秋麗(あきうらら)

うーちゃんの節約日記です。
不思議だなと思う心、いつまでも忘れずにいたいな

「ジャパン」といえば「漆」 

2010-12-16 | 古代史のミステリー
阿修羅像含む興福寺の八部衆立像は乾湿像で、「漆」が乾いて堅くなったもの。
木彫りではなく、麻布に漆を何層にも固めて塗っていく技術によって造られています。

造像されたのは天平時代に設けられた官営造仏所である「造東大寺司」などに限られます。
しかし例外として、鑑真和上の私寺である唐招提寺の盧舎邦仏像は脱活乾漆造だそうです。
この「脱活」とは「張子の虎」のように内部が空洞と言う意味。
唐招提寺の鑑真和尚像も同じく脱活乾漆造です。

「脱活乾漆像」は像内が空洞のため軽量そのもの。
命がけの政争に巻き込まれても持って逃げることが出来ました。
何度も戦火にあった興福寺の阿修羅像が今日現存しているのは、そのおかげです。

当時、金と同程度と言われるほど極めて高価な材料「漆」
これを大量に用いる上、制作にも手間がかかるため平安時代以降はほとんど作られなくなり、木彫が主流になり現在に至っています。

「脱活乾漆造」は中国から伝来した技術ですが、中国では古代の「脱活乾漆像」は残っていないというのも不思議。
どおりで漆はジャパンたるゆえんなんでしょうか。

 

夾紵棺、きょうちょかん、と読みます。
遺体を納める棺の中でも最高級のもので、身分の高い人たちの古墳より出土しています。

斉明天皇と間人皇女の合葬墓と考えられている牽牛子塚(けごしづか)古墳の棺は麻布を36枚塗り重ねていたそうです。
夾紵棺の破片は、重要文化財に指定され明日香村埋蔵文化財展示室で現物が展示されているようです。

つい先日、この牽牛子塚古墳の前で、大田皇女のものらしき塚が見つかり、そこでも夾紵棺の破片が出土したと書かれてあったように思います。

他の墳墓では、聖徳太子廟、天武・持統天皇陵、阿武山古墳などで出土しています。
「夾紵」は東晋時代に造られ唐時代に盛行した漆技法で、興福寺阿修羅像に代表される「乾漆(かんしつ)」の源流です。
粘土などで棺の型を作って、これに漆と布を交互に何回も塗り固めていきます。

手間ひまかかり、高価で貴重な漆をいっぱい使うのですから、
そんじょそこらの人の棺には使えません。

 

牽牛子塚古墳では、七宝金具も多数出土しています。
金銅製の棺金具(七宝亀甲形座金具、八花文座金具、六花文環座金具、円形座金具、綾隅金具)、また鉄製の鎹(カスガイ)、鉄製の釘、ガラス玉などの玉類、人骨(臼歯)など飛鳥資料館に保管されています


同時代を生きた皇人の生存年を列記してみると

宝皇女 594-661年 第35代皇極天皇在位642-645/第37代斉明天皇在位655-661
軽皇子 596-654年 第36代孝徳天皇在位645-654
中大兄皇子 626-672年 第38代天智天皇在位668ー672
間人皇女 生年不詳-665年 母は皇極天皇(斉明天皇)天智天皇の同母妹 孝徳天皇の皇后
大田皇女 生年不詳-667年 父は天智天皇 天武天皇の妃となり、大伯皇女、大津皇子を生む

 


夾紵棺が出土した阿武山古墳は、中臣鎌足(614-669年)の墓かとも言われています。
貴人用の棺には、遺体とともに玉枕と冠があり復元されています。
 

6 コメント

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Unknown (TM)
2010-12-16 23:04:19
阿修羅像は軽かったので、火災のときに抱えて持ち出すことが出来たのですね。鑑真和上像もそうですが、よくぞ残ってくれたと思います。命をかけて後世に残してくれた人々に心から感謝したいです。

