hiyamizu's blog

読書記録をメインに、散歩など退職者の日常生活記録、たまの旅行記など

今年一年、私のブログ

2007年12月31日 | その他
PlalaのブログBROACHがトライアル中の2006年3月4日にこのブログを始め、昨年約200、今年約250、合計670日間に450のブログを書きました。約1.5日に一回の頻度になります。内容はたわいもないですが、ともかく暇に任せてよく書いたものだと思います。

話題は、オーストラリア88回(20%)、カナダ80回(18%)、国内32回(7.2%)、合計200回(45%)と観光がメインのブログとも言えます。昨年は約4ヶ月、今年も70日は海外にいたので、どうしても海外ネタが多くなっています。その他、昔話47回、思い出13回と昔の話し(13%)が多く、読書感想も42回(9.4%)あります。その他144回(32%)には身近な話題が多くなっています。

昨年末のブログのまとめは、「今年一年、私のブログ」にあります。
 

自己満足で書いているのでアクセス数は気にしていないし、数を稼ぐ工夫もしていませんが、毎日100から200のアクセスがあります。こんなに親戚はいないはずですから、ありがたいことです。あらためて眺めてみると、現在までのアクセス数は、65,5570と大変な数になっています。

宣伝は一切載せませんし、人気ランキングも(もともと)無縁です。トラックバックはほとんどのものが無関係で自分のアクセス数稼ぎのために要求してきたものなので禁止しました。コメントは歓迎ですが、自己宣伝と判定したものは一方的に削除させてもらっています。

2年近くも続けると、もはや日課のひとつとなっていて、何かネタはないかと意識して過ごすことで退職後の生活の張りの一つになっています。

コメントとして意見、感想を公開されるのは困るという方は、直接私にメール( toshiyori_001@mail.goo.ne.jp )を寄せていただければと思います。

数日前についに高齢者のお仲間に入りましたが、このブログ、マイペースで来年も続けて行こうと思います。


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施設で餅つき

2007年12月30日 | 個人的記録

年末恒例の餅つきに参加した。千葉県にある施設での行事で、参加メンバーは、全員女性の寮生、教会関連のボランティア、我々、そして裏方の有志職員と総勢数十名。
我々は、数十年前には発展期にあったこの施設で盛んに建物建設などのボランティア活動をしていたが、以後は細々と続き、近年は年一度の餅つきが唯一の活動になってしまった。今回は参加メンバーもお馴染みの6、7名。

約40鉢の餅をつくが、餅のつき手は、主として我々メンバーになりがちで、高齢化でベテランからバテランになり、年々きついことになってきている。教会関連の参加者の中で少ない若手も、最近の人はこの種のことになれてないので腰が決まっておらず、手だけでつく人が多いので戦力追加が図られていない。女性である寮生もときどき参加するが、たいていの人は杵でチョンチョンつくだけだ。
しかし、昔、畑仕事でもやっていたのだろうか、ときどきビシリと決める女性がいる。70歳過ぎなのに、頑張って一人で一鉢あげた寮生がいたのにはびっくりした。



目立つ餅のつき手のほかに、木の杵を手作りしたり、雨の中テントを張ったり、もち米の準備、ふかしの作業がある。また、女性陣はつきあがった餅を伸ばしたり、食事の準備をする。

お昼は野菜が具沢山のトン汁と、あんこ、黄な粉とおろしを付けたつきたてのお餅を食堂で寮生と一緒にごちそうになった。

午前中は雨の中テントを張ったが、風がなく暖かくて助かった。午後は雨もやみ、結局9時半から始めて14時半で終わった。道具を洗って片付け、つき上がったお餅2kg強と、山でとったみかんや水仙の花をいただいて、相変わらずのいいとこ取りで、気分よく帰路についた。

昨年の今日のブログをみると、ただ、餅つき一般の手順が追加してあるだけで、まったく今日と同じことを書いてあった。去年と同じことができることを喜びとする歳になったと考えよう。

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江川紹子「父と娘の肖像」を読む

2007年12月24日 | 読書

江川紹子が、最近活躍している21人の娘に父親について取材し、さらに3人の父親(鳥越俊太郎、丸山和也、永六輔)に娘について取材した「父と娘の肖像」小学館文庫を読んだ。

横峰さくらの父は、押しかけキャディで、いろいろ横暴な点が多い。しかし、さくらは大人で、「少しずつ子離れしてね」と言う。一時、父は酒や賭け事に溺れていたが、娘とともに成長、立ち直ってきたらしい。
アメリカで教育を受けた大石静の父は、恥ずかしさで気を失いそうになる娘の前で「クリスティーン!」と呼ぶ。
阿川弘之は、幼稚園児の佐和子が、「あのね、きょうね、幼稚園でね」と言うと、「結論から言え!」と一喝した。

どうも娘に対する愛情が強いほど、娘に対し横暴、偏屈、身勝手になる父親がいるらしい。父も娘も母を介した三角コミュニケーションしかとれないケースが多い。

鈴木宗男が拘置所に入っていたとき、「開封の際は愛情があふれ出るおそれがあります、取り扱い注意」などという手紙が毎日娘から送られてきたという。こちらの方は、本文を読んでも、なぜこんなに良い関係になっているのか分からない。

鳥越俊太郎の長女はすっぱり父から独立し、鳥越の娘であることを知られるのを嫌がり、ハグするのも嫌がる。次女は父親べたりで、今でも腕を組んで町を歩く。なんでこの差ができたのかはよくわからない。

この本は各界で成功している娘が、結局は父親と良好な関係になる話だが、世の中にはもちろん父娘関係が破綻したままの人たちもいるだろう。また、現に苦境にある娘から見た父親との関係とも異なる場合が多いのだろう。

娘も、姉も、妹もいない私には、父と娘との関係は、想像はできても、永遠の謎だ。
三姉妹である人から子供のころの話を聞いた。遅く一人で夕飯を食べている父親の傍に、3人並んで座り、おかずを分けてくれと、おねだりする。お父さんがときどき箸でおかずをつまんで、開いている口に一人づつポイと入れる。「これがなぜか本当においしいのよね」と言う。まるで餌をねだるひな鳥だ。お父さんは可愛かっただろう。うらやましい。

年頃の娘の帰りが遅いと、お父さんは玄関をウロウロ。
「どうしたのかな。駅まで迎えに行ってみようか」
「落ち着きなさいよ。大丈夫ですよ」と、奥さんにたしなめられる。
なにかというと心配でしょうがないお父さん。
でも、それさえも、私にはうらやましい。



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スキ? キライ?

2007年12月22日 | その他

どうしょうもないほど、話題がとぎれてしまいました。いろいろ当たるにも年賀状の準備もあるので、以下で流します。


スキ、キライと順番に何かを数えていく遊びがありましたが、今は昔でしょう。

gooの調査結果だったと思いますが、「彼女の言葉でもっとも好きな言葉は何か」というような趣旨の、男性への質問の答えで第一位は、
「わたしのこと、好き?」というものでした。
確かに、甘え声で、しかしちょっと不安げに聞いてくるのは男性にとって好ましいのでしょう。


「わたしのこと、好き?」と彼女。
「いや」と彼氏。
「え!」と言って、彼女の目に涙があふれる。

彼氏あわてて、「好きじゃなくて、大好き! 大好きのn乗」
「バカ、バカ!」と、あとは書きません。


失礼しました。あと数日で高齢者となる者の書くことじゃありませんでした。


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三つ子の魂百まで

2007年12月19日 | 個人的記録

子供のころ、冬になると、肩から冷たい空気が布団の中に入らないように、母が肩にふとんを巻き込んでトントンとたたいて、「おやすみ」と言うのがきまりだった。肩のあたりから身体が温かくなって、スーと眠りに入れた。
今でも、寝るときには自分で肩にふとんを巻き込んでから寝るのがくせになっている。おまじないのようなものだが、実際にも温かくなってスムーズに眠れる。しかし、あの子どものころの幸福感はもう得られない。

子どものころは甘えん坊だった。
風邪を引いて熱が出て、なんだか息苦しい。母が寝床にやってきて、「苦しい?」と聞く。
「苦しくて、口で息ができない」と訴えたら、
「バカだね。息は鼻でするもんだよ」と言われてしまった。

熱をはかりなさいと体温計を渡された。計ってみると平熱だ。これじゃ同情されないとばかり、枕元のスタンドの電球に体温計を押し当てた。すぐに離したのに、どんどんあがっていき、最高温度になって、ついにパンと音がして壊れてしまった。
当時は水銀が入っていたので、布団や畳の上のそこいらじゅうに玉になってころがって大騒ぎになってしまった。

とくに病気になると気弱になって甘えがでるようだった。

今や、いじわるじいさん、いやみなじいさんになってしまったが、今でも、この傾向があって、病気のときに、奥さんに、「どう?」と聞かれて、「今までで一番ひどい」と、いつも決まって答えるので、笑われておしまいになる。



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永六輔「あなたの「いのち」をいただきます」を読む

2007年12月18日 | 読書

永六輔の「先生といえば親も同然、親といえば先生も同然」と副題のある「あなたの「いのち」をいただきます」ヴィレッジブックス2007年11月発行を読んだ。

1933年生まれの永さんが、昔の家庭と学校での教え方について語る。といっても永さんのこと、説教じみたところや、押し付けがましいところはない。また、2006年に上海の日本人学校で行った「学校ゴッゴ」と題する授業の講演記録があり、子供達の生き生きとした様子がうかがえる楽しいしゃべりになっている。

永さんは私より10年ほど先輩なので、「そこまではちょっと」というところはあるが、いくつか拾い出したい。


ある小学校で母親が、「給食の時間に、うちの子には「いただきます」と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいんではないか」と申し入れたという。
永さんは言う。食べるものはみんな「いのち」だ。僕たちは、その「いのち」を食べて、「あなたの「いのち」を私の「いのち」にさせていただきます」と言うのだと。この本の題名はここからきている。

欠食児童だった私は食べ物を絶対粗末にしないし、食べ物への感謝の気持ちも忘れない。また、外食時に「いただきます」とは言わないが、レジでお金を払うときに、たいていの場合「ごちそうさま」と店の人に言う。店の人もお金のためのほかに、少しでもおいしく食べてもらいたいと努力しているはずなので。


永さんは子どもでも大人として扱うので、自分の子どもにも敬語を使い、「何々していただけますか」と言う。永さんの父も、子どもたちに、「もしよかったら新聞を持ってきていただけませんか」と言ったという。

私も子どもの人格を認めているので、幼子のときから名前を呼び捨てにしなかった。何々くんと呼ぶ。さすがに、敬語は使わないが。


永さんは言う。我々は、戦争中も戦後も親が一生懸命必死に生きている姿を見ている。だから、いつか親を楽させてあげようと思っていた。今の親は、ビールを飲んでテレビの前でゴロゴロしているし、お母さんはおしゃれをして出かけていく。今の子ども達には、親たちは楽そうにみえる。家庭が大きく変わったのはこの辺にあるのではないか。

私は、子どもに勉強しろとは言わなかった。ただ、茶の間でもあえてよく英語の技術記事や論文を読んでいた。会社ではやりにくい仕事関連の勉強をして、学んでいる姿を見せたかったからだ。幼い息子は、「お父さんの仕事は英語を読むことなの?」と聞いてきたが。


永さんは言う。君たちのお母さんは出産のときは大変な思いをした。君たちが生まれた日にお母さんは一番大変な思いをしたのだから、君たちの誕生日は「母の日」でもある。自分の誕生日にはお母さんに感謝しよう。

私も奥さんの陣痛を見て、男はとてもあんな痛みに長時間耐えられないと思った。日ごろか弱い奥さんに原始の力を感じた。まあ、あの苦痛に耐えられるだけお母さんになる喜びが大きいということなのだろう。どうも、この項、ひとごとになってしまい、育児にほとんど参戦しなかったことを蒸し返されそう。誰かさんに読まれるとまずい。ここだけの話でした。




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母と僕

2007年12月17日 | 個人的記録
今で言う高齢出産で生まれた一人っ子の私は、幼いときは母とべったりだった。

小学校の低学年だったのだろうか、近所の銭湯からの帰り道、まだ蓋をしていなかった川沿いの道を、いつものたわいない歌を二人でふざけて歌いながら歩いていた。
なぜだかふと思いついて軽い調子で私が言った。
「僕もう本当はベタベタはいやなんだ」
母が歩みをピッタと止めて、ものすごくびっくりした顔で私を見た。そして、一呼吸置いて、言った。
「そうね、もうそうなのね」
たいした考えもなく出た一言で、なにか大変なことをしてしまったと思い、あとは黙って家まで帰った。

母を偉いと思ったのは、それ以降ぴたりと、私を幼い子ども扱いする態度は見せなかったことである。もちろん、母にとっては僕が唯一つであることは折に触れてわかってはいたし、何かと言うと取り越し苦労で私の心配ばかりしていたのだが。

しかし、その私も親となり、そして子どもも社会人となって、あの瞬間のびっくりした母の顔を思い出して、かわいそうなことをしたと、今になって思うのである。


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「母の魂」を読む

2007年12月16日 | 読書

ジョン・アップダイク他「母の魂」兼武進訳、飛鳥新社 を読んだ。

角田光代さんが、この本を読んで感動し、「マザコン」を執筆したとあとがきに書いていたので読んでみた。

母親の死に際し、息子が若いときの母を、そして自分を思い出し、その影響の深さを改めて思い知らされて書いた14編のエッセイである。
それぞれの話しや、母はさまざまであるが、著者は新聞のコラムニスト、編集者、大学教授、小説家など高学歴な人が多く、マザコンで知られたユダヤ系が目に付く。母親も貧しい中、知恵を絞ってなんとか生きた優れた人が多い。

息子は、母親と何らかの確執があって、やや疎遠となっていて、死に瀕した母親ともなかなか互いに心を開けない。母親からなんとか独立しようと無理して離れていき、自分の心にひずみや、傷を残しているためだ。そして、母の死に際し、・・・

母親の死の前後という状況なので、とても濃い話が多く、自分の母親を思い出しながら読むと、ついつい本から離れていろいろな想いが湧き出してしまう。

息子というものは、母に関しては保守的で、母の母親以外の面を認めようとしないものだ。しかし、実際の母親は、女としての顔や、地域社会への顔などを持っているし、幼いときに思っていたように絶対的に正しい考えばかりでなく、ときにはゆがんだ考えも持っていて、ごく普通の弱い女性の一人なのだ。
不思議なのは、その普通のなんでもない女性が母親となると、子どもには絶対的な存在となり、実際にマリアさまのように子どもに絶対的愛情を注ぐのだ。
あらゆる男性は反マザコンになろうとして、結局マザコンで終わるのだ。

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世界各国の肥満率

2007年12月13日 | 世の動向
世界各国の肥満率

OECD各国の、オーバーウエイトか、さらに進んだ肥満となっている人の割合が報告されている。
オーバーウエイトか肥満の率が高いのは、米国(66 %)、英国(63 %)、メキシコ(62 %)、オーストラリア(58 %)、カナダ(58 %)と、驚くほど太りすぎの人の割合が高い。日本の肥満率は3%とOECD各国の中でもっとも小さいが、わずかながら増加傾向にある。
私はオーストラリアとカナダに良く行くが、日本人ではあり得ないような驚くように太った人が多い。男性より女性に肥満の人が多いような気がした。これらの国々では社会問題の一つにもなっており、スナック菓子を食べさせないなど、とくに子どもに対する肥満対策が提案されている。


OECD Factbook 2007, Quality of life, HEALTHより
http://titania.sourceoecd.org/vl=5276871/cl=17/nw=1/rpsv/factbook/11-01-03.htm(英文)


肥満の定義
WHOは、BMI (the body mass index =体重(kg) /身長(m)2 ) が25から30をオーバーウエイトで、30以上を肥満としている。オーバーウエイトは、身長160mなら64kg以上、170cmなら72kg。肥満は、身長160mなら77kg、170cmなら87kgということになる。調査対象は15歳以上。

オーストラリア、カナダ、ニュージーランド、英国、米国は健康診断での実際の身長、体重の測定値だが、大部分の国はインタビューによる値である。「前者の値は一般に後者より信頼でき、そして大きな値となる」と報告書にあるが、インタビューされた女性は体重を希望をこめて少なめに言うのだろう。

結果
OECDの11の国、米国、英国、メキシコ、オーストラリア、カナダ、ギリシャ、ニュージーランド、スロベニア、ルクセンブルグ、ハンガリー、チェコでは、成人の50%以上がオーバーウエイトか肥満となっている(半分が太りすぎの国)。

成人の間での肥満の蔓延は、日本や韓国の3%から、米国の32%までの広がりがある。32%の人が肥満とは驚くべき数値だ。

米国:32.2 %(2004年)、メキシコ:24.2 %(2000年)、英国:23 %(2004年)、ギリシャ:21.9 %(2003年)、オーストラリア21.7 %(1999年)、・・・・・、日本:3.2%(2003年)、韓国:3.2%(2003年)

過去の一連の調査結果によれば、肥満の割合は米国で過去20年の間に2倍以上になっており、オーストラリアでは約3倍に、英国では3倍以上になっている。多くの西欧諸国での肥満は過去10年確実に増加している。

性別による差異は大きい。ほぼすべての国で、より多くの女性が男性よりオーバーウエイトで、逆なのは、日本、スイス、オーストリアのみである。
OECD諸国の半分の国で、多くの男性が女性より肥満である。逆なのは、米国、英国、トルコ、日本など数カ国のみである。
オーバーウエイトと肥満の合計の割合は、男性が女性より大きく、逆なのはメキシコとトルコだけである。
(この項、原文の説明文と、データでは、男女が逆となっている。ここでは、データを正しいとした)





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角田光代の「マザコン」を読む

2007年12月11日 | 読書
角田光代の「マザコン」集英社2007年11月発行を読んだ。

角田さんの本には、少しだけ怠惰で落ちこぼれぎみだが日常的にどこにでもいる人たちの、ちょっと辛いことがあるが普通といえる生活が舞台になっているものが多い。この本もそんな本のひとつで、気軽に読めるが、そういえばと、自分の母を思い出すようなワンポイント重い点があり、切なさがただよう。

空を蹴る , 雨をわたる , 鳥を運ぶ , パセリと温泉 , マザコン , ふたり暮らし , クライ・ベイビイ・クライ , 初恋ツアーと8つの短編集で、「すばる」に4年にわたり連載されたものの単行本化。

母と娘、母と息子、父と娘、夫と妻、恋人同士、それぞれのかかわりの中で、ふと顔を出す過去の母親の姿。
子どもから見れば身勝手で偏屈な母親や、典型的で平凡なようで、その実、ふとしたときに、個性的な顔を見せる濃い母親たちがいて、そして、何でもないようなときに、息子や娘はふとその母親のことを思い出し、その呪縛に気づく。

反発したり、私のようにまったく関係ないと思っていても、結局、誰もがある意味、マザコンなのかもしれない。




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「ソーシャル・ウェブ入門」を読む

2007年12月10日 | 世の動向
「Google、mixi、ブログ・・・新しいWeb世界の歩き方」と副題にある、滑川海彦著「ソーシャル・ウェブ入門」技術評論社(2007年5月10日初版)を読んだ。

本書は、Google、mixi、ブログなど新しいWebサービスの始め方の解説でもあるが、全体としてはインターネットの世界がどう変わってきているか、それは何故かを解き明かそうとしている。全体としてバランスが取れていて、説明も分かりやすい。要領よく米国の動向も記述してある。
ただし、Web動向と分析としては、私が軽く読み流せるくらいのものなので、最近の動向に詳しい人には物足りないかもしれない。

