったという。
 “Deep Throat”はニューヨークタイムズによってそんな風に論評される最初の映画であり、女性が性行為を試したり楽しんだりする扉を開いた。後から考えてそれが結婚生活を向上させたと言う人もいた。
 結果として、ポルノグラフィーの販売価格は指数関数的に増大、特に、ホームビデオ、ケーブルテレビ、衛生放送、ホテル向け販売、およびインターネットで顕著となる。2001年から2009年までのニューヨークタイムズ、フォーブズ誌、PBC(全米ネットの公共放送網)“Frontline”などの様々なレポートによると、この産業の市場価値は100億ドルから130億ドルの間にあると見られている。
 現在、Lovelace の840のネガやフィルムの未公開写真が表に出され Museum of Sex(セックス博物館)で展示されている。それらはマリリン・モンローの肖像写真で最も有名な写真家 Milton Greene(ミルトン・グリーン)氏と1973年に行われた3日間の撮影で撮られたものだった。
 このコレクションを展示しているギャラリーのオーナーによると、最初ポルノグラフィーを受け入れたものの、後にそれを激しく非難するようになって物議を醸した女性の神妙な肖像写真が撮られているという。
 「70年代後半になっても、ポルノはほとんど気恥ずかしいもので、トレンチコートを着たいかがわしい男性が42番街の成人向け映画館にこっそり入っていました」妻の Yulia とともに YK Gallery Inc を所有する Kevin Mattei(ケビン・マッテイ)氏は言う。「しかしこの映画は大ヒットし、通常の映画館で上映されました」とMattei 氏は言う。「これは(コメディアンの)故 Ed McMahon(エド・マクマホン)のお気に入りの映画で、(テレビ司会者の)故 Johnny Carson(ジョニー・カーソン)もそれについて語っています。もはやトレンチコートを着た男どものためのものではなくなっていました。文化的に認められたものとなったのです」
 本名を Linda Susan Boreman(リンダ・スーザン・ボアマン)という Lovelace の写真がこの7月にオークションに出されたとき、Mattei 夫妻は The Archives LLC のオーナーである Greene 氏の息子と協力関係を結んだ。The Archives LLC は 2006 年から Greene 氏の60,000の画像集の復元と販売を行っている。
 社交界や著名人の写真家だった Greene 氏は数千枚のマリリン・モンローの写真を撮った。このセクシーなハリウッド女優の写真が Look 誌に掲載されたとき彼はまだ26歳だった。
 「これが元に戻ってきてうれしく思っています」Greene 氏の息子 Joshua Greene(ジョシュア・グリーン)氏は ABCNews.com に語っている。「この一連の作品は実際人の目に触れることはなかったのです。それは父の人生の一部でした。彼は老いて病に伏せることもなく突然 1985年に死去しました。逆にその時が彼にとってまさしく好機だったのですが、写真は日の目を見ることはありませんでした。私はそれらが今公開されて大変誇りに思っています」
 Joshua Greene 氏は、その撮影の時19歳、当時父親のアシスタントをしており、この新たに有名となったポルノスターをビニールで覆ったり、別の撮影では彼女の身体に水をかけたりして手伝った。「私は11歳のときから暗室で彼の手伝いを始めていました」
 Lovelace は多くの写真で裸でしたがすべてではなく、たくさんの帽子、花、あるいは布などと一緒にポーズを取った。ポーズは“きわめて冗談めかしたものだった”と彼は言う。
 「その狙いは彼女を変身させること、斬新な姿にすることでした」と Greene 氏は言う。彼は今でも約2,000枚のフィルムのうち約1,000枚を保有している。
 Greene 氏によると Lovelace はオーラルセックスを行った映画では“穏やかな話し方をし、少し内気な感じだったが、彼の父親と数人の制作アシスタントと仕事をした後は“ありのままの自分に満足していた”という。
 その撮影後、Milton Greene 氏はプレイボーイ誌の Hugh Hefner 氏に作品を売り込んだが Hefner 氏は彼を拒絶した。「彼にはそれらが十分卑猥でないと感じられたのです」とその息子は言う。
 「父はそのスターに対して深い尊敬の念を抱いていました」と彼は言う。「彼女には気品と優雅さがあり、その根底には不品行な問題も精力もなかったのです。そんな風では全くなかった。彼女は一流だったのです。」
 自動車事故で長引いた外傷により 2002 年に死去した Lovelace はわずかな作品を残している。扁桃腺の代わりにクリトリスを喉に持って生まれた女性を描いたハードコア“Deep Throat”で主役を演じたあと、彼女はR指定の続編と、1976年の“Linda Lovelace for President”に出演した。
 彼女はポルノを擁護する2編の自叙伝を発表したがその後それらを否定した。2人の子供を生んだあと彼女はポルノグラフィーから去る。1980年代までに彼女はフェミニスト的反ポルノ運動の活動を始めていた。
 しかし彼女の影響力は続いた。
 “その映画が70年代に登場したとき、私たちはヒッピーの時代から抜けだそうとしていたのです」と、ギャラリーオーナーの Mattei 氏は言う。「当時 Linda Lovelace が“Deep Throat”を演じたとき私たちは物事が少し広がっていくのではないかと感じ始めていました。それは1960年代の自由恋愛マリファナ喫煙のすぐあとでした。誰もが扇情的な何かを切望していたのです」
 「大衆がこの映画を強く求めていたため、批評家たちはそれを論評していました。大衆は否定的な論評を恐れることはありませんでした」と彼は言う。「著名人もそれを見に行きました。人々は劇場に足を運び、友人を連れて行きビールケースを持って行きました、そしてその後も入りびたりとなりました。人々はその映画を観るよう他の人たちを誘いました。Frank Sinatora(フランク・シナトラ)、Spiro Agnew(スピロ・アグニュー)副大統領、小説家 Truman Capote(トルーマン・カポーティ)、さらには(歌手の)Sammy Davis Jr(サミー・デイビス・ジュニア)もです」
 「ひとたびその障壁が壊れると、女性たちは自身の性的嗜好を使うようになりました。ゆっくりとですが確実にタブーは壊されたのです」
 しかし“Deep Throat”が公開されて1年後、Lovelace はほとんど認められなかった2、3の別の映画を作ったあと女優としてのキャリアは終わった。彼女は金銭トラブルや結婚生活のトラブルを抱え薬物使用も疑われた。
 しっかりと着衣を身につけているものも多い上品な Greene 氏の写真は過ぎ去った時代を思い出させるものであり、人生でもっと多くのことを成し遂げたかった女性の願望でもある。
 「彼女はスターになるために名声となる15分間を利用し、カメラのフレームの中で脚を広げる以外のことを行おうと考えたのです」と Mattei 氏は言う。

