散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

屈折する米国の日本観(2)~慰安婦問題で日韓は同じイメージの中に

2014年09月19日 | 現代史
テレビドラマ「将軍」に表れた米国の日本観を分析して、その根源に古代ペルシャがあるのと永井陽之助の指摘(「誤解」E・ウィルキンソン(中央公論)からの引用)を、昨日の記事において紹介した。それは、野蛮な専制と放恣な性の世界から構成され、ギリシャと対比される「東」と「西」の原型として固定化されている。東は中国、日本に至るまで入る。
 『屈折する米国の日本観(1)140918』

「性奴隷」とは、上記の「野蛮な専制と放恣な性の世界」のイメージを戦争に投射させて造り上げた造語のように感じる。「奴隷」という言葉を我々日本人が使うことは多くない。冗談まじりの比喩として「奴隷のような生活」などと云うことはあっても、貧しい境遇の人びとを直接的に「奴隷」とは呼ばない。また、「性」という言葉を露骨には使わない。

一方、米国は奴隷制度を創設し、黒人奴隷は400万人までに達した。おそらく、奴隷のイメージは一般の米国人には旧有されたイメージがあるに違いない。それに「性」を付けることによって、ただそれだけのために酷使されている女性のイメージを造り出したのだ。

勿論、通常の生活で、特にこの種の情報に接しなければ、「性奴隷」との言葉に無縁な人たちも、一旦、マスメディア等でその言葉が流布され、事情が説明されれば、気持ちが“励起”されることになる。そこで、日本人の原型と照らし合わせが行われ、そのイメージが確認されると共に、イメージに合うように新たな情報が固定化される。

ここで注意すべき重要なポイントは、上記の日本人イメージは、ペルシャから、インド、中国から連なるものだ。従って、韓国もその中に入るのだ。簡単に言えば、日本と韓国は区別されずに東洋の一角としての国々の一つなのだ。

従って、慰安婦問題も東アジアのペルシャ的世界として米国人の固定観念を再確認させるものとして働くのだ。それは長期的にみて、米国人の基底にあるイメージを更に固定化させる作用をもたらす。日本と韓国は同じイメージの中におかれ、それは現代の国際関係の中にじわじわと染み込んでいくであろう。両国共に得ることは少ないはずだ。

その一方で、米国の対日イメージの中に、日本を「民主主義国・経済大国」に育てたとの視点がある。これもブロードウェイミュージカル「太平洋序曲」のヒットからの永井の連想だ(「時間の政治学」(中公叢書P193)。

これを「マイ・フェア・レディのアジア版」と永井は呼んだ。
粗野で無教養の開発途上の生娘を、時間をかけて貴婦人に育てあげていく、という筋書きだ。戦後日本はマッカーサー元帥からライシャワー大使まで、ヒギンズ教授型の後見人に恵まれてきたと、皮肉を込めて云う。

その現在版がケネディ大使と云って良い。その近代化の旗手で、父親・ケネディ大統領の神話が今でも通用する唯一の国とも云われる日本への赴任を考えたのはオバマ政権の誰であろうか。その第一の使命は、日本における女性の地位向上への啓蒙活動であろう。

しかし、そこで永井が「民主主義も共産主義も、人類の経験する唯一の精神革命である啓蒙思潮が生んだ異母兄弟であって、伝統的秩序を否定する「負のユートピア思想」を共有するが「正の行動規範」については何も語っていない」と云うとき、その「負のユートピア思想」的発想の中に性奴隷との表現が含まれるとは、考えていなかっただろう。

性奴隷との表現が、啓蒙主義的な負のユートピア思想として政治問題化された。それが直接の被害者を越えて、国連を含めて世界に多くの利用関係者を含む利害関係者を生み出し、報道機関を通し、センセーショナルなニュースとして世界に伝えられた。それが世界の20ヶ国以上の議会で慰安婦非難決議が採択されたことに跳ね返っている。ここに慰安婦問題の性格が表れている。

今回の従軍慰安婦問題における直接の被害者に対して、日本はアジア女性基金制度を作って対応した。第二次世界大戦以降の歴史において、日本は戦後の進駐軍に対する慰安所設置と運営の問題があり、韓国にも朝鮮戦争、ベトナム戦争での慰安婦問題を抱えているはずだ。今後、同じ様な問題になるなら、同じ対応をとる以外にない。

さもなければ、永井の指摘する「再確認」の繰り返しという進展のない結果になるだけであろう。