hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

鴻上尚司『不死身の特攻兵』を読む

2020年08月29日 | 読書2

鴻上尚司著『不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか』(講談社現代新書2451、2017年11月20日講談社発行)を読んだ。

 

第一回の特攻作戦から9回の出撃、「必ず死んで来い!」と言われながら、9回生還を果たした特攻兵がいた。

なんと、当時21歳のその佐々木友次は92歳で存命だった。

この本は、著者が、命令側と命令される側から特攻について調べたことと、佐々木氏への5回のインタビュー結果、そして、日本軍の行った「特攻」について著者の考えを述べている。


体当たりせよという命令は、十分な急降下爆撃技術を持つ初期の兵士の誇りを傷つけるものだった。だから佐々木さんらは、命令に逆らって米軍の戦艦に爆弾を投下して帰還したのだ。
しかし、軍幹部は生還した兵士に早く再出撃して、こんどこそ死ねと迫る。小舟でもいいから体当たりして死んでくれと叫ぶ。天皇にも死んだと報告してしまったのだからと。

佐々木さんの上官である岩本隊長は、当初から「体当たり」攻撃を否定していて、操縦席から爆弾を投下できず、爆弾を抱えたまま突っ込むことしかできないように改装された特攻仕様機を、投下して生還できるように再改装し、隊員に向かってこう言った。

「…このような改装を、…許可を得ないでしたのは、…自分の生命と技術を、最も有意義に使い生かし、できるだけ多くの敵艦を沈めたいからだ。……(略)「出撃しても爆弾を命中させて帰ってこい」


体当たりをしないで、戦艦を沈めることにこしたことはない。しかし、特攻隊が体当たりしないで生きていたら、うるさいだろう」津田少尉は正直に聞いた。
「いろいろ言われますが、船を沈めりゃ文句ないでしょう」佐々木は人懐こい目を細くして、笑いを浮かべた。

 

米軍の進軍を止める可能性があるのは特攻しかないと軍幹部は認識していた。しかしその特攻でさえ実際の戦果は少なかったが、若者が国を守るために命を捨てたという国民への宣伝効果はあった。そのためだけに、沖縄戦以降、成功確率がほどんとなくなった特攻は続けられた。

 

著者は書いている。「攻撃を受け、生還の望みのない兵士が、自主判断で敵に体当たりをすることと、組織として「九死一生」ではなく「十死零生」の命令を公式に出すことは、根本的に違うのです。]

 

私の評価としては、★★★★★(五つ星:読むべき)(最大は五つ星)

あの時代に上官命令に反して、何回も生還してきた兵士がいたとは想像もしなかった。日本軍は上から下まで、ガチガチの教条主義者だと思っていたが、そんな若者がいて、それを支える本の数人の上官もいた。そのことだけでもこの本を読んでよかった。

 

日本軍はアメリカ軍の圧倒的軍事力に対抗できず、特攻で一矢を報いる方法しか考えられなかった。その一矢も効果がなくなっても、若者が死ぬことに意義があると、戦意高揚のため特攻を続けていた。

もっと早く終戦(敗戦)を決断できず、繕いと強弁のみの指導者たちに呪いを!

 

鴻上尚史(こうかみ・しょうじ)
作家・演出家。1958年、愛媛県生まれ。早稲田大学卒。
在学中に劇団「第三舞台」を旗揚げ。
95年「スナフキンの手紙」で岸田國士戯曲賞受賞
2010年「グローブ・ジャングル」で読売文学賞戯曲・シナリオ賞受賞。
現在は、「KOKAMI@network」と「虚構の劇団」を中心に脚本、演出を手掛ける

著書に『「空気」と「世間」』『不死身の特攻兵』『鴻上尚史のほがらか人生相談』『鴻上尚史のもっとほがらか人生相談』『英語とわたし』(著者23人の一人)など。

 

 

海軍の第一回特攻隊・『敷島隊』は1944年10月25日、陸軍の『万朶(ばんだ)隊』は11月12日に出撃した。

 

万朶隊の岩本隊長28歳は「跳飛(ちょうひ)爆撃」の第一人者。跳飛爆撃とは、1943年にアメリカ軍が初めて採用した方法で、爆弾を直接、艦船に投下しないで、一度、海に落として跳ね上がらせ命中させる方法。

「跳飛爆撃」もマリアナ沖海戦以降、アメリカ軍が使用し始めた近接信管(VT信管)のためほとんど不可能になった。近接信管とは、電波発信機を備えドプラー効果を利用して、目標物が15メートル以内に来ると爆発するものです。

 

敷島隊の関大尉は新聞記者に言った。「報道班員、日本もお終いだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当たりせずとも敵母艦の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある」

 

5回目の出撃。アメリカ軍は、特攻対策として、空母に載せる急降下爆撃機の数を半減させ、迎え撃つ艦上戦闘機の数を2倍にした。そして、空母に前方60カイリ(110キロ)に、レーダー警戒駆逐艦を配備した。

 

大西瀧次郎中将(特攻発案者)のように戦後自刃しなかった司令官達は、ほとんどすべてが「すべての特攻は志願だった」と証言します。

司令官ではなく、隊員達が書いた多くの手記は、「志願」の形をした「命令」だったと断じます。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする