散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

「成熟時間とその腐蝕」の発見1974年~成長から“成熟”への軌跡(9)

2014年06月24日 | 永井陽之助
表題の成熟時間とは永井陽之助が『経済秩序と成熟時間』(中央公論1974/12,「時間の政治学」所収)において使った言葉だ。しかし、成熟時間そのものは人間の一般的営みの時間であるから、今更、何を…という言葉でもある。

即ち、その“腐蝕”に気が付いて初めて、その存在を意識し、逆にネーミングせざるを得なかった処に深刻な問題が潜んでいたのだ。それはまた、永井の鋭い現実感覚を示すものでもある。

第一次オイルショックへの対策に暮れた1973-74年、その中で田中角栄首相は金脈問題が明るみにでて辞職し、その後は椎名裁定を受けて、三木武夫内閣が1974年12月に成立した。

70年代に、日本は経済大国として本格的に国際社会へ姿を現した。それはまた、先進社会へのキャッチアップという目標の消滅でもあった。田中角栄が「日本列島改造論」を謳ったのも、新たな目標設定への対応であった。
 『成上り者としての日本1973年140619』

一方、70年代の経済白書のタイトルを並べてみると以下の様になる。
70年…「日本経済の新しい次元」に始まり、
71年…「内外均衡の達成」
72年…「新しい福祉社会の建設」
73年…「インフレなき福祉をめざして」
74年…「成長経済を超えて」

ここで、「新しい次元」とは意味不明であるが、70年の節目にちなんだ言葉を付けたいという意欲が滑ったとでも解釈しておこう。注目すべきは72年の「福祉社会」であろう。ここで本格的に「福祉」という言葉が登場した。実は67年に「能率と福祉の向上」という、ここでも意味不明の題名があったのだ。福祉が欲しいなら能率を上げろ!とでも云うのだろうか。

73年も「福祉」という言葉が入っているから、この時期、成長から福祉へと、少なくても言葉の上では転換期になっていたのだろう。そして、74年に戦後初の実質マイナス成長率(1.4%)を記録し、その意味を含めた言葉になった。三木内閣は74/12に発足し、成立後、直ちに低成長路線を確認している。

『経済秩序における成熟時間』は12月号であるから11月に発行された。これは、三木内閣発足の少し前になる。政治的には福祉社会が掲げられる段階に入ったことは先の経済白書のタイトルからみても明らかである。

そこで、永井が試みた時間、特に成熟時間の研究は、必ずしも福祉に直結するわけではないが、福祉だけでなく、今後の社会の在りようを考えるうえで、示唆する内容を豊富に含んでいる。

例えば、三木内閣は福祉充実を含めた質の向上への転換を重要と考え、池田・佐藤内閣での所得倍増計画、田中内閣での日本列島改造論に対抗する経済政策として、ライフサイクル計画(生涯設計計画)が立案された。

これ自身は少数支持者の三木内閣には手に余るもので、結局、中途半端に終わっているが、現代における幸福度評価に基礎を与える内容も含まれているはずだ。その意味で、先見性に富んだ内容になる。

先の記事で、保育室での幼時死亡事件に触れて、本論文の最初の部分を紹介したが、中味は以下の様になっている。
1)はじめにー子殺しの風土
2)方法としての「例外研究」
3)時間的秩序としての経済
4)成熟時間の腐蝕
 『成長から成熟への先駆け、1975年頃140321』

また、この論文に対する批評として、エコノミスト・室田康弘氏の『経済学は現実を捉えられるか』(中央公論1975/4)、また、上記のライフサイクル計画と関連して、経済学者・村上泰亮氏との対談『成熟社会への生涯設計』(中央公論1975/11)が筆者の手元に残っており、合わせて紹介していく。