当時、
『ディープ・スロート』という言葉は
ずいぶん卑猥に聴こえたものである(今でもだが…)。
映画『ディープ・スロート』は
喉の奥にクリトリスがある不感症の主婦である主人公が
オーガズムを得るために日夜、
男性器を求めるというエキセントリックなポルノ映画で、
当時としては過激すぎて
その内容は日本ではほとんど知られていなかったようである。
それでも本邦ではタイトルだけが流行語になった?
しかし米国では約6億ドルの総収益を上げた大ヒットと
なっている。
主役を演じ名声を得たラブレースだったが、ポルノ界を引退後、
ポルノ映画産業の慣習を『思いやりのないもの』として非難した。
来年3月公開予定の『ラブレース』では
『マンマ・ミーア!』『レ・ミゼラブル』では
清楚なイメージで人気となったアマンダ・セイフライドが
そんな伝説のポルノ・スター役を演じるという。
真実を探るべくラブレースについて徹底的に取材を重ねた
ロバート・エプスタインと
ジェフリー・フリードマン両監督によるこの映画、
かなり楽しみである。

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芸術は真実を悟らせるウソ?

2012-10-10 15:52:04 | アート・文化

芸術の秋…とはいうが、、
それでは一体、人はなぜ芸術を好むのであろうか?
人間の目的に叶う何かがそこにあるからなのか。
どうやら芸術には人の本能をくすぐる何かがあるらしい。
そして芸術家はそこにつけこもう?としているという。
そんな考察が行われている(長文失礼)。

9月15日付 CNN.com

What the brain draws from: Art and neuroscience 脳は何をもとに描くのか:芸術と神経科学
By Elizabeth Landau, CNN

Painting1
スペインにあるティト・ブスティージョ洞窟の中で、科学者たちは古い赤い絵の上に重ね描きしてあるこれらの馬の絵を発見した。これらの絵は 29,000年以上前に描かれた可能性がある。

 パブロ・ピカソはかつて次のように述べている。「芸術が真実ではないことは誰もが知っている。芸術は我々に真実を悟らせようとする嘘であり、少なくともその真実は我々が理解するために与えられるものである。芸術家は、自分の嘘の誠実さを他の人たちに納得させるような方法を知っていなければならない」
 もし私たちが芸術の“嘘”を受け入れなかったとしたら、画廊や展覧会、芸術史の教科書や学芸員は存在しなかっただろう。また洞窟の壁画やエジプトの像、さらにはピカソ自身も存在していなかったであろう。しかし、私たちは、芸術の中に親しみのあるものを認識できること、そして芸術が魅力的であることについては人類として同意しているようである。
それがなぜかを説明するには脳を探究するしかない。
 人間の脳は、平たいカンバス上の線や色や図を理解できるよう配線されている。人類の歴史を通じて芸術家は、奥行や明るさなど、実際には存在しないが芸術作品を何とかして実在的に見えるようにする錯覚を創り出す手段を見い出してきた。
 また、個人的嗜好は多彩で文化的影響を受ける一方、脳は、私たちが実際に見ているものに類似した特定の芸術的表現法に対して特に強く反応するようでもある。