まず、Web 2.0 であるが、Google 、Wikipedia などたしかに今までにない形態で急激な発展をしてきたが、紹介されているオライリーの主張を読んでも、これらをくくって、今までと何が違うのかがはっきりしない。

Googleの創立者のペイジとブリンが作った資金獲得のための1枚のプレゼン資料が掲載されている。検索エンジンが入りと出のリンクの差でサイトを評価するPageRank という単純な仕組みであることを明解に示す図で、これから16兆円企業が生まれたかと思うと感慨深い。著者が言うように、もちろん膨大なデータからこの原理を使ってすばやく結果を出すためには、ありとあらゆる高等数学とコンピューティング技術が駆使されているのであるが。

Wikipedia に関しては、集団衆愚に陥らないで群集の英知を発揮できる仕組みとして評価している。一部ユーザの誹謗中傷、虚偽などの排除には、カリスマ性あるリーダーが必要として、Amazonのジェフ・ベゾス、Wikipediaのジンボ・ウェールズなどと並んで2チャンネルの西村博之までが上げられている。著者はあくまで肯定的で楽天的だ。

後半は、Googleの使い方、とくにGmailについて具体的に説明している。また、各種SNSや、ブログとRSSリーダの紹介をしている。


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林真理子「「綺麗な人」と言われるようになったのは、四十歳を過ぎてからでした」

2007年12月09日 | 読書


林真理子「「綺麗な人」と言われるようになったのは、四十歳を過ぎてからでした」光文社 を読む。
雑誌「STORY」に連載した54本のエッセイ。最後に真理子さんはこのエッセイで言いたいことはただひとつ、「どうやったらオバさんにならないか」だと書いている。

おおかたのエッセイは、もはやオシャレに手を抜いた中高年の女性がいかにみっともないかをエゲツなく表現する。そして、自分はいかに高級レストランで食事し、高級ブランドのバックや洋服、着物を買っていて、身体のメンテもしているかを述べる。しかし、結局、真理子さんも体型の乱れで、ふと鏡を見ると、みっともない自分に気がついてしまう。そして、せめて、・・・となる。

自分では実体と戸籍年齢が違うと思っている人がいるが、真理子さんも、同い年の友人をしげしげと見てはじめて、皺や毛穴が目立つことに気づいた。同い年の女性は客観性ある鏡だと知る。

内面からにじみ出る美しさなどということを言わず、あくまで外観にこだわるのが、真理子さんらしい。

3つだけ、真理子さんの嫌味を挙げる。

田舎でも茶髪が多くなったことに驚き、手入れしていないで、根元が黒いのが、田舎のオバさんの茶髪。センスのいい服装、贅肉のない身体で、手入れされた肌と髪が都会の茶髪だと断定する田舎生まれの真理子さん。

かってのアイドルで今バラエティなどに出ている40台を見て、真理子さんは言う。「中年女性は、頑張りすぎると暑苦しくなる」

週2回美容院にいけないようでは、中年女性は美しくなれない。「ビンボー人に美人妻なし」とヒンシュクをかっても、あえて真理子さんは言う。

週に3回オペラや劇場に行き、クロコのバーキンを持って、シーズン前に大量に買ったコム・デ・ギャルソンの洋服や、日本に3着しかないミンクを着こなして、あるいは桜の咲きぐわいに合わせた着物を着て、カリスマ美容師によるカットで、5万円のフグ料理食べたり、料亭で遊ぶ真理子さんの生活を覗くのも良いかも。

林真理子の略歴と既読本リスト



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東福寺を見て、自宅へ帰る

2007年12月08日 | 観光

京阪本線の東福寺駅を降りて、びっくり。すごい人で、道路は列をつくっていて、ゆっくりしか歩けない。行列に従って南に歩き、中門から東福寺に入る。

東福寺は、藤原道家が東大寺から「東」を、興福寺から「福」をとって東福寺として造営したという。境内にある通天橋は紅葉の名所として有名で、昭和の名作庭家の重森三玲による方丈庭園も八相の庭として有名だ。案内書には、わが国最古の東司、すなわち便所が一度に50人が使え35 m もある巨大なものとあったが、わざわざ見たいとは思わない。

