室井絵里のアート散歩

徒然現代美術&感じたこと、みたもの日記

柴川敏之展・須田悦弘展

2006年03月30日 | アート他
銀座のAPSで先週末まで開催されていた、柴川敏之展。

APSのある「奥野ビル」は昭和初期の建物。当初は、ハイカラなアパートメントとして建てられた。今でも、老婦人がお二人住んでいるそうだが、そこに何軒かのギャラリーがはいっているめずらしいビルだ。

柴川展は、地下にある階段下のスペースから、階段、屋上へとつながるところとAPSを中心にビルの様々なところで展開している。柴川は「もし2000年後に現代の社会が発掘されたら?」という視点で、作品をつくっている。
我々が、博物館で古代の遺跡から発掘された道具や食糧などを見るが、それと同じようなマティエール(絵画ではないけれど)をもったオブジェが並んでいる。つまり、私たちが現代の日常で使っている携帯電話や、キーホルダーや、カップ麺やウルトラマンセブンのプラモデルや招き猫などなどが2000年後に発掘されたらどうなっているのか、というコンセプトで作られているのだ。

茶色の錆びをおびた「未来の発掘品」は、もとの形態を微妙にとどめていて、それらを実際に使っている現代の我々にとっては「これって何かな」ということを見ながら発見していく、つまり、まさしく発掘品を発見していくような不思議な楽しさがある。楽しい反面、昨年のVOCA展では、発掘された印象派ということで、絵画作品も2000年後には発掘品になってしまうかもという、ちょっとブラックな部分ももっている作品だ。

考えてみれば、これらの作品はすでにモノに溢れている私たちの「現代」は滅びの方向へと向いつつあることへの、この作家の鋭い予測なのかもしれない。

資生堂ギャラリーでは、5年にわたり開催してきたLIFE/ART展の最終展となった須田展。
今回は会期を五回にわけ、参加作家の今村源・田中信行・金沢健一・中村政人と須田がそれぞれコラボレーションを試みてきた。つまり、須田の「椿」の作品が、それぞれの作家の展覧会でさり気なく置かれて増えていくというものだったわけだ。

最期には、他の作家の作品は全て「記憶」となって空間から消えて、須田の椿の作品だけが広い空間にそっと、さり気なく残されているというわけだ。最後に作られた作品である、資生堂の昔の化粧品の蓋などについていた椿のロゴの作品が、ちよっとかわいらしく、シャレた見立てとなっていた。資生堂ギャラリーの空間だけが残ったの、か。
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小さい頃から苺好き

2006年03月28日 | アート他
昔は、苺は6月とか夏のものということで、私が小さい頃は6月の誕生日に食べさせてもらっていた。

少ししてから、苺はハウス栽培になったので十二月から春にかけてが旬。

最近、福岡の「あまおう」という苺に凝っている、私。真ん中に空洞があり、そこの部分が空洞なのに、蜜みたいにおいしい。
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よみがえる源氏物語絵巻展

2006年03月24日 | アート他
五島美術館
3月26日まで
五島美術館所蔵の「国宝源氏物語絵巻」を中心として。

「源氏物語絵巻」は、紫式部の『源氏物語』の成立後、約百五十年後に誕生した絵巻。我々が習ったり、親しんでいる『源氏物語』も厳密にいえば、原本がないわけだが「絵巻」の方も現存するのは四巻。保存の状態を良くするために現在は、巻物状態ではなく詞書と絵を分け、額装している。

復元や模写の方は、やはりちよっと劣るような気がするのは否めないが。

考えてみれば、『漫画源氏物語』の原点みたいなものともいえる。まぁ『更級』の著者とか「きゃー一日でも早く、源氏物語が読みたいわぁ。手に入れたのでずっと一日でないで読んでいた」みたいな記述があるし、源氏というのは、ともかく、今の韓流ドラマみたいなものかも。ビデオ撮りして、ドラマを楽しむとかの感覚と近いのか。

そんなことを考えつつ久しぶりに、「源氏物語」の内容も思い出しながら楽しめた。

ついでに五島美術館の庭園は、今こぶしとしだれ桜がほぼ満開。
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イチハラヒロコ「愛と笑いの日々。」展