What we recognize in art 私たちが芸術の中で認識するもの

 絵画やスケッチのほとんどは客観的視点からみて2次元であることは言うまでもない。しかし、私たちの脳は、人、動物、植物、食物、場所など日々の生活で見慣れた光景の明確な表現があるかどうかを即座に知ることができる。私たちが当然のものと考えてきた芸術のいくつかの要素は、私たちの脳をだまして恣意的なものから意味を解釈させようとするものである。

Lines 線

 たとえば、座っている部屋を見回しているときには、視野の中のすべての物体の輪郭を描く黒い線など存在しない。しかし、誰かが周囲の状態を線画で描いたとしたら、恐らく皆さんはそれを同じものと見なすことができるだろう。
 こういった線画の概念はおそらく、砂に線を引いて、それらが動物に似ていることに気付いた人類の祖先に遡ることになると、Universite Paris Descartes の教授 Patrick Cavanagh 氏は言う。
 「科学的に、私たちはこのプロセスにただ興味を掻き立てられています:線のような実存していないものがなぜそのような効果を持つのでしょうか」と Cavanagh 氏は言う。「芸術家たちはそんな発見をする一方で、私たちはなぜそのようなトリックが効果を発揮するのかを解明するのです」
 顔の線画が顔として認識されることは特定の文化に特異的なことではない。子供や猿でも可能である。石器時代の人たちも線画を描いた。エジプト人たちもまた自身の姿の輪郭を描いていた。

Painting2
紀元前1350年のこのエジプト王朝の壁画は、芸術家たちが長らく人や動物の姿の輪郭を描いてきた一例を示すものである。

 これらの輪郭は、私たちが現実の世界で観察する物体の縁に対するものと同じ神経プロセスを利用していることがわかっている。明暗の縁を認識する視覚系の個々の細胞は線にも反応すると Cavanagh 氏は言う。初めての“スケッチ”を生み出した最初の人間が誰であるかは定かでないが、その人物は私たちの視覚文化のすべてにつながる道を開いたことになる。

Faces 顔

 このことは私たちに現代の顔文字をもたらしている。この :-) という顔文字が、横向きになったうれし顔(ハッピー・フェイス)であることには皆共感できる。たとえそれが誰か特別な人には見えず、目鼻口だけの最低限の顔の要素しか持っていないとしてもである。私たちの脳は、顔、および顔の表現を発見することに特別の親和性を有している(たとえば月に人が見えると言う人がいる)。子供においても、特に何ににも似ていないようなパターンより顔面様のパターンを好むことがいくつかの研究で示されている。
 これは進化の観点からも合理的である。早い段階から自分たちの世話をしてくれる人との絆を築くことは赤ちゃんにとって有益なことであると、2001年の Nature Reviews Neuroscience の論文で Mark H. Johnson 氏は書いている。
 私たち人類の太古の祖先たちは自分たちのまわりの動物と同調する必要があった;食肉動物である可能性があるものを最も意識していた人たちこそ生き残り自分たちの遺伝子を伝えることができる可能性が高かったのであろう。
 そのため私たちの脳は芸術の中にも顔を容易に見つけるのである。それには、色の線や、ばらばらの色の点で顔が描かれる印象派の絵画も含まれる。この“粗い情報”は、たとえ人がそれに気づいていなくても情動反応を引き起こす可能性があると、Cavanagh 氏と David Melcher 氏は彼らのエッセイ“Pictorial Cues in Art and in Visual Perception”の中で書いている。

Painting6
Pierre-Auguste Renoir(ピエール=オーギュスト・ルノワール)によるこの作品のような印象派の肖像画は、顔をぼかしたり斑状にすることにより特別な情動的魅力を持つ可能性がある。ぼかしたイメージは通常のものに比べて脳の情動中枢により直接的につながる可能性が研究で示されている。

 University of Genova の Patrik Vuilleumier 氏らは、情動や“逃避または闘争反応”に関与する脳の領域である扁桃体は、ありのままの、あるいはくっきりとした詳細な画像より、恐怖を描いた顔のピンボケの写真に対してより反応することを明らかにした。同時に、顔を認識する脳の領域は、その顔が不鮮明な場合には関与が小さくなる。
 これは、顔が非現実的なほど色彩豊かで不完全なものであるように描かれる印象派の作品で見られるように、私たちの視覚系の細部に向けられる領域が散漫になる場合、私たちにとってより情動的な関与が大きくなることを意味していると Cavanagh 氏は説明する。

Color vs. luminance  色 vs. 明るさ

 芸術家はさらに、色と明るさの間に見られる差異を弄する。
 ほとんどの人は網膜に3種類の錐体細胞を持っている:すなわち、赤、青、そして緑である。何色を見ているかを理解できるのは、脳で2つあるいは3つの錐体細胞の活動性を対比しているからである。それとは別に、明るさ(輝度)と呼ばれる事象が、一定の領域をどれだけの光が透過しているかの測定値として錐体細胞の活性化に加わる。
 通常、色のコントラストがあるときそこには明るさのコントラストも存在するが、必ずというわけではない。Harvard University の神経生物学の教授 Margaret Livingstone 氏の研究で、Claude Monet 作の“Impression Sunrise”という絵画が検討された。この作品は水上にキラキラ光る太陽が描かれている。オレンジ色の太陽は輝いているように見えるが、客観的に見てそれは背景と同じ明るさを持っていることに Livingstone 氏は気付いた。
 それでは、人間の目にそれがひどく明るく輝いて見えるのはなぜだろう?