先日、牽牛子塚古墳近くで発見された塚の一般公開と説明会が行われたようですね。全国から古代史ファンが訪れたとか。発掘品の数々が、古代と現代を結びつけてくれますね。
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TMさんへ (おざさ)
2010-12-17 20:50:12
先日興福寺で阿修羅像を見たとき、想像よりも背丈が低かったのが新鮮でした。
150cm台で160cmはなかったと思います。
私達女性と同じ程度かあるいは少し小柄であることは親近感をよぶのかもしれませんね。
それにしても麻に漆を重ねて作ったなんてスゴイ技です。
中が空洞で軽いとは思わせない存在感というかずっしり感ありましたよね~

9月の牽牛子塚古墳、そしてちょうど3ヵ月後の12月にその前の大田皇女の塚公開、どちらも数珠つながりの人出でした。
次々明るみに出て判明した事実もあるのだから、宮内庁も見直したらいいのにね。
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うるし (めねふね)
2010-12-21 22:58:12
日本の漆は10000年以上の歴史がありますよね。
漆塗り副葬品としては9000年前のものが函館で見つかってたんですが、02年に放火で消失。耐火金庫に入れとけっつうの。
文化が一方向にのみ流れるなんてことはありません、間に海があったって、あっちいったりこっちいったりするもんだと思います。
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めねふねさんへ (おざさ)
2010-12-22 13:29:19
日本の漆は10000年以上の歴史って驚きました。
日本ってすごい技、いっぱい持ってますねぇ~
この漆を使った乾漆造って、中国を通過してきたかもしれないけど発祥ではないのでしょうね。
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 (りひと)
2019-01-20 09:39:53
斉明さん系統って大好きなんですよね。でそこに関わるのも嬉しいです。手がこんでいるという事はやはりお金積まれて仕方なくのやっつけ仕事ではないはずで、目的に合わせた職人の意識も入ってきているはずです。慕われ度です。でもう一つ、現世で思うんですけど、味噌汁一つで育った環境がでます。温めてから出すというこちら思いやりからの延長上の普通の行為も経験がなかったりすると気づかない事あります。教えるじゃなく自然にやれている事ってお相撲でも大事ですよね。ルールじゃなくで。

なにで漆で手が込んだ物をちゃんとその凄さを感じて評価してくれたボスがいた時代なのでしょうね。その苦労分からずの人へのお金と権威で強制の中では物の技術の進化ってなくなるんでしょうね。

技術がどこから伝わったか?って前提が全てですけど、そうしたより素敵なボスや用途や評価があったらオリジナルで生まれる可能性はあります。

物が日本から出てくる事がそもそも凄いってその土地にいた先祖が慕われていたって思えるといいですよね。そう思うと考古学の発掘その地域ラブの方がやらないといけないと思います。

日本各地で眠っている物いっぱいあります。見つかったら国宝で東京に集めちゃうのも問題で、きちんと管理するスキルを国から伝授して貰い各地がそれで雇用も収入もあるようになるといいですよね。

けど温度湿度の管理など相当大変みたいですよね、そこも得意な全国飛び回るような専門組織あるといいのになあ。

今大津皇子で検索してみました。大田さんはとっても気になる姫です、持統の事どう思ってるか?聞いてみたいですよ。8634
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りひとさんへ (ulala)
2019-01-20 18:22:59
ちょうど今パリでは縄文JOMONと名打って、土偶とか展示されて人気呼んでるそうで。
生で見たこと土偶や火焔土器映ると身を乗り出して見ました。
そうした展示品中に漆製品や編みポシェットもあったような。

若狭湾の三方五湖すぐ脇の鳥浜貝塚で発掘された漆の櫛、10000年ほど前って驚きの技術です。
そうした焼き物やら造形物やら漆塗などの技術が継承されてたんでしょう。
昨今は漆塗の器や容れ物に興味ない人増えて残念な気がします。
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