2006年03月19日 | アート他

イチハラヒロコの個展。鎌倉画廊で5/13まで。
HP.http://www.kamakura-g.com

葉書はゴシックの黒文字縦書きで


いつも、
気にしていた。
ずっと、探していた。

とある。

展覧会場では、久しぶりにキャンパスにイチハラのランゲージアートが描かれている。
大きい作品も、小品も、カタログも、葉書もこの作家の文字と余白のセンスが光る。私は、彼女の作品を絵画的だと思うのだが、鎌倉画廊ではより一層そういう強度が増した作品だ。

これまでのヒットを展示していたからか、すでに「ランゲージアート」の「ランゲージ」としては知っている作品も多いが今回、私的にヒットしたのは

あのときは
はやすぎて、
いまでは
おそすぎる。

だ。

ちなみに100円でひいた「恋みくじ」は三番。

夢のような
日々でした。
鬼のような
ひとでした。

だった。
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マンションでの事件

2006年03月10日 | アート他
今日の正午、マンションで隣の階段に住んでいる方が亡くなっていたことがわかった。家のマンションは、階段で向え合わせの家が六件つながっている低層階の作りでつながっている。
隣の階段は、今年私が理事やっているので回覧板でつながっている十六件の区域だ。

そこの家に八十代のおばあさんが同居しているとか、区分所有者が最近糖尿病で失明寸前でその母も違うところに行かれて荒れているとか聞いていた。回覧板まわす時も一応気にして、そこで止まったら何かあったことがわかるように上の階の人とも目を配っていた。

しかし、残念ながら2日前から連絡がとれなくなったのでご親族が見に来て亡くなっていたということだった。

十年前は、一階のその家の前もバラやあじさいなど丹精こめられた雰囲気が漂っていた。その後、離婚されたとか色々重なってせっかくの紫陽花を全部メチャクチャにされるなど荒れているなぁとは思っていた。

今日、そのことで近隣の方と改めて話していて、亡くなった方が画商をされていて、失明寸前だったことを悔やんでおられたことなどを聞いた。

眼のことは、美術の仕事をしていると特にこたえる。私も、視力はいいが失明の危険がある病にかかったりしたことがあるのでその時のことを思い出した。

はじめはショックだったが「盲目の美術評論家第1号になってやろう」とか考えたもんだ。盲目寸前の画家はかっていたし、耳が聞こえなくたって作曲家はいる。
そう考えたら、我々は少なくともイメージを扱う仕事をしているんだからイメージを広げることができる限り身体的・肉体的な病も、精神的な病も乗り越えていくことができる。

逆転の発想こそが、人を助けていく。

亡くなったお隣の画商さんも、きっと自分で創造した楽しいイメージの世界で最期を迎えられたと思いたい。
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小川朋司、吉澤美香展

2006年03月07日 | アート他
外苑前のギャラリーTOKIで開催中の若手の作家の個展をみてから、散歩がてら表参道に新しくオープンした、表参道ヒルズへ。同潤会の建物を再現した一画にある同潤会ギャラリーで、3月14日までの小河展と、ギャラリーGANの吉澤美香展3月12日までをみた。

小河さんの作品は、インスタレーションでは無く壁にかけられたアクリルパネルの平面作品。「Can you see the rabbit in the moon?という展覧会全体のタイトルと、虹色のだまし絵あるいは透かし絵みたいなこの作品を見た時に、トリックスターとしての兎と、トリッキーな作品の質をひっかけたのかなぁと思った。果たして、月にうさぎは見えるのか。作品の中に何が見えるのか?
小さなスペースに外からの春の光も受け、イメージそのものが揺らぐという効果もあった。

吉澤さんの作品も、透明感あふれる平面作品として仕上がっていた。軽やかなポップでも聞こえてきそうな軽妙さがある。
ギャラリーの白い空間の中で、その白さも際立って、絵画や平面というよりまるで映像作品をみているような印象を受けるのだが、それでいて、もう一度じっくりみると、絵画的でもあり、こちらもある種トリッキーな感覚に見舞われる。