Painting5
1873年ころの Claude Monet(クロード・モネ) による“Impression Sunrise”では、背景としては同じ明るさながらオレンジ色を選択することで太陽が異常に明るく見えるようにしていると Harvard University の Margaret Livingstone 氏は指摘する。

 Livingstone 氏はUniversity of Michigan での2009年の講義で、私たちの視覚系には2つの主要な処理の流れ(stream)があると説明した。彼女はそれぞれを“what”stream、“where”stream と呼んでいる。“What”stream は、色で見て、私たちに顔や物体を認識させようとする。一方、“where”stream は細かいところに向けられるものではないがそれより速いもので、自分たちの周囲の状況をナビゲートするのに有用である。しかし色彩には鈍感である。
 私たちの脳が色のコントラストを認識するが、光のコントラストを認識しないとき、それを“equal luminance(等しい明るさ)”と呼び、キラキラ光る様な属性を生み出すと Livingstone 氏は言う。そしてそれこそが Monet の絵画で認められていることなのである。
 3次元の錯覚を与えるため芸術家たちはしばしば明るさを用いるが、それは現実における明るさの値域が絵画で描くことのできるそれよりはるかに大きいからであると Livingstone 氏は言う。現実には存在しないような光と影を配置することで、絵画は人の目をだまして奥行を感じさせることができるのである。
 たとえば、中世の絵画では群青色の衣服の Virgin Mary(聖母マリア)が描かれているが、その衣装は彼女を平べったく見せている。しかし、Leonardo da Vinci (レオナルド・ダ・ヴィンチ)は暗い場所とのコントラストをつけるために余計な光を加えることによって彼女の姿を激変させている。

Painting
およそ1450年ころの Moscow School の画家の手による肖像では、Virgin Mary にはあまり奥行は見られない。

 重要なポイント:脳をだまして何かが3次元に見えたり実物そっくりに見えるようにするために、私たちに生まれつき備わっている視覚能力をうまく利用するような現実には存在しない要素、すなわち明るさと影を芸術家たちは加えている。

Mona Lisa's smile  モナ・リザの微笑

Painting3
Leonardo da Vince(レオナルド・ダ・ヴィンチ)は“Mona Lisa(モナ・リザ)”に動的な微笑みを生み出すために、人間の中心視野と周辺視野のシステムの違いを利用した。

 Mona Lisa (モナ・リザ)が世界で最も有名な絵画の一つであることに疑いの余地はない;この絵の女性の顔は肖像画的である。
 ダ・ヴィンチは、私たちの周辺視覚系と中心視覚系に存在するギャップを弄することで彼女の顔の表情に動的性質を与えた。
 視野の中心は小さく詳細なものに特化され、周辺視野は低い解像度となるよう人間の視覚系は構成されている。周辺視野はむしろ大きくぼやけたものが得意である。
 そのため、モナ・リザの顔の周辺で視線を変えるとき、彼女の表情が変化して見えるのだと Livingstone 氏は言う。この女性は、口元を直接見るときには、両目を注視した場合と比べてあまり微笑んでいないように描かれている。口元から視線をはずすと周辺視野システムが頬の影を捉えるため微笑を助長するように見えるのである。

Painting4
これは、Margaret Livingstone 氏による、周辺視野で“Mona Lisa”を見たとき感知されるシミュレーション(左および中央)であり、右は直視したものである。微笑みがどのように変化するかに注意。

 モザイク写真もまた、この視覚システムの差異を利用している。周辺視野システムによって、全く異なる猫のそれぞれの写真で構成された猫の絵を見ることができるのである。

Painting10
Van Gogh(ファン・ゴッホ)の自画像が2,070枚のポロシャツでリメイクされている。これは日本のアパレルメーカー、株式会社オンワード樫山によって作られたものである。肖像画とシャツの両方を見ることができる。

Shadows and mirrors 影と鏡

 科学的見地からは、光の位置に基づいて影がどのように見えるか、また任意の角度で鏡の反射がどのように認められるかを厳密に決定することは可能である。しかし、脳は本来そのような計算は行わない。
 絵画の中の影が非現実的に配置されているとき、それがよほど明らかでない限り、あるいは鏡が現実に映し出すのと厳密に同じ状態にない場合でも、私たちが実際に気付くことはないということが明らかにされていると Cavanagh 氏は2005 年に Nature 誌で説明している。
 影はその周辺にあるものより暗色に色づけされる。もし明るさの方向に一貫性がなければ見てすぐにわからない。それらの影が間違った形であったりさえする。しかしそれらが不明瞭でない限り、私たちは3次元の形態であることを確信させられる。
 一般に、元の物体との関係で鏡像がどのように、あるいはどこに現れるべきかについて、人は十分な知識を持っていないことが研究で示されていると Cavanagh 氏は言う。人が鏡を覗き込んでいたり、池に鳥が映っている絵は何世紀にもわたって私たちをだましてきたのである。

Why we like art 私たちはなぜ芸術を好むのか

 育ってきた環境や文化に関わらず、芸術には普遍的に人の心を動かす一面が存在すると、San Diego にある University of California の神経科学者 V.S. Ramachandran 氏は主張する。このような考えを彼は最近の著書“The Tell Tale Brain”の中で論じている。
 たとえば、対称性は広く美しいものだと考えられている。彼によれば、それには進化上の理由があるという。自然界には通常生きているものはすべて対称的である。たとえば動物は対称的な形態をしている。
 私たちがこの対称性に芸術的な魅力を見出すことは、おそらく、生物が存在している可能性に対して私たちの関心を呼び覚まそうと意図された生来備わっているシステムに基づいていると彼は言う。
 そしてそこには Ramachandran 氏によって“peak shift principle(頂点移動の原則)”と呼ばれているものが存在する。この基本的概念は、ある特別な形に惹きつけられる動物は、その形状が誇張されたものに対してなおさら惹きつけられるだろうというものである。

Painting7
1907年の Pablo Picasso(パブロ・ピカソ) の“Les Demoiselles d'Avignon”には、キュービズムの流れの影響が認められ、人の形を誇張することでとりわけ人の目を喜ばせているのかもしれない。

 これは、セグロカモメの幼鳥に関連した Niko Tinburgen 氏の実験で示されている。自然環境においては、この幼鳥は母鳥をそのくちばしで認識する。母鳥のくちばしは黄色く尖端に赤い点がある。そのためもし幼鳥の前にくちばしの部分だけを振ってみると幼鳥は本体のないくちばしが母親であると信じ、エサをもらうのをせがむ手段としてそれをコツコツと叩く。
 しかしさらに驚くことに、もし先端に一本の赤い縞のついた長い黄色い棒をかざすと、その幼鳥はそれでもやはり食べ物をせがむのである。問題の赤い点は、これが幼鳥にエサを与えてくれる母親であることを幼鳥に知らせる誘発因子となっている。さて、さらにすごいことがある。その幼鳥は、その棒に多数の赤い縞があるとさらに一層興奮するのである。
 このカモメの実験のポイントは、実際の母鳥のくちばしは幼鳥を惹きつけるものではあるが、本来の嘴を誇張した“スーパーくちばし”では神経系に過大反応をひき起こすということである。
 「すべての種類の抽象芸術でも同じことを見ているのだと思います」と Ramachandran 氏は言う。「見た目には歪んでいるように見えても、脳の情動中枢を喜ばせているのです」

Painting11
この自画像では Vincent van Gogh(フィンセント・ファン・ゴッホ)は、彼の特殊なスタイルで自身の顔を変形しているが、それによってその魅力を増している可能性がある。

 言い換えると、Pablo Picasso(パブロ・ピカソ)や Gustav Klimt(グスタフ・クリムト)などの著名な芸術家によって歪められた顔は、私たちのニューロンを過剰に活性化しており、言ってみれば、私たちを誘い込んでいるのかもしれない。その柔らかい筆の運びによる印象主義も、普通の人間や自然の形態の一つの歪曲なのである。

Further research: Can we know what is art? さらなる研究:芸術が何であるかを知ることができるか?

 現在、人々が芸術や音楽を鑑賞する理由やその仕方、および美とは何であるかについての神経的基盤を研究のテーマとしている神経美学 neuroesthetics と呼ばれる包括的分野がある。
 University College London の Semir Zeki 氏はこの分野の確立で高い評価を得ている人物だが、この領域は急速に広がっていると言う。情動を研究する多くの科学者たちはこの領域に共同して取り組んでいる。Zeki 氏が研究しているのは、なぜ人は、動いている点の特定のパターンを他のパターンより好む傾向にあるかということである。
 一研究分野としての神経美学についてこれまで様々な批判があった。昨年、哲学者の Alva Noe 氏は The New York Times に次のように書いている。この科学分野は驚くべき洞察や興味深い洞察はなんら生み出していない、また恐らく、まさに芸術の特性という理由から、今後も期待できないだろう。どうしてそれが何であるかを断定的に言えようか?
 この分野に対する多くの異論は、彼らが芸術作品を説明を試みているのではないかという誤った憶測に基づいていると Zeki 氏は言う。
 「私たちはいかなる芸術作品も説明しようとしているのではありません」と彼は言う。「私たちは脳を理解するために芸術作品を用いようとしているのです」