中門を入り、本堂の前に来て、またびっくり。通天橋の入場券を買うため延々と長蛇の列。ここまで来たからにはと、最後尾に並ぶ。
通天橋に入ると左手に黄色の紅葉がある。「開山の聖一国師が宋から伝えた唐楓という黄金色に染まる三つ葉楓」とはこのものなのだろうか。



あとは、ただただ、見事な紅葉を見ていただきたい。これが有名な通天橋からの渓谷・洗玉澗(せんぎょくかん)の紅葉の眺めだ。





この間、延々と人の波にただよい、橋を渡って、開山堂に入る。ここでも人の列で、お参りはパス。



帰りは下から通天橋を見上げる。



臥雲橋から渓谷・洗玉澗を流れる川を見ると、緋毛氈。



東福寺の西側の白壁が紅葉によって際立って見えた。



中門を出て、東福寺駅からJRで京都駅へ出た。昔の京都駅を知るものにとっては、この光景は異常だ。かってあった、駅前の京都タワーの景観論争はいったい何だったのだろうか。



帰りの新幹線は行きに曇って見られなかった富士山を楽しみにしていて、シャッターチャンスを狙っていた。一枚目は看板が入って失敗。二枚目は鉄塔。何枚目かにようやく成功。





今回の関西旅行では、ともかく紅葉を堪能した。奥様いわく、「目をつぶると、目の前が真っ赤だわ」。

自宅に帰ってからのこと。庭の木から前の道路や、隣の家の駐車場に限りなく落ちる枯葉を奥様は気にして、毎日2、3度掃いている。木をゆすって一度に葉を落としたがまだまだ残っている。ならばと、塀に登ってまだ赤い葉をむしって、裸にしてしまった。
遠くまでわざわざ紅葉狩りに行って、自宅の紅葉刈りとは、なんたることか。


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詩仙堂、圓光寺、曼殊院

2007年12月07日 | 観光
京都の北東部にある詩仙堂、圓光寺、曼殊院に行った。

詩仙堂は、徳川家康の元家臣で、漢詩の大家、作庭師の石川丈山の隠居跡で、現在は永平寺の末寺になっている。



石段を登り老梅関の門をくぐると、嘯月楼(しうげつろう)という楼のある建物が見える。



建物の中からしずかに庭を味わっていると、庭に人影が見える。



建物の出入口から出て、左に石垣沿いに行くと、庭に出られた。庭の隅のほうに、丈山の発案といわれる鹿おどしがあった。赤、朱、黄と鮮やかな一本の紅葉がある。



お掃除のおばさんの話では、この木が鮮やかな期間は毎年1週間位しかないという。めぐり合いに感謝。それにしても、大原女の格好でお掃除とはありがたい。長靴は許す。



詩仙堂を出て、北へ100mほど行くと、徳川家康が学校として建てた圓光寺がある。



中には書物出版に使われた日本最古の木製活字が展示されていた。庭園は、「十牛の庭」と呼ばれる紅葉の名所だ。




本堂の前には、竹の筒に耳を当てると水のしたたれる音が響いて聞こえる水琴窟がある。澄んだ、かそけき響きが遠くに消えていく。こんな上品な遊び心を持った日本人を誇りに思ってしまう。