ギャラリーアルテでは、武蔵野美術大学の工業工芸デザイン学科の学生による「光」をテーマにした作品。素朴だが、光をつけるとか、消すとかいう使用と、デザインをちよっと楽しく表現していた。
スパイラルでは、多摩美の工芸学科の学生による「kougei」こちらは、大作も並ぶが、工芸という名の下だから完成度が高いのがかえって少し気になった。
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スーパーフラットは純和風

2006年03月04日 | アート他
村上隆のスーパーフラットは、純和風だという話をとある画商さんが力説していた。現代美術の世界でも近年中国の作家の台頭が目覚ましい。その話から、日本のスーパースター村上の話になったのだ。村上のスーパーフラットは、いわば漆塗りの世界でありその世界観は、純和風。

そういえばそうかもしれない。村上は日本画出身。そのことを逆手にとってちゃんと自分の立場を考えたからこそ西洋に受けるのであって、作品の善し悪しではなく、自分をどのような文脈に位置づけるのかを明確に意識化したのは確かだろう。

奈良美智の作品も、フラットといえばフラットかもしれないし。どの作品でも、ちゃんと奈良作品だということがみてとれるという意味では、村上と同じく力もあり戦略ももっているともいえる。

それにしても、中国の芸大の倍率は六千倍とか・・・・。全員、自分流の絵や作品を作っているそう。それだけの人数から自分の好きな作品を選んで来るのは、そりゃ楽しいだろうなと思った。
http://nttxstore.jp/_II_D110473260
http://nttxstore.jp/_II_D110473260
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菅木志雄展

2006年03月04日 | アート他
3月11日まで、東京画廊と小山登美夫ギャラリーで同時開催。

七十年代「もの派」中核の作家である、管の個展が二カ所で開催されている。東京画廊では、大きな木の額のような枠に透明なビニールがはられている。小山登美夫ギャラリーでは木枠の上部からワイヤーでつられた石が吊るされている。

管の場合、一貫して石や木や鉄やガラスなどを使い空間を変容させてその空間のもっている「場」への意識をみるものによびさまさせるという作品は変わらない。

昨年横浜美術館で管の回顧展が開催され、国立国際美術館では「モノ派再考」という大きな空間での作品展示が続いた。

もちろん、美術館の空間でも十分に力のある作品ではあるが、今回久しぶりに画廊空間で管の作品に接し、やはり、作家の出発点としての画廊空間と作品展示ということの完成度の高さをそこにみたように思う。作家のアクティビティを支える意味での画廊の存在は、大きい。
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アジアのキュビズム・報告書

2006年03月01日 | アート他
昨年の九月に国立近代美術館で開催された「アジアのキュビズム」展の、関連企画国際シンポジウムが二日間にわたって交流基金のアジアセンターで開催された。

連続セッションで「なぜキュビズムか」ということから「身体・ジェンダー・色彩」に至るまで、気の抜けない二日間であった。日本や韓国、フィリッピン、インドネシア、シンガポールとパネリストの顔ぶれも多彩で中国語と英語と韓国語が飛び交うというものだった。

展覧会の内容とシンポジウムの内容は必ずしも連動していたわけではないが日本側のパネリストはこの展覧会のキューレータが参加していたのだ。

アジアと言っても、当然のことながら一括りにはできない。日本の近代がキュビズムを取り入れてきたように、他の国でそれらが取り入れられたわけではない。また、そもそもキュビズムというもの出発点の西洋における根拠も曖昧であり実際日本の作家の中に三岸好太郎が選ばれていたのには、私は個人的には抵抗があった。三岸は、あえて言うならシュールレアリストで、どうもキュビズムという画風ではないし、本人もそういう意識はしていなかったと思うが・・・。

このことを、シンポジウムの後の懇親会でキュレーターと話したが何人かはやはり同じような抵抗感があったらしい。どうも、作品選定の段階でもかなりそれぞれの見解の相違はあったようだ。

果てには「キュビズムのようなもの」という発言も出たが、正直いって「の、ようなもの」とか「的」とか言い出したらなんでもそれで言えてしまうのでこの曖昧さが、更に不透明なものを生み出しかねない。かといって、定義づけもできない。と、そういうどうどうめぐりみたいなことを強く感じた二日間であった。

今日、気合いをいれないと読めないくらい分厚い「報告書」が送られてきた。さて、読みはじめますか。
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