Neuroscientists can make art, too. 神経科学者たちも芸術を生み出す

Painting8
University College London の neuroesthetics(神経美学)の教授 Semir Zeki 氏はこの彫刻作品“Squaring the Circle”を創作した。吊り下げられた物体に色のついた光を当てることで奥行の錯覚を生み出している。

 Zeki 氏は、昨年イタリアで開いた“White on White: Beyond Malevich”という展覧会に打ち込んでいた。このシリーズには白色灯と色の投影で照らされた白い壁の上に白く塗られた彫刻がある。赤や白い光で、オブジェクトの影は補色であるシアン色に出現し、見る角度が変わるとその影も変化する。
 この補色効果の生物学的原理はあまりよく分かっていないし、これまた錯覚である影の奥行きについても同じように理解が進んでいない。
それでは Picasso の言ったことは正しかったのだろうか、つまり芸術はうそなのか?イタリアでの Zeki 氏の展覧会の解説がその真実を浮き彫りにしているのかもしれない:「私たちの目的は、脳の現実がどのようにして客観的実在を覆すかを示すことです」

私たちは絵の素晴らしさを
無意識に捉えているというのだろうか?
芸術の奥深さを再認識してしまった。
芸術の本質など、
凡人 MrK の理解には遠く及びそうもないのである。

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『オーデュボンの祈り』

2011-10-15 00:01:28 | アート・文化

東京公演の千秋楽となる10月12日、
世田谷パブリックシアターに
舞台『オ―デュボンの祈り』を観に行った。

Photo

原作は同題名の伊坂幸太郎氏のデビュー小説。
脚本:和田憲明、演出:ラサール石井、主演:吉沢悠。
吉沢演じる主人公・伊藤はコンビニ強盗に失敗。
と、ある男に導かれ
仙台の沖合にある見知らぬ島 “荻島” にたどりついた。
江戸時代より外界から孤立していたというこの島の住人は
奇妙な人間ばかりだった。
嘘しか言わない画家や、島の法律として殺人を許された男、
さらには、人語を話し未来のことがわかる案山子・優午など…。
伊藤が島にやって来た翌日、
案山子の優午は何者かの手によってバラバラにされ、
頭を持ち去られて死んでいた。
未来がわかっていたはずの優午はなぜむざむざ殺されたのか?
そして昔から島に伝わる言い伝え、
『この島には、大切なものが最初から欠けている』。
一体この島に欠けているものは何なのか?
伊藤はこれらの謎を解き明かそうと島中を奔走する。

舞台では大がかりな装置による場面転換はなく、
刻々と変化する場面や回想が
工夫を凝らした演出で表現されてゆく。
畳みかけるようなセリフの応酬と効果音が続き、
劇中にBGMは一切使われない。
複雑な人物像やつながりの理解はやや困難である。
正味2時間30分と長い本作品には、
シュールな雰囲気がちりばめられている。
ただ全体的に物語の展開はドラマ性に欠けるため、
小林隆氏の癒し声でのセリフが続く場面では
うかつにも睡魔に襲われてしまった(おいおいっ!)。
そして問題の “大切なもの” もついに劇終盤で
明らかとされることとなるのだが、
そのオチには、あ、そうなのふーん、てな感じ。とはいえ、
全体的には独特な雰囲気がよく表現されていたようだ。
なお、殺された案山子役は筒井道隆だったのだが、
この人、この舞台でも、テレビ同様、一貫して抑揚のない
(得意の)棒読み風セリフ回しだった。
ま、なんといっても案山子なので、それなりに
味が出せてると言えるのかも。
テレビで多彩な役を演じ分けてきた吉沢悠は、
本作品でも膨大なセリフで主役をしっかりとこなしていた。
彼は今クールのドラマ、キムタクの『南極大陸』にも
出演予定とのことである。
今後大いに期待できる俳優の一人だろう。
今回の舞台、一つ注文があるとすれば、
世田谷パブリックシアターは客席数が約600と多く、
もう少し小さい劇場の方が舞台と観客の一体感が
得られて良かったのではないかと思う。
10月19日以降、札幌、大阪、仙台で公演があるそうなので、
機会のある方には是非ご覧いただきたい。

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の~んびり行こうよ、俺たちは

2011-09-14 21:46:50 | アート・文化

いやぁ~、英語って何であんなに速く話すの?
洋画観ても、ABCニュース見ても、
何言ってるのかさっぱりわからない。
ましてやその内容まできっちり理解するとなると…。
ところが、世界の言語の中で最速で話されているのは
日本語なのだという。
それって、本当の話?