圓光寺を出て、何の変哲もない民家の間を進み、東に曲がって坂を登り、曼殊院の入口に着く。



曼殊院は江戸時代初期の代表的書院建築で、狩野永徳、探幽などの襖絵、障壁画がある。
庭は大変凝ったもので、樹齢400年の五葉の松は鶴をかたどっているという。



紅葉も見事だが、5月初めには霧島つつじが美しいらしい。




曼殊院を出て、叡山本線の修学院駅への途中、鷺森神社(さぎのもり)を通った。ここは紅葉の隠れた名所という。



叡山鉄道の修学院駅の券売機はゲートの中にあり、切符は磁気でなく、バーコード状のものだった。出町柳で乗換え、京阪本線で東福寺へ向かった。



次回は、東福寺から、京都駅へ出て、帰宅まで。

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京都 奥嵯峨野で紅葉狩り

2007年12月06日 | 観光

京都・奥嵯峨野の常寂光寺、祗王寺に行った。

前回報告の天龍寺の北門を出ると、野宮神社から大河内山荘へ続く竹林の道に出る。両側に高いモウソウダケ(?)が立ち並び、昼でも薄暗く、少しくねった細い道だ。人がこんなに居なければもっとしっとりした道なのにと、自分達を棚に上げて思う。



昔の時代劇俳優、大河内伝次郎が30年の歳月をかけて作った広大な庭園、大河内山荘を通り過ぎる。大河内伝次郎は私にはお馴染みだが、奥様に言わせれば、「笑点の木久ちゃん(林家木久蔵あらため木久扇)がすぐ真似する人でしょう?」となる。

人の列について北へ進むと、紅葉のトンネルがあった。



紅葉の名所の常寂光寺(じょうじゃっこうじ)に着く。
かやぶきの仁王門の仁王像は運慶作。写真を撮ったのだが、ピンボケの仁王像で、手前にくっきりと見事に網が写っていたので省略。

遠くから見て何の花か、葉かと思ったら、柿の実だった。



山道を登っていくと、高さ12mの多宝塔が紅葉の中に見えてきた。



さらに登ると、嵯峨野の町が見えてくる。



百人一首で詠まれる小倉山の中腹まで登ると、嵯峨野、大文字山、比叡山などが一望できる。といっても、どれがどれだか不明だったが。



降りてきたら、紅葉のじゅうたんが敷かれていた。



常寂光寺から祗王寺(ぎおうじ)へ向かう途中の道の右側に「去来墓」と書いた小さな看板があった。東に曲がりすぐのところに芭蕉の門人で、蕉門十哲の一人、向井去来の墓があった。周りには無数の俳句を刻んだ句碑が並んでいた。




二尊院を通り過ぎ、そのまま祗王寺まで歩いた。小さな尼寺だが、コケの庭の紅葉を見ながらぐるりと巡り、写真正面の庵に入る。ちなみに、普通に変換したり、IMEパッドを使っても「祇」の字しか出てこないが、祗王寺は「祗」の字が正式なようだ。



白拍子の祗王は、同じ白拍子の仏御前の登場によって平清盛の寵愛を失い、妹と母とともに嵯峨の往生院で出家して近くに庵を結んだ。やがて、仏御前も清盛に捨てられ、この庵に入り、女4人、余生を念仏三昧で過ごしたという。この庵がささやかな尼寺となり、のちに祗王寺と呼ばれるようになった。
草庵の控の間にある円形の吉野窓は、影が虹色に表れるので虹の窓とも言われている。

祗王寺から南に戻りながら、落柿舎(らくししゃ)の入口に来た。ここは向井去来の閑居跡で、「落柿舎」の名は、庭にあった40本の柿の実が一夜のうちにほとんど落ちて、売約していた商人にお金を返したという故事にちなんでいる。芭蕉もここを3度訪れ、「嵯峨日記」を著したとある。
いつまでも写真を撮る人、撮られる人、看板を読む人がたむろしたままなので、入る気をなくし、畑の反対側から写真を撮った。



手前に花を入れてもう一度。



保津川沿いを走るトロッコ列車(嵯峨野観光鉄道)のトロッコあらしやま駅に行ったが、すごい人で、当日券はとてもとれないとのことだった。そのまま、山陰本線の嵯峨嵐山駅まで歩いて、地下鉄に乗換えて宿に戻った。
明日、と言っても12月1日なのだが、詩仙堂など見て、横浜へ帰る予定だ。





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