9月8日付 Time.com

Slow Down! Why Some Languages Sound So Fast もっとゆっくり!なぜそんなに速く聞こえる言語があるのか

By Jeffrey Kluger

Slowdown

東京の電車で会話を交わす乗客たち

 読まれたことがおありかもしれない最も面白くない文章をここに示す:「昨夜、私は猫を外に出すために玄関の戸をあけた。その晩はあまりに美しい夜だったので私は新鮮な空気を吸うために庭をぶらついた。その時、私の後ろの扉が閉まったようなバタンという音を聞いた」
 オーケー、その後、その話し手がドアを無理やりこじ開けようとして逮捕されるので退屈で目がボーっとなっていたのも少し良くなった。いや、私たちはここで Noel Coward(ノエル・カワード:イギリスの俳優・作家・脚本家)について話しているのではない。この全くありふれた文章やこれと同じようないくつかの文章は Language 誌に発表されたばかりの興味深い研究の一部なのである。この研究は人間の話し言葉についての最も昔からの疑問の一つに答えるものだ。
 理解できない言語がすべて時速200マイルの速さで話されているように聞こえるのはほぼ世界中の真理である。嵐のような未知の音節はほとんど区別不可能である。それは単にそれぞれの単語が自分たちには全く理解できないという理由によるのだと自分自身に言い聞かせる。私たちの話す英語はウルドゥ語のネイティヴ・スピーカーにとってはやはり速く聞こえるのは確かである。それでも、中には明らかに他のものに比べて速いと思われる言語があるのも事実である。スペイン語はフランス語の上を行き、日本語はドイツ語を圧倒する。いや少なくともそのように聞こえるのである。
 しかしそれはどうしてなのか?英語からスペイン語に翻訳される映画の会話が元の時間の半分に短縮されることはないが、結局、同じ台詞が2倍速で話されるとしたら、調整する必要があるだろう。同じように、スペイン語の映画がフランス語に翻訳されるとき、上映時間を4時間にするわけにはいかない。たとえ速度規制が言語ごとに異なるとしても、すべての言語間にどこか、我々に同じ速さで情報を伝えさせるようなすぐれたイコライザーのようなものが存在しているにちがいない。
 この難題を探究する目的で、Universite de Lyon(リヨン大学)の研究者らは、英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、日本語、中国語、スペイン語の7つの一般的な言語に加え、それほど一般的でない言語であるベトナム語のそれぞれのネイティブ・スピーカーである59名の男女のボランティアを採用した。研究者は彼ら全員に20の異なる文章を読んで録音するよう指示した。それには先ほどの飼い猫と鍵のかかった扉についての文章も含まれていた。ボランティア全員はそれぞれの母国語で20の文章すべてを読んだ。150ミリ秒以上続いた沈黙はカットされたが、それ以外は録音されたものに手はつけられなかった。
 続いて研究者らは録音されたそれぞれにおいてすべての音節数をカウントし、さらにそれらの音節それぞれにどれほど多くの意味が含まれているかを解析した。たとえば、“bliss(至福)”のような単音節の単語は多くの意味が含まれる―つまり、普通の幸せではなく格別に穏やかで最高の類のものであることを意味している。また “to” という単音節の単語は情報密度が低い。また “jubilee(記念祭)” という単語にあるような短い i の音のような一つの音節には何ら独立した意味は含まれない。
 収集したこれらの生データを用いて、この研究者らはこれらの数字を処理しそれぞれの言語ごとに2つの重要な数値を得た。それは、それぞれの音節当たりの平均的情報密度と通常の話し言葉において一秒あたりに発せられる平均音節数である。ベトナム語は他の7つの言語と比較するための基準言語として用いられた。(言語学者によってきわめて情報密度が高いと考えられている)ベトナム語の音節については基準値の1とした。
 他のすべての言語では、平均的音節のデータ密度が高ければ高いほど、一秒間に話される必要のある音節数は少なく、それによって話し言葉は遅くなっていた。0.91と高い情報密度を持つ英語は一秒間に平均6.19音節という速さだった。密度の順位でトップだった0.94の中国語は一秒間あたり5.18音節とのろまな言語だった。スペイン語は0.63と低密度であり毎秒7.82音節と速く話される。しかし、正真正銘のスピード狂は日本語で、速度は7.84とスペイン語を僅差で上回っていたが、それは0.49という低密度のためである。このような違いがあるにもかかわらず、たとえば一分間の話し言葉が終わってみると、すべての言語はおおよそ同等の量の情報を伝えていたのである。
 「音節を基準にした平均的情報密度と音節伝達速度との間には逆相関が見られる」と、研究者らは述べている。「密度の高い言語は、一定量の意味情報を伝えるために、密度の低い言語に比べ少ない言語量の使用で済む」 言いかえると、皆さんは自分の耳に騙されてはいないということだ。スペイン人は実際走っていて、中国人は実際ゆっくり歩くが、同じ長さの時間内で彼らは同じ話をしているのである。
 もちろん、新しい言語を学ぼうとする頭の割れそうな作業をより簡単にしてくれるものはそこにはない。しかし、タガログ語をタイ語やノルウェイ語やウォロフ語や世界の他の6,800の言語と区別するすべての差異のもとには、きわめて単純でまさに共通の規則が存在していることの新たな一つのヒントとして役立つものである。話し言葉のDNA、それは私たちの本物のDNAのように、私たちが考えるよりはるかにお互いを親密にしてくれるものなのである。

情報密度の低い言語は
同じ内容を同じ時間内に伝えるのに
多くの言葉を用いる必要があるということのようだ。
確かに、話す速さを音節で測るなら、
表音文字を羅列する日本語では
伝達に多くの音節を用いる必要があるだろう。
言ってみれば、
日本語は一字一字きちんと声に出しているのに対し、
英語は雰囲気で伝えるところが大きいのかも?

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今の私をカバンにつめて

2010-10-13 22:10:17 | アート・文化

東京での公演は11日で終了したが
15日から5日間の大阪公演が
予定されているミュージカル、
『今の私をカバンにつめて』。
先週、東京、青山円形劇場まで見に行ってきた。

Photo_2

この劇場、
地下鉄『表参道駅』から青山通りを渋谷方向に
500 mほど行ったところにある。
文字通り円形の劇場はこじんまりとしていて
直径は30 mほど。
中央がステージになっていて、
これを5列ほどの客席が取り囲む構造となっている。
客席数は350ほどか。
今回は円周状の客席のうち4分の1が取り払われ、
そこもステージの一部となっている。
そこにはレンガの壁と、いかにも
外から陽光が射し込んでいるかに見える
大きな天窓が取り付けられている。
その下にはドラムやピアノなど生バンドの
セットが置かれ、その前に歌と踊りのステージ、
中央のフロアには4組のテーブルと椅子が
無造作に並べられている。
これらから、ライヴハウスのステージと客席が
イメージされるのである。
淡いスモークが漂い、70年代のキャバレーの店内を
思わせる雰囲気で、開演前からわくわくさせられる。
開演時刻の19時が過ぎると
三々五々集まったバンドのメンバーが音あわせや
勝手なおしゃべりを始めるのだが、
それがすでに劇の一シーンであることに気づかされる。
そしていよいよ劇中リハーサルのスタートである。
その昔、少しは売れたこともあった
バンド・リーダーでヴォーカルのヘザー(戸田恵子)だが、
このところは冴えないどさまわりの歌手生活。
彼女のメジャー復活を目論む
マネージャーのジョー(石黒賢)は
音楽関係者が多く集まるこの日のライヴに
売れていた頃のヘザーを彷彿とさせるステージを要望。
開演前のリハーサルをチェックし事細かに注文をつける。
『ヘザーはまだまだ輝いている、歌だって最高だ、
目尻の皺だって照明でごまかせる』、と励ましたり?もする。
一方のヘザーは、
本当の自分を封印しうわっ面だけ取りつくろうような
これまでの歌手生活からの脱却を望んでいる。
奇しくもこの日はヘザーの三十四回目の
誕生日だったのである(劇中ではこのあと、三十九回目、
さらに四十二回目と2度も訂正 [笑] )。
いい妻であろうと耐え忍んできた愛のない結婚生活も
結局破綻してしまったヘザー。
妻の家事放棄や浮気にすら
眼をそむけ続けようとするジョー。
意見が平行線のままリハーサルが進む中、
一時はお互い惹かれあっていた気持ちが
熱くよみがえるかに思えたのだが…

本作は
グレッチェン・クライヤー台本・作詞、
ナンシー・フォード作曲により1978年に
オフ・ブロードウェイで上演されたミュージカル。
日本では1982年に『旅立て女たち』の邦題で
歌姫雪村いづみが主演しロングラン公演された。
今回は三谷幸喜の翻訳・台本、G2の演出による
リニューアル版。
ストーリーはオリジナルにほぼ忠実と思われ、
時代的に若干古さが感じられるのは仕方なく、
女性の自立というテーマには現代感覚との
ミスマッチも窺われるが、
三谷氏ならではのジョークやおちゃらけが
随所にタイミング良く飛び出し大いに笑いを誘う。
ミュージカルでありながら、
曲の合間にかわされるヘザーとジョーの会話は
矢継ぎ早で濃密。
よくもあれだけの台詞が入っているものだと
戸田と石黒の演技に感心させられた。
生バンドをバックに懐かしさの感じられるナンバーが
次々と歌い上げられ、素敵なダンスも披露される。
さすがに雪村の歌唱力には及ばないと感ずるが、
元アイドル演歌歌手の戸田の歌はなかなかのもの。
あくまで楽曲は劇中のリハーサルとして歌われるので、
観客としては、一曲終わるごとに拍手をすべきなのか、
それともジョーと同じ立場で静かに聴くべきなのか、
迷うところではある。
いずれにしても本作品、
テーマやストーリーや歌唱の良否を越え、
狭い円形劇場の中で
役者・ミュージシャンと観客の一体感を味わえ
素敵なムードを大いに堪能できる快作である。

なお、原題は
“I'm Getting My Act Together and Taking It On The Road”
直訳すれば
『これまでの自分をきちんと整理してそれも持って旅に出よう』
とでもなるだろうか…
三谷氏訳によるこの邦題、
『今の私をカバンにつめて』。
いかしたタイトルである。

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